SOUND:Across the Universe
花盛りの長谷寺
2005.4.24 奈良県桜井市初瀬







	長谷寺へは、近鉄大阪線長谷寺駅で下車。大阪からだと阿部野橋から急行で1時間以上かかるが、急行はこの駅に停車しな
	いので、直前の「朝倉」で下車して各停に乗り換える。特急券(5〜600円だと思う。)を買う余裕のある人は特急で、
	同じように「朝倉」で下車するといい。特急だと大阪から名古屋まであまり止まらないし、シートもゆったりでちょっとし
	た旅行気分を味わえる。	






	私の生まれ故郷は、福岡県朝倉市長谷山である。福岡県のほぼど真ん中に位置するこの市は、昨年(平成17年3月)まで、
	甘木市と、朝倉郡朝倉町と杷木町だった。合併して「朝倉市」となったが、その両側にはまだ「朝倉郡」が2つ存在する。
	西側は「朝倉郡筑前町」で、昨年中学生の自殺で一躍全国的に知られてしまった。東側は朝倉郡東峰村で、ここは小石原村
	と宝珠山村が合併して「東峰村」となった。筑前町もかっては「三輪町」と「夜須町」だった。つまり、平成16年までは
	1市4町2村だった「甘木・朝倉地方」が、平成の大合併で、1市1町1村になった訳である。現在朝倉市は、東西を2つ
	の朝倉郡に挟まれて、「朝倉郡筑前町」−「朝倉市」−「朝倉郡東峰村」と言う形で存在している。

	私が小さな頃から、「長谷山」という地名は、ここ奈良の朝倉にある「長谷観音」を勧請して福岡の地に持ってきたからで、
	実際、実家の向かいの山裾に「観音様」があったし、子供の自分にはここでよく遊んでいた。大きなイチョウがあって、臭
	い銀杏の実を投げ合ったり、境内でかくれんぼをしたりしていた。古記録を読むと、確かに「長谷山の庄屋、井上何某が奈
	良の初瀬より観音様を勧請した。」という記録があるので、観音様を祭ったことは奈良と関係があるようだ。しかしそれは
	歴史時代もすっと後半、すくなくとも江戸時代の初め頃で、「長谷山」という地名はその前から存在しているのである。
	そして「朝倉」という地名にしても、なぜ福岡と奈良とに同じ地名が存在するのか。私淑する安本美典博士は、甘木朝倉を
	含む福岡県一帯の住民がそっくり近畿地方へ移住したからだという。そして移住の中心になったのが、福岡県の甘木朝倉地
	方にあった「邪馬台国」だというのだ。この説は、邪馬台国九州説の中でも最近とみにその信奉者がふえつつあるが、しか
	し勿論真偽のほどは、他の邪馬台国説と同様に、いまだ闇の中である。




長谷寺の門前町として開けた初瀬の町は、近鉄長谷寺駅からの参道に土産物店や飲食店が建ち並ぶ。
この参道は、かつて伊勢神宮へ詣でる人々が歩いた道でもある。駅からは徒歩15分で長谷寺へつく。




	長谷寺

	長谷寺(はせでら、ちょうこくじ)は仏教の寺院の名称。各地に同名の寺院がある。奈良県桜井市にある長谷寺は、真言宗
	豊山派(ぶざんは)総本山の寺院。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明上人とされる。
	西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。大和と伊勢を結ぶ古い街道を見下
	ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が
	満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典
	文学にも登場する。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に出てくる「二本杉(ふたまたのす
	ぎ)」は現在も境内に残っている。

	所在地 : 奈良県桜井市初瀬731-1 
	山 号 : 豊山神楽院 
	宗 派 : 真言宗豊山派総本山 
	本 尊 : 十一面観音(国重文) 
	創建年 : 奈良時代(8世紀前半) 
	開 基 : 道明 
    別 称 : 花の御寺 
    文化財 : 本堂・長谷寺経・銅板法華説相図(国宝)、木造十一面観音立像・仁王門ほか(国重文) 




	長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱
	鳥元年(686年)、道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年
	(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについ
	ては正史に見えず、伝承の域を出ない。
	長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、
	中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)
	の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ
	寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専
	誉により現在の真言宗豊山派が大成された。十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各
	地に多く、他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。






