Music: ライオンキング


	
	大阪本町歴史倶楽部 第228回例会(納会) 
	師走の羽曳野をゆく  〜翠鳥園遺跡から古市古墳群・大阪市立自然史博物館へ〜
	
	日時 : 平成29年12月2日 
	集合 : 以下参照
	
	
10月も11月も例会中止となり3ケ月ぶりの例会だ。にもかかわらず、参加者は4人。さみしいねぇ。
古市駅から、まずは日本武尊陵を目指して歩く。と言っても、ま、5,6分ですが。




日本武尊・白鳥陵 河内の国旧市邑(ふるいちむら:現、大阪府羽曳野市軽里)にある白鳥陵。考古学的には古市前山古墳 と呼ばれる。能煩野から飛んできた白鳥は、大和の国琴引原に降りた後再び飛び立ってここに降りたと される。それ故ここも「日本武尊白鳥陵」である。これに能煩野の墓も合わせて3つを「白鳥陵」と呼 ぶ。以下、青字の部分は「天皇陵めぐり」の「ヤマトタケル墓」コーナーから転載した。
上はクリック」で拡大します。
上はクリックで拡大します。 古事記には「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と表記されている。ヤマトタケルの尊(みこと)。 第12代景行天皇の子で名は「小碓」(おうす)という。「大碓」という兄が居て、これを殺してしま った事から父景行天皇に熊曽征伐を命ぜられ、果たすとすぐさま東国遠征を命じられる。「父は私に死 ねと言うのか」と叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に泣きつくが、叔母は素戔嗚尊が大蛇の尾から 取り出したという「草薙の剣」と火打ち石を与え、万一の時に使用するよう諭した。相模の国で火攻め に会い、草をなぎ倒して難を逃れるが「草薙」というのはここから来ている。 尾張から伊吹山の神を退治に出かけるとき「草薙の剣」を忘れ、伊吹山の神々に敗退する。その時の傷 が元で、能煩野(のぼの:三重県鈴鹿郡)まで来て命を落とす。「飛鳥へ還りたい」と望み、白鳥にな ってそれを果たしたという。その白鳥の飛んできたところ、というので御陵にも白鳥陵と命名されてい る。「草薙の剣」はそのまま尾張に祭られ「熱田神宮」のご神体となった。市川猿之助の「ヤマトタケ ル」はこれを題材にしたス−パ−歌舞伎でなかなか面白い。白鳥が飛んでいくところが有名な猿之助の 「宙づり」である。(熱田神宮の項参照)
<白 鳥 伝 説> 日本武尊は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢も ないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってくるが、休む暇もなく父から東国の蝦 夷を征討せよと命じられる。その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を 訴えている。 幾多の苦難のすえ、東国を征討するが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れ、傷を負いながらも 日本武尊は大和へ帰ろうとする。能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時、ついに力尽きその地で 死んでしまう。死に臨んで日本武尊は、大和への思いを、
「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山 こもれる大和し美し」と詠んでいるが、能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、 御所市の琴弾原を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く 飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えている。
ヤマトタケルは「古事記」によれば倭建命と言う字を当てているが、「日本書紀」では日本武尊と表記 する。記紀によれば、日本武尊は東征の帰路、鈴鹿の「能褒野」で死亡し、この地に墓が営まれたと言 う。この古墳は4世紀末の築造と考えられ、日本武尊の英雄伝説にまつわる北伊勢地域に存在する古墳 群中最大のもので、主墳を中心に大小16の陪塚があり、いわゆる能褒野古墳群を構成する。その中核 をなしているのがこの御陵である。 10世紀の初めに編纂された「延喜式」の「諸陵寮」は、この陵の事を「能褒野稜 日本武尊 在伊勢 国鈴鹿郡 兆域東西二町 守戸三烟」と記しており、平安初期には日本武尊の墓は鈴鹿郡のどこかに実 在していたのであり、それは約220m四方の墓域をもち、墓守の家も三軒ある相当の規模であったこ とが窺える。


