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水戸城址
2005.9.3(土)




 

	<水戸の歴史・概要>
	
	水戸に人々が居住しだしたのは、旧石器時代(今からおよそ1万数千年前)と考えられ、赤塚西遺跡(水戸市)などはその
	時代の痕跡である。縄文時代では馬場尻遺跡や大串貝塚など数か所の遺跡や貝塚があり、弥生時代になると大塚新地遺跡な
	どの集落跡から水稲耕作が行われていたことがわかる。大和朝廷の勢力が水戸にも及ぶと、古墳が造られるようになり、5
	世紀中ごろには大型古墳が造られ、愛宕山古墳(国指定史跡)が現存している。645年の大化改新によって、国・郡・里
	の地方制度が整えられ、水戸は常陸国那珂郡に属した。
	平安時代末期に、平氏一門の馬場資幹が水戸台地に館を構え、これが水戸城のはじまりである。戦国時代(15世紀)に入
	ると江戸氏が水戸城を奪ったが、豊臣秀吉のもとで勢力を伸ばした佐竹氏が1590年に江戸氏をせめ、水戸城を陥落させ
	北関東随一の大名となった。しかしその佐竹氏も、関ヶ原の戦にあたって徳川氏に味方する態度がはっきりしなかったため、
	徳川家康により1602年に秋田へ国替えとなる。
	天下統一を果たした家康は、水戸が東北地方の外様大名からの脅威を阻む絶好の地と判断し、11男頼房(威公)を25万
	石で封じ、後35万石に加増した。ここに御三家・水戸徳川家が始まった。
	頼房が藩主になると、水戸城の修築とともに城下町の拡張・整備が行われた。上町の城下町を広げるとともに、千波湖東側
	の低地を埋め立てて新しい町人町をつくり、上町の町人をここへ移して商工業の中心とした。このときに、今日のような町
	の形態がほぼ整った。以降、明治4年の廃藩置県まで、頼房の子孫が代々水戸藩主を務めることになる。歴代藩主の中でも、
	「大日本史」の編纂にあたった2代光圀(義公)と、藩校「弘道館」を創設した9代斉昭(烈公)は傑出した存在であり、
	数々の治績を残した。

 

JR水戸駅前の広場に立つ「水戸光圀と助さん格さん像」。

 







	水戸城址 (みとじょうし) 茨城県水戸市三の丸 

	徳川御三家の一家、水戸徳川家の城である。この城は、那珂川沿いの河岸段丘の果てる地にあり、背後は千波湖に接してい
	る。西から東に向って伸びる舌状台地の突端を利用している。




	水戸城は、はっきりした築城年代は明らかではないが、平安時代の末期頃、建久年間(1190〜98)常陸大掾平国香の8代孫
	の大掾資幹が、ここに馬場城を築いたのが最初とされる。大掾資幹は、「馬場資幹」と称した。馬場大掾氏はその後230
	年余にわたってここを統治したが、応永23年(1416)、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が争った「禅秀の乱」の際に、
	8代城主満幹が上杉氏について敗北し、河和田城主「江戸通房」が馬場氏を追放して城主となった。その後江戸通房はこの
	城の名を「水戸城」と改め、以後165年間江戸氏が支配した。

 


	天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、江戸氏は北条方に加担したため、翌年、秀吉に従った太田城主佐竹義宣に
	水戸城を追われた。その後義宣は秀吉から常陸一国54万石を安堵され、水戸城の修築や拡張を行ったが、その佐竹氏も、
	関が原合戦の際、石田三成と組む気配を見せたため、慶長7年(1602)徳川家康から秋田へと転封を命ぜられた。

 


	江戸幕府を開いた家康は東北諸藩に対する拠点として水戸を重視し、慶長14年(1609)、11男の徳川頼房を下妻か
	ら水戸に封じ、頼房は、寛永2年(1625)1月11日から城の大改修と城下町の整備を行い、水戸藩の基礎を固めた。
	以後、「大日本史」を編纂した徳川光圀(水戸黄門)、藩校弘道館を創設した徳川斉昭らの名君を輩出した。明治5年の火
	災と昭和20年の空襲で全焼した。JR水戸駅北口から徒歩15分ほど。



旧水戸藩藩校「弘道館」

 

 


	弘道館には当初4つの建物があったが、戊辰戦争によって文館、武館、医学館を焼失、さらに昭和20年(1945)の空襲に
	よって残存していた孔子廟、八卦堂などのほか二ノ丸三階櫓をも焼失してしまった。奇跡的に残った弘道館本館のみが、今
	も水戸の名所として市民や観光客に親しまれている。




	弘道館の前に大手門跡がある。そのすぐ先の二の丸と三の丸の間の空堀跡(現在は道路)にかかる大手門橋を渡ると左右に
	土塁があり、水戸城址の石碑(上)がある。水戸城跡通りを進むと水戸城御殿跡の碑があり、水郡線が走る本丸と二の丸の
	間の空堀にでる。









