Music: Across the Universe
	
	大阪本町歴史倶楽部 第230回例会  
	大和古墳群を歩く  〜 大和王権発祥の地を探る 〜
	

				    


	<日時>平成30年4月29日AM11:00 JR桜井線長柄駅集合 雨具・弁当・水筒ほか持参の事
	<コース> 
	長柄駅ーマバカ古墳ー西山塚古墳−西殿塚古墳ー燈籠塚古墳−中山大塚古墳ー下池山古墳−
	矢矧(やはぎ)塚古墳−フサギ塚古墳−平塚古墳−大和神社ー星塚古墳−素戔嗚神社−長柄駅
	(5.8km 約3時間)


	

	上はクリックで拡大します。

	以下、解説部分はウィキペディアを中心としたinternet内情報と、過去ここを訪れた時の資料
	(公的機関のパンフ、各種出版物等)から転載しています。

	
	●大和古墳群
	大和古墳群(やまとこふんぐん)は、奈良県天理市南部の萱生町から中山町に所在する古墳群。
	一部が国の史跡に指定されている。最大の古墳は西殿塚古墳になる。奈良盆地の東南の山麓に
	沿って、南から纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の3つの古墳群が、初瀬川右岸をおよそ
	南北に縦に並んで存在している。「オオヤマト古墳群」は、このような最も広い意味で用いら
	れる呼称である。大和古墳群は、古墳時代前期前半に営まれたものと考えられる。

	この古墳群を大和古墳群と呼ぶのは、古墳群の西辺に大和神社が鎮座することによる。群中に
	は、 前方後円墳 12基、 前方後方墳 5基、円墳7基の存在が知られている。これらの古墳は、
	丘陵上の一群を中山支群、扇状地上の一群を萱生(かよう)支群とに分けることができる。
	したがって「中山古墳群」「萱生古墳群」の呼称もしばしば用いられる。大和古墳群では古墳
	間の規模にあまり差がなく、主墳と陪墳という関係ではない。南にある柳本古墳群は主墳と陪
	墳の傾向が強く、纏向古墳群は主墳と陪墳の関係で構成されている。なお、陪墳といっても強
	制の殉死を意味するわけではない。大和古墳群中最大の前方後円墳である西殿塚古墳(墳丘長
	234m)は、柳本古墳群の行燈山古墳(現崇神天皇陵、241m)や渋谷向山古墳(現景行天皇陵、
	310m)に先行して築造された可能性が高い。王墓と推定される巨大古墳は、古墳時代前期後半
	には奈良盆地の西北部へ移動している。佐紀盾列古墳群と呼ばれる古墳群がそれである。2014
	年(平成 26年)10月6日、古墳群のうちノムギ古墳・下池山古墳・中山大塚古墳の古墳域を包
	括して「大和古墳群」として国の史跡に指定された。


	<主な古墳>

	大和古墳群中最大の規模を有し、「大王墓クラス」とみられているのが上述の西殿塚古墳であ
	る。現在、手白香皇女陵に治定されており、宮内庁が管理している。なお、治定が決定したの
	は1876年( 明治9年)のことであり、 手白香皇女(継体天皇皇后)は6世紀前半から中ごろ
	にかけての女性である。しかし古墳の推定年代は3世紀後半から4世紀前半にかけての時期で
	あり、初期のヤマト王権の王墓と考えられている。西殿塚古墳の近傍には全長 175mに達する
	東殿塚古墳がある。
	西殿塚古墳とともに萱生古墳支群に属し4世紀初頭の造営と考えられる。それ以外には100m
	から140m級の7基の前方後円墳、および3基の前方後方墳がある。
	1986年に吉備政権の要素の濃い特殊器台の破片が発見されたことによって、古墳発生期までさ
	かのぼる可能性の指摘された中山大塚古墳(120m)があり、1993年には後円部に竪穴式石室が
	造営されていたことが分かった。この石室には、主として輝石安山岩(サヌカイト)と推定さ
	れる板石が用いられている。上述の手白香皇女の真墓でないかとみなされているのが、本古墳
	群に属する西山塚古墳である。古墳時代前期の古墳が多い本古墳群のなかで、西山塚古墳のみ
	が6世紀前半ころの造営によるものである。
	
	

	上はクリックで拡大します。

	

	上はクリックで拡大します。

	

