SOUND:Penny Lane
下鴨神社
2005.6.25 京都市左京区






	鴨川は、京阪出町柳駅付近で高野川と加茂川が合流して1本の鴨川となる。真ん中に見えている森は「糺(ただす)の森」で、
	その奥に下鴨神社がある。
	賀茂川と高野川に囲まれた三角地帯の、「糺(ただす)の森」と呼ばれる深い森は、縄文時代からの原生林と言われ、高い木々
	に覆われた鬱蒼とした森林であるが、明治神宮のように暗いイメージはない。森の中は明るく、小川も流れていて、下鴨神社
	への長い参道になっている。賀茂川と高野川はここで合流して「鴨川」となる。京阪電車で言えば「出町柳駅」の対面だ。

 

 


	森の入り口に、鴨長明ゆかりの河合神社がある。下鴨神社の摂社(せっしゃ)である。

	摂末社(せつまつしゃ)とは、ほかの神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、摂
	社と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。現在は摂末社に関する規定は
	特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社
	・摂社・末社の順とされる。摂社については、本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に
	独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)という。明治から戦前までの社格制度では、官国幣社の摂社は以下の
	いずれかを満たすものとされ、それ以外を末社とすると規定されていた。

	本社の祭神の后神・御子神、また関係の深い神を祀る神社 
	祭神が現在地に遷座する前に当地に祀られていた神を祀る神社 
	本社の祭神の荒魂を祀る神社 
	本社の地主神を祀る神社 
	その他、特別の由諸がある神社

 


	<鴨長明と方丈の庵>
	鴨長明は、久寿2年(1155)、下鴨神社禰宜名継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元
	年(1161)、7歳のとき、下鴨神社の第6回式年遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学
	問に秀で、特に歌道に優れていた。安元元年(1175)(21歳)、高松女院歌合わせに和歌を献じ注目をあつめた。治承四年
	(1180)6月、26歳のときには福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都へ赴いたが、8月、源頼朝の乱により平家は
	滅亡し、再び平安京へ遷都され帰洛した。正治2年(1200)46歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献
	じることになった。翌、建仁元年(1201)和歌所の寄人に任せられた。また琵琶や笛、琴にもたけ演奏の記録が随所にみえる。
	しかし、元久元年(1204)50歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠遁する。元久2年3月、「新古今和歌集」に
	石川や 瀬見の小川 清ければ  月も流れを たずねてやすむ  をはじめ10首が採録された。「瀬見の小川」とは、この
	河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦2年(1212)3月、「方丈記」ついで「無名抄」を著した。建保4年(1216)
	6月8日、62歳で没した。
	鴨長明は、50歳のときすべての公職から身をひき大原へ隠遁した。その後、世の無情と人生のはかなさを随筆として著した
	のが「方丈記」である。大原から方々転々として、承元2年(1208)、58歳の頃、現在の京都市伏見区日野町に落ち着いた。
	各地を移動している間に「栖(すみか)」としていたのが、この「方丈」である。移動に便利なようにすべて組立式となって
	いる。広さは、一丈(約3m)四方、約2。73坪、畳、約5帖半程度。間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」
	の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿も
	また土居柱の構造である。この構造は、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は、式年遷宮に
	より21年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。この程、ゆかりの河合神社の斎庭に
	『方丈記』をもとに方丈を復元し、同神社の御料屋を資料館として、「鴨長明」関係資料展を方丈とともに年中公開している。




	<河合神社>

	祭神 : 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 式内社。

	由緒 : 鎮座の年代は、不詳であるが「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社」とある。鴨河合坐小社宅神社(かものかわあい
		 にますおこそやけのじんじゃ)と称するのが古代からの社名である。『日本書紀』に「社戸」、「社宅」=コソベ、
		 とある。「鴨河合」とは、古代からこの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と
		 訓まれ、それは本宮の祭神と同系流の神々との意である。延喜元年( 901)十二月二十八日官符に「御祖、別雷両
		 神之苗裔之神」(『年中行事祕抄』)とある神社で、祭神は神武天皇の母(本宮の御祭神とは同名異神)。社伝で
		 は、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。一説には、天平のころに上賀茂神社から分置されたとさ
		 れる。天安2年( 858)名神大社に列し、寛仁元年(1017)神階正一一位。元暦2年(1185)正一位。明治10年
		 (1887)賀茂御祖神社第一摂社に列せられた。
	社殿 : 本宮の二十一年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとにこの神社もすべての社殿が造替されていたが、現在の社殿は
		 延宝七年度(一六七九)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよく
		 とどめている。




