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第110回例会 出雲王国の痕跡を探して
妻木晩田遺跡
2006年6月24日(土)



		 妻木晩田遺跡(むきばんだいせき) 鳥取県西伯郡大山町・淀江町。山の麓に甦った弥生時代の邑。
 
		 妻木晩田遺跡は中国地方の最高峰・大山の麓に広がった弥生時代の邑である。遺跡は、鳥取県西伯郡大山町と
		 淀江町にまたがる晩田山丘陵全域におよび、弥生時代に大山山麓に存在したであろうクニの中心的な大集落で
		 あったと考えられている。晩田山丘陵は、谷で区画される6つの丘陵で構成されている。妻木山地区、妻木新
		 山地区、仙谷地区、洞ノ原地区、松尾頭地区、松尾城地区である。松尾頭地区を含む丘陵は道路で分断されて
		 いるが、本来は一続きの丘陵だった。これまで、この道路を挟んで東側を「松尾頭地区」、西側を「小真石清
		 水地区」と別の名前をつけていたが、平成14年度より統一して「松尾頭地区」と呼ばれている。私が現地説
		 明会に参加したときは、資料にも7地区と載っていた。

		 @、仙谷墳墓群(せんたにふんぼぐん)
		 A、妻木新山(むきにいやま)地区  
		 B、洞ノ原(どうのはら)地区  
		 C、妻木山(むきやま)地区  
		 D、松尾頭(まつおがしら)地区 
		 E、松尾城(まつおじょう)地区

		 

		 

		 この遺跡発見時の、現地説明会の模様はこちら。





		 現在、遺跡整備を行っている洞ノ原地区と、妻木山地区の一部が公開されている。発掘調査は平成7年から
		 10年に渡って行われ、部分的な発掘調査の結果からだけでも我が国最大の弥生遺跡、いや縄文・弥生時代を
		 通じても最大の規模を持った遺跡である事が判明した。妻木晩田遺跡は1世紀から3世紀(弥生時代後期)に
		 かけてのムラの跡(高地性集落跡)である。今までの発掘調査で竪穴住居384軒、掘建柱建物(平屋)502
		 軒の合計886軒の建物跡が発見され、全国最大の弥生集落が出現した。




		 遺跡は現在、全体のおよそ2割足らずが発掘調査されているに過ぎない。調査の結果、弥生時代中期末(西暦
		 1世紀前半)から古墳時代前期(3世紀前半)にかけての、竪穴住居跡400棟以上、掘立柱建物跡500棟
		 以上、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基や、環壕など、山陰地方の弥生時代像に見
		 直しをせまる貴重な資料が多く発見された。




		 妻木晩田遺跡に人々が住みはじめたのは、弥生時代中期末頃(西暦1世紀前半)だと考えられ、弥生時代後期
		 初頭(1世紀中頃)になると、洞ノ原西側丘陵に環壕が掘られ、洞ノ原東側丘陵に四隅突出型墳丘墓がつくら
		 れる。このとき、妻木晩田遺跡に住んだ人々は、ここから東に700mほど離れた妻木新山地区、妻木山地区、
		 松尾頭地区に住居を構えた。その後、ムラの人口が増えるにつれて住居の範囲は広がっていき、妻木晩田遺跡
		 が最盛期を迎える弥生時代後期後葉(2世紀後半)には、住居の範囲が晩田山丘陵全体に広がる。この時期を
		 境に妻木晩田のムラは衰退の道をたどり、古墳時代の初め頃にはほとんどの住民がここからいなくなった。



 





 

 





 













 

 











 























 

 

 













 






		 <妻木山地区>
		 妻木山地区では、紀元前後から約300年の間に造られた竪穴住居跡156棟、高床倉庫とみられる掘立柱建物
		 跡など217棟が見つかっている。妻木晩田遺跡全体でみつかっている建物跡の約3分の1にあたることから、
		 この遺跡が最盛期だった時代の生活の中心的な場所であったと考えられる。現在、この場所では、覆屋で保存さ
		 れた3棟の竪穴住居跡が見学できる。












		 木立の間から、仙谷地区の四隅突出型墳丘墓が見える。今回見学できなかった他地区の遺跡概要は以下の通り。


		 <仙谷地区>
		 大きな谷を挟み、洞ノ原地区の北側にある丘陵の先端部が仙谷地区である。ここでは、四隅突出型墳丘墓2基を
		 含む7基の墳墓からなる仙谷墳墓群が見つかっている。仙谷墳墓群は洞ノ原東側丘陵で洞ノ原墳墓群の築造が終
		 わる弥生時代後期前葉(2世紀前葉)〜後期中葉(2世紀中葉)に造営された墳墓群で、貼り石をもつ方形の墳
		 丘墓である仙谷3号墓からは、20基の埋葬施設が見つかっている。


		 <妻木新山地区>
		 妻木新山地区では、紀元前後から約300年の間につくられた竪穴住居跡88棟、高床倉庫とみられる掘立柱建
		 物跡などが152棟が見つかっており、妻木山地区に次ぐ居住域とみられる。80棟以上の掘立柱建物跡が密集
		 する一画があることから、倉庫群が形成されていたとも考えられている。また土器を焼くのに用いた穴が見つか
		 っていることから、土器などの生産に関わる施設もあったことがわかっている。


