2001年9月30日。今回の歴史倶楽部例会は「吉野山」である。奈良県吉野郡吉野町大字吉野山。第55回例会、よくぞここまで。
大阪の近鉄「あべの駅」から「さくらライナー」という特急で1時間ちょっとだ。近鉄の特急電車は特急料金が要る(500円) のだが、急行や鈍行で行くととてつもない時間がかかるし、途中で乗り換えるし、なかなか繋ぎの電車がこないので、奮発し て特急に乗ったほうが便利である。本日の参加者は7人。奈良から来る橋本さんと錦織さんを除く、服部、河原、河内、秋山、 井上の5人で阿部野橋を出発。途中「橿原神宮駅」で奈良組が合流。
吉野線「吉野駅」からロープウェイに乗る。普段なら歩いて行こうという事になるのだが、雨が降っているし、私(井上)は 最近足首が痛むので、日和って皆さんロープウェイにお乗りいただいた。「吉野山駅」までアッと言う間。2分も乗っただろ うかという位だが、歩いたらものすごい勾配のようだった。歩いたことのある服部さんによれば、「大した事あらへん!」... そうだ。ロープウェイの車体は、ど派手な青と黄色のかなりの年代ものの車体だった。下千本を通り越して、中千本に到着。
吉野の山と言えば、関西では何と言っても「桜」だ。国立公園吉野山は桜の国の桜の名所として広く知られている。季節には (4月初旬から約1ケ月の間)、近鉄吉野駅を降りて改札口を出ると、3万5千本の桜でピンク天国らしい。下千本、中千本、 上千本、奥千本と呼ばれる桜の密集地帯がある。私は桜の季節には来たことがないが、吉野には前から一度来たかった。何と 言っても「南朝の跡」である。我が国史上、天皇家が二分して戦ったもう一つの天皇家。その地を実際に自分の足で歩いてみ たかったのだ。今回の例会は、無理矢理「吉野山」にした感が無きにしもあらず。奈良県のほぼ中央に位置する吉野町は、大 峰山系の北端、南北8キロほどの尾根筋にあり、ここらがいわゆる「吉野山」と呼ばれる一帯だ。北麓の吉野神宮あたりから 標高が上がり、南の青根ケ峰(あおねがみね・標高858m)が最高峰になる。ここから奥が大峰山の領域とされ、役行者 (えんのぎょうじゃ)を開祖とする修験道(しゅげんどう)の聖地でもある。御所に生まれた役行者は、葛城山、大峰山系で 修行したとされ、吉野山にある金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂も役行者を開祖とする。蔵王堂は東大寺大仏殿に次ぐ規模の木造 建築で、修験道の総本山となっている。ちなみに「我々は円の亡者やな」とは河内さんのお言葉。
中千本でロープウェイを降りるとバスが待っている。健脚組は歩くのだろうが、今回の私のプランでは(しきりに足をかばっ て)、バスで吉野山先端の「奥千本」まで行って、そこからゆっくり旧跡を巡って再び中千本のロープウェイ乗り場まで歩こ うというものだ。生憎の雨のせいもあるが、ゆっくり巡ったので、歩き出して戻ってくるまで5時間以上かかった。
【義経の隠れ塔】 静御前と別れた義経は吉野の奥深く進み、金峰神社の裏「蹴抜の塔」に身を隠したと言われる。追っ手から逃れるため屋根を 蹴破って外へ出たため、この塔は「蹴抜けの塔」とも云われている。ここはもともと、これから大峯山へ登る山岳修行者達の 修行場の1つで、「隠れ塔」に入り扉を閉じると中は真っ暗闇になるらしい。現在でも希望者は入塔できるようだが、申し出 て下さいと書いてあった社務所は最近火事で全焼しており、その焼け跡も無惨に残って居た。ここから少し降りた所に屋根付 きの展望台があり、そこで昼食をとった。
【高城山】 標高702mの小高い峰で、「ツツジが城」とも言われる。東に三重県境の高見山、西に金剛葛城の連山、北に遠くは竜門山 塊、近くは蔵王堂が見渡せる。万葉集にも、吉野宮(宮滝)に遊んだ宮廷歌人の歌として、「み吉野の 高城の山に白雲は行 きはばかりたなびけり見ゆ」と歌われている。元弘3年(1333)護良親王が北条幕府と戦った時は、大塔宮吉野城の奧の詰城だ ったが、この間道機密が岩菊丸の密告により北条方に漏れ、真っ先にここが落ちたので、村上義光を二天門へ残し護良親王は 高野山へ落ち延びる。現在山頂には展望台と休憩所が造られ、眼下には桜の木が立ちこめている。あまりに素晴らしい展望だ ったので、みんな「ここで昼飯食えばよかった!」と嘆く事しきり。
