Music: Carpenters
納会例会 冬の嵐山を行く 2005.12.25(日) 歴史倶楽部第105回例会




	第105回例会 「あなたの知らない嵯峨野」をあるく
	「角倉了以」ゆかりの地と「南北朝の悲哀の兄弟天皇陵」を訪ねる
<日時>:  12月25日(日) 阪急電嵐山駅」PM1:00集合 <行程>: 阪急嵐山駅 − 千光寺・大悲閣(角倉了以・保津川掘削の工事現場本部) −  角倉了以の墓・京都二尊院 − 第98代後亀山天皇陵 − 第99代長慶天皇陵 − 嵯峨角倉家の跡「花乃家」 <費用>:往きのみ <大阪組> 阪急「梅田」    − 阪急「嵐山」まで 390円 <奈良組> JR「奈良」    − JR「京都」まで 690円 または   近鉄「奈良」    − 近鉄「京都」まで 610円      京都地下鉄「京都」 − 地下鉄「四条」  200円   阪急電車「河原町」 − 阪急「嵐山」   220円 <持ってくる物>: 雨具、防寒具、温泉セット、その他(特に防寒具は必要。) <みどころ>




	
	昨年に続いて、今年も納会例会を行おうということになった。昨年は五条から高瀬川を歩いて、二条の「がんこ二条店」
	(角倉了以別邸・のち二条角倉家本家)で懐石料理だったので、今年も同じような事をしようということになった。
	どこに行こうか迷ったが、今年も角倉了以の旧跡を訪ねることにした。以前行った、嵐山の大悲閣・千光寺を訪ねて、二尊
	院の角倉了以の墓を訪ねることにした。それだけでは時間があまりそうだったので、南北朝時代の悲劇の兄弟天皇、九十八
	代長慶天皇陵とその弟九十九代後亀山天皇陵にも行ってみることにした。いずれも詳細なレポートは、「歴史倶楽部」の
	「角倉了以」のコーナーと、「天皇陵めぐり」の「長慶天皇陵」「後亀山天皇陵」のコーナーにあるので、ぜひそちらも覗
	いていただきたい。ここでの解説は、そこに書いたものをほとんどそのまま転載してある。


嵐山をゆく舞妓さん。上は、本物の祇園の舞妓。小雪と雪泰。(写真提供:(株)柳井)


上の写真は数年前に訪れた、雨上がりの渡月橋。こういう光景の中に居るだけで心は解放される。

	
	阪急電車乗り場のほうから左へ折れて渡月橋を目指していくと、大堰川という桂川の狭い支流を見ながら行くことになる。
	そしてその途中に、この「一ノ井堰碑」が立っている。碑文にあるように、五世紀頃大陸から渡ってきた秦氏がこのあたり
	に堰関を築いたらしい。その顕彰碑である。

 




通常、西から来た観光客はこの渡月橋を渡って嵐山へ行くが、千光寺へは橋を渡らず左の方向、大堰川の西側を山の方へ歩いていく。



10分ばかり歩いてきたところから見た渡月橋。冬の嵐山のこちら側は、観光客は殆ど居ない。








大悲閣・千光寺


	
	角倉了以(すみのくらりょうい)(1554〜1614)  安土桃山・江戸初期の豪商
	----------------------------------------------------------------------------------------
	角倉了以は京都嵯峨の出身で、その生涯はほぼ徳川家康と重なっている。角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら
	土倉つまり質屋も営んでいた。了以は祖父の企業家精神と、医者であった父の科学的精神をうけて、医業は弟に譲り自分は
	土倉経営を中心に家業を発展させ、海外貿易でも文禄元年(1592)豊臣秀吉の朱印船に加わり、安南国(今のベトナム)と
	貿易して莫大な富を得た。家康が江戸幕府を開いて3年後に、京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30
	数キロ上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得た。そして、開削を始めて6カ月後には竣工させている。その工事に当た
	っては人任せでなく、自ら石割斧を振るって仕事にあたったと言われる。
	史料「前橋旧蔵聞書・六」等々によると、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、大堰川開削により丹波地方の
	農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと記録されている。材木は筏で運送され、険し
	い山道を人馬で物資を搬送していた頃に比べれば、その利便は格段の差を生じた事が伺える。角倉家は、莫大な資金を投じ
	て開削したが、開削後の水運による収益をすべて独占する事で、さらなる利益を得たと考えられる。通船の技術導入に当た
	っては、行舟術にすぐれた舟夫18人を了以が嵯峨に招いて、新しい水運への対応をした。舟夫の止宿先は嵯峨の弘源寺で、
	後にこれらの船夫を嵯峨に定住させ、大雄寺の荒れ地を開拓し、ここに舟夫の居住地を作った。そこには今でも角倉の地名
	が残っている。(現在の京都市右京区嵯峨角倉町あたり)。
	他にも了以が行った通船のための河川疎通事業としては、富士川・天龍川・高瀬川等の開削がある。中でも了以の名が今日
	にまで残る事になったのは、晩年に開削した同じ京都の高瀬川の開削である。
	方広寺大仏殿再建のための資材輸送を命じられていた了以は、淀川の上流で調達した木材を筏にくみ、使用許可を取ってい
	た鴨川を遡って京の三条まで運び込んだ。この時、鴨川を遡る事が難しいことを知った了以は、京と伏見の間に運河を造る
	事を考え、高瀬川の開削計画を立てたと言われる。
	工事は三次に分けて行われた。第一次は慶長16年(1611)から開始され、慶長19年に完成した。水がいつも濁らぬよう、
	樋門や汚水抜きの溝なども配置してあり、この計画が非常に優秀なものであった事がわかる。了以は商人としても偉大だっ
	たが、土木技師としても優れていたのだ。高瀬川開発には、了以の息子素庵(そあん)も協力した。開発には7万5千両
	(150億円)を費やしたとされるが、了以は運河航行には通行料を徴収しており、当時の通行料は、・幕府納入金1貫文・
	舟の維持費250文、角倉家手間賃1貫250文となっていて、一回の船賃が合計2貫500文となり、これから計算する
	と、角倉家に年々納められる金額は1万両を超えたと思われ、その経済的利益は莫大であったことがわかる。勿論通航費を
	支払っても、人馬で物資を運ぶより採算性がすぐれていたから、江戸年間を通じて利用された続けた事は言うまでもない。
	了以は、高瀬川の完成を見届けたかのように、竣工した慶長19年7月17日、61才の生涯を閉じている。京都洛西の
	「二尊院」に角倉了以の墓がある。



	
	千光寺・大悲閣
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	了以が生まれた16世紀半ばは、世界が大航海時代を迎えていた時代である。当時の強国、スペイン・ポルトガル・オラ
	ンダなどが、命知らずの船乗り達を大量採用し、文字通り世界の海を駆けめぐっていた。そしてその波は日本にも及ぶ。
	江戸時代初期には、日本の大商人達も大船団を組織して外洋航海に乗りだし、東南アジアを中心にして貿易を行い、島原
	の乱が発生して我が国が全面的な鎖国状態になるまでの間、その交易で巨万の冨を手にしていたのである。角倉了以もこ
	の貿易商人の一人で、角倉家の渡航回数は17回と記録されており、朱印船貿易を行った商人達の中では最多の回数だ。

	了以が江戸幕府の許可を得て朱印船貿易に乗りだしたのは慶長8年(1603)で、もう50歳になっていた。角倉家は安南
	国(今のベトナム)の北部トンキンを渡航先にしていた。航海は大体片道1ケ月以上かかったとみられる。江戸期の「天
	竺徳兵衛物語」に、素庵の船として長さ20間(約36m)、横幅9間(約16m)で397人を乗せたという記述があ
	る。推定700トンの船で、一攫千金を夢見る客商という多くの商人たちをのせていた。オランダ商館日記などによると、
	朱印船の渡航先によって違いはあるが、輸出品は主に、銀、銅、硫黄のほかに絹織物、刃物。甲冑、屏風などの工芸品だ
	った。工芸品は京都周辺の産業を潤した。輸入品は薬の原料、鹿皮、漆、生糸、香木、象牙、絨毯などで、「輸入品だけ
	で諸経費のほか、10割の利益をあげた。」とされている。了以・素庵親子が後に河川開削に莫大な資金を投入できたの
	も、この利益があったからこそなのである。

 

	
	了以・素庵親子の角倉家は、今で言えば大手商社と大手ゼネコンを一緒にしたような組織で、二人はこの企業グループを
	束ねる会長・社長のような存在だったのだろうと思われる。朱印船貿易で巨利を得た了以は、ほどなく国内の河川開削に
	乗りだした。設備投資をしてインフラを作り、その水運から利益を得るという手法を生みだした、我が国で初めての本格
	的な事業家であった。日本の産業経済史のなかでも極めて重要な人物として位置づけられる。角倉家が最初に手を付けた
	河川が大堰川だった。

	千光寺にある林羅山著の「吉田(角倉)了以碑銘」には、大堰川開削のようすが記述されている。美作の国(岡山県北部)
	を行き来する船を見ていて「凡そ百川、皆以て船を通すべし。」と開削を思い立ったと言う。丹波の木材や米、新炭をも
	っと効率よく京都に運べれば、丹波・京都双方に利益となるばかりでなく、幕府の許可が得られれば、そこからあがる通
	行料金で先行投資した費用も回収し、子々孫々まで角倉家は潤うに違いないと考えた。それには、いま岩石ごつごつの保
	津川を船が通れるようにすればよい。早速実地踏査した了以は成功の確信を得た。さっそく息子の素庵を江戸へ派遣し、
	幕府から「古より未だ船を通ぜざる所に、今、開通せんと欲す。これ二州(山城・丹波)の幸いなり。」とする開削許可
	を得た。了以が大堰川開削に乗りだしたのは慶長11年(1606)春の事である。それから8月までの約5ケ月間で完工さ
	せた驚異的な突貫工事だった。

 

200mを上ってゆく。鐘は誰でも自由に着くことができるが三打まで。

 

	
	境内にある、林羅山撰文による了以の行状碑。碑文はもうかずれて読めない。同族会他有志の寄進で最近修復されたらし
	い。碑文によれば、「大石あるところは轆轤(ろくろ)策を以てこれを牽き、石の水面に出づるときは即ち烈火にて焼砕
	す。瀑(たき)のあるところは其上を鑿(うが)って準平にす。」とある。大岩は多勢で動かし、水面に出ている岩は砕
	いて滝はならして拡散して流れ落ちるようにした。犠牲者も出たが難工事をたった5ケ月という短期間で、丹波の世木か
	ら嵯峨まで舟運を開いた手腕は、当時の土木技術の水準としては画期的なものだった。
	この成功に世間も驚いたが、それは江戸幕府をも驚かせた。幕府は了以の資質と施工技術の確かさを見抜き、ただちに駿
	河の富士川の開削を命じた。当時の富士川沿いは、「山峡の洞民 今だかって舟を見ず。」(上碑)といわれるほど、水
	運とはかけ離れていた地域だった。ここも大堰川に負けず劣らない難工事だったが、慶長12年2月に着工し翌年には完
	成させている。あまりの早さ、見事さの為に、家康自身が現地に赴いてその仕上がりを確かめるほどの熱心さだった。
	その年の6月には続いて天竜川の開削を手がけるが、ここは「水勢、猛激にして手を施す所なく」工事中断に追い込まれ
	た。はじめての失敗だったが、河川開削に見る了以の先見性、合理性、計画性は今も高く評価されている。角倉家は、内
	陸水運の開削によって水利長者への道を歩んでいく事になる。



大悲閣。悪いがほんとに悲しい楼閣である。檀家がいないということは、即、お金がないということである。



大悲閣からの眺望。大悲閣のすぐ下に芭蕉の句碑がある。「六月や 峰に雲おく あらし山」。なんとも雄大な句である。

	
	角倉了以は、当時の並み居る豪商達の中でもその構想力・実行力・度量の広さはぬきんでていた。了以親子は日本の運河
	造りの父である。これによって上方の商業物流圏が確立したと見られている。
	当時の世相を書き残した「当代記」には。「この者ただ者にはあらず」と記されている。晩年了以は、琵琶湖と京都を運
	河で結び、20万石の良田を作るという遠大な計画を練っていたと伝えられる。もし成功していたら京都は江戸に負けな
	い大都市になっていた可能性もある。了以から300年近く経って、若き工学士田辺朔郎によって琵琶湖疎水は完成する
	が、彼の戒名は「水力院釈了以居士」である。

