2006.2.4(土) 雪
冬になると、WIFEが毎年 PTAのOB会で訪れている兵庫県香美町香住(かすみ)地区(以前は香住町だった。)の「民宿
カニ三昧の旅」に、今年は予定日が娘の結婚式と重なっていて参加できないので、WIFEはどうしても今年も行きたいら
しく、日をずらして家族で行こうということになった。
WIFEはずいぶん前から予約していて、その時は「雪なんかぜんぜんありませんよ。」という民宿の話だったので、安心
して我が家の愛車で行く予定だったが、いざ出発当日になって日本海側は前夜から大雪となり、あわててスプレッドタ
イヤ付のレンタカーを借りて、雪の日本海目指して出発した。我が家の車はフランスのプジョー306で、この車はタ
イヤの形状が異なっていて、通常のチェーンは付けられないのだ。雪国へ行こうと思ったらタイヤを取り替えるしかな
い。タイヤを買おうか買うまいかずいぶん迷っていたが、結局「雪はない。」という情報に安心していたのだったが、
急遽レンタカーにして正解だった。普通のタイヤだったらたちまち立ち往生するくらいの大雪で、途中、路肩でチェー
ンを付けている車を何台も見た。
晴天の大阪を9時半に出発したが、途中から曇天となりチラホラ白いものが落ちてくるようになった頃、高速の出口案
内に「生野」とあったので、急遽高速を降りて「生野銀山」を見て行くことにした。
<生野銀山>
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■住所 〒679-3324 兵庫県朝来市生野町小野字大谷筋33-5
■営業時間 4月〜10月: 午前9:00〜午後5:30 11月: 午前9:00〜午後5:00
12月〜2月: 午前9:30〜午後4:30 3月: 午前9:30〜午後5:00
■休館日 12月30日〜1月2日
■観覧内容 坑道・鉱山資料館・吹屋資料館・生野鉱物館(生野鉱物館は別途200円)
■観覧所要時間 約60分
■料金 大人 900円 中高生 600円 小人 400円
団体(15名以上) 810円(大) 540円(中) 360円(小) 団体(50名以上) 765円 510円 340円
身障者は一般料金の半額。(身体障害者手帳2級以上所持者、または療育手帳1種(A判定)手帳所持者)
■駐車料 無料(普通車210台、大型バス10台) 駐車場料金 無料
■運営主体 株式会社シルバー生野 679-3324 TEL; 079-679-2010 FAX; 079-679-2755
<生野町の歴史>
兵庫県朝来市生野町は、総面積112.01平方kmで、生野銀山とともに発展し、平成元年( 1989年)には町政100周年を迎
えている。四方を美しい山々に囲まれたこの町は古くは但馬の国と播磨の国の接点として開け、数多くの文化財や古刹が
残されている。しかしながら生野は、要衝の地に有りながら、町の中央を流れる市川の度重なる氾濫や、鉱毒の為に田畑
を耕しても育たず民家も少なかったので、あまり人の住めるところでは無かった様で、「死野」とも呼ばれていたようで
ある。「播磨国風土記」には、垂仁天皇が「死野」から「生野」にするよう言ったと言う話も伝わる。生野に鉱山がなけ
れば人は住まなかっただろうとさえいわれ、鉱山とともに栄えた町なのである。
(生野町は平成17年4月1日付けで和田山町・山東町・朝来町と合併し、朝来市となった。)
ことほどさように、生野といえば我々が教科書で習ったのは「佐渡の金山、生野の銀山」として知られる銀の町としてで
ある。少し歴史に詳しい人は幕末の「生野事件」も知っているかもしれない。「生野事件」とは、公卿の沢宣嘉(のぶよ
し)を擁した福岡藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)らが、幕末に天領の但馬生野で倒幕の挙兵をした事件で、農兵らを
指揮して代官所を占拠したが3日で壊滅した。国臣は、佐幕派の福岡藩にあって、いわば一匹オオカミの「勤王の志士」
だった。我が故郷「筑前秋月藩」の志士・戸原卯橘(継明)もこれに参加して、事ならず生野で自刃した。
生野鉱山は約1200年前に開坑されたとも伝わる古い鉱山で、操業時の坑道は地下880m・坑道の長さ延べ350kmにも及び、
