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第110回例会 出雲王国の痕跡を探して
青谷上寺地遺跡
2006年6月24日(土)



		 鳥取市から青谷町の「青谷上寺地遺跡」を訪ねる途中の白兎海岸に「白兎神社」がある。


		 <白兎(はくと)神社>
		 鳥取県東部はその昔因幡と呼ばれていた。ここには「因幡の白兎」の話がある。この話そのものは古事記にその
		 出典を求めることができるが、その兎を祀る神社としてここに白兎神社があり、その前の海岸は白兎海岸という
		 名前が付いている。そもそもの神社の起源は不明だが、戦国時代の武将の亀井氏が復興したとされる。再建前は
		 長らくその社地すら不明の状態であった。しかし亀井氏が再興したこの神社の社地も、果たしてそこに古代の基
		 壇跡が残っているような確とした場所であったかどうかも不明である。
		 現在の白兎神社社殿の六つの基壇礎石に、二十八弁の菊花紋が使われているのは、亀井氏が古事記の故事に基づ
		 き皇室との深い関連性を造作したものとも考えられる。現在皇室では十六弁の菊御紋が使用されている。現在の
		 社殿は明治29年(1896)に再建されたもの。








		 ♪ 大きな袋を肩にかけぇ〜、大国さまが来かかるとぉ〜、そぉ〜こにいなばの白うさぎぃ〜、かぁ〜わをはが
		 れて赤裸ぁ〜♪

		 この神社は、大国主命に助けられた白うさぎ(=豊玉姫命)が祭神で、故事により皮膚病、やけどなどにきく神
		 社として知られていて、近くに兎が体を洗ったと言う「御身洗池」や、くるまって身を包んだというガマの穂な
		 ども見られる。古事記の中では、大国主は兎に「水門(みなと=河口)に行って身体を洗いなさい」と教えてい
		 る。兎は海水と真水が入り混じる河口で身体を洗い、そしてガマの穂黄(花粉)にくるまり、身体を治した。
		 この話は、古事記が、河と海とが出会う非常に重要な場所、「汽水域=水門・みなと」が命を再生するために重
		 要な場所だということを知っていたのだという説もある。



		 周囲には常緑のタブ、シイ、カクレミノなどがうっそうと茂っている。日本海沿岸の原始林の特徴を残すものと
		 して、樹叢は国の天然記念物に指定されている。

 






		 兎がサメに皮をむかれた上に八十神にだまされて塩水につかったため、痛みに苦しんでいるところを、大国主命
		 に教えてもらって体を洗ったという真水の池(御身洗池)。


白兎神社本殿。










		 <青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)>

		 青谷上寺地遺跡は、鳥取市と倉吉市のほぼ中間、鳥取県青谷町(あおやちょう)にあり、JR山陰線「青谷駅」
		 から南に300mのところである。1kmほど北へいけばもう日本海だ。この空中写真を見ると、丁度建設される
		 道路と交差するように遺跡が発掘されている。低湿な土壌に埋没していた関係で、有機質のものが良好な状
		 態で残っており、当時の生活道具が多く伝えられているところから「弥生の地下博物館」という声もある。
		 この遺跡は「山陰横断自動車道」の建設地にからんで発見され、1998年から発掘調査が行われている。弥生
		 時代の中期から後期のおびただしい数の人骨のほか大量の農具や漁具なども出土しているが、何と言っても
		 耳目を集めたのは「弥生人の脳」である。今後のDNA鑑定などが期待されたが、結局DNA鑑定はできなかった。
		 (青谷町は、平成16年11月の市町村合併によって鳥取市に編入された。よって鳥取市青谷町となった。)

		 

		 新聞記事は「弥生人の脳」に関して大々的に取り上げているが、勿論この遺跡からは他の遺物も出土してい
		 る。典型的な弥生時代の出土物(土器や木工製品など)の他にも特筆すべき点がいくつかある。報告では、
		 集落の廻りに幾つかの溝があり、溝は矢板列を伴うもので一部に通路かと考えられる区画がもうけられてお
		 り、その周辺からト骨、鳥形木製品などの祭祀に関連した遺物が多く出土している。また、鉄製品、青銅製
		 品、木製品、骨角製品なども出土しているし、微高地の東側区画の調査では、やはり溝の肩から矢板列が確
		 認されていて、溝の中から大量の人骨・建築部材が出土した。
		 なかでも注目されるのはおびただしい人骨で、弥生時代後期(2世紀頃)の人骨約5200点、少なくとも90
		 数体分が出土した。遺跡では人骨がバラバラに散乱していた。出土した人骨には殺傷痕のあるものも多く、
		 殺傷痕は性別、年齢を問わず、胸骨、背骨など人体の前後も問わずに残っているという。また、この弥生人
		 達は、遺物や骨の形などから判断して、渡来系の可能性が高いと考えられている。この事から「何らかの大
		 量殺人の跡ではないか」とか、「特殊な儀礼が行われたのか」、「攻めてきた渡来人たちの死体をここに埋
		 めたのではないか」という意見もある。
		 青谷上寺地遺跡は湿地帯で酸性土壌と異なり、水分が多かったのと粘土質で空気が遮断されて真空パック状
		 態だったため、数多くの遺物が良好に保存されてきたが、極め付きが3体の頭がい骨から見つかった今回の
		 脳である。脳を発見した鳥取大医学部、井上貴央教授によれば、この遺跡の泥にも脳の保存に役立った秘密
		 が隠されているかもしれないとのことである。