	上はクリックで拡大します。



第230回例会 久しぶりに7人という人数での例会だ。ここんとこ、4,5人の例会が続いていたので、今日 は賑やかに行きたいものだ。 自宅前からの阪急バス時刻表と、乗り換え案内のルート図を、いつもこうやって印刷して持参 するのだが、いつもこれより早く着いてしまう。おそらく気がせいて、一つ前一つ前の便に乗 ってしまうのだろう。しかし今日は、天王寺でうどんを食べたせいか、この表の通りに到着し た。 <長柄(ながら)町の名前の由来> 『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年 2月20日条に見える「臍見長柄丘岬」を当地に比定する 説があるが、文脈上からは御所市名柄町に比定する説の方が可能性は高いように思う。 「ながら」という言葉そのものは古語だとされるが、由来はよくわからない。調べると、アイ ヌ語で、川から丘へゆく途中の土地、または、眺望のよい場所をさすというような意味がある。 このあたりがそれに該当するのかもしれないが、しかしこの地までアイヌ語の影響が及んでい たかは疑問である。 長柄駅に着いたら、松田さんを除く奈良三人組が待っていた。挨拶を交わして大阪からの到着 を待つ。10:50過ぎに到着するはずの電車は来たのだが、三人は乗っていない。「あれ、乗っ てないで」「どないしたんやろ?」「遅れたんか」と、降りてくる乗客を見ながらいぶかるわ れわれ。ドアがしまり行ってしまう電車を見ていると、後部車両の最後の窓から河内さんと西 本さんの顔が見えた。「あーっ、乗ってるで!」「どないしたんや?」と叫ぶ。そして大爆笑! そう、この線では、無人駅では後ろの車両はドアが開かないのである。二両編成の場合、前の 車両の一番前のドアしか開かないのである。それを知らない三人は、後ろの車両のドアの前で、 じっとドアが開くのを待っていて降りそびれ、電車は出発してしまったと言うわけだ。 「しかし、誰か周りが教えてやらんのかねぇ?」「関わったらやばそうに思われたんとちゃい まっか?」「しゃあけど松ちゃん奈良の人間やで、この線、自動ではドアが開かんの知ってる やろ?」「いや知らんのとちゃいます。」「何度も山辺の道に来てそうにはみえんしな」と話 題盛り上がり。 20分ほど遅れて反対側からの電車で三人が到着。笑われながら、いざ大和古墳群探訪へ出発! 本日は、上の地図で東へまっすぐ(赤い線を上へ)行き、5番6番7番と巡って1番の大和 (おおやまと)神社へ戻ってくるというコースだ。距離にして6km弱。急げば2時間で充 分回れる。私は昔一人で廻ったことがあるが、急ぎ足で1時間で戻ってきた。 上図は白石太一郎編年の畿内大型古墳図である。図の下部に表示されているように原本は1989 年に作成されたものだが、2008年に一部修正が加えられている。どうしても邪馬台国を畿内に もってきたい白石は、箸墓古墳を最古の古墳の位置に持ってきているが、同じ考古学者でも人 によっては4世紀の中頃から終わり頃とする人もいるのである。また箸墓古墳が果たして弥生 時代の墳墓であるかについては、邪馬台国畿内説を唱える学者の中にも疑問視する声がある。 従って、上記の図は、「白石太一郎個人の想像図」と見て貰った方が良い。つまりは、古墳の 年代観は学者によっても異なっており、考古学会で統一された見解などはないのである。 また、大型古墳は日本中に点在しているので畿内だけを取り上げて議論することは問題がある。 しかし、長さ 200メートルを超える大型古墳が「連続して」造営された地域は畿内以外にはな い。これは、4世紀後半から5世紀にかけて畿内には、大型古墳を継続して造営できる強い経 済的基盤を持った集団があったことを示唆しており、大和朝廷の萌芽がその形を次第に整えつ つあった時代と見てもいいだろう。 中国史書には、おそらくこの時代と思われる「倭の五王」たちの記録が残っており、戦いと動 乱に明け暮れた古墳時代の終焉が訪れた時期に、この地方に「大王」制度を確立した集団の存 在が偲ばれる。 白石太一郎の図にある番号は、現在宮内庁で定めている10代の崇神天皇から17代履中天皇まで の陵墓である。(青色のMは神功皇后稜) 10 崇神 すじん 11 垂仁 すいにん 12 景行 けいこう 13 成務 せいむ 14 仲哀 ちゅうあい 15 応神 おうじん 16 仁徳 にんとく 17 履中 りちゅう しかしこれらの天皇陵との比定は大いに問題があり、学者によっては「初代神武から50代桓武 天皇まででその正当性が確かなのは4,5陵墓に過ぎない」という人もいる。また、古墳年代 推定にしても、学者によっては 50〜100年もの開きがあり、古書に言う天皇陵との陵墓比定な どはとても行えるはずもなく、学問的には古墳編年の定説は、何ら証明・実証されていないと 言ってよいのである。 白石の図からもわかるが、仁徳稜以降古墳の規模縮小が始まるとはいえ、まだ大型古墳が造ら れている間にいくつもの天皇陵が早々に小型化してしまうのも妙である。天皇10代から13代と 神功皇后までは大和の柳本・佐紀古墳群に存在するが、14代仲哀天皇から突然河内に移動し てしまう。「祖先の時代から甲冑に身を包み、寝る暇もなく戦って」(倭王武の記述)、やっ と畿内に経営基盤を確立し始めた所なのに、どうしてまた生駒を越えて河内平野に活動の舞台 を移さなければならないのか?どう考えても変である。これらの問いに、現代の考古学は全く 回答を持ち合わせていない。考古学ではその新旧についてはわからないと言っても良いのであ る。 実は天皇陵年代の推移は、古事記、日本書紀、延喜式等に、天皇稜の所在地が記述されている ためである。図全体を通して、現在の考古学上で示された古墳の年代と、天皇の在位順とがか なり不一致であることが明確にわかる。8世紀初頭の、記紀編纂の頃にはすでに古墳と埋葬者 との関係は不明確になってしまっていたと考えられる。世界遺産として登録しようとしている 古墳群の多くの古墳が、誰の墓かは不明なのである。下は安本美典氏による古墳の編年。 ではここで、一般的な「古墳時代」の定義について復習してみよう。以下のウィキの解説は、 割にましな解説である。つまり、あまり偏りのない解説と言う意味である。多少加筆した。 <古墳時代> 出典:ウィキペディア 古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳 が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。 ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。 現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となって いる。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異 が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いて きた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を 指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部 から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれること もある。 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられ るが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できない ため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国の ヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期 に倭国から日本国へ国名を変更した。 この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政 権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀半 ば過ぎには、出現期古墳が現れる。3世紀の後半には奈良盆地に王墓と見られる前代より格 段に規模を増した前方後円墳が現れ、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部 佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉 に大阪平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進 的な群集墳が現れる。続く5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。 それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくな った。これは、ヤマト王権の確立後、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権 へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられ る。大王の墓は特別に八角墳として築造された。 対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出。新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦 ったとも解釈される広開土王碑文などから知られる。(高句麗と倭の戦争) 5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具 に用いられた。大陸から、文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土 師器と須恵器を用いた。また、『隋書』によると、新羅や百済は、倭国は珍物が多い大国で あると尊び、倭へ使い通わしているとの記述が存在する。 弥生時代からの小区画水田は依然として作り続けられているが、この時代の水田は東西・南 北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになる。例えば、5世紀末 から6世紀初めの岡山市中溝遺跡などがあり、水田の一筆の広さが150〜200平方メートルで、 弥生時代後期の水田の2〜3倍の規模である。