	古くから本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、女性の守護神として信仰されている。『方丈記」の著者、鴨長明はこの河合神
	社の神官の家に生まれたが、事情によってこの重職を継ぐことができなかった。このことから強い厭世感を抱くようになり、
	やがて『方丈記』を書くにいたったといわれている。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の
	後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。
	『延喜式』では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年( 810年)以降約
	400年にわたり、斎院が置かれ皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。末社には任部社(とべしゃ)とよび八咫烏(やたのか
	らす)をまつるお社があり、昭和六年(1931)日本サッカー協会設立時より現在のJリーグにいたるまで、サッカー協会は八
	咫烏をシンボルマークとしている。



河合神社の境内に、多くの摂社・末社(下鴨神社の)がある。









上のくぼみが神宮寺の池の跡である。




	糺の森。ここには人工物がほとんど無いので、時代劇のロケによく用いられている。私もここを何度か訪問しているが、ここ
	で「必殺仕置き人」時代の緒方拳や、真野響子の旦那になった柴俊夫等に会ったことがある。今でも東映系の時代劇を注意し
	てみていると、この森で撮影された場面に出くわす。京都では大覚時とともに、映画ロケのメッカである。




糺の森を通る参道。京都の真ん中にこんなところがと思うほど静寂に包まれている。







 

 


	<井上社> (いのうえしゃ)
	通称、御手洗社。古名、唐崎社。祭神は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)。
	瀬織津比賣命を祀っている。病気やけが、さまざまな災難除けの神。社は井戸の上に建立されており、社の前がみたらしの池
	と呼ばれ、下流を御手洗川と呼んでいる。みたらしの池の南庭は、まつりの時のお祓いの場所である。葵祭に先だって斎王代
	がみそぎをするところである。夏の土用の丑の日の「足つけ神事」、立秋前夜の「矢取り神事(夏越神事)」は有名で、たく
	さんの人で賑わう。また、みたらしの池に湧く水のあぶくを、人の形にかたちどった「みたらし団子」の発祥の地と伝えられ
	ている。

	やっぱ井上というのは井戸の上にあったからなんか。










	賀茂御祖神社(下鴨神社) かもみおやじんじゃ(しもがもじんじゃ)

	祭神  : 東殿:賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿:玉依媛命(たまよりひめのみこと)
	社格  : 式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
	所在	: 京都市左京区下鴨泉川町59 
	見所	: 楼門、舞殿、神服殿、四脚中門等31棟は、重要文化財に、また、文久3(1863)年に造り替えられた本殿
		  2棟は国宝に指定されている。 また、境内は史跡に指定されており、糺の森は市街地に残る貴重な森として市民
		  の憩いの場となっている。
	祭事  : 「御粥祭」(1月15日)
		  「流鏑馬神事」(5月3日)  
		  「御蔭祭」(5/12) 葵祭に先駆けて、神霊を下鴨神社に迎える神事
		  「葵祭」(5月15日) 行列は11:40頃到着し、14:20頃上賀茂神社に向けて出発。 
	拝観時間: 境内自由 
	交通	: 市バス「下鴨神社前」下車すぐ/京阪本線「出町柳駅」下車徒歩15分/叡山電鉄「出町柳駅」下車徒歩15分

	京都で最も古い神社といわれる下鴨神社は、正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよび、祭神は、賀茂別雷神
	社(かもわけいかづちじんじゃ)の祖父神と、母である賀茂建角身命(かもたけのつみのみこと)と玉依媛(たまよりひめ)。
	賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、両社をもって
	一社のような扱いをされてきた。上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命、および玉依姫命の父の賀茂建角身命を
	祀ることから下鴨神社を「賀茂御祖神社」と呼ぶ。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
	山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をしているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を
	拾って床においたところ、矢は美しい男神になって2人はむすばれる。そして子が生まれたとの神話から、古くから縁結、子
	育ての神として信仰されている。『古事記』『日本書紀』には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)として表わ
	した功績が伝えられており、導びきの神として方除、厄除け、入学、就職の試験などの合格祈願の由緒である。




	創祀の年代を特定することは出来ないが、『日本書紀』神武天皇二年二月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎してい
	た一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名がみえる。この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ
	氏族であったとされる。また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より十一代後の大伊乃伎命の
	孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろう
	とされている。崇神天皇七年には、社の瑞垣が造営(『鴨社造営記』)され、垂仁天皇二十七年八月には、御神宝が奉まつら
	れている。(『同書』)また、緩靖天皇の御世より御生神事が行われた(『旧記』)との伝承があり、欽明天皇五年四月から
	賀茂祭(葵祭)(『本朝月令』『年中行事抄』)が行われていることからみて、創祀は相当古代に遡るものと見られる・