		 この遺跡の詳細はこちら。







		 遺跡には(まだ?)説明版も立っていないそうなので、遺跡訪問は断念した。しかし前回は無かった資料館
		 ができていたので、ここを見てこの偉大な弥生遺跡を偲ぶことにする。







資料館の周りには写真と解説文のパネルがあって、遺跡の概要が理解できる。




		 遺跡は青谷平野のほぼ中央に位置し、現在はJR青谷駅南側の住宅・工場地や水田の地下に埋まっている。
		 直線距離で1キロ北には日本海が広がる。この遺跡の発見は、「青谷・羽合道路」の建設に先立って行われ
		 た、平成3年度の分布調査で数点の土器が拾われたことに始まる。その後、平成8〜9年度の試掘調査によ
		 って主として弥生時代を中心とした大規模な遺跡であることが確認され、平成10〜13年度にかけて、財
		 団法人鳥取県教育文化財団が記録保存のための発掘調査を行なった。平成13年度からは鳥取県が主体とな
		 って、学術調査出土品の調査研究を行った。その結果、青谷上寺地遺跡は弥生時代前期末(紀元前2世紀頃)
		 から古墳時代前期初め(3世紀終り頃)にかけて存在した大規模集落跡であることが確認された。弥生時代
		 中期後葉(紀元0年頃)になって、大規模な護岸施設が作られたり、出土品の量も増えることから、この時
		 期に集落の大膨張があったと考えられる。しかしこれまで調査された範囲内では、住居跡や墓が見つかって
		 おらず、遺跡の全体像については不明な点も残されている。出土品は数万点にのぼり、奇跡的に残った「弥
		 生人の脳」や高い技術を示す木製容器、海外からもたらされた鉄器などのほか、戦いによって傷ついたと考
		 えられる「殺傷痕人骨」も注目されている。山陰地方の弥生時代の様子を考える上で貴重な遺跡である。




		 青谷上寺地遺跡の弥生時代の出土品は膨大で、それらはモノ作り、交流、祭祀など、弥生人の生活全般に使
		 われた道具だけでなく、戦いにより傷ついた人骨や病気の痕跡を残す人骨など、当時の社会状況も垣間見せ
		 てくれる。しかも水分の多い地中に埋もれていたため、保存状態が極めて良好で、木製品や金属製品、骨角
		 製品といった通常の遺跡では腐ってなくなってしまうものまで残っていた。そのため青谷上寺地遺跡は「地
		 下の弥生博物館」と呼ばれている。










		 遺跡中心部を区画する大きな溝の中から人骨が散乱状態で出土した様子。点数にして約5300点、100体
		 以上の人骨がまとまって埋もれていた。埋葬状態の人骨も見つかっている。熟年男性で変形性脊椎症を患って
		 いたことが分かった。

 











農具の数々。田を耕す鍬や鋤、稲穂を刈り取る穂摘み具、藁打ちの槌など。






		 青谷上寺地遺跡の出土品には、道具の材料や作りかけ、モノ作りのための工具が多く見られる。ここで様々な
		 道具を作っていたことが分かる。木器の例では、細かな浮き彫りを施したり、漆で文様を描いたり、まさに匠
		 の技を見ることができる。こうしたものを見ると、材料を選択し計画的にモノ作りをしていることが分かる。
		 材料は遺跡周辺で手に入るものばかりでなく、遠隔地からもたらされたものも多く、適した材料を入手するネ
		 ットワークが存在したことが想像できる。








		 青谷上寺地遺跡を特徴づける出土品として、古代中国や朝鮮半島製の金属器や、西日本を中心とした国内各地
		 の土器など、他地域との交流を示す遺物がある。これらは人の動きに伴ってもたらされたと考えられる。人の
		 移動はモノだけでなく、伴って技術やさまざまな情報も一緒に動くこととなる。遺跡周辺にはかつて入り海が
		 広がっていたと考えられており、海を介した交易が行われていたのであろう。青谷上寺地遺跡では農業や漁業
		 を行っていたことも分かっており、海を介した交易という特定の機能とともに、日常的な生活も併せもった集
		 落遺跡であると考えられ、「交易拠点としての港湾集落」と位置付けられている。この遺跡をそう位置付ける
		 根拠のひとつとして、前記他地域との交流を示す遺物の存在があげられる。弥生時代の土器は時期と地域によ
		 って形や作り方が違うので、地元のものかそうでないかを見分けるのは比較的簡単で、また当時の技術力の差
		 から、古代中国や朝鮮半島製の鉄器と見分けることができるものもある。こうした出土品が青谷上寺地遺跡に
		 は数多く見られるのである。石器材料の一部には、中国山地の分水嶺を越えて運び込まれたものがある。
		 これは陸路によるものだろうが、青谷上寺地遺跡に持ち込まれた大部分のモノは海を介して持ち込まれたと思
		 われる。ここで見つかった丸木舟や櫂は漁労活動だけでなく、物資の運搬にも使われたと考えられ、板に描か
		 れた船団の姿は、当時の情景を写したであろう。