新たな水田造成技術の導入もみられ、新田開 発が行われたと推定されている。屯倉の設定にはこうした新水田造成技術を導入して行われ たと考えられる。 古墳時代になると、王族や貴族の大型古墳、地方豪族の古墳、横穴墓などの集合墓、あるい は円筒埴輪棺など死者を埋葬する墓における階層化が目を見張るようになり、それに伴い被 葬者の間で身体特徴の違いが見られるようになる。一番わかりやすい身長で比較すると、大 型古墳の被葬者は一般に高身長でときに 170センチ近くにも及ぶ被葬者がいた。各地豪族墓 の男性被葬者の平均は160センチぐらいであり、横穴墓に埋葬された者はそれを下回り、158 センチほどである。古墳時代の人骨の一番の特徴は縄文人や弥生人の骨格で見られた骨太さ ・頑丈さが目立たなくなったことである。 この傾向は、大型古墳の被葬者などで非常に顕著であり、横穴墓や円筒埴輪棺などの庶民墓 の埋葬者ではさほどでもなく、縄文人、弥生人と大型古墳の被葬者との中間である。顔立ち については縄文人で一般的であった鉗子状咬合は全体の70%ほどで見られるが、大型古墳の 被葬者では、のちの日本人で一般的な鋏状咬合が多くなる。また、下顎のエラの部分の前ほ どにある凹み(角前切痕)が多くみられるようになる。さらに、顎の先が細く尖り気味の下 顎骨を持つ者や第3臼歯が萌出しない者の割合が多くなる。これらの下顎骨の骨細化や退縮 減少に伴う顔面骨の変化は、生活様式の変化、特に食物の硬さが減じたことに起因する。 また階層により生活レベルの違いが大きくなり、階層性が目立つようになったと考えられる。 いくつかの疑問点も提示されてはいるが、畿内を中心とした考古学者の間では、3世紀半ば 過ぎに、前方後円墳が出現したと考えられている。3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代 前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期として いる。実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北 地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたこ とに由来する。 3世紀半ば過ぎには、出現期古墳が現れる。前方部が撥形に開いているもので、濠が認めら れていないものがある。中には、自然の山を利用しているものもあり、最古級の古墳に多い と言われている。埴輪が確認されていないのが特徴である。葺石なども造り方が定まってい ないようにも思われる。 この時期の主な古墳、福岡県京都郡苅田町、石塚山古墳(邪馬台国九州説の一説では、女王 卑弥呼の墓と目され、最古級の前方後円墳。造営当初は 130メートル以上か。築造時に墳丘 に複合口縁壺が樹立されていたと推定されている。) 大分県宇佐市、川部・高森古墳群の赤塚古墳(57.5メートル、周囲には幅 8.5m〜11mの空 濠が巡る。) 奈良県桜井市太田字石塚、纒向石塚古墳(96メートル、後円部は不整形円形で、前方部は三 味線の撥状に開いている。葺石および埴輪は用いられていない。) 京都府木津川市山城町、椿井大塚山古墳(推定175メートル、自然の山を利用している。) 奈良県天理市柳本町黒塚古墳(130メートル、撥形であることが分かる。周濠を持っている。) 3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が 現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出 型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付 けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵 クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡 ・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で 作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。また、福岡県の沖ノ島 ではヤマト王権による国家祭祀が始まった時期とされる。 この時期の主な王墓、奈良県桜井市、箸墓古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初 の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)奈良県天理市、大和古墳群の西殿 塚古墳(219メートル)奈良県天理市、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵) 奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山古墳(伝景行陵 310メートル)この時期の王に準じる 規模と内容の主な墳墓は、奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳(280メートル)奈良県桜井市、 メスリ山古墳(240メートル)主な首長墓 山梨県甲府市、甲斐銚子塚古墳(168メートル), 岡山市、神宮寺山古墳(約150メートル)東広島市 三ツ城古墳など。 5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化 した人物埴輪が現れ、5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅 広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようにな り、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。 5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部 九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵 器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れ られるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓が造られ始め、また、装飾古 墳が出現し出した。 この時期の畿内の盟主的な墓と言われるものは、 大阪府堺市 大仙古墳(伝仁徳天皇陵 486 メートル)大阪府羽曳野市 誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵、420メートル)、大阪府堺市上 石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)、また一部の地域首長古墳が巨大化し、 岡山市造山古墳(360メートル)、岡山県総社市 作山古墳(270メートル)、群馬県太田市 太田天神山古墳(210メートル、濠を入れると約320メートル)などがある。 6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方に も横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。 古墳時代後期の大王陵には、今城塚古墳(大阪府高槻市、真の継体陵か?墳丘長190メートル) 河内大塚山古墳(大阪市松原市、墳丘長335メートル)、前方後円墳最終段階の大王陵 見瀬 丸山古墳(欽明陵と推定される、全長 318メートル橿原市)、敏達陵古墳(びだつりょうこ ふん、全長100メートル未満、大王陵最後の前方後円墳)などがある。 6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪が畿内で衰退したことで、関東で盛行 するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。 全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、方墳や円墳、八角墳がもっぱら築 造されるようになる。この時期の古墳を終末期古墳という。646年の薄葬令で古墳時代が 事実上終わりを告げた後も、東北地方や北海道では墳丘墓の築造が続き末期古墳と呼ばれる が、末期古墳が古墳であるかどうかについては議論が分かれる。 (終末期の古墳の代表的なもの) 大堤権現塚古墳(千葉県山武市大堤古墳群、終末期最大の前方後円墳、三重の周溝を含み全 長174メートル) 浅間山古墳(千葉県印旛郡栄町龍角寺古墳群、最後の前方後円墳、全長93メートル) 龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町龍角寺古墳群、終末期最大の方墳、78×78メートル) 春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現用明天皇陵、63×60メートルの方墳) 駄ノ塚古墳(千葉県山武市板附古墳群、62×62メートルの方墳) 山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現推古天皇陵、63×56メートルの方墳) 総社愛宕山古墳(群馬県前橋市総社町、総社古墳群、一辺55メートルの方墳) 宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町、総社古墳群、54×49メートルの方墳) 石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村島庄、蘇我馬子の墓と推測、一辺約50mの方墳、 全長19.1mの横穴式石室) 八幡山古墳(埼玉県行田市藤原町、若小玉古墳群、径66メートルの円墳) 山室姫塚古墳(千葉県山武市松尾町山室、大塚古墳群、径66メートルの円墳) 壬生車塚古墳(栃木県下都賀郡壬生町壬生、車塚古墳群、径62メートルの円墳) 牧野古墳 (奈良県北葛城郡広陵町、押坂彦人大兄皇子の墓である可能性が高い、径43メートルの円墳) ムネサカ1号墳(奈良県桜井市、中臣氏一族、径45メートルの円墳) 峯塚古墳(奈良県天理市、物部氏一族、径35メートルの円墳) 高松塚古墳  キトラ古墳 さあ、それでは 大和古墳群 を歩きましょう! <マバカ古墳> ★所在地:天理市成願寺町 ★墳丘:前方後円墳で前方部を西に向ける。