	角倉(すみのくら)を名乗ったのは了以からだそうである。元々は滋賀県出身の吉田家が母体で、了以は、土倉(金融業)
	を営んでいた実家と、京都の角(すみ)のほうにあるという事で、角倉を名乗ったと言う。私はしらなかったが、吉田光
	由という幕末の和算術家も一族だそうで、関孝和と並んで和算の祖と称えられているそうな。今、了以の子孫は全国に散
	らばっており、同族会も組織されているそうだが、会に参加していない一族も相当あり、同じDNAをもつ子孫は数百人
	に及ぶと思われる。
	素庵の息子二人は分家して、それぞれ高瀬川を管轄する京(二条)角倉家と、大堰川を管轄する嵯峨角倉家に別れた。本
	来嵯峨が本家の地位にあったが、二条の方が勢力を拡大しこっちが本家となった。いずれも広大な屋敷と多くの従業員を
	抱え、莫大な河川通行料のおかげで幕末まで栄えたが、明治に入って没落した。いま両方の屋敷跡はいずれも料亭になっ
	ている。二条は「がんこ二条店」、嵯峨は「花乃家」である。

 

住職が熱心に仏教の奥義を説いてくれる。「色即是空」の話の傍では、住職の4,5歳の子供が蛾をつかまえて遊んでいた。
住職が「我」の話をしているときに、その子は「が、が」と言って、動いている蛾を振り回していたのが妙におかしかった。



右端は、千光寺大悲閣に安置されている了以像。国宝級の木造で、時々は展示会に貸し出される。



数日前に降った雪が凍り付いて、下りは大変だった。

	
	 
	かって角倉家だった「花乃家」の玄関前にたつ石柱と、昨年の忘年例会で行った「がんこ二条店」の前の角倉邸跡碑。

	
	大悲閣から渡月橋へ降りてくる。ここから大悲閣までは1km。そして200m昇るから、往復2.4km歩いたことに
	なる。角倉了以の墓がある二尊院へ行くには、嵐山の中心街を抜けてゆく。途中、天竜寺で88代後嵯峨天皇とその息子
	90代亀山天皇陵に寄った。天皇家が南北朝に分かれるもととなった天皇である。南北朝の分裂はこの後嵯峨天皇に始ま
	る。





	第88代後嵯峨天皇・第90代亀山天皇 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(天竜寺境内)
	---------------------------------------------
	天竜寺の庭・講堂へ入る正面に向かって右手に御陵ならびに天竜寺墓所へ行く門がある。ひっそりしていて目立たない。
	第88代後嵯峨(ごさが)天皇は、土御門天皇の皇子。在位1242〜1246、生没1220〜1272。53歳で没。
	後嵯峨天皇が誕生した翌年の1221年、承久の乱が起こり、敗れた後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ配流されたが、
	乱には関与しなかった土御門院も自ら望んで土佐に流された。土御門院はその後阿波に移り、1231年同地で崩御。
	承久の乱で父の御門院が土佐へ配流となった為、後嵯峨天皇は母の叔父中院通方に養育される。暦仁元年(1238)通方が没
	すると、父方の祖母承明門院に養育される。四条天皇が皇嗣の無いまま急死すると、跡継ぎを巡っての論議が起きる。い
	ったんは順徳上皇の皇子・忠成王が帝に推挙されたが、父親の院政を恐れて見送られた。そこで北条泰時は、遠い血縁の
	邦仁(くにひと)王に八幡宮の託宣が下ったとして即位させる。やがて後嵯峨天皇は、皇子・後深草天皇に譲位し、20
	年間院政をとる。この間、長子の後深草天皇(兄)を退位させ、次男亀山天皇(弟)を即位させて、さらに亀山天皇の皇
	子を継承者とした。
	後嵯峨天皇が兄弟のうち兄よりも弟をかわいがったため、この兄弟にはしこりが残り、やがてこの二人が持明院統(後深
	草)と大覚時統(亀山)の始まりとなって、南北朝の戦いへ発展する。後嵯峨天皇が後深草天皇を嫌った理由として、病
	弱で好色だったためとも伝えられる。後嵯峨天皇自身は、仏教信仰厚く、和歌にすぐれていたと言い、藤原基家らに「続
	古今和歌集」を撰集させている。後嵯峨天皇は幕府の意向で即位したこともあって、幕府との関係はすこぶる円満であっ
	たと言う。文永五年(1268)出家して法皇となり、同9年(1272)2月17日、嵯峨如来寿院で崩御した。

	
	第90代亀山(かめやま)天皇は後嵯峨天皇の第2皇子。名は恒仁(つねひと)、後深草天皇同母弟。在位15年で譲位。
	院政をとり、のち出家。建長元年(1249)5月27日、外祖父西園寺実氏の今出川第で誕生、直ちに親王宣下があり、父
	上皇、母大宮院にこよなく愛され、10歳の時皇太弟に立てられる。正元元年(1259)兄後深草天皇が病気の際、譲位さ
	れて即位した。後嵯峨上皇は、亀山帝の皇太子にその皇子・世仁(よひと)親王をたてて、持明院統と大覚寺統の対立に
	さらに拍車がかかった。この事を恨み、ますます激昂した後深草帝は出家をほのめかす。この事態に同情した鎌倉幕府が
	仲裁に入り、後宇多天皇(世仁)の次には後深草上皇の皇子・煕仁(ひろひと)王が立つ事になる。後の伏見天皇である。
	こうした経緯のもと26歳で即位した亀山天皇は、才知豊で人望厚い帝だった。この帝が退位して上皇となってから、蒙古
	襲来が起きている。院は一族を集め、国と臣民のために「敵国調伏」を一心に祈祷し、祈願は成就する。

	 

	

	

	(株)柳井(京都市)提供

	持明院統派と大覚時統派の始まりに関する物語もまた、多くの歴史ファンにとって想像力を巡らす格好の題材である。
	後嵯峨上皇はどうして弟ばかりを可愛がったのか? やがて武士達をも巻き込んだ一大天皇家内乱(南北朝の戦い)へ発
	展していくその萌芽は、いかにして発生したのか? 天皇家の物語は、必ずしも天皇家内部だけにはとどまらない。武士
	達や、勿論一般の民衆まで巻き込んだ物語を多くの場面で創出しているのであるが、しかしその「根」ともいうべき事件
	の発生は案外一人の人間の「好き嫌い」や「嫉妬」や「好色」だったりして、帝といへどもその心象世界は殆ど一般大衆
	と変わらない事を我々は知るのである。

	叔父の葬儀で博多へ帰った時、斎場のすぐ側が「東公園」でそこに亀山上皇の巨大な銅像が建っていた。昔はここにこん
	なものが立っていたなんて気づきもしなかった。「敵国降伏」で博多の町を救った上皇を、博多の市民は今でもあがめて
	いるのである。



福岡市東公園に立つ亀山上皇の銅像。



天竜寺を出て、車道を5,6分歩いて竹林の中を歩く。このあたりが嵯峨野のメイン・ストリート

 

	
	上右は、「向井去来墳」。ここで死んだのだろうか。この日、去来が死んだのは「壱岐の島」という話を皆さんにした。
	ごめんなさい、私の勘違いでした。壱岐で死んだのは「河合曾良」(かわいそら)でした。「河合曾良」は蕉門十哲の一
	人として有名な、江戸時代の俳人で、松尾芭蕉の「奥野細道」の旅に従い、後世に「曽良隋行日記」という旅日記を残し
	ている。対馬に向かう途中病に倒れ、勝本で没した。向井去来と曾良を混同してしまっていた。皆さん、すみません。



















小倉山・二尊院




	
	角倉了以の墓・京都二尊院
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	大悲閣をでて渡月橋まで戻り、了以の墓がある二尊院へ向かった。京都は降雪の予報で人出はシ−ズンほど多くはなかっ
	たが、それでも冬の京都ファンも多く、人力車も結構走り回っていた。野々宮を抜けて落柿舎の手前に二尊院がある。了
	以の墓は境内の上の方にある。廻りは鷹司家など藤原貴族の墓で一杯だったが、角倉家の墓所は、その中の一画を占めて
	いる。この境内には板東妻三郎の墓もある。田村家累代の墓となっていた。田村高広、正和ら3兄弟も墓参りにはここま
	で来るのだろう。この日、我が歴史倶楽部の皆さんは、「入山料500円」というのを見たとたん、「あ、やめとこ。」
	「高い、高い。」とのことで、結局了以の墓には詣でなかった。以下は私が以前一人で行った時の写真。まったく。


	
	上の写真いっぱいの一画が角倉家の墓所。右端が了以・素庵親子の墓。
	角倉家の墓と書かれた一画の一番端に、了以・素庵の墓がある。親子で祀られている。

	 
	上中央、4つの墓石が並んでいるが、左2つが了以とその夫人。右2つが素庵とその夫人である。


以下、以前一人で散策した時の写真。



二尊院の中、藤原貴族の墓の方へ登っていく。











 

 





弟九十九代後亀山天皇陵


	
	第99代・後亀山天皇陵 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)
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	奥嵯峨野を歩く。落柿舎の脇をズーツと、化野念仏寺方向へ歩いていくと、滝口寺、祇王寺の先にこの天皇陵がある。
	住宅街の中に入り口を示す石碑が立っていて、注意していないとこんな所に天皇陵がと見過ごしてしまいそうである。



	
	91代後宇多天皇が大覚寺で法皇となり、ここで4年間にわたり院政を執ったので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれる
	ようになる。また、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだことにより大覚寺統(だいがくじとう:南朝)
	と称され、以後、京都に残った持明院統(じみょういんとう:北朝)と南北朝時代を争うことになる。

 

	
	南北朝動乱期にあって、特に南朝は各地を転戦していたため記録らしい記録が殆ど残っていない。南朝第4代後亀山天
	皇は、後村上天皇の第2皇子で長慶天皇の弟にあたるが、出生年月日も不明である。何処で生まれたかの記録もない。
	この天皇が歴史に名を残すのは、南北朝の争いを終結した天皇としてである。

 

	
	足利義満は主要な守護大名達を滅ぼす一方、北朝の朝廷が持っていた各種の権限にも介入してゆき、京都の警察権・裁
	判権も掌握する。その一方で南朝の凋落は激しいものがあった。北畠顕能・宗良親王・懐良親王など各地での戦闘を指
	揮してきた重鎮たちがたてつづけに死去し、もはや戦い続行は不可能な状態になっていた。そのため、講和派の後亀山
	天皇により和平がはかられることになる。
	37歳で即位した帝は、在位10年目に大内義弘の仲介を得て、南北朝統一に踏み切る。南朝元中9年(北朝明徳3年
	・1392)南北朝の講和が大覚寺で行われ、南朝の後亀山天皇が、北朝第6代の後小松天皇に三種の神器を譲る。後醍醐
	天皇吉野潜行以来、約半世紀ぶりに南朝は京都へ還幸したのである。講和後、後亀山天皇はそのまま大覚寺に入り、こ
	れをもって56年に及んだ南北朝の戦いは終わりを告げる。後小松天皇は6歳で即位し、10歳の時南北朝統一を見た
	のである。講和の条件は以下の通りであった。

		一、三種の神器は、後亀山天皇から後小松天皇に譲位される形式で渡されること。
		一、今後皇位は、両朝迭立とすること。
		一、国衙領は、すべて大覚寺統のものとすること。
		一、長講堂領は、すべて持明院統のものとすること。

 

	
	しかしながらその後、これらの条件は全く遂行される事がなかった。約束だった「三種の神器譲渡式」も行われず、両
	朝迭立の約束で、東宮(皇太子)となるはずであった後亀山天皇の皇子にも一向にその気配なく、領地譲渡の話も手続
	きは進まなかった。一方で三種の神器を得た後小松天皇側は、これで正統天皇の証が戻ったとして朝廷内外にその認知
	を求める。後亀山法皇を迎えた幕府側の処遇は冷ややかそのものであった。今や揺るぎない地位を確立した足利幕府に
	とって、滅び行く南朝など顧みる価値のない、反乱者の群れとしてしか映っていなかったのかもしれない。足利義満は
	「明徳条約」を悉く反古にする。しかも、京都における大覚寺統は、幕府の厳しい監視下に置かれ、後亀山法皇をはじ
	めとしてその行動の自由は制限された。



