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対馬歴史民俗資料館
平成15年10月12日(日曜日)
対馬歴史民族資料館
古代、大陸の文化は朝鮮半島からもたらされたが、その玄関口になったのが対馬。近世では対馬藩の宗氏が朝鮮との
外交に貢献した。厳原は、鎌倉時代から明治維新までの約600年間、宗氏が治めた城下町である。「対馬歴史民族
資料館」は、大陸との交流の深い対馬の玄関口厳原の、史跡が多く残る町の一角に位置し、島内文化財、宗家資料、
考古資料など貴重な資料が多く残され、その他、見てきた三根遺跡や塔の首遺跡の出土品もあった。
資料館は、第1展示室で神事や昔の人々の暮らしがわかる漁具や民具、上県町・佐護湊の藻刈船など対馬の民俗資料
を、第2展示室では上県町越高遺跡から出土した朝鮮半島製隆起文土器など、大陸との交流を示す縄文遺跡からの出
土品や、江戸時代の朝鮮通信使の行列絵巻、宗家文庫・外交文書、釜山窯の絵御本茶碗、朝鮮鐘の影響が見られる旧
清幻寺梵鐘(きゅうせいげんじぼんしょう:重要文化財)、精巧な対馬の地図・元禄国絵図(げんろくくにえず:展
示品は複製)など貴重なものが多く、特に対馬・江戸間を往復する総数530人の朝鮮通信使の道中を描いた、17
mにも及ぶ「朝鮮通信使行列絵巻」(展示品は複製)は必見である。ここを訪れれば、日朝外交を支えた対馬が大陸
との交流の上でいかに重要な場だったかがよくわかる。
縄文時代(越高遺跡・志多留遺跡)
弥生時代(塔ノ首遺跡)
立派な和船が展示されていたが、写真はボケボケ。
<宗氏の対馬一円支配>
朝鮮・中国沿岸に猛威を振るった倭寇は、15世紀の半ばにはようやく衰えてくる。16世紀の倭寇はむしろ、中国
国内の漁民が倭寇と称して東アジア諸国を荒らしまわる例も多かったとされている。日本の倭寇が沈静化する直接の
原因は、室町幕府の国内支配が安定し、幕府が秩序ある対中国貿易を望み、倭寇取締りを図ったことが大きかった。
一方、対馬の一円支配を目指していた宗氏にとっても、対朝鮮の関係を秩序あるものとし、朝鮮貿易の利権を一手に
支配することは島内の実効的支配に欠かせず、宗氏は島内に分布する庶流の宗姓使用を禁じる一方、有力家臣たちに
与える領地と同じぐらいの意味を持つ、朝鮮貿易にともなう船や人の売り口買い口の権益を与えるなどして島内支配
を固めていった。なお、まだ十分島内支配を固めきらないこの時代、宗氏の対馬支配の拠点となったのは朝鮮との交
流に便利な志多賀そして佐賀だった。ここに、宗氏6、7、8の三代の館が置かれた。同地にある円通寺には、県指
定の文化財となっている朝鮮鐘があるが、往時を偲ばせる一例である。
この資料館には、各種歴史資料、考古資料、民俗資料に混じって、数万点におよぶ「宗家文書」が保存されている。
宗家文書とは、藩政時代の膨大な日記や記録類のことで、我が国藩政時代研究にあたって、山口県文書館の「毛利文
書」と並んで第一級の史料とされている。
朝鮮通信使
朝鮮通信使絵巻
対馬歴史民族資料館蔵。李朝通信使の一行は400〜500名で組織され、対馬に上陸したあと再び水路を取り、瀬
戸内海を経由して江戸に向かった。その華やかな道中を描いた絵巻物は全長16.58メートルにおよぶ。
資料館の前にある朝鮮通信使顕彰碑
対島と言えば、魏志倭人伝ともう一つ、私の興味を強く引きつける歴史的な出来事がある。朝鮮通信使である。家康
が強く朝鮮との交流を望んだ真意。雨森芳洲の対馬赴任のいきさつ。同門の新井白石との戦い。対馬宗家がとった対
朝鮮、対徳川幕府の政策の数々。研究すればするほど、通信使に対する興味は強くなってくる。さまざまな想像がわ
き起こり、この時代環境をふまえて、通信使をめぐる大河小説が書けそうな気になってくる。
資料館から、宗家の菩提寺である「万松院」方向を望む。これからそこへ向かう
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