	真言宗豊山(ぶざん)派の総本山、西国三十三観音霊場第八番札所の「長谷寺」は、万葉集で「こもりくの泊瀬(はつせ)
	山」と詠われ所に建ち、また、昔は豊初瀬(とよはつせ)とも呼ばれた所で、寺は泊瀬寺、初瀬寺、豊山寺と呼ばれていた。
	第107代後陽成天皇の御辰筆による額が掛かっている国重文の総門(仁王門)は初め、第66代一条天皇の頃、平安時代
	に建てられ、その後9回も火災にあっている。現在の仁王門は、明治18年に再建され、楼上に十六羅漢を安置し、左右の
	両脇に金剛力士(仁王)が立ち、拝観料を払って仁王門を入ると、丸い長谷寺型灯籠を梁に吊す399段の回廊形式登廊
	(のぼりろう、屋根付きの階段)が続く。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。国宝
	の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百餘社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。




	<牡丹> botan きんぽうげ科/原産地:中国
	唐の皇后・馬頭夫人(めずぶじん)の献木を、今に植えついだもので「東洋一の長谷寺の牡丹」といわれている。登廊の両
	側を中心に、本坊、東参道など境内各所に点在する牡丹園には、現在約150種、7000株が植えられている。見ごろは4月下旬
	から5月上旬。茎は高さ0.5〜1.8m の落葉低木。花は、赤・白・ピンク・紫 などがある。園芸品種が多い。根の皮は薬用に
	なる。  
	
	登楼の途中に回廊の切れたところがあって、そこに宝物殿「宗宝蔵」がある。長谷寺の持つ多くの宝物が展示されている。
	拝観料100円。


























	<銅板法華説相図>
	法華経の見宝塔品(けんほうとうほん)で、釈迦が説法していたところ、空中に巨大な宝塔が出現した場面を表現したもの
	で、縦84センチ、横75センチの鋳銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に表わされている。銅板の下部には長文の銘が刻まれて
	いる。そこには「戌年」に「飛鳥浄御原で天下を治めた天皇」の病気平癒のため、僧・道明が作ったという意味のことが書
	かれている。この戌年について、寺伝では天武天皇の朱鳥元年(686年)とするが、研究者の間では干支が一巡した文武天
	皇2年(698年)の作と見る意見が多い。(奈良国立博物館に寄託) 
	法華経、観普賢経、無量義経、阿弥陀経、般若心経、計34巻−鎌倉時代に制作された「装飾経」のセットで「長谷寺経」と
	通称される。本文の用紙は金銀の切箔などで装飾し、巻き軸には水晶を用いるなど、装飾をこらしている。 







国重文、回廊形式の「登廊」。






	国重文の「登廊」は初め、第61代朱雀天皇の頃、1039年(長暦3年)に春日大社の社司中臣信清が我が子の病気平癒
	の御礼で寄進し、現在の第一、第二登廊は、明治22年に再建されている。登廊を上がると、すぐ右に道明上人の御廟所、
	続いて宗宝蔵、月輪院、左に歓喜院、梅心院、慈眼院、金蓮院が建ち、天狗杉の角を右に曲がると蔵王堂、そこを右に見て、
	左に曲がると左右に三百余社、馬頭夫人社等が有り、108間の回廊を登り切ったら、尾上の鐘が懸かった鐘楼が建ち、そ
	こをくぐると広場の納経所を囲む様に右から能満院、三社権現、愛染堂等が並び、そして、左が舞台造り、南面入母屋造本
	瓦葺の「本堂」である。



初瀬山を背にした国重文の「本堂」(上左)。









鐘楼






	重要文化財・木造十一面観音立像(本堂安置)附:木造難陀龍王立像及び像内納入品、木造赤精童子立像及び像内納入品。

	長谷寺の本尊像については、神亀年間( 720年代)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖し
	た村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったという長谷
	寺開山の伝承がある。伝承の真偽はともかく、当初像は「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと思
	われる。現在の本尊像は天文7年(1538年)の再興。仏像彫刻衰退期の室町時代の作品だが、10メートルを超える巨像を破
	綻なくまとめている。国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。本像は通常の十一面観音像と異なり、
	右手に地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、岩の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。
	伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派
	(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式である。この種の錫杖を持った十一面観音を「長谷寺式十一面観音(長谷
	型観音)」と呼称する。 




	<本堂>  (国宝)
	本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく
	懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代から室町時代の天文5年(1536年)まで7回焼失している。
	7回目の焼失後、豊臣秀長の援助で天正16年(1588年)に新しい堂が完成した。その後、堂の雨漏りや傷みが激しいため、
	修理ではなく新築することとなり、徳川家光の寄進を得て、5年がかりの工事の後、慶安3年(1650年)に新築落慶したの
	が現・本堂である。高さ10m以上ある本尊・十一面観音像は、天文5年の本堂焼失の2年後に完成しており、慶安3年の
	新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある
	複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12
	月、国宝に指定された。





