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山住神社
山住神社(やまずみ じんじゃ)
洛北の地、比叡山を南東に望み、岩倉川沿いにある山住神社(やまずみ じんじゃ)は、1qほど離れた石座
(いわくら、岩坐)神社の旧社地(石座神社御旅所)になる。
「山住」とは、山祇(やまずみ)、山の神霊を意味する。かつて石座大明神と呼ばれた。現在、本殿はなく、
社域背後(西)の神南備山(かむなびさん)とその前の巨石、小さな祠だけが残る。これらは、磐座(いわ
くら)として崇められ、神々の降臨する場として、古代信仰の遺跡になっている。
◆歴史年表
創建、変遷の詳細は不明。平安時代、794年、平安京遷都の際に、都の東西南北に岩倉が設けられ、東・青龍、
西・白虎、南・朱雀、北・玄武の四神を祀ったという。また、王城鎮護のためとして、都の四方に経典を埋め
たという。このうち東岩倉は大日山(左京区)、南岩倉は男山(八幡市)、西岩倉は金蔵寺、北岩倉は山住神
社ともいう。
880年頃、「山城国正六位石座神授従五位下」と記され、少なくともそれ以前に祀られていたとみられている。
(『日本三代実録』)
971年、大雲寺建立に伴い、この地の石座明神が上蔵町(現在の石座神社)へ遷された。八所・十二所明神社
と呼ばれ、鎮守の神になった。当地(現在の山住神社)は御旅所となる。平安時代中期、『栄花物語』には「岩
蔵」と記されている。
鎌倉時代、「岩倉」の名が記されており、磐座を意味している。近代、明治期(1868-1912)以降、八所・十二
所明神社が石座神社と改称され、当社は譲り山住神社と改称された。以後、旧社地(当社)は石座神社の御旅所
になった。
◆岩倉
この付近の地名の岩倉(いわくら)は、山住神社に由来しているという。当社のご神体は、拝殿背後の神奈備山
にある巨石になる。この地は、古代祭祀の神座になっていた。
岩倉は、磐座、岩座(石座)、石蔵、岩蔵とも書かれ、いずれも「いわくら」と読んだ。「いわ」は磐境(いわ
さか)であり、神を祀るための岩石で囲まれた領域、「くら」は神座、神が宿る場所を示していた。
また、「斎(いは)谷(くら)」、「神を斎(いわ)いいます谷」の意味ともいう。
◆源氏物語
『源氏物語』第5帖「若紫」巻の「なにがしの寺」とは、大雲寺(左京区)とみなされている。また、「深きい
はの中にぞ、ひじり入り居たりける」については山住神社を想起させるという。わらわ病を患う光源氏は、
二条院より鞍馬街道を経て当社前を通り大雲寺に向かったという想定か?
◆尻叩き祭
明治期(1868-1912)まで、9月15日に当社で「尻叩き祭」が行われていた。夜、神饌(神器)を頭に載せた新婦
は、尻を小枝で打たれた。新婦は逃れようと走り回った。受胎を促す神事とされていた。「日本三珍祭(越中
・しもと祭、近江・鍋冠り祭)」のひとつといわれた。
参考文献*
『京都・山城寺院神社大事典』
『京都の寺社505を歩く 上』
『洛北岩倉誌』
『京都大事典』
『古代地名を歩くU』
『昭和京都名所図会 3 洛北』
『京都時代MAP 平安京編』
岩倉具視幽棲旧宅
岩倉具視 いわくらともみ 出典:ウィキペディア
生年月日 1825年10月26日(文政8年9月15日)
出生地 山城国 京都
没年月日 1883年7月20日(57歳没)
称号 贈太政大臣 贈正一位 大勲位菊花大綬章
配偶者 岩倉誠子 野口槇子
親族 岩倉具定(次男)
岩倉具経(三男)
岩倉道倶(四男)
森有礼(娘婿)
岩倉具張(孫)
有馬頼寧(孫)
鮫島具重(孫)
第2代 外務卿 在任期間 1871年7月14日 - 1871年11月4日
岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、
政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。
公卿・堀河康親の次男として京都に生誕。幼名は周丸(かねまる)であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩
を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉」と呼ばれた。朝廷儒学者・伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器
の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。10月28日叙爵し、12月11日
に元服して昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。
岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される
位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかっ
たという。
嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大
きな転機となる。
朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金を学習院の拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張し
た。公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。大多数の下級公家は朝議に出席できる可
能性も薄かった。聴取した鷹司は意見書に首肯したものの、即答は避けたとされる。
(以下略)
失脚
文久元年(1861年)には長州藩主・毛利慶親が議奏・正親町三条実愛を通じて「航海遠略策」を孝明天皇に献策した。
朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えたこの書は天皇から高い評価を受け、天皇は長州藩にこの書を
幕府にも伝え公武周旋にあたるよう命じた。幕府にとっても悪い策ではなかったので12月30日には徳川家茂からも慶
親の江戸出府を待って長州藩に公武周旋役を任せる内定が下った。
