庭は司馬遼太郎が好きだった雑木林のイメージで造られている。クス、シイ、クヌギ、カエデ、ヤマモモ、シラカシ、 エゴノキなどの樹林、バラ、ボケ、ツツジ、ツバキ、アシビ、クチナシなどの花木、ツユクサ、タンポポ、ツワブキ、 ホトトギス、ヤブランなどの草花が四季の風景を演出している。廻りは住宅や学校で、ここだけがホントに雑木林の ような様相だ。司馬遼太郎は自然のままのたたずまいを好み、夏には生い茂る雑草もあまり抜かず、秋の落ち葉も落 ちるにまかせていたという。 <司馬遼太郎> 生没年月日 大正12年8月7日 〜 平成8年2月12日 本名=福田定一。大阪府生まれ。大阪外国語大学モンゴル語科卒。 小説家。サンケイ新聞記者を経て文筆活動に専念。処女作 「ペルシャの幻術師」(昭和31年) 第8回講談倶楽部賞(昭和31年)「ペルシャの幻術師」 第14回菊池寛賞(昭和41年)『竜馬がゆく』『国盗り物語』 大阪芸術賞(昭和42年) 毎日芸術賞(昭和42年)『殉死』 第30回文藝春秋読者賞(昭和43年)『歴史を紀行する』 第6回吉川英治文学賞(昭和45年)『世に棲む日日』 第32回日本芸術院賞恩賜賞文芸部門(昭和50年) 第33回読売文学賞小説賞(昭和56年)『ひとびとの跫音』 朝日賞(昭和57年) 第15回大佛次郎賞(昭和59年)『韃靼疾風録』 放送文化賞(昭和60年) 第16回日本文学大賞学芸部門(昭和60年)『街道をゆく――南蛮のみち』 第38回読売文学賞随筆紀行賞(昭和61年)『ロシアについて』 明治村賞(昭和63年) 文化功労者(平成3年) 文化勲章(平成5年) 東大阪市名誉市民(平成8年) 第1回井原西鶴賞(平成8年)
庭に面した書斎は、司馬遼太郎が執筆していた当時のままに保存されている。執筆が終わればいつも机の上はきちん と整理されていた。万年筆などの筆記具や、原稿を推敲する際に使った色鉛筆などがそのまま置かれている。机の前 のサンルームでは、資料を読んだり、庭の木々を眺めて休息していたのだ。
庭の片隅には、記念館設立の協力者(募金者)たちの名前がズラリと並んでいた。知り合いがいないか探したが、あ まりに多くて途中で眺めるのをやめた。
地下一階へ下りていった空間が展示室だが、ここは普通の展示室とは異なる。勿論、原稿やその他司馬遼太郎愛用の 品々も展示してはあるのだが、圧倒されるのが高さ11mの大書架である。2万余冊の蔵書を使って床から天井まで びっしり本が並んでいる。しかしこれはイメ−ジ展示だという。司馬遼太郎が調べるのに使った市史や辞典などが多 い。自著も含めたその他の蔵書は、自宅の廊下から階段、書斎、書庫と、あらゆる所に6万冊の本が収まっている。 その模様は館内のビデオで見ることができる。
そしてできあがったのがこの大書架である。 この展示室の意図は何なのだろう。単に、「これが司馬遼太郎が持っていた蔵書の一部ですよ、さぁ見てください。」 ではないのは勿論である。ここはおそらく、司馬遼太郎と対話する場所なのである。司馬遼太郎の蔵書に囲まれて、 司馬が何を考え、何を思い、何を我々に託そうとしたのか。それを考えるためにこの空間はあるのだ。
私は司馬遼太郎の本はあまり読んだことがない。せいぜい2,3冊といった所だ。だが「街道をゆく」はよく読んだ。 彼は勿論、偉大な小説家で在ることにかわりはないが、彼の歴史家としての神髄は、小説よりもむしろ「街道をゆく」 にあるような気がする。彼が歴史を学んで、歴史を通じて我々に託したかったものは何か。おそらくそれは未来への 希望なのではないかという気がする。「街道をゆく」にこめられた人々への愛情、積み重ねられた歴史への敬慕の念、 そして日本がこれから向かおうとする未来への警忠、これらを司馬は「街道をゆく」で語っていると思う。