(現状規模は全長約74m、後方部径約43m、  高さ約7m、前方部幅約26m、高さ2m)クビレ部を斜めに横切る農道あり。  周濠の痕跡あり。 ★埋葬施設:不明 ★出土遺物:調査時に古墳時代初期の土師器が発見されている。 (説明板によると明治時代にも勾玉、管玉が出土していると言う。) ★築造年代:? ★発掘調査:2002年、2004年(埋葬部は未調査) 2002年に県道天理環状線建設に伴い墳丘の一部の発掘調査が実施され墳丘西側の前方 部に接する場所で濠状の区画と池状の落ち込みが見つかり出土した庄内式土器の破片 から纒向石塚古墳や纒向勝山古墳に近い築造時期の可能性が指摘され「最古の前方後 円墳」という見方もある。 2004年にはマバカ古墳北側の隣接地の河川跡の上層でも古墳時代後期の須恵器、下層 で古墳時代前期の埴輪片が出土し濠跡でも濠の堆積土から古墳時代初期の土師器が少 量出土した。しかし未だ築造時期を決定付けるまでには至っていない。 ノムギ古墳、ヒエ塚古墳と共に県道天理環状線建設に伴い調査された古墳であるが、 写真でもわかるようにクビレ部付近をえぐるように農道が通っていて離れて見るとか ろうじて前方後円墳とわかる。近くで見ると墳形がよくわからない。 <西山塚古墳> 西山塚古墳(にしやまづかこふん)は、奈良県天理市萱生町(かようちょう)にある古墳。 形状は前方後円墳。大和古墳群(萱生支群)を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていな い。6世紀前半(古墳時代後期前半)の築造と推定され、第26代継体天皇皇后の手白香皇女 の真陵に比定する説で知られる。 奈良盆地東縁部、萱生町集落西端の傾斜面地に築造された大型前方後円墳である。これま でに発掘調査は実施されていないが、『山辺郡誌』によれば1887年(明治20年)の墳頂部 での開墾の際に遺物出土のことがあったという。 墳形は前方後円形で、前方部を北方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。 墳丘表面では葺石・埴輪が検出されている。主体部の埋葬施設は明らかでないが、前述の 明治の開墾の際には、石棺のほか勾玉・管玉・鈴・土器・人造石が出土したと伝わる(現 在は所在不明)。 墳丘周囲には周濠が巡らされ、現在もその名残は周囲4ヶ所の溜池として見られるほか、周 濠外側には外堤の遺構も認められている。 この西山塚古墳は、出土埴輪から古墳時代後期前半の6世紀前半頃の築造と推定される。 大多数が前期古墳である大和古墳群では、例外的な後期古墳になる。被葬者は明らかでな いが、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の真陵に比定する説が有力視される(現陵は天理 市中山町の西殿塚古墳)。 <東殿塚古墳> 本古墳は、出土した埴輪から4世紀初め頃の築造と推定され、少し古い巨大前方後円墳西殿 塚古墳( 234メートル)のすぐ東側に並列している。両古墳は傾斜地に立地し、主軸を南北 に取り、標高約 140メートルの高所に位置している。墳丘に上がると奈良盆地の全域を見渡 すことができる。 墳丘長 139メートルで、後円部は主軸に対してやや楕円になり、前方部は長い。後円部と前 方部の比は、1:1.5である。主軸は南北であり、東西の側面に高低差が出来ている。後円部 の頂上は荒らされており、不定形である。前方部はくびれ部分付近が平坦で端部で台形状に 高くなっている。そこに二列の埴輪列と列石が認められた。墳丘上部の斜面では墳丘を取り 巻く円筒埴輪が並べられていたものと想像される。 発掘調査で前方部西側の一角から造り出し的な祭祀遺構が見つかり、そこから多量の埴輪片 が出土した。高さ約64センチ、最大口径約50センチの楕円形円筒埴輪が復元された。その埴 輪の下部にヘラ書き船の絵を描 いたものが3点発見され、1〜3号船画と名付けられた。もっ とも詳細に描かれているのは1号船画で、船はゴンドラの形をしており7本の櫂を描いている ことから14人で漕ぐ大型船であり、帆に風を受けて海上を疾走する船を描いたものと解釈さ れている。前方部西側の台形張り出し部から朝顔型埴輪・円筒埴輪・楕円形円筒埴輪や土器 などが出土している。円筒埴輪にはヒレ付きのものもみられ、格段にヒレがみられ、円筒に 巴形・正方形・長方形・円形の透かしが施されている。土器には、砕かれた土器や形を保っ ている供献土器がたくさんあり、山陰系・近江系・東海系などの他地域の土器が含まれてお り、最古式と推定されている。 <西殿塚古墳> 西殿塚古墳(にしとのづかこふん)は、奈良県天理市中山町にある古墳。形状は前方後円墳。 大和古墳群(中山支群)を構成する古墳1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁によ り「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定さ れている。3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定され、古墳時代最初期の箸墓古 墳に後続する大王墓とする説で知られる。東側には隣接して東殿塚古墳があり、2基は大和 古墳群のうちでは最高所にあって盆地全域を眺望する。現在までに墳丘を良好に遺存する。 現在は宮内庁治定の皇后陵として同庁の管理下にあるが、これまでに1989年度(平成元年度) に宮内庁書陵部による墳丘表面調査が実施されたほか、1992-1994年度(平成4-6年度)に天 理市教育委員会による墳丘周辺部の調査、2012年度(平成24年度)に学会立ち入り調査など が実施されている。 墳形は前方後円形で、前方部を南方に向けるが、東西方向の傾斜地(高位は東側)に直角に 築造されているため左右非対称形をとる。墳丘は後円部で東側3段築成・西側4段築成、前方 部で東側1段築成・西側2段築成。墳丘長は約 230メートルを測るが、これは大和古墳群では 最大規模になる。墳丘表面には葺石が認められるほか、特殊器台形土器・特殊器台形埴輪・ 特殊壺形埴輪(以上墳丘部)、有段口縁の円筒埴輪などの初期埴輪(墳丘周辺部)等が検出 されている。 主体部の埋葬施設は明らかでないが、墳丘上では後円部・前方部それぞれに方形壇(方丘) が認められている。この西殿塚古墳は、古墳時代前期前半の3世紀後半頃の築造と推定され る。 箸墓古墳(桜井市箸中)に後続するヤマト王権の大王墓と目され、隣接する東殿塚古墳とで は西殿塚古墳を先とする連続的な築造とされる。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁に より手白香皇女(第26代継体天皇皇后)の陵に治定される。ただし築造年代は手白香皇女の 6世紀頃という想定年代に合わないため、真の手白香皇女陵については西山塚古墳(天理市 萱生町)とする説が有力視され、代わって本古墳の真の被葬者については卑弥呼(箸墓古墳 被葬者か)後継者の台与とする説などが挙げられている。 冒頭に掲げた、  これが下の土器に描かれた船である。 海など無い奈良盆地の端に作られた古墳から、船を描いた土器がでる。これはこの古墳に関 わった人々が海を知っている、あるいは海から来たと言うことを物語っている。 <燈篭山古墳/燈籠山古墳(とうろうやまこふん)> 所在地奈良県天理市中山町燈篭山/中山町燈籠山 前方後円墳。全長105m、後円部径65m、前方部幅52m。 丘陵。標高103m、畑からの比高1m、 前方部2段か・後円部2段か、周庭あり、 (内部主体)位置:後円部、槨:竪穴式石槨か、 (第2主体)前方部、割竹形埴質棺(1896年出土の埴質枕にともなう棺とみられる)、 遺物概要、埴輪(円筒埴輪+朝顔形埴輪I式)+勾玉+管玉+釧。 発掘概要、1987年3月5日実査。1996年9月30日実査。 <中山大塚古墳> 前方後円墳 全長 130m 竪穴式石室 割竹形木棺 出土品 鏡片、鉄剣破片、鉄鏃 古墳時代前期初 中山大塚古墳(なかやまおおつかこふん)は、奈良県天理市中山町大塚に所在する古墳時代前期 初頭の前方後円墳である。大和古墳群の枝群である萱生古墳群に属し、国の史跡に指定されてい る(史跡「大和古墳群」のうち)。 墳丘は前方部を南西に向けた前方後円墳で、全長約130m、後円部の径約67m、高さ約11.3m。 3段築成で、後円部北側の墳丘裾に扇型に開く張り出し部分が付属することが確認された。後円 部に張り出しが付くということは、すぐ南にある柳本古墳群中の代表的な双方中円墳の櫛山古墳 の墳形に繋がるのではないかと推定される。 前方部後方東側にも三角形の張り出しが付けられている。前方部と後円部の高さは、前方部が低 く、前方部前面が緩やかに曲線を描いており、出現期前方後円墳の特徴を備えている。また、後 円部の張り出し付近から特殊器台の破片が見つかっており、箸墓古墳に次ぐ最古級の前方後円墳 であると推定されている。 南側に延びた尾根を切り取り、その土を後円部の上に積み、前方部も尾根を低く細く削り取って、 形を整えたと考えられており、後円部の高さ11.3メートルのうち、墳頂部の4メートル以上は盛り 土であった。しかも盛り土の仕方は、粘土と砂利を互層に堅く積み上げる工夫がなされていた。 発掘調査、1977年(昭和52年)以来数回にわたって実施されてきた。埋葬施設は、後円部の中央 に長さ7.5メートル、高さ1.4メートルの竪穴式石室が築かれていた。石室の石材は、二上山麓に 産出する輝石安山岩であり、上部は持ち送りにしてすぼめるなどの工夫を凝らしている。礫敷や 木棺を設置する基台などは確認されておらず、内部構造は比較的簡素なものとなっている。 石室のなかからは割竹形木棺が確認された。墳丘の最下段に幅6メートル、高さ1メートルの平坦 面が造られ、後円部の北西からくびれ部にかけて壕の跡がみられた。古墳は大和神社の所有地内 にあり、前方部の南側には墳丘の一部を削って境外摂社の御旅所坐神社(大和稚宮)が造られて いる。 2014年(平成26年)10月6日、ノムギ古墳・下池山古墳とともに「大和古墳群」として国の史跡 に指定された。 古墳頂上へ上る。生け垣で石室、石棺の状態を示してある。 背中の模様からすると、カワラヒワのようですな。 本日のオールキャストでございます。本日もご覧いただいてありがとうございました(古いねぇ)。 <下池山古墳> 下池山古墳(しもいけやまこふん)は、奈良県天理市成願寺町に所在する墳丘全長約120メー トルの前方後方墳。