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縄文の里・朝日村 奥三面遺跡
新潟県岩船郡朝日村三面
2005(平成17年)10月9日(日曜日)
【三面ダム】
奥三面ダムの下流に位置し、洪水調節、流水の正常な機能維持並びに発電を目的とした多目的ダム(重力式コンクリートダ
ム)で昭和28年4月に完成した新潟県の県営ダムでは最も古いダム。また、三面ダムの清流とダム湖(三面ダム湖)は新
潟景勝百選に選ばれた景観のよい緑の楽園で、ダム湖に浮かぶ2つの島は二子島森林公園として整備されキャンプ場、バン
ガロー、アスレチック、食堂、売店、遊歩道などの施設があり、湖水ではボート遊びや釣りも楽しめる。そのほか、ここは、
村上市と山形県鶴岡市を結ぶ県道の通称「朝日スーパーライン」が通っており、春の新緑・秋の紅葉と天然の景観を活かし
た観光地としても活用されている。
(新潟県村上地域振興局地域整備部HPより)
ダムの湖面を見て、何かに驚いている石崎君。
歴史交流館を出て少し戻り、このダムへやってきた。最初奥三面ダムと間違えて、ここに沈んだムラがあったのかと思った
が、どうも様子が変だ。案内をよく見ると、ここは奥三面ダムの下流に造られた、やはり発電と洪水調整を兼ねたダムで、
奥三面に先駆けて建設されていた。このダムがあれば奥三面ダムはいらなかったのではないか、ほんとに必要だったのかと
いう気になる。それほど大きくてりっぱなダムなのだ。
奥三面遺跡(ダム)
新潟県と山形県の境、朝日連峰から流れ出る三面川の上流の、朝日山地に囲まれた平坦地に平家落人伝承のある三面集落が
あった。通称奥三面(おくみおもて)と呼ばれる地域である。採集、狩猟、焼畑などによって暮らしを支えてきた民俗学的
にも貴重な地域であるが、1967年の羽越水害を機にこの地にダムが建設されることになり、1985年に三面集落は廃
村となった。一方、1988年からはダムで沈む範囲の全面発掘がはじまり、1998年に調査が終了した。
朝日村大字三面は、通称「奥三面」(おくみおもて)と呼ばれる。「奥三面」は、三面川の上流域に位置し、標高は約2百
m。周囲は約3万ha の広さを持つ朝日山地が広がる。発掘調査は「奥三面ダム」建設のため、ダム事業費で昭和63年か
ら朝日村教育委員会により、記録保存が行われてきたが、11年間にわたる現地調査を平成10年12月で終了している。
これまで19遺跡、面積約16haが調査された。調査の結果、旧石器時代(約3万〜1万3千年前)、縄文時代(約1万
2千〜2千4百年前)、弥生時代(約2千年前)、古墳時代(約千7百年前)、江戸時代(約4百〜百3十年前)の生活の
跡や土器・石器などが発見された。新潟県はもとより、東北一円でも大規模な古代集落の跡だったのである。
三面ダムをでて少し戻り、林道を奥のほうへと進んでいくと、木立の中に新しい綺麗な道が続いている。三面川の上流に向
かって右手に分かれる川のほうは、鷲ケ巣山と宇連萩山という屹立する二つの岩山に挟まれた文字通りの峻険なV字谷の奥
へと続いていた。この深く鋭く切り立った三面渓谷の奥に、秘境と呼ぶにふさわしい奥三面の広大な谷間があったのだ。
三面渓谷の奥に位置する三面の集落へ行くには、かつて金壷トンネルという岩肌剥き出しのトンネルが通じていた。狭く、
車一台がやっと通行できる程度の長いトンネルが、かっては朝日村の中心部から奥三面集落への唯一の通行路だった。現在、
金壷トンネルの入口のあった場所から少しスーパー林道を戻った地点に、本道から三面川を越えて右手に分岐するかたちで
新しい橋が架り、そこから奥三面方面へと新設の舗装道路がのびている。その橋を渡りしばらく行くと、ほどなく新設のト
ンネルが現れ、その長いトンネルを抜けると奥三面ダムへ出る。
【 奥三面ダム 】
奥三面ダムは、新潟県が昭和42年の羽越水害を契機に、三面川流域の洪水防止、流水の正常な機能維持並びに発電を目的
として建設した多目的ダム(アーチ式コンクリートダム)で平成13年10月に完成した。このダムにより三面川流域の水
