Sound: grow old with me


2006.5.14 島根県太田市大森町










	石見銀山遺跡は、東西に長い島根県のほぼ中ほど、旧温泉津町、旧仁摩町を含めた大田市の広い範囲に分布しており、その中心
	となる大田市大森町は、JRJR山陰本線大田市駅から約11kmの南西部にある。17世紀初頭には支配体制を確立するため、
	柵を巡らして柵内と柵外を区分した。この柵内(さくのうち)の範囲は、江戸時代の「正保二年石見国絵図(1645年)」によれ
	ば東西2.2km、南北2.5km、面積は約300haにもなる。
	16世紀前半から20世紀前半にかけて操業された銀鉱山の開発の諸様相を良好に残す鉱山本体と、それに伴って発達した鉱山
	町、および支配関連の山城跡とが今に残る。




	石見銀山は、鎌倉時代末期の延慶2年(1309)、大内氏により発見されたとの伝承があるが、本格的な開発は大永6年(1526)、
	伯方の豪商・神屋寿禎によって始められ、その後16世紀中頃から17世紀にかけて最盛期を迎えた。
	銀の産出が減ったあと近代には銅山として稼働したが、1923年(大正12)に閉山となった。その後、大規模な採掘や開発
	が行なわれなかったため、16世紀から20世紀初頭にかけての多くの遺跡がきわめて良い状態で保存されている。遺跡の一部
	は日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44)に国指定史跡となった。さらに、当時の柵内と呼ばれた銀山一帯には、
	寺社や民家が残り、往時の繁栄のなごりをみせている。また、銀山の繁栄と共に成立し栄えた銀山・大森の町並みも、江戸時代
	末の面影をそのまま伝えており、1987年(昭和62)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。



上左はクリックで拡大しまちゅ。駐車場の隅に「西南の役戦死者記念碑」というのがあったが、説明書きは何もなかった。




	実はここへ来たのは、午前中に出雲大社で行われた「勅使祭」に参加したからである。今年は何かの記念の年にあたるようで、
	青木参院議長も参加していた。ものものしいSPが4,5人廻りを取り囲んでいたのには驚いた。大社で貰った「直会(なお
	らい)」(弁当)を、嫁藩と二人このベンチで食った。御神酒も2人分飲んでなかなかいい心持ちになった。







 


	かっての石見銀山代官所跡が資料館になっていた。17世紀に銀山柵内から大森地区に移転した。石見銀山支配の中枢施設跡
	である。1800年頃再建されたという、表門・門長屋の建築遺構が残る。この門の左右の門長屋には大工詰所、門番詰所、
	番人詰所、脚夫詰所とか仮獄舎とかあった。資料館になっている中の建物は明治時代に建てられ、邇摩郡の郡役所や中学校と
	して使われていた。




	元々この代官所は、関が原の戦の後すぐ天領になって、大久保十兵衛が奉行として派遣され、その当時は、陣屋は要害山のふ
	もとにあった。二代目の竹村丹後守の時にこの場所に移って来た。その後銀の量も減って来たので1675年代官に格下げと
	なった。265年の間に59人の代官、奉行が江戸から派遣されて勤務していた。なかでも19代目の井戸平左衛門が、さつ
	ま芋を取り入れて飢饉を救ったことで有名。

















上左は大久保石見守長安、上右は井戸平左衛門正明


	○大久保石見守長安(1545〜1613) (おおくぼいわみのかみながやす)
	 甲斐武田氏の蔵前衆として活躍。武田氏滅亡後、徳川家康に見いだされ、初代石見銀山奉行に任じられる。斬新な鉱山経営
	によって、石見銀山の黄金時代を築きあげた。1603年に佐渡奉行、次いで伊豆金銀山奉行を兼ね「天下総代官」と言われ
	た。1613年駿河で死亡するが、死後多大な蓄財等のため、種々の罪状のもとに一族、関係者が処刑された。現在も大森町
	に自ら建立したが逆修塚がある。 

	○井戸平左衛門正明(1672〜1733)(いどへいざへもんまさあきら) 
	 大岡忠相の推挙により、第19代の大森代官に登用される。  全国的な飢饉であった享保の大飢饉(1716〜17)の折、危
	険を侵して入手した「さつま芋」によって、領民を救った名代官。 芋代官として大森町民はもとより、広く山陰地方の人々
	に愛されている。又飢饉の折、幕府の許可なく年貢の減免を断行する等おもいきった施策が幕府の法にふれ、この罪を問われ
	備中笠岡(岡山県笠岡市)の陣屋で死亡した。病死か切腹かは不明である。

