 


	徳川斉昭(とくがわなりあき) 水戸藩第9代藩主。− 偕楽園と弘道館の設立者 −

	1829年、藩主となり藩政改革に手腕を示した。1841年に人材を育てるために藩校「弘道館」を創立、反射炉を建設
	した。また、領内の民とともに楽しむという意味から名づけられた「偕楽園」の造園など、多くの文化遺産を残した。日米
	修好通商条約の調印をめぐって、井伊大老らと対立し「安政の大獄」で、水戸から出ることを禁じられ、水戸城中で急死。

 

 

大手橋(上左)。上右は、反射しまくって写っていない。これがホンマの水戸の「反射炉」。ははは(寒うー)。



 


	<徳川頼房>

	(とくがわ よりふさ、慶長8年8月10日(1603年9月15日) - 寛文元年7月29日(1661年8月23日))
	官位(大坂の陣時点) 左衛門督            出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	常陸国水戸藩初代藩主、御三家の水戸徳川家の祖。徳川家康の11男、母は側室の養珠院(お万の方)。正室は無し。幼名は
	鶴千代丸。慶長10年(1605)駿府に移った兄の頼宣の後任として、若干3歳にして常陸下妻10万石を拝領。続いて
	同14年(1609)常陸水戸25万石へ加増。ここに「水戸徳川家」が誕生するが、頼房自身は幼少であるため家康の居
	る駿府で育てられた。実際の領国経営は関東郡代の伊奈忠次と芦沢盛重らが担当している。大坂の陣では駿府城を守備。家
	康没後は江戸に移り、実際に領国へ入国したのは元和5年(1619)17歳のときである。家康の息子には剛毅な性格の
	持ち主が多かったそうだが、頼房もその1人。古の良将の風格があり、父に望むものを聞かれて「天下」と応えた有名な逸
	話がある。
	元和8年(1622)3万石の加増で28万石。寛永18年(1641)の総検地で36万9千石とした。水戸徳川家は全
	大名中でも数少ない定府制で基本的に常時江戸に詰めて将軍を補佐していた。このため水戸家は尾張・紀伊家ともに石高・
	官位ともに格式ながら、後世「天下の副将軍」と称される事になる(尾張61万9千5百石、紀伊55万5千石でそれぞれ
	大納言。水戸36万9千石で中納言)。そのため人一倍藩の経営には苦心し、江戸から国許の家臣を指示することが多かっ
	た。水戸城と城下町の拡張と整備、鉱山開発に治水、寄せ集めの家臣団の統制や法令の発布など藩政の基礎を整えている。
	旧佐竹領である故に領内の反発もあったという。寛文4年(1661)死去。享年59歳。墓所は茨城県常陸太田市瑞竜町
	の瑞龍山墓地にある。諡号は、威公。顕孝正三位前中納言水戸府君源威公。儒学や神道を学んだ。彼の後を継いで二代藩主
	となったのが「水戸黄門」の名で有名な徳川光圀である。


	官職位階履歴 ※日付=旧暦

	1606年(慶長11)9月23日、常陸国下妻10万石藩主 
	1609年(慶長14)1月5日、従四位下左衛門督。12月22日、常陸国水戸25万石に転封。 
	1611年(慶長16)3月20日、正四位下左近衛権少将。某月某日、元服。頼房を名乗る。 
	1617年(元和3) 7月、左近衛権中将 
	1620年(元和6) 8月21日、参議。左近衛権中将如元。 
	1622年(元和8)10月、3万石加増 
	1626年(寛永3) 8月19日、従三位権中納言 
	1627年(寛永4) 1月7日、正三位 

	官職位階秘話

	1626年(寛永3)8月19日、頼房は従三位権中納言に昇叙転任したものの、水戸徳川家では不満があった。同日には、加賀国
	金沢藩主前田利常、薩摩国鹿児島藩主島津家久、陸奥国仙台藩主伊達政宗も同様に従三位権中納言に昇叙転任したため、水
	戸徳川家は外様三藩と同列扱いにされた格好であった。そのため、幕府としても収拾するべく、翌年早々、正三位に昇叙す
	ることとなったのである。これによって水戸徳川家の極位極官は正三位権中納言の道筋が出来たのである。








	上が、わずかに残った水戸城の土塁の跡である。水戸城は、他の御三家の、和歌山城、名古屋城と比べると、見事なほどに
	何も残っていないし、復元もされていない。とても御三家とは思えないほどである。いったいどうしてこういうことになっ
	ているのだろう。空襲で全焼したといっても、その後市民による復元活動とかはなかったのだろうか。大阪城などは市民の
	寄付によって天守閣などが復元されているが、水戸ではそういう気運はおきなかったものと見える。あるいは殿様があまり
	評判がよくなかったか。いずれにしても解せない。

 

 