	
	ここに至って、応永17年(1410)後亀山帝は、突如嵯峨野を出て旧南朝拠点の吉野にむかった。後醍醐天皇に習い、
	幕府に反旗を翻す志を天下に示し、和平の条件の履行を幕府にせまることにこの行動の真意があったとされている。し
	かし後亀山帝の努力もむなしく、「両統迭立」の破棄を見せつけるように、後小松天皇は応永19年(1412)年、我が
	子実仁親王(称光天皇)に譲位してしまったのである。後亀山帝はこれに対抗し伊勢の北畠満雅(みつまさ)を挙兵させ
	たが、その力は弱くとても南朝再興というようなものではなかった。その後、後亀山帝は吉野に応永23年(1416)ま
	で滞在したが、すべての望みを絶たれ、むなしく嵯峨野へ戻っていった。以後、南朝系統の天皇が皇位に就くことは二
	度となかった。この、南朝の再興運動を「後南朝時代」と呼ぶ人もあるが、とても一時代を形成したとは言えない。










清涼寺


	
	山号を五台山と言い、せいりょう寺・しょうりょう寺、等と発音され地元では嵯峨釈迦堂とも言う。もともと、このあたり
	は、平安時代の貴族、源融(みなもとのとおる)の別荘地だった。中国に在った釈迦如来像を、東大寺の僧「「然(ちょうね
	ん)」が摸刻して請来した。これが清涼寺の本尊「釈迦如来立像」である。現在国宝で、日本三如来(信州善光寺・阿弥陀
	如来像・京都平等寺・薬師如来像)の一つに数えられ、三国伝来(インド〜中国〜日本)の、生身(いきみ)の釈迦如来像
	と伝えられる。平安時代末から、生身如来から霊験を受けようとする多数の参詣・参籠者で娠わい、また浄土教の発展と相
	まって嵯峨近辺に隠遁する聖たちの宗教活動の拠点ともなる。鎌倉・室町時代、しばしば火災に遇った諸堂舎が念仏者の勧
	進で復興されると、清涼寺は浄土教念仏の色彩が濃くなり、大念仏(融通念仏)が盛んに行われた。





	
	「然は、比叡山への対抗拠点として愛宕山に五台山・清涼寺建立を計画したが許可が下りず、仏像は一時京都の蓮大寺に置
	かれていたが、「然の死後1016年、弟子の盛算(せいさん)の時に嵯峨・棲霞寺(せいかじ)の境内の釈迦堂に移設し、
	これを「清涼寺」とした事に始まる。法然(源空)上人は、24歳の時、庶民救済の願をもって、ここの釈迦如来像の前に
	七日間こもったという。彼の「浄土宗」立教は、この寺からはじまったのである。



 

	
	十六、七世紀以後、「本願」と称する浄土宗系の僧が寺院経済の実を握り、五大堂など真言宗系の子院としばしば対立した。
	ことに釈迦像の出開帳における賽銭の分配をめぐる両者の争いは、当時の人々の嘲笑を浴びている。明治維新のとき、真言
	宗系の子院が大覚寺に合併され、浄土宗単独の寺となる。

 

 

	
	本堂 (釈迦堂)間口14間・奥行13間(京都府指定文化財)
	天慶年8年(945)重明親王妃が棲霞寺(せいかじ)(清涼寺の前身)寺域に新堂を建立し藤原氏に寄進した。その時等身大
	の釈迦像を安置した。これが釈迦堂の名前の由来。途中、たび重なる焼失の後、元禄14年(1701)再建された。単層入母
	屋造本瓦葺で、徳川初期末桃山建築の名残をしめす豪華さをもっている。堂内の宮殿は五代将軍綱吉公と生母桂昌院の寄進
	になり、華麗豪壮なもので、本尊釈迦如来をまつり、宮殿の裏には古潤筆になる清涼寺縁起の一部を拡大した壁画がある。

 

	
	多宝塔(京都府指定文化財)
	本尊を元禄13年(1700)、江戸護国寺での出開帳の際、江戸の信仰者達の寄進により出来たものという。背後にある宝篋
	印石塔は源融公の墓であると伝わり、一説には棲霞寺開山の淳和天皇の皇子恒寂法親王の墓ともいう。
 
 







 

	
	仁王門(京都府指定文化財)
	たびたび焼失しているため、本来の仁王門の築造年は不明。現在の門は安永6年(1776)再建され、重層華麗で楼上には十
	六羅漢をまつり、左右に阿吽の金剛力士(室町期)が守護している。

 

 





有名な嵯峨野の豆腐や「森嘉」。朝の売り出し時間には行列ができる。嵯峨野の湯豆腐は殆どここの豆腐を使っていると言われる。




弟九十八代長慶天皇陵


	
	第98代・長慶天皇陵 京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町 
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	この天皇陵は有名な観光地、京都嵐山にあるが、ほとんど観光客のこない住宅街の中にある。長慶天皇は、正平23年
	(1368)後村上天皇崩御の後を継ぎ即位した。後醍醐天皇、後村上天皇、そして長慶天皇と続く南朝3代目の天皇であ
	る。弟の4代目後亀山天皇に譲位するまで、およそ16年間在位したとされる。南朝は4代を以て終焉を迎え、後亀山
	天皇は北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し、およそ60年に及ぶ南北朝時代は終わりを迎える。

 

	
	京都を追われた後醍醐天皇は、三種の神器を持って吉野に逃げ込み南朝を立てた。一方、足利尊氏は、京都で持明院統
	である光明天皇を擁立し北朝をうちたてた。これにより南北朝時代が幕開けをし、以後60年あまりにわたって南北朝
	対立の時代となる。しかし南朝側は吉野の山奥に逃れたため、ほとんど記録らしい記録が残っていない。長慶天皇の即
	位行為も長い間認定されなかったし、また後亀山天皇の生年も明らかではない。足利3代将軍足利義満によって、南朝
	の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して譲位し、戦乱に明け暮れた南北朝時代は幕を下ろした。
	これ以降は皇位が継承された北朝が正統とされていたが、南朝の正統性を主張する議論は、北畠親房の「神皇正統記」
	以来続き、明治44年に明治天皇が南朝の正統を勅裁し、「南朝が正統であるが、北朝の天皇も歴代以外の天皇」とし
	た。その根拠となったのは、皇位のあかしである三種の神器を南朝方が最後まで保有していた点にあると思われる。 
	皇室にとって、三種の神器がいかに重要なものかを窺わせる。



	
	長慶天皇も父後村上天皇と同じく対北朝強硬派で、南北朝の戦乱の中にその生涯を過ごした。足利幕府の軍勢は、各地
	の行宮に頻繁に攻撃をしかけ、帝はこれに応戦し続けた。大和吉野から、河内金剛寺、大和五條の栄山寺と転戦してい
	る。弟に譲位した後は、各地の南朝方の武将を訪ね、南朝への協力を求めたと言われているが、その為「長慶天皇墓」
	と称する陵墓も全国各地に点在している。陸奥国(青森県)、川上村(奈良県)など20ヶ所に及ぶとも言われている。

 

	
	この帝は動乱期の天皇だと言うこともあってその生涯については謎が多く、即位についても疑義が多かった。江戸期に
	は歴代天皇とは見なされていなかったが、それでも『大日本史』などは、本紀に第71代として長慶天皇を列記していた。
	明治を経て、大正年間に至っても即位は確認されなかったが、大正4年頃『長慶天皇御即位の研究』(八代国治著)と
	いう論文が発表され、大正15年10月21日付詔勅で皇統に加えられた。その後宮内庁は、昭和19年になって、京
	都嵯峨の慶寿院跡を「長慶天皇御陵墓」と決定した。例によって宮内庁による詳細な調査が行われたようであるが、こ
	こを長慶天皇陵とする確固たる証拠は見つからなかったようだ。結局、一番ゆかりの深いこの地が選定されたようであ
	る。この帝の著作集として、『仙源抄』『長慶院御千首』等がある。



花の家




角倉了以の屋敷跡。上の写真、左上方に渡月橋がある。少し見えている。



かっては嵯峨角倉本家だったが、今では「公立学校共済組合」の嵐山保養所となっている。別に学校の先生でなくとも利用できる。



しかし西本さんによれば、この「■鳩楼(かんきゅうろう)」という御殿の間にはなかなか通してもらえないらしい。



	
	部屋割りは当日まで決まらないらしく、よほど高い料理を頼むか特別な理由がないとここでの宴会は無理という。では
	我々は一番安い懐石しか注文していないのにどうして入れたか? それは西本さんが予約時に「ひとり日本でも有名な
	角倉了以の研究家がいますから。」と言ったからだと言うのだが(西本さん)、ホントかいな。

	綺麗できもちのいい大浴場で汗を流してから、さぁ納会のはじまりはじまり。





 

この板戸に描かれた絵は、角倉了以がここに住んでいた頃からあると言う。400年前の板戸絵である。



 





大堰川の川風を浴びて、冬の庭を眺めながら酔いをさます河内さん。横顔は若い三国連太郎みたいやね。

 

玄関口で記念撮影(下)。右端の杉本さんを追加した合成写真。みなさん、今年も終わりましたね。また来年もよろしくお願いします。







夜の渡月橋は初めて渡ったがなかなかです。ライトアップが綺麗だった。

 



みなさん何を見て笑ってるのかな。





	
	<南北朝の天皇たち>
	
	ここで「天皇陵めぐり」に記載した天皇たちのなかで、特に南北朝時代の天皇たちにスポットをあててみたい。歴史倶楽部
	の掲示板で橋本さんからいろいろ南北朝にかんする質問を受けたこともあり、「天皇陵めぐり」のコーナーから、ここに該
	当する天皇たちの記事を再掲した。南北朝の争いの萌芽は勿論、第88代後嵯峨天皇の次男偏愛に起因しているのであるが、
	時の鎌倉幕府の皇位継承問題に対する介入とも絡み合って、次第に修復不可能な状態へ展開する。そして第96代後醍醐天
	皇が吉野に南朝を興すことによって、皇室内のみならず、鎌倉幕府そして武士達を巻き込んだ、我が国初の本格的な二朝時
	代が約60年あまり続くことになるのである。大覚寺統と持明院統の争いは、後深草・亀山兄弟の確執に端を発しているが、
	歴史上の南北朝時代は、後醍醐天皇に始まる。

	91代後宇多天皇が大覚寺で法皇となり、ここで4年間にわたり院政を執ったので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれるよう
	になる。また、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだことにより大覚寺統(だいがくじとう:南朝)と称さ
	れ、以後、京都に残った持明院統(じみょういんとう:後深草上皇がここを御所にしたため、この一派は持明院統と呼ばれ
	る。:北朝)と南北朝時代を争うことになる。




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	【第88代後嵯峨天皇】 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(天竜寺境内)
	
	第88代後嵯峨(ごさが)天皇は、土御門天皇の皇子。在位1242〜1246、生没1220〜1272。53歳で没。
	後嵯峨天皇が誕生した翌年の1221年、承久の乱が起こり、敗れた後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ配流されたが、
	乱には関与しなかった土御門院も自ら望んで土佐に流された。土御門院はその後阿波に移り、1231年同地で崩御。
	承久の乱で父の御門院が土佐へ配流となった為、後嵯峨天皇は母の叔父中院通方に養育される。暦仁元年(1238)通方が没
	すると、父方の祖母承明門院に養育される。四条天皇が皇嗣の無いまま急死すると、跡継ぎを巡っての論議が起きる。い
	ったんは順徳上皇の皇子・忠成王が帝に推挙されたが、父親の院政を恐れて見送られた。そこで北条泰時は、遠い血縁の
	邦仁(くにひと)王に八幡宮の託宣が下ったとして即位させる。やがて後嵯峨天皇は、皇子・後深草天皇に譲位し、20
	年間院政をとる。この間、長子の後深草天皇(兄)を退位させ、次男亀山天皇(弟)を即位させて、さらに亀山天皇の皇
	子を継承者とした。
	後嵯峨天皇が兄弟のうち兄よりも弟をかわいがったため、この兄弟にはしこりが残り、やがてこの二人が持明院統(後深
	草)と大覚時統(亀山)の始まりとなって、南北朝の戦いへ発展する。後嵯峨天皇が後深草天皇を嫌った理由として、病
	弱で好色だったためとも伝えられる。後嵯峨天皇自身は、仏教信仰厚く、和歌にすぐれていたと言い、藤原基家らに「続
	古今和歌集」を撰集させている。後嵯峨天皇は幕府の意向で即位したこともあって、幕府との関係はすこぶる円満であっ
	たと言う。文永五年(1268)出家して法皇となり、同9年(1272)2月17日、嵯峨如来寿院で崩御した。