本堂の舞台から見た長谷寺と初瀬の町。




	同じく舞台から見た五重塔。昭和29年、戦後初めて建てられた五重の塔。純和様式の整った形の塔で、塔身の丹色と相輪
	の金色、軽快な檜皮葺屋根の褐色が、背景とよく調和し光彩を放っている。

 








	現在の「本堂」は、1650年(慶安3年)に徳川第3代将軍家光によって寄進、再建されているが、奈良は東大寺の大仏
	殿に次ぐ最大級の木造建造物で、間口柱間9間、奥行5間の正堂、9間・4間の礼堂の南に更に5間・3間の外舞台がある
	独特の建物である。安置されている重文の本尊「十一面観世音菩薩」は、1538年(天文7年)仏師東大寺仏生院実清良
	覚によって彫られた長谷寺型観音で、金色に輝き、右手に錫杖と念珠、左手に蓮華を挿した水瓶を持って方形の石の上に立
	ち、我が国最大の木造仏(楠の霊木)で、身の丈は3丈3尺6寸(約10m)、光背が4丈4尺(約12m)、観音と地蔵
	の徳を持っているとされる。











<しゃくなげ> syakunage つつじ科 高さ4mにもなる常緑低木。花は七つにきれこみ、おしべは14本。




		<桜> sakura バラ科
		長谷寺は一名「花の御寺」とも呼ばれ、桜は吉野と並び千年来の名所となっている。舞台造りの代表建築といわれる
		本堂や山内の堂塔伽藍が花につつまれる眺めは壮観と言う。残念ながらその季節にはまだ来たことがない。

	 	花咲かば堂塔埋もれつくすべし 虚子




		<山吹> yamabuki ばら科 (上左)
		高さ約2mになる落葉高木で、新しいみきは緑色。花びらは5枚で果実を結ぶが、八重のものは実らない。






	<謡曲「玉鬘」と「二本(ふたもと)の杉」>

	第一「登廊」の途中から右へ行くと、謡曲「玉鬘」で詠われた「二本の杉」がある。玉鬘は、源氏物語「玉鬘(たまかつら)
	ノ巻」に載っていて、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が「二本の杉」の下へ僧を案内して、亡母の侍女・右近と巡り会
	った事を話す。また、玉鬘は光源氏と契ってから生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あって筑紫へ身を隠していたが、
	母に会いたい一心で、筑紫から大和国へ来て、長谷寺で祈願をしていたら、右近と巡り合った。そして、母の死を知る訳で
	ある。この様に長谷寺の観音信仰は、どんな願いも示現してくれると云うので、王朝時代から盛んだったという。




	また、「玉鬘(たまかずら)」の「二本の杉」から更に先へ行くと、「俊成の碑」と「定家の塚」がある(上)。藤原俊成
	(しゅんぜい)は平安末期、鎌倉初期の歌人で、正三位皇太后宮大夫に至り、五条三位と称され、定家(ていか)の父であ
	る。また、藤原定家は、鎌倉時代の歌人で、正二位権中納言、晩年出家して法名を明静と云い、「新古今和歌集」の撰者の
	一人で、「新勅撰和歌集」「小倉百人一首」の撰者でもあり、彼が、1205年(元久2年)長谷寺で呼んだ歌は、

	 「年も経ぬ いのるちぎりは初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」  「新古今和歌集」藤原定家




		<花水木> hanamizuki みずき科/原産国:北アメリカ(上左)
		高さ3〜8mの落葉高木。花びらのようにみえるものは包で、花は小さく、中心にかたまってつく。 

		路端には、山藤もいまが盛りと咲いている(上右)。
		<藤> fuji まめ科 
		みきはつるになる落葉低木。ほかの物にまきつきのびる。花はふさになり、よい香りがする。






	二十代の終わり頃に、一時期夢中になって読んでいた赤江瀑の作品に「春喪祭」という短編があった。それはこの長谷寺を
	舞台にした小説で、読み終わって、長谷寺の牡丹がはなつ妖艶な世界と幽玄な初瀬の町にかすかな戦慄を覚えた。物語は、
	初瀬川で自殺したとされる若い女性の恋人と友人が、初瀬を訪れて女性の死の真相に迫るというストーリーで、詳細はもう
	よく覚えていないが、たしか、長谷寺の若い僧侶に恋した女性が、牡丹の精であるその僧侶にとりつかれて死んだというも
	のだったと思う。真夜中に、恋人と女性の友人が、長谷寺の登楼でその若い僧侶とすれ違うとき、付いてきた旅館の女将が
	二人に背後からささやく言葉だけは今になってもはっきりと覚えている。「口聞いたらあきまへんえ。あのお坊さんはこの
	世のお人ではあらへんのやさかい。」





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