大和古墳群に属す古墳時代前期前半の古墳。国の史跡に指定されている (史跡「大和古墳群」のうち)。 1995年(平成7年)から1996年(平成8年)にかけて奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式 石室の発掘調査が行われた。多数の板石の用いられた石室は、長さが 6.8メートルで、その 内部からは木棺とともに鉄製品等が出土している。石室の北西側からは小石室が検出され、 その内部で大形の内行花文鏡が発見された。共伴する遺物等より、古墳の造営年代は4世紀 前半と推定される。2014年(平成 26年)10月6日、ノムギ古墳・中山大塚古墳とともに「大 和古墳群」として国の史跡に指定された。 <矢ハギ塚古墳/矢矧塚古墳 やはぎづかこふん> 前方後円墳。全長120m、後円部径約70m、前方部幅約60m。 <立地>平野。標高72m、水田からの比高1m、葺石不明。 外表遺物不明。 明治初期の開墾で玉類の出土をみたという(『山辺郡誌』、1913)。 発掘概要1987年3月5日実査。 前方部を西南西に向ける前方後円墳である。周壕はなかったようだ。明治初期の開墾で玉類 が出土したという。築造年代は不明。墳丘上に旧柳本飛行場給水施設跡が有る。 現状は後 円部の一部が上ッ道で削られたうえ墳丘全体も大規模に削平され一面が果樹園となっている。 大和古墳群に含まれ、周辺には平削され果樹畑になっている古墳が多く見られる。 <フサギ塚古墳> ★所在地:天理市成願寺町フサギ塚 ★墳丘:前方後方墳で前方部を西に向ける。(全長約110m、後方部の一辺約60m、高さ9m、 前方部高3m)北面と東面の水田の地割から周濠の痕跡の可能性あり。 ★埋葬施設:不明 ★出土遺物:刀剣類の出土が伝えられているが所在不明。 ★築造年代:4世紀中頃? ★発掘調査:説明板に前方部の一部を調査と書かれているが詳細不明。 ★被葬者:?(初期大和政権の一族?)             この古墳が位置するオーヤマト古墳群の北側にある萱生(かよう)支群は多くの前方後円墳 (12基)と混在して前方後方墳5基)が多い特異な古墳群として知られる。尚、このフサギ 塚古墳は前方後方墳としての大きさは県内で5番目、全国でも7番目の大きさを誇る。墳丘上 に小道があり後方部には簡単に登れるが一面が柿畑となっており見晴らしはよくない。墳丘 図を見てもわかるように後方部は比較的よくわかるが前方部の改変が著しく全長が110mもあ るようには見えない。見学は北側から見ると全景がよくわかる。 【素盞鳴神社】 奈良県天理市兵庫町にある「素戔嗚神社すさのおじんじゃ」。隣接して神護寺もある。 大和神社から北へ5,6分の所に鎮座している。由来などの掲示はないが「素戔嗚神社」 なので、大阪の河内平野に鎮座している神社の多くと同じように、かっては「牛頭天 皇(ごずてんのう)」を祀っていたのがもしれない。 ここは兵庫町という名前だが、この名前の由来は、大和神社の兵庫のあった所である という。古代は大社や豪族は弓矢槍刀などの武器を納める兵庫を持っていた。 石上神宮の付近においては、内馬場・木堂・三島・守目堂にあぜくらという小字があ るが、ここには正倉院のような校倉があったと考えられている。櫟本の西部にも兵庫 という所がある。 ちなみに、神戸市はもと神戸と兵庫と二つの村であったのを合して神戸市となったの で、一方の兵庫の名がなくなったかわりに兵庫県という県名をつけたのである。 大和神社からここへ来た道は、北参道/裏参道とも呼ばれ、この北参道沿いに、北か ら神護寺・素戔嗚神社が並び大和神社へと通じている。 新装なったJR奈良駅の地階で反省会。珍しく開店が16:00だったが、10分前くらいに 入店。なかなか安くて旨い店だった。これまた珍しく、写真を撮るのを忘れた。
地域国家から古代国家へ ・初期ヤマト王権 弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心と する政治勢力が存在していたことがわかっている。3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼 の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。いず れにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマ ト王権が成立したと考えられている。 成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権など列島各地の勢力と連 合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。北部九州勢 力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もある。(邪馬台 国東遷説) ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場 している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが 前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の 政治勢力が連合したことによって成立したとされる。 ヤマト王権は、ヤマト地方(畿内)を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられて いる。ヤマト王権は倭国を代表する政治勢力へと成長すると、支配拡大の過程では大小の勢力や種族 との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など) が残されているが、詳細な過程は不明である。 ・倭の五王の時代 中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半も経って、5世紀の初めの413年 (東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。421年(宋・永初 2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に 散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。 倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、 例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。武については、中国皇帝に上表した文書には、 先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。 埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘からそ の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、 まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄 刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。 また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制 度がある程度成立していたとされている。 4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土 王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員し て倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱( 527年)として扱われ ている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと も考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆し ている。つまりは、大和朝廷の支配は6世紀半ばでもまだ完成していなかった可能性もあるのだ。 ・古代国家の成立 安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 − 571年)の各王朝を通じて、地域 国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏な どがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、 各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。 宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増すと、崇峻朝(587年 − 592年)では蘇我氏が大臣一人で政権 の中枢を握った。崇峻天皇は 592年、蘇我馬子の手筈により暗殺される。稲目・馬子・蝦夷・入鹿と 蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代が645年(皇極天皇4年)の乙巳の変までの約半世紀間続いた。 欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝では仏 教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、 他の史料から編者の改変である事が分かっている。仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、 蘇我氏の勝利に終わる。 ・朝鮮との関係 4世紀以降、朝鮮半島で鉄資源の供給地としてのいわゆる任那地域などに進出したことが、広開土王 碑文(西暦 414年に建てたとされる)などからも知られる。また『三国史記』(西暦1143年執筆開始、 1145年完成)は、3世紀以前の記述は信用性に疑問があるものの、「空白の4世紀」について朝鮮半 島との関係が書かれた数少ない史料である。 4世紀末頃まで隆盛だった朝鮮半島南部洛東江流域の日本列島勢力が高句麗勢力の南下の影響を受け て後退し始め、代わりに5世紀以降朝鮮半島南西部栄山江流域の日本列島勢力が隆盛となり、近年は 栄山江流域周辺で前方後円墳が多数発見されている。姜仁求氏は、これらの古墳は日本から朝鮮半島 へ移入されたものとみている(1983)。 ・中国との関係 この時代において、中国の華北には五胡十六国(316年 − 439年)が興亡したのち、北魏・東魏・西 魏・北斉・北周と続く北朝の時代となるが、これらの諸国家と倭国との外交や交易などについての史 料は知られていない。南朝との関係では、倭の五王と冊封関係にあったことが知られている。