そして文久2年(1862年)4月7日には孝明天皇が諸臣に対して先に幕府老中が連署で提出した10年後の攘夷決行をおこ
なう誓書を公表し、もし約束の期日が来ても幕府が行動を起こさないなら朕みずからが公家と大名を率いて親征を実
施し破約攘夷を行う、とまで宣言した。
さらに4月10日には先の長州藩への公武周旋任命に危機感を募らせた薩摩藩の島津久光が和宮降嫁や安政の大獄の弾圧
のせいで天朝が危機に瀕しているとして入京してきた。久光は天皇から京都の守護を命じられ、京都所司代は完全に
有名無実化した。その後、天皇は安政の大獄で処分された人々の復帰を幕府に命じ、幕府はこれを受けて7月に徳川慶
喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職として復帰させることを余儀なくされた。7月6日には長州藩京屋敷において
毛利慶親が孝明天皇の悲願破約攘夷を実現させるために尽力・周旋をするという攘夷の立場を明確に藩論と定めると
家臣たちに言い渡した。
こうしためまぐるしい情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。岩倉は一貫して朝廷権威の高
揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから
尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力
をかけるようになる。正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月
24日に近習職を辞した。しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美、姉小路公知など13名の公卿
が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」
として弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出するにいたる。いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居
処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は逆らわず辞官して出家。朝廷を去った。
蟄居時代
しかし土佐藩士・武市半平太ら攘夷強行論者は岩倉への処分が甘いと主張し、遠島に処されるべきだったとまで書く。
さらに岩倉は京都から退去しなければ首を四条河原に晒すといった天誅の予告文まで受けた。そのため邸で蟄居する
わけにもいかなくなり、まず西賀茂の霊源寺 に身を隠した。岩倉は僧体になって霊源寺へ逃げ込んだ9月13日の日記
に「無念切歯に絶えず」と書いている。翌日の日記にも「無念の次第やるかたなし」「今度の事件、実に夢とも現と
も申し難き次第、如何なる宿縁のしからしむるところか、毛頭合点がまいらず」と悔しさをつづり続けている。
9月15日、養父・具慶の甥が住職をしている洛西の西芳寺に移り住んだ。9月26日、近衛忠煕は九条・久我・岩倉らは
洛中に住んではならぬと追放令を発令。岩倉が移住先に困っていたところ、10月4日に長男の具綱が洛北の岩倉村に
住居を用意してくれたのでそこへ移った。以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月までこの地で5年間
も蟄居生活を送ることとなる。
休憩所は、誰でも勝手に上がり込んで休息でき、お茶まで飲めるようになっている。
上が「対岳文庫」
岩倉具視の、ここでの5年間はさぞ悲哀に充ちたものだったのだろうと推察する。憤懣やるかたない毎日を
すごした事だろう。しかしここでの隠遁生活に耐え、飽くことなき勤王の思想に磨きを掛けていったからこ
そ、その後に訪れる椿事を乗り切れたに相違ない。訪ねてくる坂本龍馬等勤王の志士たちと酒を酌み交わし、
来たるべき日本の将来を熱く論じ合っていたのだろうと思うと、熱いものが胸にこみ上げてくる。
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死去 出典:ウィキペディア
岩倉自身は、伊藤博文の帰国も、大日本帝国憲法の制定も、その目で見ることはできなかった。明治16年(1883年)
初め頃には咽頭癌の症状がはっきりと出始めていた。岩倉は5月25日には京都御所保存計画のため京都へ赴いたが、
ここでますます症状が悪化する。
これを聞いた明治天皇は、勅命により東京大学医学部教授をしていたエルヴィン・フォン・ベルツを京都に派遣し
て診察させた。岩倉はここでベルツからは癌告知を受けたが、これが記録に残る日本初の癌告知である。その後船
で東京へ戻され、明治天皇から数度の見舞いを受けたが回復することはなく、最後の天皇の見舞いの翌日の7月20日
死去。享年59。7月25日に日本初の国葬が執り行われた。墓所は東京都品川区の海晏寺。
実相院
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「ここで酒でも呑みながら、ボーッと日がな一日過ごしたいのぉー」「いつも過ごしてるやん!」
石座神社
岩倉という地名はこの石座(いわくら)から来てるんか。
三宅八幡神社
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反省会 四条・ミュンヘンにて
日曜の夜19:00(だったかな?)から、いつもこのバンドがJAZZを演奏している。もう何度か聞いたね。
上のアイコンをクリックして貰えれば、このバンドの演奏が聴けます。
<附録> 久々の花見! 2017.4.13
各位
明日(今日),明後日が雨で水曜は晴れと言う予報ですから天気は大丈夫だと思いますが、桜の方は心配ですね。
ま、散ってたら葉桜を楽しみ(?)ましょう。シートは持って行きます。全員(可能な方のみ)5時半に来て
頂いて買い出しに行きましょう。会費は2千円あれば十分かと思いますが、ま、合計を割り勘と言う事で。
乾さん、またアノお友達を誘いませんか?乾シスターズは受けると思いますが、いかがでしょうか?
筑前
邪馬台国大研究/歴史倶楽部/225回例会・京都岩倉具視幽棲宅訪問