石見銀山の場所が示されている



	石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、石見銀山で掘り出された銀は銀貨と
	して広く国内で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来
	航したオランダ東インド会社さらに中国密貿易商人らとの活発な交易を支えた。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の
	一に達し、スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア、世界遺産)の銀山セコ・リコと並ぶ。日本は中国や西欧で銀産出
	国として有名になった。

	その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図(上)にも記載されるほどで、そのうちの一部を地元の義肢装具メーカーの社長
	である中村氏が私財を投じてオークションで入手、大田市に寄贈された地図にも記載がある。当然、当時西欧諸国の王侯、
	特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を
	持った船団が、インド、マレー半島、中国、そして日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で算出される銀を求めてやってき
	た。
	当然、石見銀山を手中にした武将(大内、尼子、毛利などの武将)は、積極的に海外諸国と貿易を行い、その商品の中に当
	時貴重であった『鉄砲』も含まれていた可能性もある。一方、石見銀山で採取された銀は、『丁銀(ちょうぎん)』と称さ
	れ、日本国内でも大いに流通し、基本通貨となるほどであった。


	輝き世界へ 〜石見銀山遺跡〜 :  (1)リーフデ号の海図(上)  
 
	ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会が、28日から中国・蘇州で開かれる。島根県や大田市などは3年後
	の同委員会で、石見銀山遺跡の世界遺産登録を目指す。遺跡の夢を追いながら、登録への課題や解決策を探る。

	
	南洋針路図は石見沖の日本海にポルトガル語で「as minas da prata」(銀鉱山群)と記す=矢印部分
	(東京国立博物館所蔵) 

	オランダ引き寄せた石見銀山

	戦国時代の武将が奪い合った石見銀山。それは当時、生み出す富が世界規模でも注目される存在だった。ぐるっと地球を1
	周した銀山の情報を記した海図が、東京国立博物館(東京・上野)に伝わっている。1600(慶長5)年3月、日本に初
	めてオランダから到着した商船リーフデ号が積んでいた「南洋針路図」である。
	同針路図とリーフデ号の乗組員を追うと、石見銀山がオランダを引き寄せ、それ以後、日蘭両国が関係を深めていくという、
	歴史の歯車を大きく回した実像が、浮き彫りになる。
	海図に描かれた日本は西日本のみのエビ形。国内で1カ所だけ石見沖の日本海にポルトガル語で「銀鉱山群」と記載されて
	いる。日本古地図学会の藤原英郎副会長(67)=東京都=は「石見銀山に間違いない」とした上で、明確な表記から「オ
	ランダ人にとって石見銀山は、よほど重要な情報だったと判断せざるを得ない」とみる。

	◇宣教師が位置特定
	事実、リーフデ号の最初の狙いは銀だった。戦国後期から江戸初期、世界は大航海時代の全盛期。当時、世界で銀の2大産
	出地だった中南米か日本の銀を得て、それを元手に東南アジアで香料を買い付け、本国へ持ち帰る使命を帯びていたのだ。
	藤原氏は当時、海図が目的地にたどり着くための唯一の道標だったことを挙げ「リーフデ号の海図は、ポルトガルの地図情
	報が漏れて作られた」と指摘する。
	戦国後期、ポルトガルは欧州勢の先陣を切って日本に進出。シルバーラッシュに沸く日本の銀をアジア貿易に使い、ばく大
	な富を手にした。1526(大永6)年、石見銀山の開発が引き金となり、各地で銀山が開発されていたのだ。
	その際、石見銀山の位置をキリスト教宣教師が特定。1560年代に銀山情報などを盛り込んだ日本の海図を作製し、同国
	の国家機密に位置付けた。機密の維持は日本銀貿易の独占につながるはずだった。

	◇中国貿易で巨利
	ところが、2つの事件が後にポルトガルの追放につながる。最初の誤算は、ポルトガル船の砲手で、日本への渡航経験を持
	つオランダ人ポンプが1590年に帰郷。ポルトガルが日本銀を使い、中国貿易で巨利を得ている秘密を暴露したのだ。
	さらに1592年、現場はインドのゴア。ポルトガル大司教秘書のオランダ人リンスホーテンが帰国時に、最高機密のアジ
	ア航海図や日誌を持ち出し、オランダ語に訳して出版したのだ。
	日蘭交渉などを研究する「たばこと塩の博物館」(東京・渋谷)の岩崎均史主任学芸員(50)は「この中に当然、日本の
	情報が入っていただろう」と推測する。
	これらの情報漏えいを受け、南洋針路図が1598年、オランダで完成。ついにリーフデ号を日本に到達させ、日蘭貿易の
	スタートにつながった。
	さらに徳川幕府は、1639(寛永16)年、キリスト教の布教に力を注ぐポルトガルの日本渡航禁止に踏み切る。キリス
	ト教の信者が反旗を翻した島原の乱がきっかけだった。 
	この知らせが、オランダのアジア貿易を仕切った東インド会社のジャカルタ本部に届くと、総督以下、市民も集い祝杯を挙
	げた。この時を境に、海上覇権はポルトガルから、欧州の新興国オランダに移っていった。