【水分神社】 延喜式にも名を連ねた古社で、「みくまりじんじゃ」と呼ぶ。水分とは水配り(みずくばり)を意味し、祭神 は、主神が 「天水分命」、右殿が天万栲幡千々姫命、玉依姫命、瓊々杵命」、左殿が「高皇産霊神、少彦名命、御子神」となっていて 、 三社一棟造の社殿を持つ雨乞いの神、配水の神とされる。社殿は豊臣秀頼により再建されたもので荘厳な桃山建築であり、 回廊、楼門も含め重要文化財に指定されている。楼門には、秀頼が寄進した湯釜が置かれていた。ここから上が桜の名所 「上千本」である。 また今回は訪問しなかったが、ここから徒歩で、斉明天皇が造営したという「吉野宮」の宮滝へ降り る事が出来る。宮滝は縄文時代の遺跡も発見されており、「そんな昔からこんな山奥に・・」と、みんなで人の営みの壮大 さに感嘆した。
【花矢倉】 吉野全山はもとより、遠く金剛、葛城、二山、高取、竜門、の連山を一望できる吉野随一の展望を誇る。眼下には上千本、中 千本、を見下ろせ、蔵王堂も見える。又、佐藤忠信が義経のためにここで奮戦し自決した「義経千本桜」で有名な場所である。
【如意輪寺】 創建は、延喜年間(901〜922)と伝えられる。延元元年(1336)、後醍醐天皇の勅願寺とされた寺。天皇没後、楠正成が大阪四条 畷の戦いに出陣前、辞世の句を堂の扉に書き付けた事で有名。その扉は現在宝物殿に保存されており、有料で見学できる。今回、 誰も見ようとは言い出さなかった。 ここで橋本さんが、途中で刈ったススキの束を境内に忘れ、錦織さんと取りに戻り後の5人と離ればなれになってしまった再び 二人に会えたのは、ロープウェイを降りた近鉄「吉野駅」構内だったが、どうやら我々と同じコースを少しの時間差で巡ってい たようだ。
薄暗く、曲がりくねった幹が群生していてちょっと不気味な空間だった。河内さんには似合ってるかな?
【勝手神社】 吉野山山上へ上る街道と如意輪寺への分岐にあり 分岐点には「後醍醐天皇陵」と刻まれた大きな石の道標が立っているその 右手にあるのが「勝手神社」である。後方の袖振山は、大海人皇子が社前で琴をかなでたとき、天女が袖を翻し舞ったとい う伝説で知られている。また境内は、義経と別れた静御前が追手に捕まえられ、頼朝・政子の前で舞を舞ったといわれる所 である。静御前は、義経を少しでも遠くへ逃げ延びさせる為、頼朝の視線を浴びながら全身全霊で舞ったと伝えられる。 しかしながら、この神社は、我々が訪れる訪れる数日前の9月27日に不審火で全焼していた。
下右が、焼ける前の勝手寺。まったく誰がこんな事を。勝手寺前のオバさんの話では放火だそうだ。
上右の奥に見えている旅籠が、昭和天皇がお泊まりになった宿。その前で記念撮影。(下)
【黒門】 金峯山寺の総門。木造の門で、黒く塗られている為この名が付けられた。ロープウェイ駅から徒歩で吉野山を巡る場合は、この 門をまずくぐる事になる。黒門の前での、河原さんと秋山さん。
【吉野へのアクセス】 [鉄道] 大阪方面から 近鉄あべの橋駅から 吉野行き特急(約1時間15分) JR天王寺駅から 王寺・吉野口乗り換え(約1時間30分) 京都方面から 近鉄京都駅から 橿原神宮駅乗り換え特急(約1時間30分) 奈良方面から 近鉄奈良駅から 西大寺駅・橿原神宮駅乗り換え特急(1時間5分) 名古屋・伊勢方面から 近鉄宇治山田駅・伊勢市駅から 八木駅・橿原神宮駅乗り換え特急(約2時間) 近鉄名古屋駅から 八木駅・橿原神宮駅乗り換え特急(約2時間 吉野山へは、近鉄吉野駅下車・ロープウェイ又は、徒歩か、吉野神宮駅下車バス [車] 大阪市内から 西名阪自動車道『郡山I.C』から国道24号線利用で橿原経由国道169号線にて約2時間 名古屋市内からは 東名阪自動車道から名阪国道『針I.C』から国道369・370利用で約3時間
10月3連休の最終日、wifeと吉野にまた来た。吉野行ったことがないと言うし、私も見落としたをもう一度見たかったからだ。 曇り空の、少し肌寒い天気だった。1週間前みんなで歩いたところを、今日はWifeを案内した。
痩せこけて、空に向かって吠えている、まるで狼(大神?)のような狛犬だった。通常狛犬は左右が向き合っているのだが、こ このは二匹とも正面左を向いている。
吉野神宮は、後醍醐天皇を奉祀する別表神社である。明治天皇は後醍醐天皇の偉業を偲び、明治22年吉野神宮を創建した明治25 年に執り行われた御鎮座際には勅使を遣わし、後村上天皇が製作したと伝えられる、後醍醐天皇の尊像を「吉水社」から吉野神 宮の本殿へ移し奉納した。明治34年(1901)には、「官幣大社」に昇格し、さらに大正7年(1918)には、神宮の号を奉称して 「吉野神宮」と改称された。
友人と吉野山へ花見に来た。今年は交野市に始まって、大阪城、彦根城と花見をしたので、ええい、近畿圏一番の桜の名所も この際行ってしまおうとやってきた。ケ−ブルカーの附近は満員電車並みの人混みだったが、昇るうちに素晴らしい桜の波に もまれてしまった。西行が「狂わんばかり」と表現したのもうなずける。