Music: Carpenters


最終更新日 : 2015/11/19
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第209回例会 河内飛鳥北辺の史跡めぐり
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玉手山丘陵は、河内国分駅の西方、柏原市片山町から南の羽曳野市駒が谷までの
南北約3kmに及ぶ標高50〜100mの丘陵です。この丘陵の稜線上を巧みに利用して
築造されたのが古墳前期の「玉手山古墳群」です。ここは、2009年の6月28日、
第 144回例会として訪問しました。あの時の参加者は、河内さん、栗本さん、錦
織さん、杉本さん、郭公さん、筑前の6名でした。駅で見知らぬおじさんから
「ぶどうの箱」を貰った時です。
玉手山丘陵の北、大和川が石川に合流する直前に松岳山と呼ぶ独立丘陵がありま
す。この丘陵上に墳丘長130mの前方後円墳、「松岳山古墳」が出現します。ここ
からは日本最古の墓誌が出土しています。「船氏」と書かれたこの墓誌は古墳の
築造時期とは年代が合いませんが、かってここに「船氏」と呼ばれる豪族が居た
事の証明になりました。この古墳と玉手山古墳群、大和の巨大古墳、そして次に
現れる古市古墳群との時期的な関係は注目されます。今回の例会は「河内国分駅」
の東方、大和川南岸に広がるこの松岳山古墳群と、国分の地名にもなった河内の
「国分寺跡」「国文尼寺跡」をめぐります。おそらくPM3時頃には終了するも
のと思われますので、ゆっくりと歩きましょう。
日時: 11月29日(日曜)
集合: 近鉄大阪線「河内国分駅」AM10:00
アクセス:
大阪組:09:16発→09:53着37分(乗車32分)530円 24.8km
・大阪09:16(大阪環状線外回り) − 09:33着鶴橋09:38発 − 河内
国分(近鉄大阪線急行・名張行) 09:53着
奈良組:09:04発→09:53着49分(乗車40分)690円 40.8km
・近鉄奈良09:04(近鉄奈良線急行・難波行 )−09:33着 布施 09:42発
(近鉄大阪線急行・名張行) − 09:53着河内国分駅
持参: 弁当、水筒、雨具、防寒具、その他
コース: 河内国分駅 − 松岳山古墳群・国分神社 − 河内国分寺跡
− 国分尼寺跡 − 田辺古墳群 − 春日神社・田辺廃寺跡
− 立教館 − 河内国分駅(解散・反省会)
概要: 以下
1.松岳山古墳群と国分神社
国分駅から国道25号線を北へ進み国豊橋の手前を右に折れ、大和川の堤防上を東へ
進むと「国分神社」に至る。大和川南岸に接する松岳山丘陵の南斜面に位置し、国
分地区の氏神で、祭~は飛鳥大神(百済の辰孫王か混伎王)・少彦名命・大国主命、
渡来系の祖神も祀っている。神社の北、丘陵の稜線上の数基の古墳群を松岳山古墳
群と言う。中央の松岳山(美山)古墳(国史跡)は有名で、西面する全長146m、後
円部の経82m・前方部の幅64mの前方後円墳である。高い後円部に低く平らな前方部
を備えている。近年の発掘調査では、墳丘に葺石やテラス状施設が見られ、くびれ
部付近では箱式石棺も見つかった。後円部の安山岩の板石を積み上げた竪穴式石室
内に組合式長持ち型石棺がある。石棺の蓋石は縄掛突起(なわかけとっき)のある
花崗岩、側石は香川県鷲の山産の凝灰岩で、棺内底石北側に石枕状の凹部を作る。
石棺の南北には小さな外室と、大きな板状の立石2枚が墳丘上にある。出土遺物に
は玉類や銅鏡・鉄製武器・埴輪がある。全てにおいて特異な古墳で、4世紀末葉の
大和政権下の有力者か、渡来系氏族の首長の墳墓かと考えられる。
[国分神社] 柏原市国分市場1-6-35
この神社は近鉄大阪線・河内国府駅の東約1km、松岡山古墳上に鎮座している。神