	<リーフデ号> 1598年6月、オランダを出帆した5隻の船団の一隻。リーフデとは「愛」の意味。船団は大西洋を南
	下、マゼラン海峡を経て太平洋に出る航海の途中、嵐に遭いポルトガルやスペインに拿捕(だほ)され四散。リーフデ号の
	みが日本に向かい、1600年3月16日、大分県の臼杵湾に漂着した。 
	(2004/06/22 山陰中央新報)














	●大森銀山重要伝統的建造物群保存地区(大森町)

	代官所から南へ約1kmにわたって続く町並みは、銀山経営の中枢として、また石見銀山御料約4万8千石の政治・経済の中心
	として大きく栄えた。街道沿いには代官所へ出仕した地役人宅や商いで賑わった町屋、公事宿をつとめた郷宿などが軒を並べて
	残されている。一般的に武家住宅は街道に面して門・土塀・庭などを設け、建物は敷地奥に建てられており、町屋は街道に面し
	て軒を並べて建てられている。建築様式は武家住宅と町屋では大きな違いがあるが、身分や職種による町割りがなされず、武家
	・商家の旧宅や、社寺などが混在してよく残っており、変化に富んだ景観が特徴である。かつてたくさんの人で賑わった町並み
	は、周囲の自然に包み込まれるようにひっそりと残されている。






	重要文化財熊谷家住宅。大森地区における最大規模の商家建築。有力商人の地位や生活の変遷を最もよく示している。代官所の
	ご用達商人であったここ熊谷家は、大森一の大規模な家で、重要文化財に指定されている。この付近は代官所関連の米蔵、銀蔵、
	向陣屋、中間長屋、馬場などが立ち並んでいた。








	大森の町並みには、寺、武家、商家、民家が一つの街の中に一緒になっている。城下町などは武家屋敷と寺町通りとかに別れて
	いるが、それらが一緒になっているのが大森の特徴である。ここは200年前の寛政12年に火が出て、町の四分の三にあたる、
	300軒以上の家が焼けたそうだ。それ以後に建った家は、防災の意味を含めて瓦や土壁が多くなっている。





観世音寺は町並みの真ん中あたりの岩山の上に築かれていて、ここから銀の採れた仙の山や大森の町並みが見える。



驚いたことに、自動販売機のケースは木製である。




















	石見銀山で産出された銀を使って作られた銀貨には以下のようなものがある。  
  
	[おとりおさめちょうぎん] <室町時代・16世紀> (上左の2枚)
	弘治3年(1557)の正親町(おおぎまち)天皇の即位に際し、毛利氏が「御取納」として献上したもの。表に極印があり、裏面
	には墨で「銀山御蔵」「四拾三匁」と記載)の文字と花押が書かれている。(島根県教育委員会 蔵) 
 
	[せきしゅうぶんろくごくようぎん] <安土桃山時代・16世紀> (真ん中1枚)
	秀吉が文禄2年(1593)の朝鮮出兵時に多量の石見銀でこの「石州文禄御公用銀」を造り、戦費に充てたといわれている。江戸
	時代に書かれた『金銀図禄』の「石見国挺銀」編は、「重サ43匁背石目、愚近藤守重 按二 此朝鮮征ノ為メニ造ラレシナルベシ」
	と記している。(日本銀行金融研究所貨幣博物館 所蔵) 
 
	[せきしゅうぎん] <安土桃山〜江戸時代>  (右2枚)
	[2枚の左](日本銀行金融研究所貨幣博物館 所蔵)
	[2枚の右]石見銀山で灰吹法によって作られた銀、江戸時代に山口県内で掘り出されたもので、完形のもの15枚、切り使いさ
	れたもの29枚で、大形のもの1枚の裏に「元亀元年五月十日」と墨書があり、このころ毛利氏の領内で使われていたことがわ
	かる。(毛利博物館 所蔵) 
 

