二ノ丸に残る大椎の木。樹齢約400年というから戦国時代からの老木である。






	二ノ丸から本丸の間の深い堀切。真正面が本丸。水戸駅から徒歩約10分。本丸、二の丸跡は幾つもの学校が建つ。また本
	丸、二の丸を削って広い道路に、空堀は道路と線路になった。現在、城らしき雰囲気は全くない。巨大な本丸堀を利用して
	鉄道が敷かれ、現在JR水郡線のレールが走っている。




	進んでいくと、坂蔵跡の碑、棚町坂下門跡の碑、隅櫓跡の碑がある。国道51号を左折し、水郡線をまたぐ橋を渡ると左手
	が本丸跡。県立図書館の前にも空堀と土塁がある。




	当時は、本丸、二の丸、三の丸(武家屋敷)、下の丸(武器庫)があった。本丸には三層櫓があったが、戦災で焼失した。
	現在は、本丸跡(現在水戸一高)の校舎の裏に立つ橋詰門が唯一の当時の建物である。本丸への虎口。この先(本丸内)は
	水戸一高校の敷地になる。








	本丸内に移築され現存する橋詰門(薬医門)。佐竹氏時代の創建といわれ、その後徳川氏によって引き継がれた。本来の場
	所は諸説あるが、どうやら本丸の表門であったといわれている。市内の寺院に移築されていたが、近年、本丸内に移された。
	太い柱を持つ三間一戸の薬医門である。現在は銅板葺きとなっているが、本来は茅葺であった。本丸跡は校舎が建ってしま
	い、往時をしのぶのは周囲の土塁だけである。 



 

 


	水戸徳川家の居城である水戸城は、徳川的な城とはいえない。水戸城は、関東の“丘城”である。戦国時代に関東で進化し
	た築城技術で造られた城である。水戸徳川家は外曲輪を拡張した程度で、縄張りの多くは戦国大名の佐竹氏の手によるもの
	と考えられる。幕末まで存在していた大手橋の擬宝珠には、「文禄五年(1596)」の銘が刻まれ、佐竹氏在城時期に造
	られたものと分かる。
 
	幕末に近い文政9年(1826)の水戸城の絵図が残されているが、城下町の橋のたもとに石垣が記入されているのみで、
	城には石垣の記入が無い。石垣をまったく使用しない城であった。石垣の有る無しが、城の強度を決定するものではない。
	地形利用と、築城工事のバランスを観察すると、千波湖と那珂川に挟まれた台地に効率よく堀を配置した水戸城は、かなり
	守りの堅い城と評価できる。台地を分断している堀は巨大であり、自然の谷と誤解されるほどである。水戸城は、徳川家が
	大幅に手を入れなかったため、戦国大名佐竹氏の築城技術を勉強できる城なのである。




	水戸駅を出て、ぐるりとかっての水戸城を一回りしてくると、右手からこの道へ降りてくる。上左の道を下っていくと、5,
	6分で「水戸光圀誕生の地」へ出て、さらに2,3分でJR水戸駅へ戻る。かっての城内には、中学校・高校が幾つか建っ
	ているが、見てきたように城の面影はほとんどない。それが返って、徳川家の滅亡を強く印象付けているとも言える。

	
	藤田東湖(1806年〜1855年) 幕末の水戸藩士、学者。 − 学職、人格とも水戸藩士中でトップ −
	彰考館総裁の父(藤田幽谷)のもとで学び、 9代藩主徳川斉昭の信頼を得て藩政に活躍し、「弘道館」の創立に貢献し、
	天保の改革推進に尽力した。学識、人格とも全国志士の系敬慕の的といえる。  

	徳川慶喜(とくがわよしのぶ:1837年〜1913年) 徳川15代将軍。 − 徳川幕府、最後の将軍 −
	
	弘道館に学び、幕府の命により一橋家を継ぐ。1866年15代将軍となったが、翌年、大政奉還を行い、政権を朝廷に返
	上した。王政復古への道を開いた。 







	水戸黄門生誕の地 

	徳川光圀公(水戸黄門)は寛永5年(1628年)に家臣三木仁兵衛之次の屋敷で生まれ4歳まで三木家の子としてここで養育
	された。現在この地に水戸黄門神社(祀堂)がたてられている。JR水戸駅北口からすぐで、徒歩5分ほど。
 

 

	徳川光圀 (とくがわみつくに:1628年〜1700年) 水戸藩第2代藩主。− 日本中から名君と仰がれた水戸黄門 −

	1661年、水戸藩主となり藩政に尽力し、文治的善政を行い、藩の内外から名君と仰がれた。朝廷を尊び幕府を助けるか
	たわら、快風丸による蝦夷地探検の事業を手がけた。また、日本の歴史を編さんするため、彰考館に全国から優れた学者を
	集め、自ら監修にあたり「大日本史」をまとめ、近世日本の文化に影響を与えた。1690年藩主を譲り西山荘に隠居し、
	73歳で没した。今でも、助さん格さんを連れての漫遊記で知られる水戸黄門の名で親しまれている。

 

 



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