参考資料 <ホケノ山古墳の年代について> 安本美典 ■ 平成12年3月28日 新聞各紙の報道 ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中の大和古墳群)を発掘調査していた奈良県橿原考古学研究所 大和 古墳群調査委員会(樋口隆康委員長 岡林孝作発掘主任)は、古墳の築造年代を3世紀中葉の最古の 前方後円墳であると発表した。3世紀中葉ということは、邪馬台国の卑弥呼の時代ということで、畿 内説の考古学者はこぞってコメントを発表した。 発掘調査により明らかになった主な事項(新聞報道の抜粋) 1.古墳の構造は石で囲った木槨(一部ヒノキ材)の中に長大なくりぬき式木棺(コウヤマキ材)を据  えた前例のない三重構造で、墳丘墓と前方後円墳の双方の要素をもつ構造。 2.棺内中央部に水銀朱の塊がある。 3.二重口縁壺(庄内式土器)20ケ以上が石囲いの内側から等間隔で配置(埴輪か?) 4.画文帯神獣鏡1面(「吾作明竟」から始まる計56文字の吉祥銘文入りの「同向式」) 5.内行花文鏡1面の破片2点 6.画文帯神獣鏡2面の破片数点 7.銅鏃(やじり)60点 8.素環頭太刀 9.鉄剣・鉄鏃・鉄農具など鉄製品130点以上 ■ ホケノ山古墳発掘について、安本美典氏のコメント 事実を無視して大々的なPRに走ってはならない。すこしきつい表現になるが、はっきりものをいおう。 最近の関西発邪馬台国関連発掘ニュースは、なにやら、大本営発表に似てきている。発言権をにぎった 発掘者が、しばしば、はじめから邪馬台国=大和説の前提で発表を行う。新聞社や、テレビ局の関西本 社などの担当者は、ご当地びいきからか、あるいは、卒業した関西の大学で、邪馬台国=大和説をたた きこまれたためか、情報を得るのを有利にするためか、大和説の前提で、報道をおこなう。さらによく みれば、邪馬台国と直接関連のない情報までも、ニュースヴァリューを高めるために、邪馬台国と結び つけて報道する。 発掘の当地から発信されれば、他の地域は、その情報を、全国ネットで流さざるをえない。 ところが、 もとの情報は、はじめからバイアスがかかっているのだ。かくて、バイアスのかかった情報が、事情を よくしらない人たちに、大々的にインプットされていく。なにやら、マインドコントロールの図式に近 い。客観的な事実があって、客観的な検討が必要なのであるが、客観的な検討がぬけて、発掘が、特定 の説や立場のPRの具となっている。注意が必要である。 今回の発掘は、疑問点があまりにも多い。まず、「木槨木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋が あり、その中心に、木棺があった」という。この事実じたいが、ホケノ山古墳の築造年代が、「邪馬台 国時代に相当する三世紀中頃」という判断を疑わせる。 「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 「棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。木槨のなかに木 棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。 「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。たとえば、「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、 「槨あって棺なし」、「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、「東沃沮伝」では、「大木の槨を 作る、長さ十余丈」 などと、いちいち書きわけている。 畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。邪馬台国が、かりに大 和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。「木槨木棺墓」や 竪穴式石室墓」、さらには「横穴式石室」は、時代の下った「隋書倭国伝」の、「死者を斂めるに棺槨 をもってする」という記事と、ぴたり一致する。 中国人の観察、弁別記述は鋭い。 いっぽう、九州の福岡県前原市の平原遺跡からは、39面の鏡が出土したが、平原遺跡では土壙(墓穴) のなかに、割竹形木棺があった。割竹形木棺は、幅1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木 の枠で囲った部屋」などはない「魏志倭人伝」の記述にあっている。 平原遺跡の時期は、1998年度の確認調査で、周溝から古式土師器が出土し、また、出土した瑪瑙管 玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時代)に限定される」 (柳田康雄「平原王墓の性格」「東アジアの古代文化」1999年春・99号) これこそ、三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。北九州で多量に発見される甕棺墓や箱式石棺 墓なども「棺あって槨なし」の記述に合致するといえよう。 そもそも、ホケノ山古墳の築造年代が「邪馬台国時代に相当する」という判断は、どのような根拠にも とづくのか。一つは、「庄内式土器」が出土したということによっているようである。しかし、邪馬台 国=畿内説をとる考古学者でも纒向遺跡を発掘した関川尚功氏などは、庄内式土器を、「卑弥呼の活動 していた時期よりものちの時代の土器」とする(「庄内式土器について」「季刊邪馬台国」43号) 庄内式土器の年代については、考古学者のあいだで、一致した見解がえられているわけではないのだ。 ホケノ山古墳に近い箸墓古墳の築造年代なども、三世紀後半にくりあげる考古学者が多い。しかし関川 氏は、四世紀中ごろのものとしている。 「日本書紀」の伝承では、箸墓古墳の被葬者は、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫とされてい る。いっぽう、崇神天皇陵古墳については、四世紀中ごろの築造と見るのが、考古学者の多数意見であ る。とすれば、箸墓古墳の築造年代も、四世紀中ごろとし、崇神天皇陵古墳とほぼ同時代としたほうが、 文献的事実ともあう。私は、ホケノ山古墳を、西暦300年ごろに築造されたもの、箸墓古墳を、西暦 350年ごろ以降に築造されたものとみる。西暦247か248年になくなった卑弥呼と結びつかない。 画文帯神獣鏡がでたことなどは、古墳の築造年代をきめる上で、なんの参考にもならない。画文帯神獣 鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四世紀代の古墳から出土している。なか には、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀末の、雄略天皇時代のものとみ られる古墳からも出土している。 そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。中国北方の魏と交際のあった邪馬台国の 鏡として、ふさわしくない。平原古墳の39面の鏡などは、すべて、中国北方系の鏡である。 卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべてい るように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣 鏡や、画文帯神獣鏡は、はいらない、とみるべきである。 三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総数で我が国から600面以 上すでに出土していることになる。卑弥呼がもらった100面の鏡としては、数が多すぎる。画紋帯神 獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。今、出土しているものは、ほとんど が、我が国でつくられたものであろう。いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう。
参考資料 日本学術振興会  科学研究費助成費用 [科研費]HPより転載 予算 平成29年度の振興会の予算額は、2,677億円です。このうち、運営費交付金事業費は267億円、国庫補助 金は科学研究費補助事業費 1,417億円、科学技術人材育成費補助事業費15億円、戦略的国際研究交流推 進事業補助事業費11億円等となっています。また、この他に、国から財源を措置され造成された基金に よる助成事業費が 956億円含まれています。主な事業別内訳は下記のとおりであり、全予算額の99.8% は国からの運営費交付金及び補助金等により財源を措置されています。 ======================================================================================================= 1997 年度 実績報告書  初期大和政権の古墳造営に関する科学的研究 研究課題/領域番号  09490040 研究機関  奈良県立橿原考古学研究所 研究代表者 樋口 隆康 奈良県立橿原考古学研究所, 所長 (30025035) 研究分担者 和田 萃 京都教育大学, 教授 (30025069) 伊達 宗泰 花園大学, 文学部, 教授 (50131298) 今津 節生 奈良県立橿原考古学研究所, 資料室, 保存科学研究室長 (50250379) 寺沢 薫 奈良県立橿原考古学研究所, 調査第1課, 総括研究員 (90250365) 河上 邦彦 奈良県立橿原考古学研究所, 調査研究部, 調査研究部長 (80271584) キーワード 前期古墳 / 大和 / 石室 / 墳丘の構築 / 花粉分析 / 副葬品の配置 研究概要   古墳群成立に関する考古学的、自然科学的な検討検討   大和古墳群に関する考古学的な検討の一環として、黒塚古墳の発掘調査に関連する考古学的   な検討を進めた。