	この周辺に600ばかりの間歩(まぶ:坑道)があり、その中でたった一つ公開されているのが龍源寺間歩である。開発された
	のが1715年、閉じたのが昭和18年(1943)で、約230年間使われていた。坑道の公開されている部分が156m、新
	しく通り抜けのためにできた所が116mある。見学できるのはほんの一部分であり、その奥にアリの巣のように掘られている
	坑道は危険防止のため見ることはできない。龍源寺間歩は水抜き坑も兼ねていて、中には鉱脈に沿って掘った跡や、竪坑などが
	残っている。もともとは600mあったが、今は150mほどで、先には行けない。この中の平均気温は16度くらいで、冬は
	暖かく夏はとても涼しいという。










	石見銀山(大森銀山)で銀を採掘する際には、砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野
	町)で銅を採掘した際に、砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒であるヒ素化合物(亜ヒ酸)を大量に含んで
	おり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は、「石見銀山ねずみとり」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれ
	て売られた。
	一方では、銀の精錬工程として「灰吹法」という技術が使われ、そのときに鉛の蒸気を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の
	鉛中毒になった。また、鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の高温多湿、鉱滓や煤などの過酷な環境も相まっ
	て、当時の鉱夫は短命であったといわれる。
	「灰吹法」とは、金または銀を鉱石から精錬するために用いられた当時の日本においては先進的な技術である。なお、「灰吹法」
	と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。












	資料名 <石見銀山絵巻> 年代 未詳  個人蔵 

	石見銀山絵巻は、鉱山の作業風景を日本の伝統的な絵画形式である絵巻物によって描いたもので、上下2巻でその長さは延べ
	24mにも及んでいる。この絵巻の作者及び画作年代については不明であるが、絵巻中に描かれている「石留」は文政年間
	(1818−1829)以降の技術と考えられるので、従って画作年代はそれ以降であると思われる。
	また、この絵巻が何の目的のために描かれたかについても詳細は不明であるが、佐渡の場合には奉行所付の絵師に奉行の帰任
	の際に江戸への報告やお土産として作らせたものであると考えられているので、或いは石見についても同様の目的であったか
	も分からない。なお、日本に現存する鉱山絵巻の中では佐渡金銀山絵巻と非常に酷似しており、どちらかがそれを手本にして
	描いたものであるといえる。

	石見銀山絵巻は現在確認されているものとして4種類がある。なかでも上野利治氏所蔵の「石見銀山絵巻」(島根県指定)は
	絵巻を作成する際の下書であり、この資料によって他の3種類の絵巻の成立順を知ることができる。また、「銀山稼方絵巻」
	(中村俊郎氏蔵)は2巻のうち上巻だけが残っているが、この絵巻は他のものが墨書の単色であるのとは異なり、唯一彩色が
	施されており、美術的にも価値ある資料といえる。ただし、この4種類の絵巻は場面構成においてさほど変化はなく、このこ
	とから石見についてみると基本となる絵巻1系統しか存在しなかったことを示している。坑道の終わり頃に、「石見銀山絵巻」
	が出典と見られるパネル写真が、出口まで続いている。






	<四ツ留役所の図(坑道の出入口) >

	四ツ留とは坑口のことを示しており、「四ツ留役所」は坑口付近に置かれた役所である。代官所の直営の間歩(坑道)を御
	直山といい、その中でも新切間歩、永久稼所、龍源寺間歩、大久保間歩、新横相のいわゆる五ケ山についてこの番所が設置
	されている。四ツ留役所には、1カ所に通常銀山附役人3人、同心1人が在番し、夜には役人1人が泊まり番として詰め、
	坑道から運び出された鉱石や作業員の坑内への出入りを監督した。  




























	石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えたが、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期にはほと
	んど産出しなくなった。幕末には長州戦争で長州藩が一帯を占領している。明治になって細々と再開発の試みが続けられたが、
	1932年には完全に閉山するに至った。現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残る。











坑道から出たところに茶店のような土産物屋があって(上左)、覗いてみると銀珠や銀小判などを打っていたがエラい高かった。

 













