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大阪本町・歴史倶楽部 第232回例会 京都市右京区大原野南春日町 淳和天皇陵を訪ねて  日時 : 平成30年9月30日(日曜日) 集合 : 阪急電車「東向日」駅 AM8:50      9時12分のバスに乗りますので、誰か遅れたら1時間待つ      ことになります。 行程 : 往路:阪急電車 梅田〜東向日 370円            阪急バス 阪急東向日〜南春日町 280円      復路:阪急バス 灰方〜阪急東向日 250円          阪急電車 東向日〜梅田 370円 南春日町から阪急東向日までは便数が1時間1〜2本と少ない。 バス停は日差しを遮るものもない。停留所を2つ歩き灰方バス 停まで行けば、灰方は一応屋根付き待合があり、1時間2〜3本 と比較的便数も多い。 持参品: 弁当、水筒、その他 服装 : 長袖が望ましい。夏場は過ぎたので少ないとは思いますが、      アブ、ブヨのたぐいが多いとありますので、虫除けもあれ      ばGOODかも。 その他周辺情報: 南春日町バス停あたりは特に商店・コンビニはなし。自動販売機が何 個かある。東向日までバスで帰ると飲食店などがある。道が少し険し いが特に危険個所はなし。こちらの山域もクマの目撃情報があり。 アブなどかなり虫が多い。虫よけグッズを持っていく方が良い。
NETの中に御陵訪問記が幾つかあり、無難そうなのを選びました。以下 の通りに登ることにします。 小塩山(おしおやま)は、京都市西方の西山山地に位置する山である。 当山の東のふもとには勝持寺(花の寺)、大原野神社、洛西ニュータ ウンがあり、このニュータウンからはこの山の山容をはっきりと見る 事ができる。また京都市中心部の眺望が良い所や清水寺からも西方の 遠くにこの山を見る事ができる。 山のふもとから山頂まで舗装道である京都府道141号小塩山大原野線 が通っている。以前は一般車も通行が可能だったが、現在は一般車両 通行禁止(徒歩では通行可能)となっている。 山頂は淳和天皇の遺灰を散骨した場所とされ、大原野西嶺上陵(淳和 天皇陵)がある。また山頂付近には在京都FM局の送信所が置かれ、府 南部の広範囲に電波を発射している。他にもNTT、関西電力、大阪ガス、 国土交通省、消防、警察等の無線中継局があり、多くの中継アンテナ が建っている。 【第53代 淳和(じゅんな)天皇】 別名: 大伴(おおとも)、西院帝、     日本根子天高譲弥遠尊(やまとねこあめたかゆずるいやとお) 生没年:延暦5年(786) 〜 承和7年(840)(55歳) 在位: 弘仁14年(823)〜 天長10年(833) 父:  桓武天皇 第三子 母:  藤原旅(たび)子(藤原百川の娘) 皇后:  正子(まさこ)内親王、高志内親王 皇妃: 緒継女王、永原氏、橘氏子、大中臣安子、大野鷹子、橘船子、 丹波池子、清原春子 皇子女:恒世親王、恒貞親王、基貞親王、恒統親王、良貞親王、氏子内 親王、有子内親王、貞子内親王、寛子内親王、崇子内親王、同 子内親王、明子内親王、忠子 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 陵:  大原野西嶺上陵(おおはらのにしのみねえのみささぎ:京都府 京都市右京区大原野南春日町) 桓武天皇の第三皇子で、平城、嵯峨天皇の異母弟。名は大伴、母は藤原 百川の娘旅子である。兵部卿、中務卿を経て、大同5年(810)の「薬子 (くすこ)の乱」後、兄の嵯峨天皇によって皇太子に立てられ、弘仁 14年(823)譲位を受けて即位した。 嵯峨上皇が健在で睨みを利かしていたため、治世中は血なまぐさい事件 もなく安定した御代だったと言われている。 後院(上皇の御所)とした淳和院を、西院とも称したので西院帝とも言う。 上総・常陸・上野を親王任国に定める一方、「経国集」「新撰格式」 「秘府略」「令義解」を撰上させた。 皇后の正子内親王にとってこの帝は叔父にあたる(父嵯峨帝の弟)が、 贈皇后の高志(こし)内親王と帝は、父(桓武天皇)を同じくする異母 兄妹であり、平城天皇、嵯峨天皇の実の妹である。 皇太子には嵯峨上 皇の第二皇子、正良親王(仁明天皇)を立て、天長10年(833)、在位 10年で正良親王に譲位した。在位中、「日本後紀」の編纂、「令義解」 の作成などを行う。承和7年(840:平安時代)に55歳で死去し、5月 13日に「山城国乙訓郡物集女村」で淳和天皇の火葬が行われたと『 本紀略』にある。 淳和天皇は、承和7年(840)に淳和院(京都市右京区西院、現春日大社 内)において崩じ、山城国乙訓郡物集女村において火葬され、遺詔にし たがって骨は砕かれ「大原野西嶺上」(現在の小塩山)にばらまかれた。 遺詔とは言え、この薄葬のやりかたは尋常ではない。骨を砕き、その上、 山中にばらまく。なんという。仮にも天皇である。 