調査の結果、黒塚古墳は未盗掘であり、遺物の大半が原位置のままで残っ   ていることが判明した。そこで、出土した大量の三角縁神獣鏡をはじめ、各種の鉄器類、有   機遺物に関して、発掘現場において考古学・保存科学をはじめとした各研究分担者による詳   細な検討を行った。その結果、有機物を介在とした副葬品の配置の仕方、取り扱いの違いな どについて画期的な成果を得ることができた。この成果の一部は、研究分担者の河上が日本   考古学協会第64回総会において研究発表する予定である。 下池山古墳の墳丘構築時に赤と黒に染め分けた麻布が使用されていることが土壌の分析調査 と考古学的な調査の連携によって判明した。墳丘の構法や祭祀を考える上で貴重な発見であ り、染色技術の上からも画期的な発見である。この成果は研究分担者の今津が日本考古学協 会第64回総会において研究発表する予定である。 また、新たに研究協力者の参加を得て、石室破壊に関する地震考古学的な研究、繊維を中心 とする残存有機遺物の研究、銅鏡を中心とした遺物の精密計測に関する研究を開始した。   古墳群の立地に関する環境および地理学な検討 黒塚古墳の墳丘の断面土壌を対象に花粉分析、プラントオパール分析を実施した。しかし、   砂質の土壌のために花粉やプラントオパールのほとんどは分解していた。そこで、当初予定 していた墳丘のボーリング調査は成果が期待できないので本年度は実施しなかった ======================================================================================================= 1998 年度 実績報告書  初期大和政権の古墳造営に関する科学的研究 研究課題/領域番号       09490040 研究機関 奈良県立橿原考古学研究所 研究代表者 樋口 隆康 奈良県立橿原考古学研究所, 所長 (30025035) 研究分担者 和田 萃 京都教育大学, 教授 (30025069) 伊達 宗泰 花園大学, 文学部, 教授 (50131298)   今津 節生 橿原考古学研究所, 保存科学室, 主任研究員 (50250379) 寺沢 薫 橿原考古学研究所, 調査第1課, 課長 (90250365) 河上 邦彦 橿原考古学研究所, 調査研究部, 部長 (80271584) キーワード 古墳 / 大和政権 / 石室構造 / 絹織物 / 花粉分析 / 精密計測 研究概要   古墳築造の地理学的土木工学的な検討 中山大塚古墳、下池山古墳、黒塚古墳の石室構造、および、石材の利用状況から、大和古 墳群内の石室構造の変遷を検討した。この成果を橿原考古学研究所公開講演会で発表した。 また、ホケノ山古墳の地中レーザー探査を実施した。その結果、後円部に竪穴式石室の存在 を確認した。 また、下池山古墳では石室構築後に墳丘を被覆した赤と黒の麻布が存在し、この麻布を被覆 した面に大規模な儀式か想定できることを解明した。この成果を「考古学協会第64回総会」 で研究発表した。 石室内の科学的調査   昨年発掘調査を実施した黒塚古墳の縦穴式石室内に副葬されていた遺物とその周辺土壌の分 析調査を進めた。その結果、副葬された鏡の周囲には多くの絹織物が存在していたことを証 明した。花粉分析の手法を応用して土壌を分析することで木木棺の材質を明らかにした。 この成果を橿原考古学研究所公開講演会で発表した。また、黒塚古墳土壙内のリン分析を実 施した。 出土遺物の科学的な検討 黒塚古墳出土鏡の精密計測と顕微鏡による立体観察を進め、制作技術に関する知見を得た。 この成果を橿原考古学研究所公開講演会、および図書『黒塚古墳』で発表した。 ======================================================================================================= 1999 年度 実績報告書  初期大和政権の古墳造営に関する科学的研究 研究課題/領域番号       09490040 研究機関  奈良県立橿原考古学研究所 研究代表者 樋口 隆康 奈良県立橿原考古学研究所, 所長 (30025035) 研究分担者 今津 節生 奈良県立橿原考古学研究所, 保存科学室, 主任研究員 (50250379) 寺沢 薫 奈良県立橿原考古学研究所, 調査1課, 課長 (90250365) 河上 邦彦 奈良県立橿原考古学研究所, 調査研究部, 部長 (80271584) 和田 萃 京都教育大学, 教授 (30025069) 伊達 宗泰 花園大学, 文学部, 教授 (50131298) キーワード 古墳 / 大和政権 / 石室構造 / 絹織物 / 花粉分析 / 精密計測 研究概要 古墳築造の地理学的土木工学的な検討   ホケノ山古墳の地中レーザー探査を実施した。その結果、後円部に竪穴式石室の存在を確認 した。その成果をもとに、発掘調査を行い、石囲木郭の石室構造を明らかにした。 古墳群築造に伴う環境変化の研究   大和古墳群内の古墳築造に伴う環境変化を知るために、黒塚古墳、ホケノ山古墳の花粉分析 を行った。 石室内の科学的調査   ホケノ山古墳の縦穴式石室内に副葬されていた遺物とその周辺土壌の分析調査を進めた。 その結果、副葬された鏡の周囲に絹織物が存在していたことを証明した。また、花粉分析の 手法を応用して石室内土壌の分析を実施することで木棺、木郭の材質を明らかにした。 出土遺物の科学的な検討 黒塚古墳出土鏡の精密計測と顕微鏡による立体観察を進め、制作技術に関する知見を得た。 ======================================================================================================= 1999 年度 研究成果報告書概要  初期大和政権の古墳造営に関する科学的研究 研究課題/領域番号    09490040 研究種 基盤研究(B) 配分区分 補助金 応募区分 一般 研究分野 広領域 研究機関 奈良県立橿原考古学研究所 研究代表者 樋口 隆康 奈良県立橿原考古学研究所, 奈良県立橿原考古学研究所, 所長 (30025035) 研究分担者 河上 邦彦 奈良県立橿原考古学研究所, 部長 (80271584) 寺沢 薫 奈良県立橿原考古学研究所, 課長 (90250365) 今津 節生 奈良県立橿原考古学研究所, 主任研究員 (50250379) 研究期間 (年度) 1997 ? 1999 キーワード 古墳 / 石室 / 古環境 / 大和政権 / 精密計測 研究概要 古墳築造の地理学的土木工学的な検討   中山大塚古墳、下池山古墳、黒塚古墳の石室構造、および、石材の利用状況から、大和古墳 群内の石室構造の変遷を検討した。この成果を橿原考古学研究所公開講演会で発表した。また、 ボケノ山古墳の地中レーザー探査を実施した。その結果、後円部に竪穴式石室の存在を確認し   た。 また、下池山古墳では石室構築後に墳丘を被覆した赤と黒の麻布が存在し、この麻布を被覆し た面に大規模な儀式が想定できることを解明した。この成果を「考古学協会第64回総会」で研 究発表した。ホケノ山古墳の地中レーザー探査を実施した。その結果、後円部に竪穴式石室の 存在を確認した。その成果をもとに、発掘調査を行い、石囲木郭の石室構造を明らかにした。 石室内遺物の科学的調査 昨年発掘調査を実施した黒塚古墳の縦穴式石室内に副葬されていた遺物とその周辺土壌の分析 調査を進めた。その結果、副葬された鏡の周囲にに多くの絹織物が存在していたことを証明し た。花粉分析の手法を応用して土壌を分析することで木木棺の材質を明らかにした。この成果 を橿原考古学研究所公開講演会で発表した。また、黒塚古墳土壙内のリン分析を実施した。 黒塚古墳出土鏡の精密計測と顕微鏡による立体観察を進め、制作技術に関する知見を得た。こ の成果を橿原考古学研究所公開講演会、および図書『黒塚古墳』で発表した。 古墳群築造に伴う環境変化の研究 大和古墳群内の古墳築造に伴う環境変化を知るために、黒塚古墳、ホケノ山古墳の花粉分析を 行った。 ======================================================================================================= 安本氏の考察もそうだが、最近近畿圏の考古学者の年代観は、信頼性において非常に疑義を生じている。 関東地方や、一部九州地方の学者たちからは「関西ではもう考古学は死んだ」とか、「まるで学問の体を なしていない」と酷評されているのだ。「近畿圏の考古学者の言うことは当てにならない」と思っている のは、私のような邪馬台国=九州説の人たちばかりではない。邪馬台国=奈良説の学者たちの間でも、 「関西では考古学はその学問性において崖っぷちに立っている」(東海大学北條教授)と危惧されている のである。 私見では、そう言われるのは関西では考古学が邪馬台国を中心に回っているからであり、「邪馬台国=奈 良」を大前提にすべての発掘、すべての論文が評価されている観があるからだろう。もちろん関西でも、 あまりに古く古墳の年代がさかのぼる事に異議を唱えている学者もいるが、彼ら少数派は学会でも関西考 古学ムラでも冷遇され、なかば村八分のような状態に置かれている。 ちゃんとした大学の、ちゃんとした歴史関係学科をでて、一応社会常識はありそうに見える関西の学者た ちが、こと邪馬台国となると、常軌を逸した発言や行動をとる。そしてそれを指摘されても意に介さない どころか、糾弾した機関や論者を非難し、文献との齟齬を指摘する声には「文献上の問題はシナの人間が 書いたことであるから気にしなくて良い」とか「魏志倭人伝など信用できない」などという訳のわからな い発言をするのである。魏志倭人伝を信用できなければ、そもそも邪馬台国論なども成立しない。 卑弥呼が生きていたのは明らかに弥生時代であり、弥生時代の近畿圏は銅鐸社会である。その影響は出雲 や淡路島や東海地方にまで及んでいる。この社会は古墳時代とは明らかに一線を画しており、古墳時代の 人々の社会とは隔絶しているように見える。もし大和が卑弥呼の時代に西日本を統一していたとするなら ば、古墳にどうして銅鐸が現れないのだろうか。奈良から糸島の一大卒をコントロールするほどの権威が 既に確立していたのなら、銅鐸民族も当然支配していたはずである、古墳時代の社会にそれが反映してい るはずではないか。