歩いている道の側から、坑道の入り口が幾つも見えている。勿論中には入れないようになっているが、そこら中穴だらけである。






	<石見銀山の歴史>

	鎌倉 1309 延慶2   初めて石見銀山が発見されたという(「銀山旧記」) 
	戦国 1526 大永6   博多の商人・神屋寿禎(かみやじゅてい)、石見銀山を発見する(「銀山旧記」) 
	戦国 1531 享禄4   川本を本拠とする小笠原氏が銀山領有 
	戦国 1533 天文2   我が国ではじめて灰吹法(はいふきほう)による銀精錬が石見銀山で開始される。大内氏銀山を奪回 
	戦国 1556?1562 弘治2?永禄5 毛利氏と尼子氏が互いに銀山の争奪戦を展開し、やがて毛利氏が支配する 
	戦国 1568 永禄11  ポルトガル/ドラード地図に「銀鉱山王国」の記載がある 
	安土 1585 天正13  毛利氏と豊臣氏が共同管理する 
	桃山 1600 慶長5   関ケ原の戦いの後、徳川氏が領有 
	桃山 1601 慶長6   大久保長安、初代奉行となる 
	桃山 1602 慶長7   年産4千貫=15トンの銀を産出する 
	江戸 1603 慶長8   安原備中、年3600貫=13.5トンの運上を納め、家康に謁見 
	江戸 1624 寛永元   銀山全体の銀産出量が減少し始める(年間2200貫=8.2トンを納めた) 
	江戸 1673?1682    延宝元?天和2 銀産出量がさらに減少する(10年間の平均産出高261貫=980キロ) 
	江戸 1675 延宝3   石見銀山領は代官統治へ格下げ 
	江戸 1731 享保16  井戸平左衛門代官 着任 
	江戸 1733 享保18  さつまいも植え付け奨励。井戸平左衛門 没 
	江戸 1800 寛政12  大森大火。大半が消失 
	明治 1869 明治2   大森県が置かれる(8月から明治3年1月まで) 
	明治 1887 明治20  大阪・藤田組による経営開始 
	明治 1895 明治28  清水谷製錬所完成 
	大正 1923 大正12  経営不振で大森鉱山は休山となる 
	昭和 1942?43 昭和17?18  銅採掘を試みるが水害、閉鎖 
	昭和 1956 昭和31  大森町が大田市に合併される 
	昭和 1967 昭和42  「石見銀山遺跡」県指定史跡となる 
	昭和 1969 昭和44  代官所跡、龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)など14ヵ所国指定史跡となる 
	昭和 1987 昭和62  大森、銀山の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定 
	平成 1993 平成5   大田市による石銀(いしがね)地区発掘調査開始。採掘、精錬の跡や関連遺物が発見される 
	平成 1996 平成8   島根県・大田市共同の石銀地区調査が始まる 
	平成 2001 平成13  世界遺産暫定リストに登載(4月) 
	平成 2002 平成14  「銀山柵内(さくのうち)、山城跡、港湾」国史跡追加指定となる(3月) 
	平成 2004 平成16  大田市・温泉津町・仁摩町の景観保全条例が制定される(7月) 
		 	  温泉津の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定(7月) 
	平成 2005 平成17 石見銀山遺跡関係鉱区禁止地域指定(1月) 
		 	 「石見銀山街道(鞆ケ浦道、温泉津沖泊道)、宮ノ前地区」国史跡追加指定となる(3月) 
		 	 「銀山柵内、羅漢寺五百羅漢、鞆ケ浦集落、沖泊集落」国史跡追加指定となる(7月) 
			  大田市・温泉津町・仁摩町が合併し、新「大田市」となる(10月) 
	平成 2006 平成18 世界遺産登録推薦書をユネスコに正式に提出(1月予定) 
		 	 イコモス(ICOMOS 国際記念物遺跡会議)による現地調査(未定) 
	平成 2007 平成19 世界遺産委員会において世界遺産一覧表記載の可否の決定(7月頃) 




	石見銀山全盛時に、銀山街道(鞆ケ浦道、温泉津沖泊道)を通って運ばれた銀は、温泉津から船で全世界へ運ばれた。現在
	ここは「温泉津温泉」として賑わっている。







	今夜の宿、岡山県の奥津温泉。ひなびた山の中の静かな温泉街だった。同宿者の年配の婦人によると、「何十年か前には2,
	3軒しか宿がなかった」そうであるが、いまは2,30軒はあろうか。それでもひっそりという感じの温泉だ。


部屋の窓から見た夜の月(上)と朝の月(下)







朝、道の駅に寄ったら「歴史資料館」があるとあったので行ってみたが、月曜日で休館だった。残念。







	1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が
	小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で
	銀山争奪戦を繰り広げ、1562年(永禄5年)には最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。1584年(天
	正12年)毛利氏が豊臣秀吉に服属すると銀山は毛利氏と豊臣氏の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。







	「銀山旧記」などには鎌倉時代末期の延慶年間に周防の大内弘幸が石見に来訪して銀を発見したという伝説が記されているが、
	今日、石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞であるとされている。『石見銀峯山清水寺天地院縁起』によれ
	ば、海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、
	銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方
	領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。この年の8月、
	神谷寿貞は大森に入り、中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られる
	ようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩
	町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。



邪馬台国大研究HP/ 遺跡めぐり/ 石見銀山