社入口と道路を挟んで反対側には御旅所があり、そこから参道は石段となり、途中
道路を挟んで石段が続き、結構な登りである。整頓された神社で、境内社にまで手
入れが行き届いた、凜とした雰囲気が漂う。
交 通: 近鉄国分駅 東1km
祭 神: 大國主命、少彦名命、飛鳥大神
例祭日: 4月15日・春例祭、10月16・17日・秋例祭
境内社: 住吉社、八幡社、春日社、稲荷社、神明社、杜本神社
由緒:
創建年月は不詳だが、古書、口伝等によれば鎌倉時代の建立によるとある。創建当
時の現在地には、推古、舒明の両天皇に仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の
古礼(有職)、接待、技術等を伝え、その才の勲功があったと正二位の官位を賜った
が舒明天皇の13年(641)に没した。27年後の天智天皇の7年(668)妻安里故能刀
自も没し、同じように神社の背後の松岳山の上に葬られた。その墓は前方後円墳で
史跡として当社が所有している。境内地は、そのような古い歴史をもっているが、
その後の武家政治による変遷により、船氏の地位も消失し、氏人達の信仰のあった
大和桜井の三輪大明神の大国主命と少彦名命、飛鳥部の伴造飛鳥大神の三柱が分霊
・勧請された。明治5年村社に列し、同40年字水谷の無格社杜本神社を合祀したが、
昭和47年に地元の人々から復興された。この杜本神社は羽曳野市駒ヶ谷の杜本神社、
柏原市国分東條町の杜本神社とともに式内社(名神大社)・「河内国安宿郡杜本神社
二座」の論社となっている。
[松岳山古墳]
松岳山古墳は、前方後円墳で4世紀後半のものと推定されている。大和川を左岸か
ら眼下にする丘陵地に築かれた120mを測る前期の前方後円墳である。周辺には、
ほぼ同時期の築造とされる径30mの円墳、東大塚古墳を筆頭とした7基の円墳と
1基の方墳が存在したが、現存するのは、松岳山古墳の1基だけとなっている。
松岳山古墳が築かれた4世紀の前半、大和では、盆地の北部で巨大な前方後円墳の
築造が始まる。河内の石川谷では、玉手山丘陵を中心として、続々と小型の前方後
円墳が造られていた。まだ、古市古墳群や堺の百舌鳥古墳群の姿はなかった。松岳
山古墳は、特異な内容が目立つ古墳だといわれる。墳丘の長さは130mで前期の
前方後円墳としては、やや大きい。墳丘の表面を覆う葺石の状態は斜面に礫(れき)
を葺き上げるのではなく、板状の石を垂直に積み上げ、階段のように造っている。
この方法は近畿ではあまり類例がなく讃岐(香川県)の積石塚古墳にそっくりであ
る。
後円部の頂上に造られた埋葬施設も注目される。棺は6枚の板石を組み合わせた石
棺で、のちに長持形石棺と呼ばれる棺形式の祖形と推定される。この棺の周囲には、
大量の板石を積み上げ、棺を保護する槨(かく)を築いている。さらに特異なのは、
石棺の両短辺側に巨大な板石を立てていることである。この立石には、穴が開けら
れているが、どのような目的をもったものか、いまだ謎は解けていない。
松岳山古墳は1965(昭和40)年に京都大学の小林行雄によって発掘調査が実
施された。石棺の内部は、すでに乱掘を被っていたが、硬玉製の勾(まが)玉、碧
玉製の管玉や丸玉、ガラス製の小玉、碧玉製の腕飾り形の宝器、鏡、銅製と鉄製の
矢じり、鉄製の刀・剣・鍬(くわ)・鎌(かま)など多彩な副葬品が見つかった。
前方部に接するように造られた茶臼塚古墳からも、柏原市教育委員会の調査で鏡や
腕飾り形の宝器が多数出土していて、松岳山古墳に本来納められた副葬品が並みの
ものでなかったことがしのばれる。
上はクリックで拡大します。
特異な構造と優れた副葬品に彩られて松岳山古墳に葬られた人物については、河内
の最有力な首長(国立歴史民俗博物館の白石太一郎を代表とする)、大和勢力の有