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	【第89代 後深草(ごふかくさ)天皇】
	異名: 久仁(ひさひと) 
	生没年:寛元元年(1243) 〜 嘉元2年(1304)(62歳)
	在位: 寛元4年(1246) 〜 正元元年(1259)	
	父:  後嵯峨天皇 第1皇子
	母:  西園寺成子(太上大臣・西園寺実氏の娘)
	皇后: 藤原(西園寺)公子
	皇妃: 藤原(洞院) 諳子、藤原相子、藤原房子、藤原成子、三善衡子  
	皇子女:貴子内親王、熙仁親王(伏見天皇)、性仁親王、幸仁親王、久子内親王、行覚親王、深性親王、久明親王(鎌倉幕府
		8代将軍)、恒助親王、永子内親王、増覚親王  
	皇宮: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ:京都府京都市伏見区深草坊町) 

	
	後嵯峨天皇より譲位を受け、4歳で即位した。勿論4歳では政務は無理で、後嵯峨上皇が院政を敷いた。在位14年後、弟
	の恒仁親王(亀山天皇)に譲位した。後嵯峨上皇は兄の後深草よりも、弟の恒仁親王を寵愛し、恒仁が亀山天皇として即位
	すると、後深草に皇子があるにもかかわらず、亀山の皇子・世仁(よひと)親王(後宇多天皇)を、生後一年で立太子した。
	後嵯峨院はさらに、皇位は亀山天皇の子孫が受け継ぎ、そのかわり後深草院の子孫には長講堂領とよばれた180ケか所に
	およぶ荘園を授けるという遺勅を残して他界した。後深草院は、これに不満を持たないはずがない。時の執権・北条時宗の
	仲介で、後深草院の皇子・煕仁(ひろひと)親王(伏見天皇)を、亀山天皇の子として皇太子に立てる事になった。伏見天
	皇が即位した弘安10年から正応3年までの4年間が、後深草院の院政の期間で、彼が天皇家の家長としての実権を握った
	のはこの時期だけと言われる。永仁6年〈1298〉、伏見天皇の皇子・胤仁親王(後伏見天皇)が践祚すると、今度は後宇多
	院が不満を示し、再度、幕府の斡旋で、後宇多院の皇子・邦治親王(後二条天皇)を皇太子に立てた。以後、後深草(持明
	院統)と、亀山(大覚寺統)から交代で天皇をたてる、「両統迭立」の時代が続き、やがて、南北朝の争乱に発展していく
	ことになる。後深草院は嘉元2年62歳で崩御した。後嵯峨院がどうして兄より弟の亀山天皇を寵愛したのかについては諸
	説あり、はっきりしない。

	後深草天皇の御代から持明院統と大覚寺統の対立が始まる。この対立のそもそもは、後嵯峨天皇が兄の後深草より弟の亀山
	(90代天皇)を偏愛したことに端を発しているが、対立はやがて北条、鎌倉幕府の介入による天皇譲位をもたらし、やがて
	南北朝の戦いに発展する。伏見の十二帝陵には持明院統派の天皇達が眠っている。

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	【第90代亀山(かめやま)天皇】
	
	亀山天皇は後嵯峨天皇の第2皇子。名は恒仁(つねひと)、後深草天皇同母弟。在位15年で譲位。院政をとり、のち出家。
	建長元年(1249)5月27日、外祖父西園寺実氏の今出川第で誕生、直ちに親王宣下があり、父上皇、母大宮院にこよな
	く愛され、10歳の時皇太弟に立てられる。正元元年(1259)兄後深草天皇が病気の際、譲位されて即位した。後嵯峨上
	皇は、亀山帝の皇太子にその皇子・世仁(よひと)親王をたてて、持明院統と大覚寺統の対立にさらに拍車がかかった。
	この事を恨み、ますます激昂した後深草帝は出家をほのめかす。この事態に同情した鎌倉幕府が仲裁に入り、後宇多天皇
	(世仁)の次には後深草上皇の皇子・煕仁(ひろひと)王が立つ事になる。後の伏見天皇である。
	こうした経緯のもと26歳で即位した亀山天皇は、才知豊で人望厚い帝だった。この帝が退位して上皇となってから、蒙古
	襲来が起きている。院は一族を集め、国と臣民のために「敵国調伏」を一心に祈祷し、祈願は成就する。

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	【第91代 後宇多(ごうだ)天皇】
	別名: 世仁(よひと)
	生没年:文永4年(1267) 〜 元亨4年(1324)(58歳)
	在位: 文永11年(1274)〜 弘安10年(1287)
	父:  亀山天皇   第3皇子
	母:  洞院佶子(京極院)
	皇后:  藤原忠子
	皇妃: 瑞子女王、揄子女王、堀川基子、藤原氏
	皇子女:邦治親王(後二条天皇)、奨子内親王、尊治親王(後醍醐天皇)、性円親王、承覚親王、性勝親王、他
	宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	陵:  蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ:京都市右京区北嵯峨朝原山町)

	
	後宇多天皇は亀山天皇の第3皇子で、父亀山天皇の譲位を受け8歳で践祚した。当然亀山上皇の院政が行われる。院政を行
	う「治天の君」は、天皇の親でなければならない。後宇多天皇が即位した時点で、実父である亀山帝が「治天の君」になれ
	るというわけである。
	しかし、それは亀山帝の兄、後深草上皇が「治天の君」になれないという事でもある。亀山天皇の兄であり、同じ上皇であ
	りながら、後深草上皇にとっては当然面白くない。しかも後宇多天皇は、末代の英主と言われるほどの名帝だった為、在位
	は13年9ケ月に及び、弘安10年(1287)に、伏見天皇が践祚するまで在位するのである。後宇多天皇は21歳の時、後
	深草上皇の皇子煕仁(ひろひと)親王に譲位し、この時点で、後深草上皇にとっては待望の院政が行えるようになったので
	ある。
	この時点では、「両統迭立」はまがりなりにもほぼ実行されてゆくが、やがて両統の対立は激化してゆき、大覚寺統内にお
	ける分派行動も出現して、この争いには鎌倉幕府もあきれる程の様相を呈するようになるが、その経緯については、次代の
	後二条天皇の項に譲る。文永・弘安の2度の元寇はこの帝の在位中である。父の亀山上皇と一緒になって「元国退散」の調
	伏を行った。
	後宇多天皇は幼時より学を好み、内外(ないげ)の典籍を修め、仏典の講究、仏道の修練に熱心であった。徳治2年(1307)、
	仁和寺禅助(ぜんじょ)についてにわかに出家、法名金剛性(こんごうしょう)と称した。大覚寺の側に宮室をつくり、世
	事をさけて専ら密教を修め、宇多天皇、円融天皇の例にならって東寺で灌頂(かんじょう)した。正中元年(1324)、大覚
	寺殿にて58歳で崩御、同月蓮華峰寺(れんげぶじ)の傍山に埋葬された。
	後宇多天皇が大覚寺で法皇となり、4年間にわたって院政を執ったので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれるようになり、亀
	山・後宇多の皇統を、以後「大覚寺統」と呼ぶようになる。南朝の源であり、その後持明院統派の北朝と長きに渡って争う
	ことになるのである。
	随筆「徒然草」(1330頃成立)の作者である吉田兼好は、後宇多天皇に武士として仕えていたが、天皇が正中元年崩御すると
	出家し、各地を変遷して、京都雙丘(ならびがおか)に居住した。

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	【第92代 伏見(ふしみ)天皇】
	異名: 熙仁(ひろひと)  
	生没年:文永2年(1265) 〜 文保元年(1317)(53歳)
	在位: 弘安11年(1288)〜 永仁6年(1298)
	父:  後深草天皇 第1皇子
	母:  藤原(洞院) 諳子(玄輝門院:左大臣洞院実雄の女)
	皇后: 藤原(西園寺)■子(西園寺実兼の娘:永福門院)
	皇妃: 藤原経子、洞院季子、五辻経子、三善衡子、藤原守子、藤原英子
	皇子女:胤仁親王(後伏見天皇)、誉子内親王、寛性親王、恵助親王、延子内親王、富仁親王(花園天皇)、尊円親王、尊悟親
		王、寛胤親王、道熙親王、尊熙親王、聖珍親王、進子内親王

	
	後嵯峨法皇崩御後、亀山・後宇多と大覚寺統の天皇が二代続いたため後深草天皇の持明院統が強い不満を示した。亀山天皇
	は1274年に幕府の口入によって長子の世仁親王に譲位して世仁親王は後宇多天皇(在位1274〜87)として即位、亀山上皇は
	院政を(1274〜87)開始。 そのため一半の責任を感じた執権時宗が妥協策を出し、後深草(持明院統)の皇子の熙仁が亀
	山天皇の猶子ということにして皇太子の位についた。これが両統迭立の端緒となった。

	建治元年(1275)後宇多天皇の皇太子に立てられた。正応元年(1276)即位し、西園寺実兼の娘藤原■子(後に永福門院)
	を皇妃とした。伏見天皇の践祚とともに父後深草上皇の院政となった。藤原■子には皇子女が生まれず、参議藤原経氏の娘
	経子との間に生まれた胤仁(たねひと)親王を立太子し、のち後伏見天皇となった。また伏見天皇は、生母諳子の末の妹季
	子(叔母に当る)との間に富仁(とみひと)親王をもうけ、のち花園天皇となっている。 

	立太子した熙仁親王は1287年に伏見天皇として即位(在位1287〜98)し、念願の後深草院政(1287〜1290)が実現。翌1288
	年に生まれた皇子胤仁親王が1289年に立太子。1298年に胤仁親王が即位して後伏見天皇(持明院統:在位1298〜1301)とな
	り伏見院政(1298〜1301)が開始された。 伏見・後伏見と二代にわたって持明院統からの即位となったため、今度は大覚
	寺統の不満が強まった。

	正応3年(1278)に、甲斐国小笠原一族の浅原為頼ら数人による、伏見天皇暗殺未遂事件が発生。反乱の原因は不明だが、
	両統対立がからまって、事件の背後に亀山上皇がいるという風評がたった。実際のところは亀山上皇がどの程度に関与した
	かは不明だが、この事件は、両統間の対立がきわめて深刻であったことを物語る。この時先帝の宇多帝は伏見帝より21歳
	も年下で、疑いは宇多帝とその父亀山上皇に向けられた。2帝はこの件を全面否認、誓紙を幕府に提出する事で事件は落着
	した。
	伏見上皇は後伏見、花園両天皇時代院政をとったが、正和2年(1313)政権を後伏見上皇に譲ると出家して法皇となった。
	文保元(1319)伏見殿で崩御した。53歳。

	<伏見天皇暗殺未遂事件(1290)>
	在位中、刺客に伏見天皇が暗殺されそうになる。亀山院が関与したとされるが疑惑を残したまま事件はおさまった。同年、
	後深草院は院政を停止して伏見天皇の親政が1298年まで続くこととなる。

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	【第93代 後伏見(ごふしみ)天皇】
	異名: 胤仁(たねひと)
	生没年:弘安11年(1288) 〜 延元元年(1336)(49歳)
	在位: 永仁6年(1298)〜 正安3年(1301)
	父:  伏見天皇 第1皇子
	母:  藤原(五辻)経子(参議・藤原経氏の娘)
	皇后: 藤原(西園寺) 寧子(左大臣・西園寺公衡の娘)
	皇妃: 藤原守子、藤原氏、高階邦子、治部卿局、右京大夫局  
	皇子女:尊胤親王、法守親王、c子内親王、量仁親王(光厳天皇)、尊実親王、景仁親王、承胤親王、長助親王、亮性親王、
		豊仁親王(光明天皇)、尊道親王、覚公

	
	この頃、時明院・大覚寺両統の対立は激化し、実質上の天子決定権を持つ鎌倉幕府には両統から特使が派遣され、猛烈な運
	動が展開された。業を煮やした幕府は、両統の皇太子を交互にたて、譲位は天皇の意志によるという方針を出した。
	後伏見帝もこうした流れのなかにあり、永仁6年(1298)、譲位を受け11歳で践祚。父伏見上皇の院政が行なわれた。同
	年、後宇多上皇の皇子邦治(くにはる)親王を皇太子とした。亀山法王の意向で、後伏見帝は在位2年6力月で譲位させら
	れ、正安3年正月、邦治親王践祚が実現した。後伏見天皇はいまだ14歳だった。
	治世は久々に大覚寺統に移り、後二条天皇の後見として、父後宇多上皇の院政が開始される。後伏見上皇は後に正和2年
	(1313)から5年間、95代花園天皇の御代に院政を行ない、さらに、元弘元年(1331)の後醍醐天皇の笠置脱出から、同
	3年の京都還幸まで約2年間、光厳天皇の御代にも院政を行なった。そして元弘3年鎌倉幕府滅亡の時、六波羅探題北条仲
	時に擁せられ、花園上皇、光厳天皇とともに東国に脱出をはかったが、近江国番場(ばんば)宿で捕えられて帰京、その後
	46歳で出家。それから3年後の延元元年(1336)、49歳で崩御。なお、後伏見天皇は後醍醐天皇と同じく弘安11年
	(1288)年生まれで、ともに母は五辻家出身である。

