Music: Godfather


西福寺(お馬塚)

2006年9月



	王子駅前の大通りを渡り、さらに歩道橋で明治通りを越えると、石神井川、さらに蛇行した隅田川はすぐそこ。そ
	の向こうには荒川放水路もある。水利に恵まれた土地ゆえに、明治・大正期には陸軍が利用する、掘割、通称「豊
	島ドッグ」も作られている。西福寺の手前にある公園にその説明碑があり、この公園の地下には、今も護岸が眠っ
	ているそうだ。板橋火薬製作所王子工場で製造された火薬等を、隅田川まで運び出していたのである。



<西福寺> 北区豊島2−14−1。「三縁山(真言宗豊山派)西福寺」。JR王子駅より東へ徒歩約10分。




	西福寺は聖武天皇の時代に創建されたという。江戸時代末までは、無量寿院長福寺という禅寺だった。当時の全影
	には、門前に走る鎌倉街道で立ち話しているような旅人や、隅田川に浮かぶ小舟も描かれている。当時から、無量
	寺や与楽寺を含む江戸六阿弥陀の第一番札所として信仰を集め、お彼岸を中心に、年間で10万人近い参詣客があ
	り、境内には数十の露店が並んだ。このにぎわいは、昭和初期まで続いたそうだ。




	身代地蔵菩薩の祀られた門の前に立つと、まっすぐに参道が続いている。門を入って左手には、よさこい節ゆかりの
	「お馬塚」がある。幕末の頃、土佐のはりまや橋で、純信という坊さんがかんざしを買った相手、というのが鋳掛け
	屋のお馬さんである。お馬さんは王子で亡くなっているのだ。



	<お馬塚由来記>

	土佐のよさこい節で知られる播磨屋橋は、高知駅前の目貫き通りにあり、江戸時代豪商といわれた「播磨屋」と富商
	「櫃屋(ひつや)」は、堀によって隔てられていたが、互いの往来のために自前の橋を堀川に架けた。これが後に、
	「はりまや橋」と呼ばれるようになった。何度か架け替えられたが、昭和33年「南国博覧会」開催を期に朱色の欄
	干に改装。だがその後堀川は埋立てられ、朱色の欄干だけが「はりまや橋」として残った。現在は、市の再開発事業
	で周辺は公園化され、水路も設置され、その上に本格的な太鼓橋が架かり、「新はりまや橋」として復活している。

	幕末、その橋畔の小間物屋で坊さんが簪(かんざし)を買って帰った。場所柄、その買物は買物だけにちょっとした
	噂話となった、間もなくその坊さんは、高知第一の名刹、五台山竹林寺の塔頭妙高寺の純信という36歳の僧、相手
	は大工町鍛冶屋の娘お馬と判明する。お馬は16歳、色白で愛嬌があり、評判の娘だった。こうして周りの野次馬も
	手伝って、歌にも歌われ囃されるので、二人は居たたまれなくなって出奔、讃岐の琴平へ逃げた。しかし追捕の役人
	に連れ戻され、国抜け(不法脱出)の罪で高知城下三ヶ所で3日間づつ都合9日間曝し物にされて、純信は改めて所
	払い(国外追放)、お馬は仁淀川以西の幡多郡に押し込めとなった。36歳と16歳と20も年齢が違うことも手伝
	って、この恋愛は世間の目を引いた。
	純信のその後は杳として分からないが、お馬は明治16年に上京、豊島村(2丁目10番辺)に住み、西福寺門前の
	大工寺崎末之助と結婚して平穏な人生を送って、同36年66歳の生涯を閉じた。実はこのことは戦後になって過去
	帳から判明した。西福時内の寺崎家墓地に合祀されていることが確認され、住職により昭和47年本堂左手前に「お
	馬塚由来碑」が建てられた。お馬さんの墓は前に赤い欄干があるが、これは播磨屋橋を表しているという。

	   南国土佐を後にして 武政英策作詞・作曲

	   南国土佐を 後にして
	   都へ来てから 幾年(いくとせ)ぞ
	   思い出します 故郷の友が
	   門出に歌った よさこい節を
	   土佐の高知の 播磨屋橋(はりまやばし)で
	   坊さん簪(かんざし) 買うを見た

