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2003.12.238 愛媛県松山市道後温泉















上が資料館にある湯築城の模型。家臣団の住居エリア。下が湯築城資料館。展望台から降りてきて、9時前だったが入れてくれた。

 


		湯 築 城

		湯築城は、南北朝時代の建武年間(1334〜38)に、伊予の守護河野通有の八男通盛が建てたとされている。築城の年代は不明
		だが、少なくとも建武年間には築城されたと推定されている。通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦の際に水軍を率いて活
		躍した道信、13世紀後半の蒙古襲来の際に活躍した通有がいる。河野氏は源平の争いの時にいち早く源氏に味方し、初めて
		歴史の表舞台に登場する。以後、蒙古襲来時、南北朝争乱時等、日本歴史の激動期には必ず登場し、中世全期間、約450年
		にわたって活躍した。通盛は、河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北条市)からこの道後の地に移った。一時讃岐か
		ら攻め入った細川氏に占拠されるが、守護職と共に湯築城を奪い返した。湯築城はそれ以後河野氏の本城となり、伊予国の政
		治・経済・文化の中心として以後約250年にわたって栄えた。戦国時代にはいると、丘陵を取り囲んで二重の堀と土塁が設
		けられ、今日みられる姿になったようである。これによって、湯築城は平地部分を城内に取り込むこととなり、平地と丘陵部
		がセットになった平山城へと発展をとげた。これは安土城よりも30年近く古く、松山城などに代表される近世平山城の先駆
		的なものとして注目される。その後、戦国時代末期の天正13年(1585)、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めに遭い、秀
		吉の命を受けた小早川隆景の攻撃を受け、13代河野家当主通直は秀吉軍に降伏した。河野氏にかわって小早川隆景が湯築城
		主となったが、2年後に隆景は筑前へ転封となり、その後に福島正則が城主となった。小早川が九州に去った天正15年に、
		通直は安芸国の竹原で病死し、河野氏は中世社会の終焉とともに滅亡してしまう。福島正則も1年後に越智郡国分山城に移り、
		その後慶長7年(1602)、関ヶ原の合戦で功のあった加藤嘉明が伊予の国主となり、始め松前城に入城したが手狭だったので
		新たに勝山に松山城を築城した。そのさいに湯築城のほとんどのものを持ち去ったので、湯築城には何も残らなかったという。
		ここに湯築城は完全な廃城となり、ここから江戸時代が本格的に幕を開けることになる。



復元された土塁。ぐるりとこの居住区を取り巻いている。





 

 






		河野氏の居城であった湯築城跡には、明治に道後公園が設置された。昭和28年に県立道後動物園も開園したが、砥部町に移
		転することとなり、愛媛県埋蔵文化財調査センターによってその跡地の発掘が行われ、多数の陶器、古銭類が発見されていた。
		使い捨ての土器や陶磁器をはじめとした遺物は、ここが伊予の中心として守護所が置かれていた時代の繁栄を彷彿とさせるも
		のだった。1988年から始まった本格的な発掘調査により、湯築城趾南側の内堀と外堀に挾まれた地点から大規模な 遺構・
		遺物が発見された。外堀の内側の土塁に沿って石組みの側溝を伴う道路跡が見つかり、家臣団の屋敷とみられる建物跡が道路
		に面して整然と建ち並んでいた。築地塀で区画された各建物には井戸や石段が付属しており、内部からは陶磁器の皿・碗など
		の生活資料、鉄砲玉などの武器類が続々と掘り出された。検出された遺構・遺物は大部分が戦国時代(16世紀)のもので、
		当時の武士の生活の様子が窺える。また、中国や東南アジアなどから輸入された陶磁噐類も多数出土した。これまで戦国時代
		以前の城郭については、各地に遺構があまり残っておらず不明な点が多い中、戦国時代中頃という時期の大規模な堀・土塁が
		良好に残っている稀な遺構として注目を浴びた。歴史的価値も高い。松山市は近世城郭の松山城と、中世城郭の湯築城跡の二
		つを有し、しかもいずれも良好な状態で現存している。こんな都市はあまり他に見当たらない。



 



武家屋敷1の内部。当時はこうやって家臣等が寄り合いを持っていたという推測復元。



 

 

 

 

上右、コンクリート部分にも館が建っていた。埋め戻して永久保存。






		湯築城は河野通盛が南北朝動乱のさなかに築いた城で、当初は南朝方勢力の強い道後平野の軍事拠点であったという見方もあ
		る。その後数十年の間に内堀や内堀土塁を造り、必要な建物を設けて山城として整備したものと考えられるが、その全体像は
		まだ判然としない。というのも、湯築城跡の発掘調査は全体の凡そ1/3に当たる南側の住居跡区域が済んだだけで、残る2
		/3の区域、特に内堀内の、250年間にわたって使われたであろう「本丸・河野氏の居館跡」と思われる区域の調査は、僅
		かにトレンチを入れただけで未だ調査されていない。一日も早く調査再開される事を望みたい。築城から約200年後の16
		世紀前半に湯築城は拡張され、恐らくは河野館と家臣団の住居と思われる住居区域を内部に取り込み、二重に堀を巡らす平山
		城となった。二重堀も平山城も、中世のこの時期には珍しい存在で、その後各地でつくられるようになった。



 

 

 

 


		南北朝時代の河野通盛は、伊予における武家方(北朝)として宮方(南朝)と戦っているが、宮方の勢力は強く、足利尊氏は
		細川に安芸・上佐の軍を従えさせて通盛を援助している。戦国時代の湯築城主は河野通直(1528〜32)だったが、世継ぎがな
		かったため来島城主村上通康を迎え入れようとした。これに反対する重臣達は、分家である予州家の河野通政を推して湯築城
		を取り囲み攻撃する。このため通直は来島城に落ち延び、結局通政が湯築城主となるが、この時のしこりが尾を引き、村上水
		軍が河野氏から離叛し、河野氏の滅亡を早める結果となった。結局、伊予を攻め降伏させた小早川隆景の先頭をつとめたのは、
		村上水軍の来島(村上)氏だったのである。
	
 





 

この竹が植わっている部分がゴミ捨て場である。








		湯築城は中世の城郭である。江戸時代の、白鷺城と別名のある美しい姫路城や、松本城のような建築美を誇る城ではなかった
		ことは明白だ、その時代の殆どの期間、武士達は闘いの渦中にあったのだから、城郭は文字通り闘いのための居城であり、大
		きな砦のようなものだったのだろう。一寸前のNHKの大河ドラマ「毛利元就」や、昔の黒澤明の「隠し砦の三悪人」などに
		出現していた砦をイメージすればいいのかもしれない。通常中世の城郭は、城(砦)と居館区域とは分かれて存在していたが、
		この湯築城はそれを一つの区域にまとめてしまったところに特徴がある。













お堀の上の岩山で、鷺(ゴイサギ)が獲物を狙っていた。


















		道後湯築城跡を守る県民の会は平成元年(1989)から、湯築城跡の全面調査の推進と国史跡指定申請を目指して活動して来た。
		爾来10余年を経て、調査の済んだ居住区には遺構に基づいて武家屋敷が復元され史跡公園として開園した。平行して愛媛県
		の湯築城跡の国史跡指定申請も承認され、平成14年9月20日告示された。


   邪馬台国大研究ホームページ/日本の城/chikuzen@inoues.net