	後伏見天皇が即位後、両派の幕府に対する裏工作は熾烈を極めたが、幕府は後宇多天皇の皇子である邦治親王を皇太子とす
	る方針としてそれが実現。そして皇太子邦治は3年後の1301年に践祚して後二条天皇(大覚寺統)が誕生する。亀山法王亡
	き後、意志を継いだはずの後宇多上皇は、後二条帝の皇子・恒明(つねあきら)親王を退け我が子尊治(たかはる)を後継
	者にしようとする。大覚寺統が分裂したのである。この分裂に乗じて、今度は幕府の裁定通り、皇太子には持明院統の富仁
	親王が立ち、後二条天皇が若年で崩御したため1308年に富仁親王が践祚して花園天皇(在位:1308〜18)となる。
	次は大覚寺統の順番であったが、当時天皇家の惣領であった後宇多法皇は後二条天皇の遺児邦良親王が病弱であったことも
	あり、後二条天皇の弟の尊治親王(後醍醐)を皇太子とした。
	後醍醐天皇は、父・後宇多天皇に愛されていなかったと言われる。その為、「即位は一時的なもの。後二条天皇の息子が即
	位するまでのつなぎ」のような形で即位したのだともいわれている。この説に従えば、後醍醐は、父後宇多院の長子後二条
	天皇の早世による「臨時の帝」として即位しており、皇太子には後二条天皇の皇子邦良が据えられ、邦良の早世後には持明
	院統の後伏見天皇の皇子量仁(かずひと)親王があてられる。

	最終的には南北朝の争いへ至るこの大覚寺統・持明院統の確執は、後嵯峨天皇の、兄後深草を退けて弟亀山に対する偏愛に
	端を発しているが、深刻な皇位継承争いの出発点となるには他にもいくつかの要因がある。

	1.後嵯峨天皇が院政のあとを誰にするかを定めずに(幕府に預けて)死去したこと。
	2.天皇家の惣領たる者に政治的・軍事的権力がなかったこと。
	3.皇室領の相続問題や近臣間の権力争いが重なって両統対立が激化したこと。
	4.承久の乱以降、当時幕府が皇位の継承に大きな発言力をもっていたこと。

	等々である。この時代、政務の実権者である幕府にもあきれられたほどの権力闘争を皇室は繰り返す。そして後醍醐天皇に
	よる「建武の中興」と呼ばれる天皇親政を契機に、一気に武力抗争へと流れてゆくのである。これは、当然武士達の世界に
	も大きな影響を及ぼし、以後60年に渡る南北朝の対立時代を経て、武士達と天皇家の位置関係、力関係が固まったような
	気もする。

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	【第94代 後二条(ごにじょう)天皇】
	別名: 邦治(くにはる)
	父:  後宇多天皇 第1皇子
	母:  堀川基子(西華門院)
	皇后: 徳大寺忻子
	皇妃: 藤原宗子
	皇子女:邦良親王、邦省親王、祐助親王、聖尊親王、尊済親王、a子内親王、栄子内親王  
	生没年:弘安8年(1285)〜 徳治3年(1308)24才
	在位: 正安3年(1301)〜 徳治3年(1308)
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 北白河陵(きたしらかわのみささぎ:京都府京都市左京区北白川追分町)

	
	遊義門院に養われる。永仁6年(1298)立太子。持明院統と大覚寺統で交互に皇位を継承する「両統迭立」が成立し、後伏見
	天皇の後を受けて、後宇多天皇の皇子を推す幕府に支えられて、正安3年(1301)即位した。即位後も後深草、亀山、後宇
	多、伏見、後伏見の五上皇が院中にあり、朝政の実権は父後宇多上皇が掌握していた。「両統迭立」の争いの中、在位中に
	24歳で崩御した。歌集『後二条院御集』『後二条院御百首』がある。
  

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	【第95代 花園(はなぞの)天皇】
	別名:富仁(とみひと)
	生没年:永仁5年(1297) 〜 正平3(貞和4)年(1348)(52才)  
	在位: 延慶元年(1308) 〜 文保2年(1318)
	時代: 鎌倉時代終末
	父:  伏見天皇 
	母:  藤原季子(洞院)
	皇后: 藤原頼子
	皇妃: 正親町実子、藤原氏
	皇子女:寿子内親王、覚誉親王、源性親王、直仁親王、儀子内親王、祝子内親王、他
	宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 十楽上陵(じゅうらくいんうえのみささぎ:京都府京都市東山区粟田口三条坊町)

	
	花園天皇は、永仁5年(1297)、持明院統の伏見天皇の第2子として誕生し、12才で即位した。諱(いみな)は富仁、幼少
	時から健康に恵まれず、専ら絵画・書籍の観賞や読書研究に努めた。極めて才知があり、歴代天皇の中でもその学識や読書
	量は並はずれていた。
	しかし、12才から22才までの10年間の在位中にその才能を十分に生かす機会はなかった。実権は父の伏見上皇にあっ
	たからだ。在位10年を経た22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となった。時あたかも皇室と北条・足利
	両政権をめぐる激動の時代で、帝は殆ど政務に関与せず、ひたすら学芸に精進した。 39才で天台の円観慧鎮僧都につい
	て剃髪得度(出家)、法名を遍行と称し花園法皇といわれるようになった。
	貞和4年(1348)花園法皇は52才の生涯を閉じ、正法山妙心禅寺は花園法皇を開基としている。花園天皇には、22年間
	の行状や生活の様子を繊細に記した日記「花園院宸記」があり、法皇の人柄をしのぶことができる。 

	後醍醐天皇の御代、ある時伏見上皇に幕府打倒の異心ありとする嫌疑がかけられる。事態は何とか収束するが、その機に乗
	じて大覚寺統の巻き返しが始まる。
	89代後深草天皇に端を発した「持明院統」と「大覚寺統」の対立は、鎌倉幕府・北条体制の介入をみながら数十年に渡っ
	て継続していく。陰謀や猜疑心が渦巻き、天皇家は皇位を巡る争いにあけくれたのである。花園天皇の譲位を受けた後醍醐
	天皇の時代に至って、遂に天皇家は日本史上はじめて2系統に分かれて争い、世に「南北朝時代」と呼ばれる。
	
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	【第96代 後醍醐(ごだいご)天皇】
	別名: 尊治(たかはる)
	生没年:正応元年(1288) 〜 暦応2・延元4(1339)年(52才)
	在位: 文保2(1318)〜暦応2・延元4(1339)
	時代: 鎌倉時代終末(南北朝時代)
	父:  後宇多天皇
	母:  藤原忠子(談天門院)
	皇后: 西園寺禧子、c子内親王
	皇妃: 阿野廉子、藤原英子、藤原親子、菅原氏、藤原為子、藤原実子、藤原守子、他
	宮居:  吉野行宮(よしのあんぐう:奈良県吉野郡吉野町)
	御陵: 塔尾陵(とうのおのみささぎ:奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾「如意輪寺」内)

	
	後宇多天皇の第2皇子 。波瀾万丈の生涯と言える。尊治王の非凡さを見抜き、幼少の頃からその天皇即位を願っていたの
	は、祖父である亀山法王であったが、持明院・大覚寺両統の皇位争いは熾烈 で、尊治王が即位を果たすのは31才の時で
	ある。文保2年践祚(せんそ)し、元亨元年(1321)、後宇多法皇の院政を廃して「天皇親政」を実現する。
	後醍醐帝が最初に画策したのは、天皇家を牛耳る鎌倉幕府の倒幕である。律令政治を復活させ、天皇親政を実現する為の
	倒幕思想はその後も一貫していた。最初の幕府討伐計画は、計画が事前に漏れて挫折する(正中の変)。元徳3・元弘元年
	(1331)、再度の倒幕計画も鎌倉に察知され笠置に逃れ籠城したが、結局捕えられて翌年隠岐に流される(元弘の乱)。

	護良親王・楠木正成(くすのきまさしげ)らの再挙が引金となり諸国の反幕運動が急速に展開した機に乗じて正慶2(元弘
	3年)隠岐を脱出し、伯耆船上山において討幕の宣旨を発した。宣旨を受けて足利尊氏は鎌倉から離反し、新田義貞が鎌倉
	を攻略して、北条高時は自害する。正慶2(1333)年、ここに、源頼朝以来140年にわたった鎌倉幕府は滅亡した。
	幕府倒壊後、京都に帰り公家一統の政治を開始、翌年建武と改元。記録所(一般政務担当所)を復活させ、雑訴決断所(裁判
	所)、武者所(警護・警察)、恩賞方、武者所、雑訴決断所などの中央諸機構を整備すると共に、地方に国司と守護を併置し
	て治安維持にあたらせた。
	しかし、後醍醐帝の思想はあくまでも、天皇や貴族中心の律令政治を目指しており、その政治の「朝令暮改」ぶりは人民
	や武士達の不満をつのらせ、また、武士の支援によって鎌倉幕府を倒したのにもかかわらず、武士達への恩賞も少なく不
	公平で、さらには、武士の影響力を排除しあくまでも貴族の力で政治を行おうとしたため、「建武の中興(新政)」は2
	年たらずで破綻を迎えることになる。

	建武の中興(新政)に不満を持つ武士達は足利尊氏を焚きつけ、建武2年(1335)足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻す。持明
	院統の光厳天皇の院宣(いんぜん)を手に入れた尊氏は、反後醍醐帝の武士達を従え、光厳天皇をたてて京に入った。理
	想主義と絶対君主制に裏打ちされた武家冷遇の親政は、あまりに現実とは遊離しており、尊氏の離反は時間の問題に過ぎ
	なかったのである。
	翌年北朝の光明天皇が即位すると、尊氏の強請で持明院統の光明天皇と和し、神器を渡したが、間もなく吉野(奈良県)
	に走り南朝を建てた。情況から和睦を選んだ後醍醐帝だったが、その実体は尊氏幕府の容認であり、完全な敗北であった。
	ほどなくして室町幕府が誕生。帝は吉野において、全朝敵を滅ぼすという悲願を達成する事も、京都回復の企ても成らず、
	後村上天皇に譲位した翌日崩御して、波瀾の生涯を閉じた。暦応2・延元四(1339)年。
	この時後醍醐天皇が光明天皇に渡した三種の神器は、実は偽物で、本物は後醍醐帝が吉野に携えていったという。南朝方
	の皇統正当性の主張はこの点にもあるのである。その後、南朝(宮家)と北朝(武家方)との対立の時代を迎える。97
	代後村上天皇、98代長慶天皇、99代後亀山天皇と、南朝方の天皇達は、各地を転戦しながら北朝と約50年にわたっ
	て戦い続けるのである。
	吉野にあった南朝の神器は、賀名生(がのう)、金剛寺を経て、半世紀後の元中9年(1392)、南北朝の合体により、京都
	に戻された。

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	【第97代(南朝2代)後村上(ごむらかみ)天皇】
	別名: 憲良(のりなが)、のち義良。
	生没: 嘉暦3(1328)年 − 応安元・正平23年(1368) (41歳)
	在位: 延元4(1339)年 − 応安元・正平23年(1368)
	父:  後醍醐天皇 第8皇子
	母:  阿野廉子(新待賢門院)
	皇后: 
	皇妃: 女御・藤原氏
	皇子女:寛成親王(長慶天皇)、熙成親王(後亀山天皇)、惟成親王、師成親王、泰成親王、説成親王、良成親王、皇女某
	皇居: 吉野宮(よしののみや:奈良県吉野郡西吉野町)、住吉行宮(すみよしのあんぐう:大阪府大阪市住吉区)、
	    賀名生宮(あのうのみや:奈良県吉野郡西吉野町)
	御陵: 観心寺 檜尾陵(ひのおのみささぎ:大阪府河内長野市寺元) 

	
	父後醍醐天皇同様、「反北朝」は徹底していた。幼少から戦塵の中で育ち、歴代天皇の中では珍しい武闘派である。1333
	年わずか6歳で北畠親房・顕家に擁せられて陸奥へ参戦、東国の武士を統合する。1339年12歳で父後醍醐天皇の後を受
	け吉野で即位した。以後、在位は30年に及ぶ。帝は再三京都奪還を図り、一時的に京都を占拠したが1ヶ月足らずで敗
	走し、結局都の奪還はならず、以後、賀名生、住吉、河内、などを転々とした。1352年に京都占拠後敗走した時は、帝自
	ら褐色の鎧・直垂を身につけ、乗馬の鞍に神器をくくりつけてようやく賀名生へ落ち延びたというエピソードが『太平記』
	に載っている。