		 <松尾頭地区>
		 松尾頭地区では、妻木晩田遺跡でもっとも古い弥生時代中期後葉(紀元前1世紀後半)の竪穴住居跡が見つかっ
		 ている。また、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える弥生時代後期中葉〜後葉(2世紀後半)には、祭殿とみられる両
		 側に庇の付いた大型建物跡や、中国製の青銅鏡の破片が出土した大型の竪穴住居が造られる。大型の竪穴住居跡
		 は住居の規模、貴重な鏡の存在から妻木晩田遺跡の支配者層の住まいともいわれている。弥生時代の終わり頃
		 (3世紀前半)につくられた墳丘墓も見つかっている。また松尾頭地区では、ムラの祭殿だったと思われる掘立
		 柱建物も見つかっている。建物の両側の長辺に庇が付く「特別仕様」の建物である。庇部分を除いた建物本体部
		 分の規模は、長辺で6.8m、短辺で3.4mである。


		 <松尾城地区>
		 松尾城地区は、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える頃から竪穴住居跡などが造られ始めた。集落の発展に伴う居住域
		 の拡大が窺われる地区である。また、この地区でも弥生時代後期後葉(2世紀後半)の竪穴住居跡から青銅鏡の
		 紐の破片が出土している。





ずいぶんきれいに整備されたもんだ。こりゃ遺跡も数年後ごとに来なけりゃいかんな。






		 <洞ノ原地区>

		 洞ノ原地区では、山陰地方によく見られる「四隅突出型墳丘墓」の最も古い型が、国内で最も多く発見された。
		 大きさから子供用と見られるものもあり、ムラ長(おさ)たちの墓と推定される。ムラは弥生時代中期の終わり
		 頃から営まれ、後期後半に最盛期を迎える。
		 古墳時代前期になると、人々はこの丘陵を下り平野で暮らしはじめる。「魏志」によれば、この遺跡の最盛期の
		 頃は、日本は 100余のクニに分かれ「大いに乱れ」ていた時代である。各地に高地性集落が出来、西日本を中心
		 に内乱を繰り返していたと推測される。妻木晩田遺跡は、その規模から見て1つのクニの中心ではないかと考え
		 られるが、現在の所クニの中心地は九州北部に数カ所確認されているのみで、中国・山陰地方ではまだ確認され
		 ていない。もしこの遺跡がそれらのクニの一つであったとしたら、古代史はまたまた大きく塗り替えられる事に
		 なるだろう。







 





 



 



 


		 (洞ノ原墳墓群)

		 洞ノ原東側丘陵(標高約110m)には、弥生時代後期初頭(1世紀)から後期中葉(2世紀前葉)にかけて造
		 営された25基の墳墓が発見された。このうち山陰地方特有の四隅突出型墳丘墓とわかるものは11基確認され
		 ている。この墳墓群で、もっとも古いのは、四隅の突出しない2号墓で、この2号墓を取り巻くように大小の墳
		 丘墓が円形に列んでいる。この中には1辺が1〜2mという超小型の四隅突出型墳丘墓も含まれている。妻木晩
		 田遺跡の中でも、最も美しい景観に恵まれたこの場所は、前半期の妻木晩田遺跡を支えた王族の墓地であったと
		 考えられる。平成12年から行われていた復元整備が完了し、25基の墳墓のうち7・8・18号は、表面に特
		 殊な保存処理を施し、実物が露出展示されている。残りの墳墓は盛り土をしたうえで、1〜6・11号墓の7基
		 については、墳墓の貼り石が復元されている。また土屋根竪穴住居、骨格復元竪穴住居、掘立柱建物なども見学
		 できる。





 



 

 





 











 




		 南北に横切る小さな谷を境に、東西二つの丘陵に分かれる洞ノ原地区では、妻木晩田遺跡出現期の特徴的な遺構
		 が見つかっている。また、美しい弓ヶ浜半島、日本海、遠く隠岐島を望む洞ノ原地区からの眺めは、古代人たち
		 の眺めた夕日が今日も変わりなく続いている事を教えてくれる。洞ノ原地区西側丘陵(標高約90m)の頂部に
		 は、頂部を円形に取り囲んで環濠が作られていた。妻木晩田遺跡でムラづくりが始まった弥生時代後期初頭(1
		 世紀中頃)に掘られたと考えられている。各地で見つかっている環壕の殆どは、敵の攻撃からムラを守るために
		 造られたとみられるが、妻木晩田遺跡では、倭国乱れる時代、この遺跡が最も最盛期を迎える弥生時代後期後半
		 (2世紀後半)には、環壕が完全に埋没していたことがわかっている。ここでは環濠は、もっと昔から敵を防い
		 でいたのかもしれない。
 




		 この環濠の深さはほんとに防御用だろう。して見ると、青谷上寺地遺跡の人骨といい、この辺りは弥生時代には
		 戦闘社会だったのかもしれない。



妻木晩田遺跡に復元された高床倉庫。青谷上寺地遺跡の建築材を参考にしている。





 










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		 誰かが仲居のおばちゃんに、「もっと若い仲居さんはおらんの?」と言ったら、おばちゃんはほんとに若いお
		 姉ちゃんの仲居さんを寄越した。早速からかって遊んでいる。



 

美人の仲居さんを前にして、杉本さんはまたしても眠狂四郎。




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