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猪名寺廃寺

第98回 歴史倶楽部例会
2005.6.26(日耀)



	
	<猪名寺廃寺 (いなでらはいじ)>



 

	
	猪名寺という名称の由来は例によって定かではないが、猪名野にあった寺から来たと言う説がある。記紀や「新撰姓氏録」に
	登場する古代氏族の猪名(為奈、韋那)氏からきているともいう。この地に白鳳時代に法隆寺様式の寺院が建てられ、猪名氏
	の氏寺であったという。いまも、塔の心礎石が残っている。また奈良時代に行基が猪名寺孤独園(社会事業施設)を建てたと
	されるが、その場所は定かではない。猪名寺は微高地になっており、弥生時代から鎌倉時代に至る土器や瓦が出土している。





	
	塔と金堂が東西に並び、講堂がその北側に配されている「法隆寺式」伽藍配置の白鳳時代の寺院跡である。大正年間に塔跡か
	ら運び出された巨大な塔心礎が庫裏の東側に置かれている。昭和27年と33年に発掘調査が行われ川原寺式の軒瓦や鬼瓦・
	鴟尾のほか、鎌倉時代・室町時代の瓦も見つかっている。この寺は織田信長勢による荒木村重の居城「在(有)岡城」攻略の
	時焼失したと考えられている。
	ここに、古来より「法園寺(ほうおんじ)」という寺があり現存している。法園寺は真言宗御室派に属し、猪名野山と号す。
	法道上人が開基で、行基が中興の祖と伝わっている。本尊は、薬師如来像(秘仏)で、平安後期の鉈彫りの像といわれる。同
	じ境内に「猪名野神社元宮」があり、伊丹の猪名野神社は、ここから延喜4年(904)に移されたものという。



	
	この、現在法園寺が建っているところに、かつて白鳳時代あたりから、法隆寺式の七堂伽藍の優美な猪名寺があったと考えら
	れている。東西約80m、南北約48.5mの回廊をめぐらしたこの寺は、伽藍配置は「法隆寺式」で、塔と金堂が東西に並
	び、これを中門からでる回廊が囲み、講堂がその北側に配されていた。塔心礎は円形凹状柱座をくりこみ、柱座とは別に同一
	石面上に舎利孔をもっていた。また各基壇や周囲の階段は凝灰岩でつくられている。出土した遺物の大半は瓦類で、白鳳時代
	から室町時代にわたっている。特に白鳳時代の軒瓦は、「川原寺式」と呼ばれているものである。寺域全体については未調査
	のため詳細は不明だが、阪神間では最もよく旧状を残している廃寺跡である。伽藍は天正6〜7年(1577〜)の、荒木村重と
	織田信長の合戦の際に焼失したものと思われる。織田信長の焼き討ちにあうまで約800年もこの地に存在していたのである。

	またこの猪名寺廃寺跡周辺からは、発掘すると縄文・弥生・古墳時代の遺物が多く出土するように、この周辺は古くから集落
	として栄えてきたものと考えられる。尼崎市にあっては、最も早く栄えた地域であったようである。近畿地方で初めて大規模
	な弥生文化の痕跡が明らかになった、有名な「田能遺跡」も「藻川」を挟んで向かい側にある。

 



	
	またこの地は中世には「猪名寺砦」があったともいわれている。砦として機能していた頃のことはよくわかっていないが、元
	弘三年の赤松円心と六波羅探題との戦い、荒木村重が伊丹城にて織田軍に取り囲まれた際など、多くの戦火に見舞われた地だ
	ったことは間違いないようである。今となっては、猪名寺、法園寺、猪名寺砦との関連や変遷は、例のごとくすべて霧の中で
	ある。
	境内(公園?)の隅には、掘り出された大きな礎石がおいてある。この大きさから想像するに、相当大きな伽藍配置があった
	ものと思われる。伊丹廃寺跡と共に、この地域における奈良時代前期の仏教の隆盛さを示すものである。

 

	
	◆猪名寺廃寺跡 <説明プレートより>
	伽藍配置は「法隆寺式」で、塔と金堂が東西に並び、これを中門からでる回廊が囲み、講堂がその北側に配されています。
	塔心礎は円形凹状柱座をくりこみ、柱座とは別に同一石面上に舎利孔をもっています。また各基壇や周囲の階段は凝灰岩でつ
	くられています。出土した遺物の大半は瓦類で、白鳳時代〜室町時代にわたっています。特に白鳳時代の軒瓦は、「川原寺式」
	と呼ばれているものです。
	寺域全体については未調査のため詳しいことはわかりませんが、阪神間では最もよく旧状を残している廃寺跡です。伽藍は天
	正6〜7年(1577〜)の荒木村重と織田信長の合戦の際に焼失したものと思われます。(尼崎市教育委員会)



	
	猪名寺廃寺跡の横の道をそのまま進むと広い道に出る。ここから真っ直ぐ藻川の土手へ向かい、土手に上がって振り向くと猪
	名寺廃寺跡の全景が見えている。
	藻川の土手からあたり一帯を眺める。猪名川と藻川に囲まれた一帯が、古代、どんな様相を呈していたのかは定かではないが、
	田能遺跡の存在等から類推するに、肥沃な、稲作に適した湿地帯だったのではないかと想像できる。



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