採掘した鉱石は、金・銀・銅・亜鉛など70種類にも及んだ。明治22年以降皇室財産になったが、明治29年には三菱に払い
下げられ昭和48年にその長い歴史を閉じた。
生野の銀を運んだ生野街道は銀世界(上左)。上右は観光用に設置された「生野代官所」の門。写真はセガレと寒さに震える嫁半。
徳川時代、幕府は生野銀山で採れた銀を、すべて大阪の銀座に送った。生野で灰吹銀に精錬し、馬で姫路、兵庫、尼崎、
大阪へと輸送した。人馬による輸送では広道は必要なかったが、直轄鉱山となって、明治政府は必要な機械や石炭、塩な
どの資材を船で姫路へ運んだ為、姫路から生野への広い道路が必要になり、12里15丁(約49km)の道が整備された。これ
が「生野銀山寮馬車道」、いわゆる「生野街道」である。この道は、コワニエの指導のもとで造られたマクアダム式道路
で、一番下に粗い採石を敷き、その上に少し細かい石、さらにその上に一種の砂を並べて固めたものだった。
50台分以上のスペースを有する駐車場の奥が、一般公開されている「生野銀山の坑道」である。雪に埋もれているが、
一画に資料館、売店、レストラン、休憩所、食堂などがかたまっている。坑道へ至る門に「生野代官所」と表示してある
が、これは観光用に作られたものだそうだ。生野銀山は、発見の歴史は石見銀山より古く 807年までさかのぼると言われ
るが、1973年まで国内屈指の銀鉱山として稼働していたため、古い時期の鉱山施設や関連建造物はあまり残っていない。
生野銀山には3つの資料館が併設されている。江戸時代の鉱山立体模型をはじめ、鉱山の様子を詳しく描いた絵巻物や、
鉱山の器具類などが展示されている「鉱山資料館」。江戸時代、幕府に献上する上納銀ができるまでの製錬工程を電動人
形で再現した「吹屋資料館」。国宝級の輝安鉱、水晶、黄玉(トパーズ)など2000点もの国内産出の鉱物標本を展示
している国内最大級の、「生野鉱物館」である。今回は「生野鉱物館」はパスした。
入場料金を払って「代官所」の門をくぐる。上左の建物が鉱山資料館。右は吹屋資料館。
<吹屋資料館>
徳川時代、幕府に献上する「上納銀」を作るために、丹念に、辛抱強く精錬を繰り返していた吹大工たち。昔は精錬のこ
とを「吹屋」といい、精錬作業に従事する人のことを「吹大工」と呼んでいた。吹屋の作業は、(1)素吹(2)真吹
(3)南蛮絞(4)荒灰吹(5)上銀吹の5つの工程に分かれている。ここでは、11体の電動人形が、各工程ごとの作
業の模様を忠実に再現して、上納銀ができるまでの工程が一目でわかるようになっている。しかしマネキン人形はどうみ
ても外人やん、と思わず突っ込みいれたくなるほど場違いだった。若き日のチャールズとダイアナ妃みたいなのが作業し
ている姿はリアリティーに欠ける。どうせ再現するのなら、当時の日本人の一般的な体格、大頭・胴長・短足・浅黒とい
ったリアルなものにして貰いたかった。
<素吹の図 真吹の図>
製錬の方法で灰吹銀での一過程、上右の方は「素吹」で銀銅の荒吹が残り、下の方が「真吹」で銅鉛に熔けた銀分を取り出
す。
坑道への入り口正面。左側に「金香瀬旧露頭群跡」への坂道が付いていて、右側には以下の、徳川時代の坑道を模した坑
口がある。
江戸時代の坑道。坑口は復元されているが、坑道内部は公開されていない。
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金香瀬旧露頭群跡 山道:約600m 所要時間:往復約20分
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坑道入口横にある山上階段を上って行くと露天掘り跡が見られるそうだが、この雪ではとても先へ進めない。銀の鉱石を
掘り出した跡である。地中から噴出した鉱脈が地表に現れた部分を露頭といい、昔はこの露頭を探し当て、そこから地中
へ掘り進んで採掘した。
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雪を被ったコワニエの胸像