力な一員(神戸商船大学の北野耕平を代表とする)とする見解に分かれる。ただ、
両方の見解とも松岳山古墳を造った勢力が古市古墳群の造営主体と深くかかわった
とする点は一致している。つまり、松岳山古墳をどのように理解するかが古市古墳
群の成立とその後の展開を解き明かす重要なキィーだと考えられる。
『広報ふじいでら』第323号 1996年4月号より
かって松岳山古墳の東方にあった、ヌク谷東の大塚・南塚・北塚古墳から、大型の
歯車形碧玉製品や三角縁神獣鏡が、西方の茶臼山古墳からは青盖(がい)作盤竜鏡
・吾作銘三角縁神獣鏡2面(いずれも重文)が出土した。
近年の発掘調査では、松岳山古墳の西に接する茶臼塚古墳の竪穴式石室から三角縁
神獣鏡や碧玉製品が、安山岩板石を積んだテラス状部分では鰭付楕円形埴輪が出土
した。
金銅製の「船氏王後首(ふなしおごのおびと)の墓誌」(国宝)もこの松岳山丘陵
付近から出土したと伝わっている。あるいは古墳からとも言われる。長さ29.7cm、
幅6.9cm、厚さ0.1cmで、表面に86文字、裏面に76文字が陰刻されているもので、
667年(天智天皇7年)の日本最古の墓誌である。この丘陵一帯が百済系船氏一族の
墓地であったのかも知れない。
上はクリックで拡大します。
2.河内国分寺・国分尼寺跡
松岳山古墳から南へ下り、国道25号にぶつかって真っ直ぐ東へ進む。程なくジェイ
テクト(旧光洋精工)の大きな工場が見えてくる。ここは筑前が現役時代担当して
いた顧客で、ここへは数え切れないほど通い倒した。その工場の裏手、南東の尾根
上に「河内国分寺跡」がある。尾根は南から北に延びており、塔跡が東に、近藤・
講堂跡が西に位置する。河内国分寺跡については長年探索されてきたが、1970年
(昭和45)の発掘調査で、凝灰岩切石積みの見事な塔の基壇や塔心礎、石敷き面、
国分寺特有の古瓦(大阪府文化財)が多数出土し、この地と確定した。現在塔跡は
府有地となり、基壇上面の整備が行われている。塔跡付近には2009年に新たな宗教
法人として設立された河内国分寺が建てられている。
以下は掲示板にも載せた、今年の1月18日(日)、福岡の大川さんと河内国分寺跡に
行った時の写真です。大川さんはドローンを持参しており、ここも上空から写した
のですが、とうとうその写真は送って来ませんでした。
国分東条町の集落の南200mにある国分東条墓地には、鎌倉末期の石造五輪塔(大阪
府文化財)や室町末期の石造五輪塔などがある。ここから西へ行くと国分中学校が
あり、手前に「尼寺(にんじ)」という集落がある。ここが「国分尼寺」と推定さ
れており、奈良時代の瓦が出土している。
3.田辺古墳群と春日神社と田辺廃寺
国分尼寺から南西へ800mほど行ったところに田辺の集落が在り、その集落を昇って
行くと田辺伯孫(はくそん)の墓と伝わる円墳があり、田辺稲荷神社や春日神社
(田辺神社)がある。田辺付近は、6〜8世紀に付近に居住した百済系の田辺氏の
支配地である。奈良前期には田辺史(ふひと)が藤原不比等や光明子と深い関係に
あり、藤原氏の勢力を背景に薬師寺式の東西両塔を持つ伽藍を完成させた。
これが田辺廃寺跡(国史跡)と考えられ、春日神社境内にある。1972(昭和47)年
の発掘調査で、東塔が■積基壇(せんづみきだん)、西塔が瓦積基壇、両塔のすぐ
北側の近藤も瓦積基壇であることがわかった。また南大門跡も見つかった。
付近にある出■・入■(でほぞ・いりほぞ)式の礎石や、この寺跡の中軸線上に乗
る金堂跡の石仏の石台は、関連遺物と考えられる。寺跡と田辺史・藤原氏・春日神
社の関係が注目される。境内には出土遺物を集めた収蔵庫があり、この神社の周辺
の古墳群が田辺古墳群である。後期古墳から火葬墓へと変遷する墳墓が幾つか発掘
されている。
4.立教館