 





青谷上寺地遺跡で見つかった水田の跡(上左)。白線を引いた部分が畦。




		 シカの角などで作られた銛先。大型のものは海獣を対象にしたのかもしれない。青谷上寺地遺跡の出土品には、
		 田を開墾するための鋤や鍬、稲穂を摘み取る石庖丁、狩猟用の鏃、魚を捕らえる銛や釣り針、タモなど、日々
		 の糧を得るための道具が多い。また炭化した米や、シカ、イノシシなどの獣、鳥類、魚類の骨も多く発見され
		 ている。

 

 

鏃や剣と考えられる石製の武器類。割れ口の鋭いガラス質の石を使っている。

     

 



眉間に何かが刺さった痕跡を持つ頭蓋骨。



青銅製の鏃が刺さった骨盤や肩甲骨もある。一部の人骨には斬りつけられた痕も見られる。


		 青谷上寺地遺跡からは100体を超える人骨が散乱状態で見つかっている。中には多数の損傷した人骨が見られ、
		 これは一体何を物語っているのだろうか? 一緒に出土した土器から弥生時代後期後半、西暦2世紀代のものと
		 考えられ、魏志倭人伝にいう「倭国大乱」の時代である。人骨自体は掘り起こされた可能性があるそうなのので、
		 散乱状態という特異な出土状況と、損傷があることは直接の関係はないのかもしれない。
		 武器と考えられる出土品でも、鏃は狩猟用なのか武器なのか区別しにくいし、盾も薄いので本当に実用品かどう
		 か不明なことが多い。
		 大量の弥生人骨にはどのような意義があるのだろうか。全国で見つかっている弥生人骨のほとんどは弥生時代前
		 期から中期のもので、青谷上寺地遺跡で弥生時代後期の人骨が大量に出土したことは、日本人の形質がどのよう
		 に形成されたかを知る上で大きな意味を持っている。また脊椎カリエスなどの病気の痕跡を残す人骨も見つかっ
		 ており、弥生人を取り巻く環境を知る手掛かりとなっている。



脊椎カリエス症によってほとんど直角に曲がってしまった背骨。国内最古例。
(提供:鳥取大学医学部機能形態統御学講座形態解析学分野)



 

弥生人の脳。青谷上寺地遺跡からは3体分の脳が見つかっている。

 

 

 









花びらのような浮き彫りと細かな透かしを入れた高杯。

 

 

 

 




		 古代中国で作られた鋳造鉄斧とその破片(上左)。破片には刃を付けて加工具に再加工したものが見られる。
		 こうした舶載鉄器の再利用は国内における初期鉄器の普及のあり方を示している。

 

 









 

 









弥生人の身を飾った櫛やカンザシ、腕輪など(左上部)。櫛には水が流れるような文様が刻まれている。



 

 

水分の多い土に埋もれていたおかげで、多くの木製品が腐らずに残っていた。多彩な出土品である。











 






		 卜骨。シカやイノシシの肩甲骨を点状に焼いて、ヒビの入り具合などで占ったと考えられている。魏志倭人伝に
		 も倭人の風俗として紹介されている。



 







		 な、なんと、我々が見学しているとそこへ皇太子と雅子さんが、って、なわけないか。これは館内にあった写真。
		 皇太子も考古学に興味があるのかな。


		 この遺跡から西へ100kmほど行った所に、鳥取県を代表する弥生時代の集落遺跡である「妻木晩田遺跡」が
		 ある。ここでは多くの住居や倉庫の跡が発見されているが、青谷上寺地遺跡では無数の柱穴は確認されているが、
		 今のところ住居跡は未発見である。そのわりに建物部材は大量に見つかっていて、護岸材に転用されたり、溝の
		 中に廃棄された状態で見つかっているが、建物の構造がわかるような出土状況ではないので、青谷上寺地遺跡に
		 建ち並んでいた建物の姿を復元するのは容易ではない。
		 妻木晩田遺跡の現地整備には青谷上寺地遺跡出土の建築部材を参考にした建物復元も取り入れられている。鳥取
		 県が全国に誇るこのふたつの遺跡により、弥生時代の建物の実態が明らかになることが期待される。 
		 (ここでの解説は、鳥取県教育委員会の「青谷上寺地遺跡」のHPを参照した。記して謝意を表す。)



邪馬台国大研究 /歴史倶楽部/ 再び山陰へ