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明治政府は、仏人技師ジャン・フランソワ・コワニエを招き、鉱山を近代化・機械化した。坑口は、フランス式の石組で
築造されている。鉱山学を初めとして、我が国の近代化には多くの西欧の技師達が高給料で招かれて、今日の科学技術の
基礎を作った。多くは二十代三十代の若い技術者で、ほぼ十年ほど日本に滞在し、高額の退職金を携えて故郷へ帰ってい
った。淀川治水に功績のあったオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケなどは、明治6年に来日して、大阪湾に大型船が入
港できるようにするために12年もかかって構想を練り、淀川近在のハゲ山の改造から取りかかり、30年かかって大阪
湾を今のような深い海にした。国土の大半が海面下という故郷オランダで学んだデ・レーケは、土木一般に広い知識と技
術を持っていて、日本に土木工学の基礎を築いたと言える。彼が30年後に日本を去るとき、伊藤博文は5万円という退
職金を支払って彼の功績に報いている。今の貨幣価値に直せば5億円である。
生野でも、採鉱・冶金・医療などの指導者として、明治14年までの間に23人の仏人を雇用している。1年で帰る者も
いたが、10年いた者もいる。コワニエも9年生野にいたが、伊藤博文も出席して行われた「生野鉱山機械落成式」が済
むと、翌明治十年一月、故郷仏国へかえって余生を送った。コワニエの退職金については不明である。
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金香瀬坑道 観光坑道: 約1,000m 所要時間:往復約40分
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<観光坑道入り口>
1973年まで採掘されていた坑道。ここから内部へ歩いていく。道は結構は広く、見学には30分くらいかかる。未公開坑道
まで含めると、総延長350Km、地下880mの深さまで達しており、これは、東海道新幹線新大阪駅から静岡駅近くまでの距
離に匹敵するそうだ。えらいもんである。閉山した生野銀山は今、坑道が約1kmにわたって観光用に整備されている。
<観光坑道内部>
内部の各所で、作業状況をマネキンを使って解説してある。坑道の入り口側は現代(閉山時)の作業状況、出口側は江戸
時代の状況と分けてある。我々3人の他には周りに見学客はいないようで、照明はいたるところにあるが、通りかかると、
時々マネキンが自動的に動いたりして、ドキッとする。最初は誰かいるのかなと思ってしまった。一人きりで歩いたらち
ょっと怖いかもしれない。
上左下の小さな坑道には江戸時代のノミの跡が残る。
様々に色が変る光のゲートや、かつて多くの坑内作業者がその命を託し地中深く降りていったエレベーター立坑や、巨大
な捲揚ドラムのある捲揚室もある。また旧坑道では、ノミ跡も生々しい掘り跡を紹介し、江戸時代の坑内作業を電動人形
で再現している。しかし全般的に、公開から年月を経ているためか、古臭い印象は否めない。それはこのような地方の観
光施設どこもが抱える問題でもある。現代のように老若男女誰もが海外旅行に行ってしまう状況では、国内観光施設は息
も絶え絶えなのだ。海外も確かにおもしろいが、日本人はもっと国内も知るべきだ。ハワイのブランド店の通りの名前は
知っていても、佐賀県が四国にあると思っていた大卒OLを私は知っている。
江戸時代の坑道は、坑内作業者ひとりがやっと通れるほどのもので、岩肌にはノミの跡が今も残っている。このあたりか
ら廃山時の作業の模様が紹介してある。
坑道の中に、なにやら倉庫のようなものがあった。「酒やで。」というセガレの声に「何ーっ」と気色ばんで見たら、確
かに酒が置いてある。温度と冷気がおそらく酒の貯蔵にいいのだろうと思ったが、貯蔵ではなくここで銀山熟成酒「岳」
を熟成しているのだった。驚いた。山田錦を磨き上げ、蔵人と匠の技で丹念に仕上げた吟醸酒を、歴史ある生野銀山の坑
道という大自然の胎内で寝かせているのだ。1年を通じ温度10〜11度、湿度90%と一定した条件なので、日本酒にと