	帝は、正平7年(文和元年:1352)に吉野から住吉大社へ移り、正印殿(しょういんでん)を行宮にした。その後はここが
	南朝の中心地となり、正平23年(応安元年:1368)後村上天皇がここで崩御して長慶天皇が即位し再び吉野に移るまで、
	約9年間行宮であった。晩年は北朝との和平も工作したようだが、成果は得られなかった。
	同じく和平派だった楠木正儀が北朝の軍門に降るのは、帝の死の翌年のことである。御陵は、河内(現河内長野市)の観
	心寺に作られた。享年41歳。

	北畠親房(1293-1354)の書いた「神皇正統記」は、皇統と各天皇の御代の記事が書かれた資料ではあるが、執筆の主た
	る目的はやはり南朝の正統性を主張することにあった。幼い後村上天皇の教育の為とも、関東武士に読ませて檄を飛ばす
	ためとも言われているようだが、南朝方にとってはこの本は精神的な支柱になり、日本書紀等に深く根ざした教養を母体
	にして書かれたこの著は、対立した側である北朝の人々にもよく読まれたという。
	北畠親房は、長子の顕家とともに後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて、いったん奥州に下り、その後再び義良親王とと
	もに中央に戻って、天皇や親王を守って活躍した。後村上天皇が賀名生へ移った際、親房らも同行し、親房はその地で正
	平9年(文和3年:1354)62歳で他界している。その後北畠家は伊勢を本拠地にして南朝を支え続けた。顕家が足利勢と
	戦った古戦場である大阪の阿倍野神社は、北畠親房・顕家親子を祀っており、阪界電車の軌道沿いに今も北畠町が現存し
	ている。

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	【第98代(南朝3代)長慶(ちょうけい)天皇】
	
	長慶天皇は、正平23年(1368)後村上天皇崩御の後を継ぎ即位した。後醍醐天皇、後村上天皇、そして長慶天皇と続く
	南朝3代目の天皇である。弟の4代目後亀山天皇に譲位するまで、およそ16年間在位したとされる。長慶天皇も父後村
	上天皇と同じく対北朝強硬派で、南北朝の戦乱の中にその生涯を過ごした。足利幕府の軍勢は、各地の行宮に頻繁に攻撃
	をしかけ、帝はこれに応戦し続けた。大和吉野から、河内金剛寺、大和五條の栄山寺と転戦している。弟に譲位した後は、
	各地の南朝方の武将を訪ね、南朝への協力を求めたと言われているが、その為「長慶天皇墓」と称する陵墓も全国各地に
	点在している。陸奥国(青森県)、川上村(奈良県)など20ヶ所に及ぶとも言われている。

	この帝は動乱期の天皇だと言うこともあってその生涯については謎が多く、即位についても疑義が多かった。江戸期に
	は歴代天皇とは見なされていなかったが、それでも『大日本史』などは、本紀に第71代として長慶天皇を列記していた。
	明治を経て、大正年間に至っても即位は確認されなかったが、大正4年頃『長慶天皇御即位の研究』(八代国治著)と
	いう論文が発表され、大正15年10月21日付詔勅で皇統に加えられた。その後宮内庁は、昭和19年になって、京
	都嵯峨の慶寿院跡を「長慶天皇御陵墓」と決定した。例によって宮内庁による詳細な調査が行われたようであるが、こ
	こを長慶天皇陵とする確固たる証拠は見つからなかったようだ。結局、一番ゆかりの深いこの地が選定されたようであ
	る。この帝の著作集として、『仙源抄』『長慶院御千首』等がある。

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	【第99代(南朝4代)後亀山(ごかめやま)天皇】
	
	南北朝動乱期にあって、特に南朝は各地を転戦していたため記録らしい記録が殆ど残っていない。南朝第4代後亀山天
	皇は、後村上天皇の第2皇子で長慶天皇の弟にあたるが、出生年月日も不明である。何処で生まれたかの記録もない。
	この天皇が歴史に名を残すのは、南北朝の争いを終結した天皇としてである。
	足利義満は主要な守護大名達を滅ぼす一方、北朝の朝廷が持っていた各種の権限にも介入してゆき、京都の警察権・裁
	判権も掌握する。その一方で南朝の凋落は激しいものがあった。北畠顕能・宗良親王・懐良親王など各地での戦闘を指
	揮してきた重鎮たちがたてつづけに死去し、もはや戦い続行は不可能な状態になっていた。そのため、講和派の後亀山
	天皇により和平がはかられることになる。
	37歳で即位した帝は、在位10年目に大内義弘の仲介を得て、南北朝統一に踏み切る。南朝元中9年(北朝明徳3年
	・1392)南北朝の講和が大覚寺で行われ、南朝の後亀山天皇が、北朝第6代の後小松天皇に三種の神器を譲る。後醍醐
	天皇吉野潜行以来、約半世紀ぶりに南朝は京都へ還幸したのである。講和後、後亀山天皇はそのまま大覚寺に入り、こ
	れをもって56年に及んだ南北朝の戦いは終わりを告げる。後小松天皇は6歳で即位し、10歳の時南北朝統一を見た
	のである。講和の条件は以下の通りであった。

		一、三種の神器は、後亀山天皇から後小松天皇に譲位される形式で渡されること。
		一、今後皇位は、両朝迭立とすること。
		一、国衙領は、すべて大覚寺統のものとすること。
		一、長講堂領は、すべて持明院統のものとすること。

	しかしながらその後、これらの条件は全く遂行される事がなかった。約束だった「三種の神器譲渡式」も行われず、両
	朝迭立の約束で、東宮(皇太子)となるはずであった後亀山天皇の皇子にも一向にその気配なく、領地譲渡の話も手続
	きは進まなかった。一方で三種の神器を得た後小松天皇側は、これで正統天皇の証が戻ったとして朝廷内外にその認知
	を求める。後亀山法皇を迎えた幕府側の処遇は冷ややかそのものであった。今や揺るぎない地位を確立した足利幕府に
	とって、滅び行く南朝など顧みる価値のない、反乱者の群れとしてしか映っていなかったのかもしれない。足利義満は
	「明徳条約」を悉く反古にする。しかも、京都における大覚寺統は、幕府の厳しい監視下に置かれ、後亀山法皇をはじ
	めとしてその行動の自由は制限された。

	ここに至って、応永17年(1410)後亀山帝は、突如嵯峨野を出て旧南朝拠点の吉野にむかった。後醍醐天皇に習い、
	幕府に反旗を翻す志を天下に示し、和平の条件の履行を幕府にせまることにこの行動の真意があったとされている。し
	かし後亀山帝の努力もむなしく、「両統迭立」の破棄を見せつけるように、後小松天皇は応永19年(1412)年、我が
	子実仁親王(称光天皇)に譲位してしまったのである。後亀山帝はこれに対抗し伊勢の北畠満雅(みつまさ)を挙兵させ
	たが、その力は弱くとても南朝再興というようなものではなかった。その後、後亀山帝は吉野に応永23年(1416)ま
	で滞在したが、すべての望みを絶たれ、むなしく嵯峨野へ戻っていった。以後、南朝系統の天皇が皇位に就くことは二
	度となかった。この、南朝の再興運動を「後南朝時代」と呼ぶ人もあるが、とても一時代を形成したとは言えない。

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	【北朝初代 光厳(こうごん)天皇】
	異称:  量仁(かずひと)/重仁(ときひと)・持妙院殿・勝光智
	生没年: 正和2年(1313)〜 貞治3年(正平119:1364) (52歳)
	在位:  元徳3年(元弘2年:1332)〜 正慶2年(元弘3年:1333)
	父:   後伏見天皇
	母:   藤原(西園寺)寧子
	皇后:  三条秀子 
	皇妃:  懽子内親王、寿子内親王、藤原氏
	皇子女: 興仁親王(崇光天皇)、彌仁親王(後光厳天皇)、尊朝親王、義仁親王、光子内親王、恵厳  
	皇居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵:  山国陵(やまぐにのみささぎ:京都府北桑田郡京北町大字井戸字丸山)

	
	両統迭立(てつりつ)の原則により、後醍醐天皇の皇太子となり、後醍醐天皇が蜂起後(元弘の変)笠置山に逃れると、
	北条氏によって即位した。北条氏滅亡後廃位。光明天皇即位と同時に院政を行った。晩年は丹波に隠棲。残りの生涯を
	禅の修行に費やし、京都府の常照寺(現常照皇寺)で52才で没した。

	光厳上皇は正和2年(1313)に持明院統の後伏見天皇の第一皇子として生まれ、嘉暦元年(1326)に後醍醐天皇の皇太子
	となる。元弘(南朝)元年(1331)の「元弘の変」で、鎌倉幕府に擁立され即位するが、幕府が倒れると後醍醐天皇に廃位
	されてしまう。
	しかし建武(南朝)3年(1336)、足利尊氏が後醍醐天皇方に造反し九州に落ちて行時、廃位されていた光厳天皇から院宣
	をもらい、弟の光明天皇が即位し、光厳天皇は上皇となって院政をはじめ、ここに南北両朝の並立が開始される。
	しかし、正平(南朝)6年(1351)の正平一統により北朝は廃止され、光厳・光明・崇光の三上皇は南朝によって幽閉され
	る。そして、賀生名で以前から夢窓疎石に帰依していた上皇は、出家して法名を勝光智とした。さらに、金剛寺に移さ
	れてからは、当寺の孤峯覚明を尊信し覚明から禅衣を授けられ、法名を光智と変えた。

	この間に足利幕府は光厳上皇の皇子後光厳天皇を即位させて、北朝を再建した。延文(北朝)2年(1357)、京に帰還した
	光厳上皇は、世事に交わらず禅の修業に精進し、晩年、この常照皇寺で禅三昧の生活を送り、貞治(北朝)3年(1364)に
	崩御し、同寺背後の山国陵に葬られた。

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	【北朝2代 光明(こうみょう)天皇】
	>異称:  豊仁(とよひと)
	生没年: 元亨元年(1321) 〜 天授6年(1380)(60歳)
	在位:  延元2年(1337) 〜 正平3年(1348)
	父:   後伏見天皇
	母:   藤原(西園寺)寧子
	皇后:  三条氏某 
	皇妃:  懽子内親王、寿子内親王、藤原氏
	皇子女: 周尊、皇女某
	皇居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵:  大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ:京都府京都市伏見区桃山町泰長老)

	
	「建武の中興」を実施した後醍醐天皇は天皇親政に走る余り武家達の反感を買い、離反した足利尊氏の立てた北朝の光明
	天皇に「神器」を渡して吉野に隠遁する。程なく室町幕府が成立し「南北朝時代」の幕開けとなるが、実は後醍醐天皇が
	光明天皇に渡した神器は偽物であったという。ここに南朝方の正統性主張の由縁がある。光明天皇の時代から南北両朝で
	別々の年号を使用する。第93代後伏見天皇の第2皇子。

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	【北朝3代 崇光(すこう)天皇】
	異称:  益仁(ますひと)
	生没年: 建武元年(1334) 〜 応永5年(1398)(65歳)
	在位:  正平4年(1349) 〜 正平6年(1351)
	父:   光厳天皇
	母:   三条秀子
	皇后:  庭田資子
	皇妃:  治部卿局、三条局
	皇子女: 栄仁親王、興信親王、弘助親王、瑞室、阿栄蔵王、皇子某、皇女某
	皇居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵:  大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ:京都府京都市伏見区桃山町泰長老)
	

	北朝初代光厳(こうごん)天皇の皇子。15才で践そ、3年間在位。北朝後ろ盾の足利尊氏・直義兄弟はしばしば対立を
	繰り返し、この天皇はそれから逃れるためしばしば持明院に逃げ込んだ。南朝・北朝の戦いは戦火・和睦を試行し、南北
	朝の和睦時この帝は北朝の「神器」を南朝方の後村上天皇に渡してしまう。そのため以後2代、北朝に「神器」は無い事
	になる。

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	【北朝4代 後光厳(ごこうごん)天皇】
	異名: 彌仁(いやひと)
	生没年:延元3年(1336) 〜 文中3年(1374)(37歳)
	在位: 正平8年(1353) 〜 建徳2年(1371)
	父:  光厳天皇
	母:  三条秀子
	皇后: 藤原(紀)仲子(崇賢門院、中納言典侍:父は石清水八幡宮祠官法印通清)
	皇妃: 藤原氏、橘氏、右衛門佐局
	皇子女:亮仁親王、緒仁親王(後円融天皇)、行助親王、覚叡親王、永助親王、堯仁親王、覚増親王、道円親王、寛守親王、
		明承親王、寛教親王、聖助親王、堯性親王、治子内親王、見子内親王、秀仁

