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一大国(壱岐)
10月12日(日曜日)





	
	対馬の厳原港から壱岐の島・芦辺港へ高速船で渡る。相変わらず波しぶきを上げて早い早い。現代の魏使は対馬−壱岐間を
	1時間で渡ってしまう。
 



	芦辺港。予約していたレンタカーが予約できておらずあわてたが、港の側のレンタカー屋に空車があって助かった。壱岐で
	は、前回訪問時に案内して貰った山口さんが、今回も案内してやると港でお待ちになっていた。ありがたい。おかげで相当
	な時間の短縮になった。
 
用意してくれていた資料をみんなに配る山口さん。

	
	昭和52年度の原の辻遺跡範囲確認調査(苣(ちしや)地区)で、壱岐島内で初めて旧石器時代の遺物含有地層が確認され
	た。出土遺物は、黒曜石や瑪瑙(めのう)を加工して製作したもので、切る・刺す・削る等の利器として使用したナイフ形
	石器・台形様石器、剥片尖頭器、・使用痕のある剥片等の石器類が、約130点出土している。なかでも台形様石器は、特
	徴的な石器製作技法で造られ、「原の辻型台形石器」として標式的な石器となっている。これらは今から約2万年前の人々
	が使用したものである。また、遺跡の北側を流れる幡鉾川流域で、更新世末期(旧石器時代)の古生物が発見された。種類
	は、ナウマン象の臼歯・助骨や、シカ・ウマ(と思われる)の化石で、約300mの範囲に約40点出土した。この古環境
	は沼湿地で、古生物が群れをなして棲息していたものと推測される。ナウマン象の化石は、我が国最西端の出土例である。

	弥生時代の壱岐では何といっても「原の辻遺跡」が有名である。集落は、外濠、中濠、内濠、の三重以上の環濠に囲まれ、南北約
	850m、東西約350mの大規模な環濠集落である。その中からおびただしい遺物が出土している。それらは、平成7年4
	月に開館した「壱岐・原の辻展示館」に収納されている。このほか、壱岐の弥生遺跡は、代表的なカラカミ遺跡・天ヶ原遺跡を
	はじめ多くの遺跡が全島に分布している。古墳時代の、5世紀から7世紀頃にを迎える頃になると、勢力をもった豪族たちが、
	巨大な古墳を次々に造営した。これらは「鬼の岩屋」をはじめとして円墳が主で、江戸時代の記録には、338基とあるが、
	現在は半壊したものを含めて270基が残っている。この数は、実に長崎県全体の古墳の約半分を占めている。当時はいかに
	繁栄した島であったか、多くの古墳が語っている。

壱岐MAP

 

	
	又、南へ、一海を渡ること、千余里。名づけて瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦卑狗、副は卑奴母離と曰う。
	方三百里可。 竹木叢林多く、三千許りの家有。僅かに田地有り、田を耕せども猶食うに足らず、亦南北に市糴す 

	また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。長官を(対馬と)
	同じく卑狗といい、副官を卑奴毋離という。周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。少し
	田畑があるがこれだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北九州と交易している。
	(さらに大海を渡る事千里余りで末盧国に到達する。)

	対馬国より一大国に至る行程を考えると、仮に、対馬浅茅湾から壱岐勝本(壱岐島北端)迄の距離を求めると約80kmと
	なり、対馬厳原から壱岐の郷乃浦までは65キロとなる。倭人伝にはこれも千余里と記されている。
	「倭人伝」の刊本・紹煕本」では「一大國」と書かれているが、「紹與本」「梁書」「北史」「翰苑」には「一支國」と記
	載されている。通説では「一支」が正当と見なされ、「一大」は記載ミスであろうとされるが、隋書、通典には「一支國」
	とされ、対馬から東と書かれているのでこれは壱岐ではなく沖ノ島であり、「一大」が壱岐なのだという説もある。私見で
	は、「一支国」も「一大国」も現在の壱岐島に比定して問題はなかろうと思う。壱岐島は、対馬とは対照的に穏やかな起伏
	の少ない低地が広がり、そこに水田が営まれている。勝本、郷ノ浦、芦辺、石田の四町で一島一郡(壱岐郡)を構成してい
	るが、平成16年4月1日をもって4町は合併し、壱岐市となる。これは対馬も同様で、同日に対馬市が誕生する。

	魏の使節が壱岐島のどこに上陸したのか、その比定地は対馬同様不祥であるが、原の辻の規模から見て、ここに一大国の都
	があったと考えられ、魏使もここを訪れた可能性は高い。幡鉾川を遡り、船着き場から上陸して一大国の長官・卑狗と会見
	したのであろうか。前述した唐神カラカミ遺跡は、勝本町立石にあって、刈田院川上流北方の標高60m前後の丘陵上に位
	置している。銅鏡の破片、金海式土器等朝鮮半島との関連が認められる遺物が多数出土しており、壱岐の弥生遺跡として古
	くから知られている。
	倭人伝は、対馬と壱岐との面積について、「方四百里」と「方三百里」と記録しているが、対馬の実際の面積は約709km2
	で、壱岐の実際の面積は約139km2であることから、記録は1.3倍であるにもかかわらず、実際には約5倍の面積差があ
	ることになる。このことは、倭人伝の記載全体はこの程度の信憑性として理解すべきであるという考えをうみ、私もどちら
	かと言えばその考えに賛成である。戸数について、対馬では千余「戸」有りとされており、一大国では、三千許りの「家」
	有りとされている。「戸」と「家」の違いについて、これまた多くの論議を呼んでいるが、私見では同意に解釈して差し支
	えないものと思う。しかし、「春秋の筆法」を信奉する馬野さんあたりからは「大雑把なやつ」と思われているふしがある。
	「竹木叢林多く」「僅かに田地有り」「田を耕せども猶食うに足らず」「亦南北に市糴す」については対馬同様である。


	
	少弐公園、風土記の丘、掛木古墳、鬼の岩屋、原の辻展示館と山口さんに案内してもらった。帰りにはホテルまで付いてき
	て貰って、翌日も、岳の辻展望台、松永安左エ衛門(電力王)記念館と案内していただいた。壱岐の焼酎までお土産にいた
	だいてしまった。感謝感謝。山口さんほんとにありがとうございました。




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