っては最適の環境らしい。ここで1年半から3年という、熟成の時間を重ねる。帰りに売店に寄ったらちゃんと売ってい
た。
<銀山オリジナル>
熟成酒「岳」 : 銀山の坑道内で1年以上熟成させた、まろやかな味のお酒です。
価 格 : 坑内熟成酒 “岳” 1本 2,730円 本醸造酒 “生野銀山” 1本 1,650円
連絡先 : 史跡 生野銀山(シルバー生野) 079-679-2010
また在るところには、肉の薫製のようなものもぶら下げてあったが、これは後から売店で聞いたら、実験中なのだそうだ。
うまくいけば、また「生野銀山熟成ハム」とか銘打って売り出すのだろう。廃坑もいろんな使い道があるもんだ。
坑道の中には、流れる地下水を集めた(?)滝もある。その脇には安全を祈願する小さな祠があった。
銀の総産出量についての正確な記録は残っていない。徳川時代以前はとほんど記録がない。天和03年〜安政04年の175年間
に309トンという数字があるが、これが記録から推し量れる産出量で、それ以前は推定である。また幕末期・明治初期には
その世情動乱と相まって産出量は激減しているが、近代化を図ってからは一躍増産に向かっている。
年 代 年 数 銀産量/トン
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天文11年〜天和02年 141年 636トン
天和03年〜安政04年 175年 309トン
安政05年〜慶応03年 10年 5トン
明治02年〜明治17年 16年 13トン
明治18年〜明治29年 12年 35トン
明治30年〜明治43年 14年 79トン
明治44年〜昭和47年 62年 646トン
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合 計 430年 1,723トン
この産出量は、現在の銀の価格(2006.2.18時点で、36,600円/1kg。三菱マテリアル販売価格)で言えば630億円くら
いにしかならないが、430年も掛かってこのくらいかい!と思ってしまう。しかし銀の価格は時代時代で変動していた
のだし、昔の銀の価値はおそらく今のようなものではなかった事を考えると、途方もない価値があったことが想像できる。
江戸時代の坑内作業(出口付近)
地中に黒い筋が描かれているのが、銀鉱脈。
生野銀山の開坑は、平安時代初期の大同2年(807)と伝えられるが、文献資料はない。伝承によれば、生野に銀があると
分かったのは、1200年ほど前の大同年間である。中国から仏教が伝来し、東大寺の大仏をはじめとして、全国に国分寺が
建てられ、仏像や仏具に使う銅が必要になったため、近畿地方の鉱山が調査された。その際、生野に銅はないものの銀が
あることが分かったという。
注目を浴びたのは戦国時代になってからのことである。武将たちは伝来した鉄砲を買うのに金か銀が必要で、生野の銀山
を掘りはじめた。本格的な採掘が始まったのは、室町時代後期の天文11年(1542)、当時但馬の守護大名であった山名祐
豊(すけとよ)が銀山を目的に生野に進出し銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始った。生野城を築き鉱業を主体とする政務
を掌握した。山名氏の為政15年間の採銀量は莫大な量に達したものと思われる。
その後、経営は竹田城主大田垣氏から、織田、豊臣、徳川氏へ移管し、銀山開発が盛んに行われた。最も熱心だったのは
織田信長で、生野銀山全山を占領して掘らせ、銀山の開発は最盛期を迎えていく。豊臣秀吉の時代には、銀石を求めて全
国から大勢の山師などが集まり、生野町の狭い谷筋に密集するように鉱山町が形成された。江戸時代には徳川家康が「銀
山奉行」を設置。佐渡(さど)金山、石見(いわみ)銀山と並び、徳川幕府の財政を支える主要な存在だった。やがて生
野銀山は第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。江戸時代、宝永2年(1705年)
には、「御所務山(ごしょむやま)」という最高位の鉱山に対する名称が与えられ、これを祝して山車が引き回されたと伝
