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大阪本町・歴史倶楽部 第232回例会 「新潟・縄文の旅ツアー」 第三日目 

        






           


上越妙高駅にて解散。河原さんともここでお別れだ。またどっかの旅でご一緒しましょ う。お疲れ様でした。



大隈君、橋爪君は今回の「縄文の旅」をどう感じただろう。多少は日本人の原点に想い 馳せてくれただろうか。そうなら嬉しいものだが。

吹田市JR岸部駅とうちゃこ。皆様お疲れ様でした。 縄文の旅、が終了。西日本にも勿論縄文遺跡は存在するし、縄文人が西日本一帯を闊歩 していたのは間違いないのだが、何といっても「縄文時代」と言えば「北」というimage が強い。特に今回嫌と言うほど見せられた夥しい火焔型土器は、新潟県が発祥の地であ る。見るたびに、どうしてこんなものをと思わざるを得ない。その形態からして炎から 発想したのは確実だろう。食料確保以外に仕事らしい仕事もなく、暇に任せて炎に似せ て器を加工していったのだろう。火焔型土器はただ飾っておくだけに作ったのではない。 器として利用していたのは、見てきたように焼けこげの付いた火焔型土器の存在が証明 している。持ちにくいと思える土器の突起も、意外と取っ手として利用し安かったのか もしれない。 長者が原遺跡のヒスイは、殆ど日本全国に流通している。丸木舟(か準構造船)による 海洋の航行にも驚くが、縄文人たちの日本中を移動した痕跡には驚嘆する。糸魚川から 北海道や近畿地方にも来ている。果ては朝鮮半島にも渡っているのだ。縄文人たちの冒 険心と未知の土地への憧れがなせる業かもしれない。また、縄文人たちは行く土地行く 土地で争った痕跡は全くと言っていいほど無いのだ。イネを蓄えるようになって高床式 倉庫に貯蔵するようになり、隣のムラとの争いに深い環濠を掘らねばならなかった弥生 時代と比べると、争いは殆どなかったと言ってもよい。まさしく牧歌的な生活を送って いたように見える。勿論脅威はあっただろう。35歳という縄文人の平均年齢が示すよう に、病気や飢餓は絶えず縄文人たちを苦しめたことだろう。 最近のDNAの研究により、縄文人たちのルーツが次第に解明されつつある。それによ れば、アフリカ発祥の人類がアジアに到達したとき、中国人や朝鮮人、東南アジア人に 分派するのと同時期に縄文人も枝分かれしている。つまり、縄文人は中国人や朝鮮人、 東南アジア人から発達したものでは無いのである。並行的に分かれてシベリアなど北へ 向かい、そこから日本列島へ向かってきたのである。現日本人のDNAの中に、世界中 でヒマラヤの麓と、インドネシアのフローレンス島の一部の人たちにしかないDNAが 発見されている。縄文人はおそらくその地を経由してきたのである。では、そもそもの 縄文人たちの発祥地はどこなのかというのはまだ解明されていない。 私見だが、我々現日本人はこの縄文人と、弥生時代初期に中国大陸や朝鮮半島から渡っ てきた民族が融合して出来上がったものだと思う。そして気質的にも精神的にも、中国 人や朝鮮人と大きく違う何かを我々が持っているように思えるのは、おそらくこの縄文 人の血脈ではないかと考える。嘘をつかない、他人を思いやる、相互に助け合う、こう いう明治初期までの日本人誰もが持っていたような性質は、1万年という長い期間を通 じて縄文人たちが培ってきたものに違いない。 「縄文時代は決して停滞した社会ではなく、非常に動きがあり、活力にあふれた社会だ った。換言すれば、縄文人たちは日々、異質なものや異なる地域の人々に接していた。 縄文社会は異質な人、モノを融合させることで成立していたのである。縄文時代のこの 伝統は、弥生期になっても生きていた。だからこそ異質な弥生人との間に大きな闘争は 起こらなかった。」「見方を変えれば縄文時代が弥生時代を取り込んだともいえよう。」 (元国立民族学博物館教授 元大阪府吹田市立博物館館長 小山修三氏) (*)蛇足ながら付け加えると、昨今アイヌが北海道の先住民であるという説が流布し    ているが、これはとんでもない流言飛語である。アイヌは北海道に元々いた縄文    人と、カムチャッカなど、北からやってきたオホーツク人たちが融合してできた    民族であり、アイヌとしての発祥は12、3世紀である。アイヌ民族を先住民と    言い出したのは政治的に左翼思想を持った昭和初期の政治家たちであり、アイヌ    を保護する法律まで国会で成立させてしまった。歴史学はよく政治に利用され、    それは今日にまで続いているが、歴史を曲げてまで政治的な主張を通すことの意    図は一体何であろうか。誤った歴史を自国民に教え、国や国民をあらぬ方向へ導    こうとするのは今でも世界中の国々で行われているが、我々はこういう勢力とは    断固袂を分かたねばならない。それを行えるのは、自ら歴史を学ぶしかないのだ。
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