量をコントロールすることが可能となり、下流の三面ダムとともに流域住民の生命と財産を守る重要な役割を担っている。
そのほか、このダムは磐梯朝日国立公園に位置し、全国屈指のブナの天然林に代表される豊かな自然に恵まれている。その
朝日山系の雄大な自然の魅力を生かすとともに、景観に配慮した環境整備により、これからの観光や地域活性化に生かされ
ている。また、ダム湖(あさひ湖)の湖底に、旧三面集落の民族と森林文化、さらには縄文時代を中心とした奥三面遺跡群
が水没したが、朝日村教育委員会で発掘調査や保存を行い、平成17年7月にオープンした「縄文の里・朝日 奥三面歴史
交流館」で一般公開されている。さらに、奥三面ダム建設事業は、ダム技術の発展に著しい貢献をしたと認められ平成17
年5月20日にダム工学会より「平成16年度ダム工学会技術賞」を受賞し表彰を受けた。
(新潟県村上地域振興局地域整備部HPより)
貯水量約1億2500万トン、一応、治水、流水調整、発電の役割をもつとされるこの県営ダムの建設には総工費820億
円が投入されたという。さらにその他の道路、周辺環境の整備や維持のためにも多額の経費がかかったものと思われる。
それだけの費用をかけたダムが、学術的にもきわめて価値の高い、2万年に及ぶ人々の生活の痕跡を帰し去って、もしそれ
以上に流域住民に恩恵をもたらさなかったとしたら、それはもう犯罪に近いと言えるだろう。
ダムから下流を見る。
どうしてこんな山深い山峡の谷間に人々は集落を造ったのであろうか。それはこの遺跡が発見されたとき、誰もが考えた疑
問だった。もっと低地の開けた平野の方が住みやすいのではないか。何を好きこのんでこんな鳥も通わぬような山奥にと、
私も最初考えた。しかしよく考えてみると、人々が縄文時代早期からここに住み着いたというのは、ここで生活が成り立っ
ていたからなのだ。もしかしたら、旧石器時代にも、あるいは定住していたのかもしれないとひそかに思っている。最近ま
でサケはこのダムの直下まで来ていたと言うし、三面集落はマタギのムラとして有名だったほど動物資源は豊富だった。
3,40軒の集落を支えるには十分な食料があったのだろう。
平野部が住みやすいというのは現代人の考えである。電車や車で来て、ホイとダムを眺めて「なんでこんなところに」と思
うのは、現代病に毒されているのだ。旧石器・縄文時代に、平野部には何も食うものは無い。どこへ行くのもただ自分の足
で歩くしかない時代には、食い物を求めてさまようしかないのである。その点ここでは、彷徨う必要がないほど豊富に食料
があった。それゆえ人は、1万5千年もの長い間ここから動かなかったのである。
人をまったく寄せつけない厳しさをたたえて、見る者を圧倒していたかつての三面渓谷は、その奥で水底に沈んだ奥三面の
集落と、動植物の宝庫ともいうべき美しい緑の谷々を守るゲートの役割をしていたのだ。
大自然の景観に囲まれた山ふところのこの奥三面から、全国的にも例をみない大規模な縄文時代の遺跡群が発見された。県
の水力発電ダム建設のため測量調査を始めたところ、次から次へと遺跡が発掘され、11年間にも及んだ発掘調査は平成10
年(1998)12月に終了した。現われた縄文の集落は19にも及ぶ。発掘に従事した述べ作業員人数は11万人を超え、出土
した遺物はトロ箱8千箱を超えた。国内最古の舗装道路跡の発掘や、高床式大型建物跡の発掘は、これまでの縄文観をさら
に塗り替えた。
集落のあった場所や、その上下流域の斜面や河岸段丘上から出現した、学術的にもきわめて価値の高い膨大な量の先史時代
の遺跡群。それは、いまから2万5千年前の旧石器時代の遺跡にはじまり、縄文草創期から後期、晩期にいたる大遺跡群だ
った。遠く津軽や出羽、糸魚川などから運ばれたと推定される石器素材、 大規模なストーンサークル(環状列石)、竪穴
住居跡、土器類、砂利敷きの舗装路、多数の配石墓、日本では初めてといわれる縄文期の河道付け替え工事跡など、それら
は信じがたいような質と量の遺跡群であった。