えられており、山神祭の伝統行事「御見石」引きはこれにちなんだものである。慶安年間(1648年〜1652年)頃より銀産
出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称した。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増し
ている。
生野は、明治元年(1868)に貨幣制度の改革にともなう材料確保の必要から、明治政府の直轄鉱山となり、生野銀山にフ
ランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが着任した。コワニエは軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策を挙行し、
目覚ましい近代化を成し遂げた。朝倉盛明やコワニエらによって、フランス式レンガ積み建物が建てられ、鉱山関連物質
の輸送用道路「生野銀山寮馬車道」(生野〜飾磨間)が整備され、生野は明治時代の模範的な鉱山となった。
明治22年に宮内省御料局の所管に移され「御料局生野支所」と名称も変更され皇室財産となったが、7年後の同29年
(1896)には明治政府から三菱合資会社に払い下げられ、民間事業としての操業が開始された。その際宮内省から町民の
永年にわたる協力を賞賛して、当時としては莫大な金額の六萬九千円(約7億円)が下賜(かし)された。町はこの御下
賜金を基金として町政の振興を図ってきた。以後国内有数の大鉱山として稼行してきたが、次第に「山はね」などの老化
現象や、地下資源の枯渇による品位の低下などが目立つようになり、昭和48年(1973)3月22日に閉山された。
生野銀山は天文11年の開坑以来400年間、幕府又は政府の厚い庇護と町民の協力により繁栄してきたが、ここに1200
年の長い歴史に幕を閉じた。その間掘り進んだ坑道の総延長は 350km以上、深さは 880mの深部にまで達しており、採掘
した鉱石の種類は70種にも及んだ。
しかしながら生野は、廃山の翌年昭和49年には、鉱山資源を生かした地域観光開発に着手し、「史跡生野銀山」として
開園、観光化された。旧坑道を利用した約1kmの観光坑道では、坑内展示施設が設けられ、旧坑露頭群、鉱山資料館、
生野鉱物館等が建設され、現在も、年間20万人を超える観光客が訪れている。鉱石を掘っていた坑道を散策すると岩肌
には鉱脈が見られ、電気仕掛けの人形が作業風景を再現しているなど、今となっては知る人も少なくなった産業の事を楽
しみながら学習できる。
平成6年に行われた代官所跡の発掘調査では、日本で最古の銀製錬遺跡が見つかっている。なお生野城は、大正時代に撤
去されるまで代官所や生野県庁舎として地域の中心的役割を果たした。
生野銀山の繁栄とともに、銀谷の町には日本各地から大勢の人が集まってきていた。ピーク時で11,083人(昭和30
年国調)とあるが、平成16年10月の2004年国税調査では、旧生野町人口4,832人だった。
年代 稼行区分 主な記録
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807年(大同2年) 創始時代(735年間) ●露頭を発見したと伝えられる
1542年(天文11年) 戦国時代(36年間) ●山名祐豊 生野に進出し鉱山経営を開始
1558年(永禄1年) ●竹田城主 太田垣能登守銀山に管理吏置く
1578年(天正6年) 織田・豊臣時代(22年間) ●織田信長 生野奉行を置き銀山管理
1582年(天正10年) ●豊臣秀吉 生野奉行を置き銀山管理
1600年(慶長5年) 江戸時代(268年間) ●徳川家康 生野奉行を置き銀山管理
1716年(亨保1年) ●徳川吉宗 生野代官を置く
1868年(明治1年) 官営時代(22年間) ●明治政府が生野鉱山を接収し鉱山司を置く
1889年(明治22年) ●御料局生野支庁設置(皇室財産)
1896年(明治29年) 三菱時代(77年間) ●三菱合資会社に払下げ
1950年(昭和25年) ●太平鉱業(現在の三菱マテリアル)に引継ぐ
1973年(昭和48年) ●閉山