江戸時代、尊皇論の台頭に従って陵墓の探索・裁定作業が進められ、日本武尊墓の探索も行われたが、 加佐登の白鳥塚、長沢の武備塚、双児塚、国府の王塚などを日本武尊陵に比定する論が出現し、なかな か決着は着かなかった。候補地とされた主な古墳の所在は以下のようなものである。 @、白鳥塚(鈴鹿市加佐登)A、武備塚(鈴鹿市長沢)B、双児塚(鈴鹿市長沢) C、王塚(鈴鹿市国府)  D、丁子塚(亀山市川崎) @の白鳥塚を強く主張したのは本居宣長や平田篤胤ら江戸後期の国学者達である。幕末には本居ら国学 者の権威はそうとうなものに達していたので、付近の地名に日本武尊に関係するのものが多いことなど の傍証も加わって、候補地の中でも最も有力視されてきた。しかし同じ江戸後期の国学者、建部綾足は Aの武備塚を支持し、車塚の上には歌碑を建立したりしている。 武備塚は現在では、日本武尊の墓を守っていた墓守の建部(たけべ)氏の祖先の墓とする見方が一般的 で、B、C、の説もさほど強い信憑性はなかったようである。 Dの丁子塚は、明治にはいっても日本武尊の陵墓候補には登っておらず、明治5年には教部省も一時は 白鳥塚を能褒野陵にしようとしていたらしいが、明治12年に内務省は突然、これまで候補地にも挙げ られてこなかった丁子塚を、日本武尊能褒野陵と決定したのである。丁子塚が北伊勢地方では最大の前 方後円墳である事、周濠をめぐらし墳丘形式も古型式だった事、などがその理由と思われ、より日本武 尊陵墓にふさわしいと考えたからだと思われる。明治12年11月10日、旧内務省はこの地を以って 日本武尊の墓として治定し、周囲に土柵、鳥居、石階などを設けて守部を置いた。