奥三面の広くそして奥深い谷は、西朝日岳、寒江山、相模山、以東岳、毛穴山といった朝日連峰主稜の山々の奥懐に位置し
ていた。そして、かつてこの奥三面の谷の河岸段丘上には42戸、人口150人ほどの美しく静かな、そして自然の幸豊か
な集落があった。しかし、ダム建設の計画が進むにつれて住民は移住を余儀なくされ、1985年、2万年に渡る長い歴史
を刻んできた奥三面集落は消滅した。
11年に及ぶ調査の結果、19ケ所の遺跡で、縄文時代を中心に旧石器時代から古墳時代までの生活の痕跡が見つかった。
縄文中期〜晩期には、前田遺跡、下クボ遺跡、アチヤ平遺跡、元屋敷遺跡と、少しずつ場所を変えながら拠点集落が営まれ
たことが判明した。アチヤ平遺跡は、三面川と末沢川の合流地点の左岸の段丘上の遺跡で上段・中段・下段に分かれる。旧
三面集落の対岸にあり、「あちらの平」という意味で名づけられたという。上段は中期末葉〜後期前葉を主体とする環状集
落である。元屋敷遺跡はアチヤ平に続く時期の拠点集落であり、アチヤ平から3kmほど上流の川に面した段丘上に広がる。
竪穴住居群、掘建柱建物群、大型住居、水源、水場、配石群、墓域などが発見されている。この遺跡からもう一段あがった
ところが本道平遺跡で、落し穴が残っていた。
縄文時代では全国で最も立派な道、段丘崖から湧き出る2つの水源を結ぶ道であり、幅約2m・長さ約40mの道の両側に偏
平な石を敷き、その間に砂利を敷いた舗装道路は、全国でも初めての出土例とのこと。日常生活や磨製石斧を作る際に必要
な水場と水場を結んでいたと考えられる。
三面集落のありし日をしのぶメモリアル・コーナー
朝日村の、太古の自然をそのままに残した山峡の遺跡群が、県営ダム事業によって湖底に沈んだのは2000年10月のこ
とである。ダム建設のために行われた発掘調査では、山深いこの地に数千年もの長きにわたって生活を営み続けた縄文人の
豊かな暮らしぶりが明らかになり、人々の注目を集めた。また、旧奥三面集落の「山に生かされた」人々の生活ぶりは、現
代人が失った自然と共に生きる人々の知恵として深い共感を呼んでいる。遺跡群は湖底に沈んだが、質・量ともに全国に例
を見ない貴重な遺物が残され、また、奥三面の悠久の歴史を育んだ壮大な自然環境は、人工の湖を抱えながら太古のおもか
げをとどめている。
目の前に大金を積まれ、先史時代から2万5千年以上も受け継がれてきた先祖の地を放棄した奥三面の元住民の心境は複雑
だったことだろう。私の田舎でも、私がまだ高校生の頃、実家から5,6km上流にダムができた。そこにも同じ程度の集
落があって、私の友人も何人か住んでいた。かって学んだ小学校や、遊び回った神社や、自分の家が水の底に沈んでいくの
を見るのはどんな気分なのだろうか。中学生の頃、放課後自転車で遊びに行った友人宅も水にしずんでしまったが、今でも
友人にその質問をした事はない。
住民の名前が刻まれた記念碑をごらんになって気づかれたことがあると思う。そうなのだ、たった一戸を除いて、後の41
戸は、伊藤、小池、高橋の3姓だけである。ここには、この3姓を持った平家の落人が逃れてきて住み着いたという伝説が
あり、住民もこの3姓を名乗ったというのだ。「三面」というのもここに由来している。渡辺君も石崎君も、新潟県人であ
りながらそれは知らなかったとみえて、しきりに感心していた。しかしながら、平家の落人がここまで逃げてくるだろうか
という疑問はわく。おそらくは、他の多くの平家落人伝説と同様に、後世村人が勝手に名乗ったものではないかと思うが、
しかし真贋はわからない。平家も、みんながみんな壇ノ浦までついて行ったわけもなく、捕まれば殺されるのであれば、あ
るいはほんとにここまで逃げてきたかもしれないという気にもなる。それほどここは山深かった。
このダムを抜けていくと山形県小国へ抜けて、また迂回して新潟市へ戻ってこれるというので、その道を行こうとしたが、
途中で大石が道の真ん中に鎮座していて車で行くのは不可能だった。こんな事ならもっと手前にその看板を立てるべきだと
みんなブーブー。
邪馬台国大研究ホームページ /遺跡めぐり/ 奥三面遺跡