時 代 年 数 銀産量/トン 年平均銀産量
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明治以前 326年 950トン 2.915トン
明治年代 43年 136トン 3.162トン
大正年代 14年 100トン 7.113トン
昭和年代 47年 537トン 11.421トン
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合計年数 430年 1,723トン 4.007トン
* 銀産量の総計は1,723トン、年平均4トンとなる。
現代の採掘場面が終わって江戸時代の坑道展示へ行くところに、江戸時代の絵でみる生野の歴史パネルが並んでいた。
生野銀山で産出された銀は、16世紀半ばになると朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易されるなど、日本の代表的な輸出品
として海外からも注目されるようになる。また日本の銀は外国にとって交換レートが有利だったので、争って取引された。
オランダ商館日記などによると、朱印船の渡航先によって違いはあるが、輸出品は主に、銀、銅、硫黄のほかに絹織物、
刃物。甲冑、屏風などの工芸品だった。銀は、関西の貨幣経済や文化に大きな影響を与えてきたのである。また「江戸の
金づかい、上方の銀づかい」と言われるように、生野銀山は銀が主体の鉱山と考えられているが、実際には、産出する鉱
石に占める金の割合は、佐渡金山の金の比率よりも高いことがわかっている。
坑道見学のあと、駐車場脇にある売店に寄る。
<銀のインゴット>売店内に置かれていた。近年まで稼働していたことから、生野銀山産の鉱石は豊富に残存している。
売店内には金、銀、錫の粒を砂の中から探し出すことができる「砂金すくい」のコーナーもあった。この3種は生野鉱山
の主要産出資源だが、30分掬い放題で500円だった。
銀座
銀座の起源は慶長3年(1598)秀吉亡き後に伏見桃山城に入った徳川家康が、伏見に銀貨鋳造所を設けたのに始まる。関
ケ原戦に勝利した徳川家康は、慶長6(1601)年5月、通用銀の全国統一を図るため、京都伏見の地に初めて銀座を設けた。
四町にわたって会所や役宅が置かれた。家康は、日本最初の銀座を伏見・両替町に作り、堺より大黒常是を呼び寄せ通用
銀の鋳造を初めた。両替町や銀座通という名称は、この時代の名残りだ。ここでは銀の品位を決め通貨を製造したが、慶
長13年(1608)に京都に移転し、時を同じくして大坂にも銀座がおかれたが、通貨の製造はしなかった。大阪では、主に
生野・石見(いわみ)銀山の産銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割を担ったようである。
銀座の町名は現在も残り、京阪伏見桃山駅前の大手筋商店街の一角、大手筋との交差点に銀座跡の石碑が立っている。江
戸の銀座は有名だが、これは、慶長17年(1612)駿府(すんぷ)から移されたものである。
<日本で最初の銀座発祥の地>
京阪伏見桃山駅前の大手筋商店街の一角に伏見銀座跡の石碑は建っている 。昭和45年石碑建立。伏見区銀座町一丁目。
この石標は伏見銀座の跡を示すものである。当初は現地より100m南に建立されたが,昭和55年に地元の要望により
現在地に移設された。
<大阪銀座跡>
大阪市中央区東高麗橋2‐37、三精ビル前。市バス「天神橋」下車 南西約100m。昭和38年建立。
ちなみに以下は大阪の<銅座の跡>である。中央区今橋3−1の愛珠幼稚園前にあり、昭和37年に建立された。また
同年、南区島之内1−6にも「住友銅吹所跡」の石碑が当てられた。
上は、住友銅山の精錬場兼住宅の模型。買い付けに来たオランダ人と商談している模型もあって、自動的にぐるりと回
転して、内部を細かく見れるようにしてある。(大阪市歴史博物館)
ちなみに大阪市には生野区という区があって、ここは生野銀山とは関係ないのかなと思って調べたが、とくに関係は無
いようである。生野区の商店街はモロに「生野銀座」と呼ばれていて、関係在ればおもしろかったんだが。
邪馬台国大研究HP/ 遺跡めぐり/ 生野銀山