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伊都国
10月13日(月曜日)




	東南へ陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う。千余戸有り、世々王
	有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来するとき常に駐まる所なり。 
	
	東南へ陸を行く事五百里で伊都国に到る。長官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々が住ん
	でおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。帯方郡の使者が常駐している所である。
	(そこから東南の方角へ行くと奴国に至る。)

	伊都国の記述はそれまでと異なる点がいくつかある。まず、「東南」と方位があり、「陸行」している。末廬国にはなか
	った官名があり、それは、対馬国・一大国とは異なる。またなんと読むのかもはっきりしない。「代々王がいる。」「女
	王に従属している。」「帯方郡の使者が常駐している。」これらは、これまでの大雑把な記述からすればかなり詳細な情
	報といえる。
	末廬から糸島地方は東にあたり、「陸行する」事を考えると、末盧国から伊都国へは水行では行けないということを意味
	しており、伊都国は内陸地にあった国であるという説もある。つまり現在の糸島地方(前原市を中心とする旧糸島郡・福
	岡市西部)は、末廬から東南ではなく、海路によってもいけるではないかと言うのだ。また唐津と前原では長里説(20
	0km)でも短里説(50km)でも五百里にはほど遠いとする。(唐津−前原間は約27km)。しかし、東南には
	「イト」と呼ぶ地方はないし、古名にもない。さらに、見てきたように倭人伝の里数がかなり大雑把であることを考えれ
	ば、伊都国は糸島地方としていいのではないかと思う。陸行については、伊都国から更に内陸部へ向かうことを考えれば、
	ここらから(末廬)陸上を行ったと解釈しても特に問題はないように思う。旧糸島郡は、前原町のあった南側地域を怡土
	郡、北側地域を志摩郡といったが、明治29年合併して糸島郡となり、さらに平成4年(だったかな?)市制を敷いて前
	原市となった。この前原市にある、「三雲、井原、平原付近」が伊都国に比定されている。この地域には標高416mの
	高祖山があり、456年から768年、大和朝廷の命によって吉備真備が対新羅戦争のために怡土城を築いたことで知ら
	れている。

	「官は爾支。副は泄謨觚.柄渠觚。」というこの官名については不詳な部分が多い。「爾支」は「ニキ、ジキ、ニギ」などと
	呼ばれ、「泄謨觚」は「シマコ、セマコ、セモコ、イモコ」など、「柄渠觚」は「ヒココ、ヘクコ、ヒホコ」などと、注釈される
	がその他にも色々に読め、後の日本語に対応しているようなものは見あたらない。「彦」や「妹子」などの「子」とも関連する
	ような気もするが、実態は不明である。伊都国の戸数「千余戸」は、この国の重要度からみて少なすぎるのではないかと
	いう説がある。「戸万余」の間違いではないかと言うのだが、魏の使者が常駐したり、代々王がいたり、という国の規模
	からすれば確かに少ないかも知れない。しかし王が居ればこそ、ここに住める一般人は限られていたと想像する事もでき
	る。「王」の存在が明らかなのは、この伊都国と邪馬台国と狗奴国の三国だけである。「世々王有るも、皆女王国に統属す。」
	とあるように、伊都国は古くから卑弥呼を支えていた主要国と見ていいだろう。だからこそ、「郡使が往来するとき常に
	駐まる所。」という、邪馬台国連合国家の中で、外交的に重要な役割と地位を占めていたとも考えられる。

	倭人伝には、伊都国以前は方角、距離、国名と順に記されているのに対し、伊都国以降は方角、国名、距離の順に記載さ
	れており、距離と国名の順序が入れ替わっている。このことを指摘したのは榎一雄氏であるが、その提唱の要旨は、
	「倭人伝は、伊都国まで連続に末盧国、伊都国、奴国と読み進む形式で記されているが、伊都国以降は、奴国、不弥国、
	投馬国、邪馬台国と、伊都国を起点として読み進められるべきだ。」というものである。これは「放射説」と呼ばれ、あ
	たらしい倭人伝の解釈として脚光を浴びた。邪馬台国に次ぐ重要な地位を占めている(と思われる)伊都国から、魏志は
	様々な国を訪問したという考えに基づく。これは一考を要していい説であろう。
	私は大学時代を博多で過ごしたせいもあって、この伊都国該当地である糸島地方には友人が多い。学生時代もよく遊びに
	行って、車窓から見る玄界灘の波を見つめては波の向こうに思いを馳せたものである。難儀をしてやっと伊都国に辿り着
	いた魏の使者は、どんな思いでこの糸島平野を歩いていったのだろうか。



前原市HPより拝借。


	三雲・平原遺跡
	昭和40年糸島郡前原町平原(当時)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。偶然の発
	見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。
	結果、遺構は東西18m、南北14mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。
	原田大六は2世紀中頃であるとしている。遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。この遺
	跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出
	土数としては我が国最多であった。又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡
	であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓
	だと想定している。鏡その他この遺跡からの出土物は、前原市の「伊都国歴史資料館」にある。





	

	伊都国歴史資料館 うまいこと雨も止んだ。原田大六氏の銅像に挨拶した後、記念撮影。





 






















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