	
	北朝初代光厳天皇の第2皇子。正平(南朝)6年(1351)の正平一統で北朝が廃止され、光厳・光明・崇光の三上皇は南朝に
	幽閉される。
	南朝が吉野、賀生名等を変遷する間、足利幕府は出家する予定だった光厳上皇の皇子弥仁親王(後光厳天皇)を即位させ
	て北朝を再建した。帝は14歳で即位するが、譲位もなく三種の神器もない即位だった。
	この天皇の御代も、南北朝の戦いのまっただなかである。足利尊氏は、晩年にいたって弟直義との対立以来相次いでいた、
	幕府内の権力争いに終止符を打つことができなかった。直義と高師直を失った尊氏は、幕府を安定化することもできず、
	晩年を実子で直義の養子となっていた直冬や、楠木正成の遺児・正儀との戦いに費やす。南北両朝は、京都を奪われたり
	奪還したりという闘争を繰り返し、後光厳天皇はその都度、北朝に奉じられて近江・小嶋(揖斐川町)・その他へ逃れる
	という逃避行を繰り返す。
	正平一統によって連れ去られた光厳・光明・崇光の三上皇だが、延文2(1357)年には京へ帰還する。この上皇達の還京に
	よって、北朝はさらに崇光皇統と後光厳皇統とに分裂する事態になった。崇光上皇は、京に戻ると後光厳の次には自分の
	皇子をと望むが、後光厳帝にとっては自らの皇統に継がせようとするのが当然であった。双方から幕府へ働きかけたが、
	幕府にすれば皇統のもめ事に介入することは得策ではなく、結局時の帝である後光厳帝に一任して、後光厳系皇統が続く
	事となった。皇統は北朝と南朝だけではなく、北朝内部でもまた分裂が起きていたのである。応安7年(1374)1月、第2
	子の後円融天皇へ譲位していた後光厳上皇は37歳で崩御する。

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	【北朝5代 後円融(ごえんゆう)天皇】
	異名: 緒仁(おひと)
	生没年:正平13年(1358) 〜 明徳4年(1393)(36歳)
	在位: 文中3年(1374)  〜 弘和2年(1382)
	父:  後光厳天皇 第2皇子
	母:  紀仲子
	皇后: 藤原(三条)厳子(通陽門院)
	皇妃: 藤原今子、右衛門佐局
	皇子女:幹仁(後小松天皇)、道朝親王、珪子内親王

	
	14歳で践祚。以後11年間在位した後は院政を敷いた。この院政時代は比較的安定していた。と言うより時の将軍足利
	義満の時代が安定していたと言ったほうがいいかもしれない。室町幕府三代将軍足利義満(在職1368〜94)は、歴代の足
	利将軍のなかにあっては極めて非凡な才能を発揮し、それまでどちらかと言えば「衆合の議」で、有力豪族を中心にした
	寄り合い所帯だった幕府を、名実ともに「足利」幕府にした。尊氏の孫義満が将軍になったのは17歳の時(正平23年・応
	安元年:1368)で、室町幕府はその頃足利氏が将軍として統治する幕府ではあったが、幕政は細川・斯波などの有力守護
	大名の連合政権で成り立っていた。しかし義満は次第に頭角を現し、有力守護を牽制しながら足利氏の力を他の氏族と比
	較できないほど強化していく。元中7年(明徳元年:1390)美濃・尾張の内乱にかこつけ土岐氏を滅ぼし(美濃の乱)、
	翌元中8年(明徳2年:1391)の明徳の乱では山名氏を滅ぼすのである。山名氏は、山名時氏が前将軍足利義詮に降って、
	丹波・丹後・因幡・伯耆・美作5ヶ国の守護を安堵されて以降大いに繁栄し、一族で11ヶ国を独占するようになってい
	た。当時の日本は66ケ国と言われているので、11ヶ国と言えばその6分の1になる。そこで世人は山名一族の繁栄を
	讃歎し、「六分の一殿」と呼んだと言われる。だが、「明徳の乱」の戦いは一日で勝敗を決し、乱後山名氏が保持できた
	のは、但馬・因幡・伯耆の三ヶ国だけで、結果、山名氏は勢力を大幅に後退させた。義満の有力守護の力を排除していく
	一連の政策の結果、足利義満は実質的な日本の元首となったのである。
	実は足利将軍は徳川の御代と同じく15代続くのだが、義満以後、これほどの人物は出現していないように思える。義満
	と後円融天皇とは従兄弟同士でしかも同い年。足利将軍家に擁立された天皇ではあるが、若い頃の関係はどうであったの
	か非常に興味をそそられる。この帝は学問や伝統文化を愛し、義満の庇護も受けて学芸にいそしんだ。「後円融院御百首」
	を残している。

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	【第100代(北朝6代) 後小松(ごこまつ)天皇】
	異名: 幹仁(もとひと)
	生没年:天授3年(1377) 〜 永享5年(1433)(57歳)  
	在位: 弘和2年(1382) 〜 応永19年(1412)
	父:  後円融天皇 第1皇子
	母:  三条厳子
	皇后: 日野西資子
	皇妃: 日野西資子、藤原経子、藤原氏、藤原氏、
	皇子女:宗純、実仁親王(称光天皇)、理永

	
	足利尊氏は北朝により征夷大将軍に任命され室町幕府が成立する。後醍醐天皇は吉野山に逃れ南朝を興し、深い山々を彷
	徨しながら抵抗を続け、以後南北朝対立状態は56年間続いて行くが、それがこの帝の御代に終焉を迎える。

	足利義満は主要な守護大名達を滅ぼす一方、北朝の朝廷が持っていた各種の権限にも介入してゆき、京都の警察権・裁判
	権も掌握する。その一方で南朝の凋落は激しいものがあった。北畠顕能・宗良親王・懐良親王など各地での戦闘を指揮し
	きた重鎮たちがたてつづけに死去し、もはや戦い続行は不可能な状態になっていた。そのため、講和派の後亀山天皇によ
	り和平がはかられ、有力守護大内義弘の仲介によって南北朝の統一が達成された。元中9年(明徳3年,1392)閏10月5日、
	南朝の後亀山天皇(第99代)が皇位の象徴である三種の神器を北朝の後小松天皇に譲り、両者の合一が実現した。後小
	松天皇は6歳で即位し、10歳の時南北朝統一を見る。後亀山天皇は三種の神器を渡す時、両者の系統が交互に皇位に就
	く両統迭立(てつりつ)を交換条件としたが、実際に後小松天皇が皇位についた後、統一朝廷側はその約束を反故にし、
	以後南朝系統の天皇が皇位に就くことは二度となかった。

	足利義満については、後小松天皇は実は後円融天皇の皇子ではなく足利義満の子であったとか、北朝の後小松天皇も滅ぼ
	して、自分が天皇になろうとしたとかの逸話が残っている。実際、将軍勇退後、当時の東アジア世界の「盟主」であった
	「明」の皇帝・洪武帝に朝貢し、1395年、「日本国王」の称号を獲得している。死後、朝廷より「太上天皇」の尊号
	を贈られたが、息子で第4代将軍の義持がこれを辞退した。後小松天皇の御代は無力ながら30年を越え、一説には禅僧
	として有名な一休はこの後小松天皇の皇子と言われる。

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	【第101代 称光(しょうこう)天皇】
	異名: 躬仁(みひと)  
	生没年:応永8年(1401) 〜 正長元年(1428)(28歳)
	在位: 応永21年(1414)〜 正長元年(1428)
	父:  後小松天皇
	母:  日野西資子
	皇后: 
	皇妃: 日野光子、藤原氏、源氏、鴨氏  
	皇子女:胤仁親王(後伏見天皇)、誉子内親王、寛性親王、恵助親王、延子内親王、富仁親王(花園天皇)、尊円親王、尊悟
		親王、寛胤親王、道熙親王、尊熙親王、聖珍親王、進子内親王

	
	称光天皇の父の後小松天皇は、はじめ北朝の第6代天皇として即位したが、明徳3年(1392)南朝の後亀山天皇(99代)が三
	種の神器を後小松天皇に譲り、ここに南北朝の統一がなり、後小松天皇は第100代天皇となる。この時、天皇は北朝側
	・南朝側から交互に出すという両統迭立の約束がなされたが、室町幕府・北朝朝廷のごり押しによりそれは実現しなかっ
	た。14歳で即位した帝は、後小松天皇の第1皇子で父後小松上皇が院政を行った。我が子を次期天皇にという後亀山天
	皇の期待は完全に打ち砕かれた。この時点で、南朝の夢は完全についえたことになる。この時南朝側から異議申し立てが
	出て、その不穏な空気は各地に飛び火して各地で反乱が勃発した。
	称光天皇は仏教に深く帰依し、身を潔斎して女性を近付けなかったため後継ができず、また両統迭立を破ったために起き
	た各地の反乱に神経を病み、28歳で夭折してしまう。そこで後小松上皇は、北朝第3代天皇・崇光天皇の曾孫の彦仁親
	王を後継者に定め、第102代後花園天皇とした。ここでもまた南朝は無視され、以後、後花園天皇の系統が天皇を継い
	で行くことになる。

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	天皇諡号で、以前の天皇の名前に「後」の字を冠したものがある。第68代の後一条天皇を皮切りに26天皇の例がある。
	ところが、第89代後深草天皇の場合、それ以前に「深草」天皇は存在していない。これは、実は第54代仁明天皇が
	「深草」帝と呼ばれていた事から来たものであり、同様に、後小松天皇(100代)、後柏原天皇(104代)、後奈良天皇
	(105代)、後水尾天皇(108代)に関しても、それぞれ光孝天皇(58代)、桓武天皇(50代)、平城天皇(51代)、清和
	天皇(56代)の異称が、「小松」、「柏原」、「奈良」、「水尾」として出現していたからである。
	諡号は一般に死後付与されるが、その名前の選択には当然政治的な意味合い、主張が込められている。その系統の正当性
	を主張する場合が多い。尚、諡号を生前に自分で決めてしまった唯一の天皇が後醍醐天皇であり、まさに「異形の王」に
	相応しい所業である。


	
	<三種の神器>
	
	後亀山天皇から後小松天皇に三種の神器が譲位されたことで、一応南北朝の戦いは終結する形になる。以来、正当な皇統
	は北朝とされていたが、明治天皇は南朝が正統だと勅裁した。それは三種の神器が南朝にあったからだという。つまり、
	三種の神器を持っているほうがあくまでも正統なのである。しかし明治天皇は「北朝もまた正統である。」というわけの
	わからない裁決をして、現在、歴代の天皇譜は南朝方の天皇で正統をつなぎ、北朝方の天皇は「北朝一代、二代、・・・」
	と数えることになっている。

	では、正統性の基幹になった三種の神器とはいったい何なのだろうか。以下、これも「日本史の謎」に書いた三種の神器
	から転載する。

	「三種の神器」とは「鏡」「玉」「剣」の三種を言い、皇位を保証する宝物として代々の天皇が継承してきた。一般には、
	「八咫鏡」(やたのかがみ)「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)までは良く知られている。玉は「八坂瓊曲玉」(やさか
	にのまがたま)という。鏡と玉は天照大神の岩戸籠もりの時に造られ、剣は素戔嗚尊が山岐大蛇(やまたのおろち)を退
	治したときその尾の中から出現し、霊剣故に素戔嗚が天照大神に献上したとされている。
	いずれも日本神話の高天原世界の話であり、現世とは異なるいわば「超空間」での事象だけに、三種の神器と天皇家の結
	びつきを強く否定する意見も学会には存在する。即ち、前期古墳に顕著な鏡・玉・剣を、天皇家の「三種の神器」と結び
	つけたり、古代豪族の系統に天皇家の祖系をたどったり、その源流を弥生時代北九州の墳墓に求めようと言う動きなどは、
	意味がないというわけである。鏡・玉・剣のセットは、本来民俗祭祀に依代(よりしろ)として用いられてきたものであ
	って、天皇家の神璽とは関わりがないし、前期古墳の鏡・玉・剣セットとも何ら関係なしという。むしろこの民俗祭祀が、
	「記紀」編纂にあたって神話の中に取り入れられたのだというのである。これは一つの見方であるが、同じような見解は
	津田学派と呼ばれる学者達の中に見受けられる。本来は「人民の宝物」であったと主張したい気持ちも分からなくもない
	が、これこそなんだか政治的な臭いがしてしょうがない。