私見では、「日本武尊」という名は固有名詞ではなく機関名だろうと思う。ヤマトタケルという一人の 人物が実在したのではなく、景行天皇配下の「全国制覇軍」全体を指す名で、その最高司令長官は実際 に景行天皇の実子「小碓(オウス)」であった可能性はある。しかし各地に転戦した将軍達は大和朝廷 屈指の猛者で、それぞれヤマトタケルを名乗ることを許されていたのだろう。 或いは、帝の子を名乗ることも許されていたかもしれない。そして各地を平定し、幾つかの国での故事 が集大成されて記紀に記録されたのではないかと思う。鈴鹿能褒野にも陵があり、御所、羽曳野にも陵 があるし、その他「こここそ日本武尊陵だ」という場所が各地にある事がそれを証明しているような気 がする。日本武尊陵の一つが、平安時代初期には鈴鹿郡のどこかに実在していた事は事実であろうし、 日本武尊伝承がこの地方に多いということは、鈴鹿川周辺が、当時の大和朝廷の東国経営上、重要な要 衝にあたっていたという背景があったからであろうし、それは御所や羽曳野にもついても言えることだ ろう。
記紀ではヤマトタケルは天皇とは書かれていないが、幾つかの風土記にはヤマトタケルが「天皇」と書 かれているものがある。 「常陸国風土記」、「阿波国風土記」などは「倭武天皇」とか「倭健天皇」としている。また「住吉大 社神代記」では「父天皇」と表記されている。そのため時々、ヤマトタケルは天皇だったのではないか という議論が歴史雑誌等で見られる事があるが、これは可能性は薄いと思われる。伝承が形を変えてそ う表記されるに至ったものだろう。神功皇后なども「天皇」と表記されている例もある。
<能褒野(のぼの)陵> JR関西線の「井田川駅」から30分ほど歩く。タクシーがあったら乗ろうと思っていたが、タクシ− などがあるような町ではなかった。駅も無人である。しかもここから大阪方面への電車は1時間に1本 しかない。さらに来た電車は次の「亀山駅」まで。ここで2.30分待って、ここから1時間程掛けて 「加茂」まで来る。ここで「大和路快速・大阪行」に乗ってやっと大阪へ戻れる。大阪からも名古屋か らも、電車利用は大体3時間コースである。 能褒野(のぼの)陵は、安楽川にかかる能褒野橋の北側にある。古墳一帯は駐車場・案内板も整備され た「のぼのの森公園」になっており、陵自体は、全長90m、前方部経44m、高さ6.1m、後円部56m、 高さ9.1mの、空掘りをめぐらした前方後円墳である。 周辺に円墳もいくつかある。5世紀初の鰭付朝顔形円筒埴輪が出土しており、もとは丁字塚と呼ばれて いた。丁子塚の他にも「田村王塚」「能褒野王塚古墳」「日本武尊能褒野陵」等の名称がある。公園に はその朝顔形円筒埴輪を模した噴水が池の中に立ててあり、水飲み台も埴輪である。隣には、明治にな ってから作られた能褒野神社がある。 <御所市・琴弾原陵> 【日本武尊・琴弾原陵(やまとたけるのみこと・ことひきはらりょう)】 「巨勢の道」は一応全部終了したのだが、どうせ近鉄御所駅へ戻るのだし、途中にある日本武尊陵と孝 安天皇陵に寄っていく事にした。私はどちらも一度来たことがあるが、皆さんはじめてだそうで、私も 以前来たときは整備中だった日本武尊陵が、その後どうなったか見たかった。 御所市の琴弾原は、その昔旅人が休憩し居眠りをしていると、どこからともなく美しい琴の音色が聞こ えてきて、辺りを見回すと、水たまりに水の雫が落ち、岩に響く音であった。その音色は、琴を弾いて いるような音であったことから、琴弾原と呼ばれるようになったという。伝説に基づいて、日本武尊の 墓は三重県亀岡市・奈良県御所市・大阪府羽曳野市の三市にあり、一般に「白鳥三陵」と呼ばれ、その ゆかりから、3市間で歴史・文化を契機とした友好を図りまちづくりのための交流を行っている。 <羽曳野市・白鳥陵> 別名、軽里大塚古墳とも言い墳丘190mの前方後円墳で、琴引原の白鳥陵に比べると堂々たる古墳で ある。円筒埴輪、朝顔形埴輪、衣笠埴輪、家型埴輪などが出土しており、5世紀後半の古墳と考えられ ている。濠と言い、堤と言い、実に立派な古墳だが、「日本武尊陵」としては立派すぎて、悲劇の主人 公の墓にしては似つかわしくない気がする。「琴引原白鳥陵」の方がそれらしく見える。日本書紀では、 白鳥はここに(旧市)降りたが、他の文献には更に飛び立っていったという記述もある。

以下、クリックしていただければ、Y-TUBE の動画が見れます。 白鳥陵古墳 を空から見る。 日本武尊白鳥陵 日本武尊 新聞記事

このイズミヤの裏側に、旧石器時代の石器工房跡遺跡「翠鳥園遺跡」があります。関西では数少ない 旧石器時代遺跡です。
翠鳥園遺跡へゆく



	























誉田白鳥埴輪製作遺跡
































白鳥神社












古市駅から近鉄電車で天王寺へ出て、地下鉄御堂筋線で「長居」へゆく。翠鳥園遺跡を見たので、その 時代の大阪がどうなっていたかを、自然博物館で体感しようと企画したのだが、面白かった。大阪平野 の成り立ちと、自然環境の推移を見て、改めて人類のたどってきた大いなる道程に驚嘆せずにはいられ ない。
大阪市立自然史博物館へゆく

	
	反省会という名の、赤のれん
	


上はクリックで拡大します。天王寺「あべのハルカス」から見た全方向の鳥瞰図です。
今年の考古学ニュース   毎日新聞、サンケイ新聞 今年も一年間、お疲れ様でした。 今年は台風・雨風など、自然災害による例会「中止」と、参加人員僅少による「中止」で、 例会は7回しか行えていない。7月8月は元々中止なので、普通なら年10回の例会は行 うのだが、今年は3回も中止になっている。 この会は1997年発足なので、来年は22年目に当たる。当時全員が現役のサラリーマ ンだったのだが、もうリタイア組が半分を超えた。80歳を過ぎた人も数人いる。 今や20km歩く例会などは無理である。10kmもおぼつかないかもしれない。ぼちぼ ち例会のあり方も考え直す時期にきているのかも。

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