大化2年(646)に出された詔(大化の薄葬令)は、確かに天皇ばかりで はなく諸豪族に対しても、葬式にかける費用と膨大な労力を削減しようと 言うものであったが、墓を作るなとは言っていない。質素にしろと言って いるだけである。 天皇で最初に荼毘に付された持統天皇(在位690〜697年)も薄葬思想を ひろげているが、持統天皇は、自分の葬儀に対して、「政務 はいつも どおり行って、喪葬のことはつとめて倹約し、簡素でいい。」と言い している。持統天皇は民の窮状を憂い、薄葬令を具体化したと言われてい るが、骨を砕いてばらまけとまではさすがに言っていない。 淳和天皇は死に臨んで、こまごまと葬送や追福の倹約を指示し、「骨を砕 き粉と為し之を山中に散らせ」という遺言をのこして去るのである。 近臣は遺言通りに、火葬後、直ちに遺骨を粉砕し、西嶺上山中に散骨した。 この衝撃的な葬送のやりかたを見て、その後、嵯峨、仁明、文徳、清和と 薄葬が定着していくことになる。また、一説によれば帝は、自分が死後鬼 と化さぬよう、骨を砕き粉々にして山中に撒くよう遺言したとも言う。 現在、宮内庁が治定する「大原野西嶺上御陵」は、標高642mの小塩山 の山頂にある。長径52m、短径39mの楕円形の墳丘で、これは幕末か ら明治にかけて修造された姿である。もとは、丸く小石を積み重ねられた 塚がいくつか並んでいただけで、「経塚原」1「経塚」「清塚」かと呼ば れていたようだ。単なる経塚であったと考えるのが妥当のようであるが、 この辺り一帯の、小塩山周辺に散骨されたのは事実なのだろう。 京都・洛西に位置する大原野(おおはらの)は、京都市街地から西へ離れ た地にあり、洛西ニュータウンの更に西側にあり、標高642mの小塩山 (おじおやま)がその背後に聳えている。淳和天皇陵はこの山頂にある。 山裾にはのどかな田畑が広がり、京都山城地方では古くから開けたところ でもある。美しい竹林が風に揺れ、紅葉の季節には錦綾なす山々のそこか しこに古刹・名刹が散在する美しい山里で、桓武天皇の784年長岡京遷 都の際にも しばしばこの地に足を運んで狩りを楽しんだといわれる。 京都市右京四条二坊十一町から十四町までの四町は、淳和天皇の離宮であ る淳和院(西院)だった。淳和院は淳和天皇が皇太弟時代から使っていた 宮で、最初は南池院と呼ばれていた。天皇は天長10年(833)に譲位した 後この南池院を淳和院と改称し、後院(上皇の御所)と定めた。承和7年 (840)に上皇は淳和院において崩御し、その後は太皇太后正子内親王が 御所とした。1993年、十三町の西南部で行われた発掘調査で、淳和院の一 部と見られる掘立柱建物群(9世紀)が検出され、また淳和天皇の離宮 「雲林院」跡も、2000年発掘され話題を呼んだ(以下)。 離宮「雲林院」遺構が出土 平安期の淳和天皇 「釣台」跡も見つかる −Yomiuri shinbun 2000/09/15− 桓武天皇の第三皇子で勅撰(せん)漢詩文集「経国集」などを編さんさせた 淳和天皇(786−840)の離宮「雲林院(紫」とみられる遺構が、京都市北 紫野雲林院町の同院推定地で見つかり、十四日、京都文化博物館が発表した。 池の跡や、池に一部せり出した「釣台」の跡とみられる柱跡も出土。当時 史書「類聚国史」に淳和天皇が釣台で漢詩を読んだり、遊魚を観覧したりし た優雅な宴を開いた記述があり、これを裏付ける発見となった。 マンション建設にともない、五月から、平安宮の大内裏の真北の方角の推定 地千五百平方メートルを発掘。調査地北側の約八百平方メートルから直径 三十メートル、深さ約五十センチの池跡や、直径約一・三メートル、深さ 約七十センチ―一メートルの柱跡八か所が見つかった。 柱跡は外側(柱間東西八・四メートル、南北六・五メートル)と内側(同四 ・二メートル、南北三・二メートル)の二重四角になっており、外側の南東 角の柱跡は池の中に掘られるかたちで、池の上に張り出した釣台跡らしい。 周辺から瓦(かわら)も出ており、釣台には屋根があったとみられる。 菅原道真(八四五―九〇三)が編さんした史書「類聚国史」には、淳和天 がしばしば紫野院(雲林院の前身)を訪ねたことが記され、「八三〇年四 十二日には鴨川でみそぎをした後、紫野院の釣台に行き、遊魚を観覧され、 八三二年四月十一日には釣台で陪従の文人に漢詩を読ませる宴を開いた」 (大意)などと書かれている。 ----------------------------------------------- (C) 2000 The Yomiuri Shimbun Osaka *キリンビール京都工場(向日町)は既に移転、サントリー京都ビール工場 は、9月30日、全コース予約満杯で見学不可。従って、どこかで適当に反省会 とします。 また淳和天皇陵以外にも、この地区には名刹等々がありますので、時間を見 てぶらぶら歩きましょう。では30日に。出欠をお早めに。
 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第232回例会・淳和天皇陵を訪ねて