また、弥生時代の奈良には鉄も絹もないと言う指摘には、関西の考古学者は前述のよ うに「魏志倭人伝は信用できない」と逃げてしまう。箸墓古墳が3世紀の築造で、卑弥呼と同時代の遺跡 だとするならば、関西であれだけ出土している銅鐸が一つくらい出てきてもよさそうものではないか。 15万とも20万とも言われる我が国の古墳において、銅鐸が古墳から出土した例はひとつもないのである。 古墳は古墳時代のもので、決して弥生時代の遺跡ではない。 九州の邪馬台国と同時代に、近畿では銅鐸を信奉する文化、民族がいて、彼らは纏向遺跡に住み、唐古鍵 に住み、池上曽根に住み、滋賀に兵庫に山城にも住んで、銅鐸を信奉し、関西ネットワークを作り上げて いたと理解した方が、弥生・古墳時代を中心とした古代社会の状況はすんなりと解明できる。弥生時代の 終末期に、騎馬文化を持った新しい集団がどこからか日本列島に出現し、九州にあった邪馬台国を滅ぼし、 あるいは邪馬台国と融合し、東を目指して近畿地方へやってきた。そして約 150年に及ぶ「大王」たちの 戦いが続き、やがて奈良盆地に大和朝廷の萌芽を築きあげた。その過程で近畿圏の銅鐸社会は排斥され、 銅鐸は廃棄物とともに、あるいは壊されて、あるいは完形のまま、山中や河川に廃棄されたのである。 近畿圏の考古学者たちは、一度邪馬台国や卑弥呼を離れて、そもそも日本には邪馬台国などなかったのだ という観点にたって、銅鐸社会や近畿圏の弥生時代や古墳時代について考え直して見ると良い。その研究 成果をこそ、我々歴史マニアが待ち望んでいるものなのである。 上に、日本学術振興会の「科学研究費助成費用」の一部を紹介したが、日本における学術研究の調査研究 プロジェクトのほとんどは、理系文系を問わずこの日本学術振興会から各研究機関へ補助される。すべて 我々の税金から出ている。上に掲げた古墳の研究PJの一つ一つに対しても、それぞれ約1、000万円 〜2,000万円という金額が補助されている。それを考えると、本当にその研究の成果が実っているの かと確認したいのは私だけでは無いと思う。
<銅鐸> 出典:ウィキペディア(一部)に加筆 銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀頃から3世紀頃の約4 〜500年間にわたって製作、使用された。語源となった「鐸」は古代中国において用いられた柄付きの 青銅器の楽器である。鐸は柄を持ちもう一方の手にもった打器で鐸を打ち鳴らして音をだしていた。銅鐸 は銅製で鐸のような形をしているので「銅鐸」と名付けられたが、銅鐸のように吊るして使用されるもの は本来は「鐘」と呼ばれる。そもそも楽器であったかは定かではない。 銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀においてである。和銅六年(713年) に大和国宇陀郡において見つかった銅鐸が献上されたと記されている。他の記録でも銅鐸の名称が見られ る。大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之高三尺口徑一尺其制異常音協律呂勅 所司蔵之大倭宇太郡波坂郷の人、大初位上村君東人、銅鐸を長岡野の地に得て献る。高さ三尺、口径一尺、 その制、常に異にして、音、律呂に協う。所司に勅して蔵めしめたまふ。12世紀の「扶桑略記」や14 世紀の「石山寺縁起」など以後の記録では「宝鐸」と呼ばれた。 これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。文化庁による平13年(2001年)3月末時点で の主な出土数は以下の通りである。 兵庫県  56点 島根県  54点 徳島県  42点 滋賀県  41点 和歌山県 41点 絵を描いた銅鐸は約13%である(1997年2月現在)。 大きさは12センチから1メートルを越すものまである。1世紀頃には高さが60センチに達し、その後 さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達する。しかし、その直 後鋳造が止んでいる。現存する最大のものは、滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸で、高 さ144センチ、重量45キログラムに達する。 近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられている。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだ すきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させている。その前は流水文であった。最古級の銅鐸は、 縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っている。また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっている 1式:菱環鈕式、りょうかんちゅうしき)。しかし、大阪府茨木市の東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕 の断面形は円形である。その2式:外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)、3式:扁平鈕式、4式:突 線鈕式と変遷する。その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わる。このように銅鐸は、紐の形態が変化 するとともに、銅鐸全体が大型化して、吊り下げて鳴らす楽器から、据えつける祭器に変化したことがわ かる。 紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されている。この文様は紀元1世紀 頃に衰退する。当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているもの(絵画 銅鐸)もある。銅鐸の絵画の意味は、「生きとし生けるもの、すべて己の生きんがためには、弱者の生を 奪うこともさけがたく、われら人もまた、鹿を狩り猪を追う生活に永い月日を送ってきたが、いま農耕の 業を教えられてより、年々の実りは豊かに倉に満ち、明日の食を憂うることもなきにいたった。いざ、わ が祖神の恩沢を讃えようではないか」と解釈し、農耕により弱肉強食の時代が終わったことを感謝する 「農耕賛歌説」が定説である。 見た目が鐸(持ち手付きの鐘)に見えるので楽器のように思うが、現在のところ用途は未だ定かではない。 出土状況や表面に遺された痕跡などから使用方法はある程度推測されている。銅鐸はその形状ゆえ、初期 の小型の物は鈕(ちゅう)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、 鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内 面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる(西洋の鐘と同じ)。 これは鈕の下部及び側面に紐で長期間吊るされたことによる「擦れ」と考えられる痕跡や、内面突帯に舌 が当たった為にできたと思われる凹みの形での損傷が確認される銅鐸があるためである。逆に梵鐘のよう な、胴体部の外面を叩くことでできたと考えられる痕跡のあるものは出土例がない。なお、銅鐸を「鳴ら す」段階にあってはこの内面突帯の摩滅を軽減するため、この内面突帯を2本に増やしたものが銅鐸の発 達と共に増えていく。 2015年に兵庫県南あわじ市で発見された「松帆銅鐸(紀元前4世紀〜前2世紀前半頃と推定)」は、 入れ子状になっていた2組(4個)をCTスキャンで調査した結果、その全てに「舌(ぜつ)」が残され ていた。兵庫県教育委員会が発表し、その後の調査で「舌」に残った紐の一部が実際に確認され、「鈕」 からは紐を巻きつけた事を示す繊維片や痕跡が見つかっている。弥生前期末〜中期初頭の銅鐸7個の全て に、舌とそれを吊るすためと思われる紐の存在が確認され、銅鐸は吊りさげて使用されていたと推測され るようになった。 1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的なものへの変化が見られることから、銅鐸の利用法が、 音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したとする説が支持を集 めている。これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれ(田中琢)、鈕・鰭外部に耳が付くこ とが多くなる。また、すでに鳴らすことを放棄した設計であるにも関わらず、長期間「鳴らす」銅鐸の 「延命」の工夫であるはずの内面突帯が増加(三重化)されたものもある。これは通常目に触れることの ない内面にまで装飾の手が伸びた、もしくは「鳴らす」ためとは別の目的があった可能性が考えられる。 埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十セ ンチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも2例ある)。 1、2個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も5、6例ある。あまり注目される事が無いが 頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。松帆銅鐸のように 海岸砂丘部に埋納されていたと推定される珍しい例もある。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほと んどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため (墳丘墓の周濠部からの出土は1例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったと されている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中しているように見えるが、銅鐸を埋納したこと の理由については諸説ある。

 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/230回例会・大和古墳群を歩く