	この歌の元歌は、戦時中主に中国北部戦線で戦っていた高知歩兵第236部隊(鯨部隊)で歌われていた「よさこい
	と兵隊」だという。プロの作曲家による「軍歌」とはちょつと雰囲気が異なる。軍隊愛唱歌といった方がふさわしい。
	作者は特定できていない、不特定多数の兵隊たちによって自然発生的に歌われるようになった歌だが、遡れば民衆の
	間から生れた歌、いわゆる「俗曲」といわれるものが、脈々と歌い継がれてきたのだろう。だからオリジナルの楽譜
	というものは存在せず、時代や土地柄、あるいは伝播スタイルによって、微妙にメロディも歌詞も変化してきた。
	これらのいくつかのパターンを採譜してひとつの曲として仕上げたのが、戦後高知で音楽活動を続けていた武政英策
	だった。こういうケースは他にもあって、例えば小林旭の「ズンドコ節」「ダンチョネ節」なども、もともとは俗曲
	であり、戦時中兵隊達の間で歌われていたものを、戦後遠藤実氏が採譜・作曲したものなのだ。また守屋浩の「有難
	や節」、「ツーレロ節」など、俗曲に題材を求めた歌謡曲は数多い。また当時は民謡や詩吟を挿入する手法も盛んで、
	歌謡曲隆盛に一役買ったひとつのスタイルだった。

	「南国土佐を後にして」が世に出るきっかけとなったのは、昭和33年NHK高知放送局のテレビジョン開局記念番
	組「歌の広場」でペギー葉山が歌ったことによる。この時司会を担当したのが高橋圭三アナウンサーで、ペギーはこ
	の歌を歌うことをひどく嫌ったそうだが、高橋は「絶対にヒットする」と予言した。曲そのものはそれ以前に、民謡
	歌手の鈴木三重子によってレコード化されていて、昭和30年前後に地元のラジオなどでは時折流れていたのだが、
	全国的には全く知られていなかった。テレビの本放送開始とともに問い合わせが殺到し、ペギーによってレコード化
	されると、翌34年にかけて、高橋圭三氏の予言通り全国的な大ヒットとなった。




	ここの仁王門は変わっている。阿吽の仁王が正面に鎮座している姿は普通だが、その裏側には風神・雷神が居る。仁
	王門をくぐるその手前には、台座の卍がさかさまに刻まれている、珍しい逆さ卍の六地蔵様もいる。門の裏手に回る
	と、そこに風神・雷神だ。古いものではないらしいが、金網も張られていないので、間近に見ることができ、さわっ
	てみることもできる。






	仁王門をくぐった左手には、住職が多くの戦死者を出したミクロネシアを訪ねた事をきっかけに建立した彩帆観音様
	がある。住職自ら書いたのだろう、手書き文字の解説から強い想いが伝わってくる。六阿弥陀第壱番の赤い提灯が下
	がる本堂の両脇には、バッハやモーッアルトのような髪型をした狛犬が2体、首をかしげて鎮座している。真言宗で
	は阿吽を大事にすると聞くが、これは対称形に見える。




	その門の脇に回ると、金箔塗りの大仏像(阿弥陀如来露座大仏)が鎮座する。戦災で焼失してしまった行基作の本尊
	と同じ高さの丈5mだそうだ。基壇下には位牌を供養する岩屋風の霊牌堂が設けられている。昭和57年完成とある
	から、かれこれ25年だが、極彩色はまだまだ鮮やかである。これが、現在の第壱番の阿弥陀像である。大仏像の左
	手にある、小さな池のほとりには、六体すべてを集めた石清水六阿弥陀も祀られている。こちらは、深い緑が陰を落
	とし、落ち着いた風情があった。
	そもそも六阿弥陀とは、豊島郡一帯を支配していた豪族の一人娘、政略結婚の犠牲となり入水自殺を図った清姫と5
	人の腰元たちにちなむもので、この西福寺以外の5つの寺は、腰元の出生地にあたるとされている。





会所の奥に住職の住まいらしき建物があって、車が止めてあったので見ると、BMWとプジョーだった!


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