神社から西に下り、国道 165号線を越え近鉄線を横切って更に西へ行くと、関西女
子短期大学があり、その一角に立教館(府史跡)が移築されている。国分本町の旧
奈良街道に存在した郷学校で、1830(文政13)年につくられ、頼山陽も訪れたとい
う記録がある。
文政13年(1830)、現在の柏原市国分に郷土の子弟教育のための学校・「立教
館」が設立された。設立者は、国分出身の医師・柘植葛城(諱は常熈。通称は卓馬)
という人物。設立当初は、明円寺(妙円寺)という寺の境内にあったようだが、そ
の後、塾生(通学者)が増えて建物が手狭になったため、文久3年(1863)に
新しく建て直されることになった。しかし、幕末の動乱の中、工事は遅れ、完成し
たのは、ようやく明治4年(1871)になってからのことだった。それが、現在、
旭ヶ丘3丁目の関西福祉科学大学の敷地内に残る建物である。大阪府古文化記念物
等保存顕彰規則による史跡指定を受けている。
柘植葛城は、国分の医師・柘植常彰の長男。医師としては小石玄瑞の門下だが、医
学を学ぶ以前には儒学者の中井竹山や頼山陽の門下にあり、特に山陽門下では「四
天王」の一人といわれたほどの俊才だったという。文政12年(1829)に帰郷し
て医師を開業。翌年、地元の要請に応え、有志の協力を得て立教館を設立した。国
分村以外からも通学者があり、多くの生徒たちが学んでいたという。新しい建物の
建築工事中は、葛城の自宅が教室となっていた。
しかし、葛城の存在が大きすぎたせいか、後継者に恵まれない何らかの事情があっ
たのか、学制発布により明治6年(1973)に小学校(第25番小学=現在の国分
小学校)が設立されると、その役割を終え、消えて行ってしまった。いや、むしろ
立教館の関係者たちは、明治維新の到来という時代の中、新しい建物の完成をきっ
かけに館を私塾から国公立の学校へ転換しようと、慶応4年(1868)2月から
政府に嘆願していた。(その後、明治3年9月にも嘆願している。さらに新しい建
物が完成した明治4年にも嘆願、ようやく採択されている。)
もし、小学校設立後も後継者に恵まれ、立教館は中等・高等教育を担当するなど、
小学校との間に役割分担が行われていたなら、あるいは、その後、立教館高校や立
教館大学にまで発展していったかもしれない。京都の立命館に対して、柏原の立教
館といったところか。とはいえ、そのためには英語教育など、当時の時流やニーズ
に適合した教育でなければならなかっただろう。立教館の消滅は、儒学や漢学では、
もはや時代遅れと思われたためかもしれない。
明治4年(1871)10月、立教館は、嘆願採択により、それまでの私塾から公
立の国分村小学校に変わった。しかし、そこで行われていた教育は、依然として、
儒学や漢学を中心としたもので、明治政府の目指す小学校教育とは異なっていた。
その後、設立された第25番小学は立教館の施設内に置かれたが、このとき立教館と
しての教育は事実上終わったと考えられる。そして、明治7年(1874)1月に
葛城が71歳で亡くなった直後、立教館の建物は県(当時、現在の柏原市域は「堺県」
に属していた)に献上されている。
郷土の期待に応えて設立され、その役割を十二分に担った立教館は、江戸から明治
に至る大きな時流の中で激しく浮沈し、歴史の中に消えていったようだ。
ところで、葛城の師・頼山陽は、たびたび葛城のもとを訪れており、国分付近の大
和川の眺めを「河内嵐山」と名付けて称賛したといわれている。ただし、これにつ
いての史料的裏付けは見当たらない。むしろ、山陽は天保3年(1832)に亡く
なっていることから見て、可能性は低いとも考えられる。「河内嵐山」と名付けて
いたのは、葛城自身だったのかもしれない。
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