	学問的に見て、鏡・玉・剣のセットが民俗祭祀に用いられたという証拠などはどこにもない。むしろ、鄭重に埋葬された
	「権力者」や「豪族」と思われる弥生墳墓や古墳からこれらは出土するのである。民俗祭祀の依代よりも、「権力」や
	「財力」の象徴として使用された事は明らかである。それ故に、「大和朝廷」を確立し体制・基盤を確固たるものにした
	初期天皇家にとってもこれらは宝物だったのである。「三種の神器」をトレースする事の意味は、ただ単にそれらがどん
	な形状でどんな大きさ重さをもっているかといった興味などではない。「三種の神器」がいかにして「三種の神器」とな
	っていったか、天皇家はいかにしてこれを皇位継承のシンボルとしたか等々を探る事により、「大和朝廷」成立前後の我
	が国の古代にスポットを当てようというものである。好む好まないにかかわらず、「天皇家」と「三種の神器」は強く結
	びついている事を認めなければ、古代史研究には踏みこめないと思う。



	
	文献に現れる「三種の神器」を見てみよう。

	ニニギの尊の地上降臨に際して天照大神から授けられた神宝には差違が見受けられる。「記紀」の時代においては宝物と
	いう意味では剣と鏡が中心であったようである。「神器」と言う言葉が広く定着するのは「南北朝」の頃だとも言われて
	いる。しかし「鏡・剣・玉」のセットもまた、王権のシンボルとして認識されてはいたのである。
	八咫の鏡にいう「八咫」とは一体何だろうか。これは長さの寸法であるとの考えがほぼ定説となっている。手のひらを大
	きく広げて親指の先から中指の先(通常の人はこの指が一番長い)までを一咫として、これを八個分つなげた長さの円周
	を持つ鏡という説と、1咫は8寸という中国古来の寸法で8咫分(約180cm)という円周を持つ鏡という説とがある。
	後者の説がほぼ定説であるが、相当大きい直径を持つ鏡だという事は推測できる。少なくとも手のひらに乗るような大き
	さではない。この事から、糸島の平原遺跡で発見された鏡、あるいはこれと同等の大きさのものをあてる考えもある。

	伝承からもわかるように、天照大神が授けた神宝には異同があることが見て取れる。しかしいずれの伝承においても、鏡
	だけは欠くことが出来ないことから、鏡が三種の神器のなかで最も重要なものである事はまちがいないものと思われる。
	それは、天照大神自らが、これを自分の分身として即ち霊代として崇めるように宣言しているからである。そもそもは天
	照大神を岩戸の中からおびき出すために鋳造されたものであるが、その光を放つ現象、姿を映すことで神の魂が宿ると考
	えられていったり、太陽神の崇拝対象としての宝になっていったものと思われる。
	天孫降臨とともに地上にもたらされた鏡は、その後の伝承によれば、第10代崇神天皇の時代までは天照大神として宮中に
	祀られていた。しかし神の勢いが強く、これを恐れた天皇は代替品を造ってこれを宮中に残し、現物は豊鍬入姫命(とよ
	すきいりひめのみこと)に託して宮中外へ運び出させやがて伊勢の地に落ち着いた。これが伊勢神宮(内宮)の起こりで
	あり、八咫の鏡が御神体となった。(古語拾遺)
	これを信用すれば現在皇居にある鏡はレプリカという事になる。しかし、「小右記」「御堂関白記」という書物には次の
	ような記事がある。平安時代天徳4年(960年)、内裏に発生した火災のとき、剣と曲玉は持ち出せたが鏡の置いてあった
	温明殿(賢所、または内侍所とも呼ばれる)は全焼してしまった。しかし、焼け跡から無傷の鏡が3面出てきたというの
	だ。つまり宝鏡は3体あったことになる。その後も何度かの火災により鏡は焼け出され新たに鋳造したとかいう記事や、
	破片を拾い集めてそれを御神体としたという記事などが見える。
	決定的なのは文治元年(1185)、壇ノ浦で平家が滅亡した際、8才の安徳天皇とともに3種の神器は海の底に沈んでいるの
	である。(もっとも、後に海から拾い上げられたと言う話も残っている。)



	
	現在の皇居には、皇霊殿、賢所、神殿が宮中三殿として並んで建っている。中央の一段と高くなった賢所は天照大神を祀
	り、ここに鏡が安置されていると言われているが、現在では、天皇自身もこの3種の神器を見ることは許されていない。
	従って、絹房の中の鏡がどんなものなのかは誰にもわからないのである。これは本家本元の伊勢神宮に置いても同じであ
	る。天皇といえどもこの鏡を実見することは出来ないのだ。但し鏡が納められている桐箱の寸法は分かっており、それに
	よれば、直径が49cm以下の鏡だと言うことである。
	「草薙の剣」は有名である。日本武尊(やまとたけるのみこと)が駿河で狩りをしている時に、土地の豪族に野に火を放
	たれた。この時腰に差していた「天の群雲の剣」がひとりでに抜けて傍らの草むらをなぎ倒した。故に「草薙の剣」と言
	う。(日本書紀)
	熱田神宮の御神体であるこの剣は、そもそもの出現はこうである。出雲へ使わされた素戔嗚尊は、櫛稲田姫(くしなだひ
	め)を助けるために八岐大蛇(やまたのおろち)と戦った。十握剣(とつかのつるぎ)で大蛇の尾を切ったとき、刀の刃
	が欠けたので見るとなかに剣があり、これは不思議な剣だとして素戔嗚尊は天照大神に献上した。「古事記」にはこの剣
	は「都牟刈(つむがり)の太刀」と言う名で現れる。本居宣長は「都牟刈」を、「物を鋭く切る」という意味だろうとし
	ているが、こんな表現は他のどんな伝承記事にもなく、本居宣長も自分の想像で言っているだけのようである。「都牟刈」
	を「丸くなっている」意味だとして、「草薙の剣」を環頭太刀にあてる意見もある。
	鏡と同様、ニニギの尊の降臨に伴って「草薙の剣」も再び地上にもたらされる。それ以後の「草薙の剣」の足取りは不明
	である。第12代景行天皇の時、東国征伐に出かける日本武尊(景行天皇の次男)が、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)
	から伊勢神宮にあった「草薙の剣」をさずかるのである。どうして剣も伊勢神宮にあるのかについては何も伝承がない。
	日本武尊は尾張の国で宮簀姫(みやすひめ)と夫婦になるが、伊吹山に荒ぶる神々がいると聞いて、「草薙の剣」を熱田
	に置いたまま伊吹山へ向かい神々と戦って命を落とす。残された宮簀姫は「草薙の剣」を祀って社を建てる。これが今日
	の「熱田神宮」だという事になっている。(日本書紀・尾張国風土記・熱田大神宮縁起)
	この剣が熱田神宮から宮中へどのように移動したのか、あるいは鏡と同じように複製を宮中へ納めたのかについても何一
	つ伝承はない。しかし熱田神宮と宮中の二カ所に現在も宝剣は存在している(と思われる)。鏡の項で記したように、宝
	剣も安徳天皇の入水とともに海底に沈む。後に引き上げられたという話の中でも、この剣は見つからなかったとされてお
	り、第84代順徳天皇即位の時(1210)、伊勢神宮の倉から1本の剣が選ばれて三種の神器の一つに加えられた。(その後、
	壇ノ浦から剣がひとりでに浮かび上がり、その剣をある法師が発見したとかいう話なども現れている。)
	熱田神宮には、奉納以来綿々と「草薙の剣」は存在しているという事になっているが、天智天皇の頃一度盗まれた話もあ
	る。剣はまた熱田神宮へ戻っている。江戸時代に、熱田神宮の大宮司が神官達4,5人で密かにこの御神体の宝剣を盗み見
	たという記録があるが、見た者は次々に死んでいき、一人生き残った者がその記録を書いたと言うエジプトの墓荒らしの
	ような話もある。これは記事を書いた書き物が残っているそうなので、ほんとに見た記録なのかもしれない。その記事か
	ら想像できる「宝剣」は弥生・古墳時代にかけての遺跡から出土する「有柄細型銅剣」(福岡県三雲遺跡出土。吉野ヶ里
	からも出土。)に似ていると言う。勿論、現在宮中にある「宝剣」がどんなものか知る人はいない。



	
	考古学的には曲玉の出現は剣や鏡よりも古い。縄文時代からあり、石や土、時代が降るとガラスや青銅でも造られている。
	形もさまざまで長円形のもの、胎児のような形をしたもの、なめらかで曲がったものなどである。出現は古いが、曲玉が
	3種の神器に加えられたのは剣や鏡よりも後になってからのようである。津田左右吉は、ずっと後世まで天皇家の宝物は
	3種ではなく2種であったと言っている。
	「八坂瓊曲玉」(古事記には「八尺の勾珠」と表記されている)の八坂というのは、八咫の鏡の八咫と同じく大きいとい
	う事を表す一般名称だろうとされる。古事記が珠という字を使っている事から丸い真珠の事ではないかという意見もある。
	珠とはそもそも、海中に産する玉のことを言うからである。
	「記紀」伝承には天照大神が勾玉を身につけている事が記されている。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)によって高天原を
	追放された素戔嗚尊は、姉の天照大神に別れを告げるため高天原を訪れる。弟の姿を見て天照大神はまた狼藉に来たので
	はないかと疑い、誓約(うけい)を行う。その時天照大神の勾玉から男神が生まれる。この伝承に現れる勾玉の正式な名
	前は「八尺の勾珠の五百津(いおつ)の美須麻流(みすまる)の珠」という。美須麻流(書紀では御統)とは、曲玉や菅
	玉を一本の紐で繋ぎ、腕輪や首に懸けるようにしたものを言う。つまりペンダントのようなものである。また天照大神の
	岩屋籠もりの際、真坂木(まさかき:榊)に「八坂瓊曲玉」が懸けられている。これらの伝承を見ても、玉が相当昔から
	神々たちにも用いられていたことがわかる。

	しかしながら、曲玉と三種の神器との関係は不明である。どうやって三種の神器になったのかの伝承は一切ない。だが現
	に今も宮中に「玉」は存在しているし、平安時代には既に「玉」を納めた「璽箱」(しるしのはこ)が、天皇の側にある。
	記録によれば、第95代花園天皇(1308年即位)の日記に、箱には鍵がつけられ、青い絹で包まれており、四方から紫の紐
	で結ばれているとある。また、この時代既に、「開けてはならない」とされている。歴代の天皇の何人かは開けてみよう
	としたり(第63代冷泉天皇は紐をほどいたら白い煙が出てとりやめたという。)、揺すってみたり(第84代順徳天皇)し
	たようである。現在「八坂瓊曲玉」は、御所の「剣璽の間」に草薙の剣とともに安置されている。運んだ事のある侍従の
	話では、何か拳(こぶし)大のものが入っているように感じたとの事である。

	見てきたように、「三種の神器」の実体は現在確かめるすべもない。天皇家当主である天皇自身も実見を許されていない
	のであれば、誰にも実物を見るチャンスはない。即位の礼では中身は確かめず、儀礼的に箱のままあるいは袋のまま継承
	式を行っているのである。しかし、「剣」と「鏡」と「玉」が天皇家の「三種の神器」であることは疑いない。
	天皇家が一体いつ頃日本の盟主となったかについては不明であるが、少なくともこれらが「宝物」であった時代であるの
	も間違いないだろう。そして多くの古墳から出土する遺物を見ても、これらが、その古墳の主が死後の世界まで持ってい
	きたがる程の「宝物」であった事も我々は知っている。また古墳の主の大半は、騎馬民族も含めたはるか大陸・朝鮮半島
	からの「渡来人」であった事も今日ほぼ確定的である。
	天皇家がいつ頃天皇家として確立したか、ここまでの考察でほぼ解明されたのではないだろうか。そう、古墳時代である。
	その萌芽は弥生時代にある。一部の人々を除き、今日我々は「天皇家」を容認している。「可哀想だから平民に戻せ!」
	という声も聞かないし、崇め奉って「神様だぞ!」という運動もない。あくまでも「象徴」として日本に存続し続ける事
	を、現代の我々は選択している。おそらく、天皇自身が言い出さない限りこの状態は続いていくと思われる。そこに、日
	本人の日本人たる由縁が隠されているような気がしないでもない。




嵐山花灯路・渡月橋ライトアップ(2006.12)




邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 / 冬の嵐山を行く