	先年、糺の森周辺の発掘調査で、弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘されているので、この周辺は古代から人々が鴨川の
	ほとりに居を構えた地であったようだ。社伝や歴史書に、祭、社殿、神宝等の奉納などが記録されている。『続日本紀』の文
	武天皇二年( 698)には、葵祭に見物人が集まるので警備するようにという命令が出された、という記事がある。このことか
	ら、奈良時代以前から当神社が大社で、盛大な祭がおこなわれていたと推測される。平安時代には、国と首都の守護神として、
	また皇室の氏神として特別の信仰を受け、式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であった。『源氏物語』
	や『枕草子』など王朝文学にもしばしば登場し、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えた。平安時代末期になると
	全国に六十余箇所の荘園、御廚が寄進され神社をささえた。鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地
	の荘園も連絡が次第に絶え、神殿守(殿司)とよばれる人々が全国をまわって神徳を説いていくのもこのころである。当神社
	を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子がうかがえる。江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社と
	して、神社の運営のため幕府より領地が寄せられた。明治初年、官幣大社になった。




	東殿賀茂建角身命は、古代の京都をひらいた神とされている。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられ、平安京が造
	営されるにあたって、当神社で成功の祈願が行われたという。平安遷都後は王城の守護神としてあがめられてきた。 
	京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお社というところから、京都市民からは「下鴨
	(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」とよばれている。東西の二殿の本殿はともに国宝であり、社域は世界文化
	遺産に登録されている。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。
	平安京では朝廷の尊崇も厚く、『源氏物語』をはじめ数々の文学に登場している。上賀茂神社を上社というのに対し、下社と
	いう。境内の南に広がり平安時代からの原生林である糺の杜(ただすのもり)は、樹齢200年から600年にもなる老樹が茂り、
	昔は神々の審判の場であったという。木々に囲まれた参道を北へ向かうと、朱塗りの鳥居が建ち、泉川が流れている。正面奥
	に国宝の本殿があり、桧皮葺の建物で、平安時代の典雅な面影をもっている。現在の本殿は文久3年(1863)に再建されてい
	る。

	白砂が敷き詰められた広大な境内には、東西2棟の本殿(国宝)と55棟の社殿が建ち並び、多くは重要文化財に登録されてい
	る。本殿西側にある「大炊殿」は神への供え物(神饌)を調理する神の台所で、重要文化財。また、境内の御手洗池の底より湧い
	てくる泡をかたどったのが「みたらしだんご」で、昔は無病息災を願って神前に供えられていた。




	<本殿> (ほんでん)
	文久三年造替、三間社流造、桧皮葺、東西二棟 国宝(昭・二八・三・三一) 神社建築の代表的な社殿。亀腹の上に井桁を
	組む高床式で橋がかりを付す古代様式の遺風がみられる。本殿二棟はいずれも国宝で、東殿には玉依媛命(たまよりひめのみ
	こと)、西殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の両祭神がそれぞれまつられている。

	<幣殿> (へいでん)
	寛永五年造替、桁行五間、梁間二間、入母屋造、中央軒唐破風、桧皮葺、重要文化財(昭・二八・三・三一)。『鴨社古図』
	によれば「幣帛殿」と「幣殿」は別棟となっている。また、『延喜式』斎王社参の条には、斎王の拝礼は幣殿向拝より先に西
	殿、次に東殿より行われている。大正九年度式年遷宮より「幣帛殿」と「幣殿」が同棟となったことがみうけられ、以来幣殿
	向拝を「片半屋」と称し、西片半屋を「親王座」と称する拝所となった。この奥に三間流社造りの優美な東西2棟の本殿があ
	るが、ここから格子越しに見ることしかできない。








	<中門> (ちゅもん:なかもん)
	寛永五年造替、四脚門、切妻造、桧皮葺 重要文化財(昭・二八・三・三一)賀茂祭、遷宮、行幸等々のとき祀官の座となる。




	<斎王代禊の儀> (さいおうだいみそぎのぎ)5月4日
	葵祭の斎王代(さいおうだい)以下、女人列に参加する40人の女性が身を清める神事。毎年、上賀茂神社と当神社の交代で
	行われる。斎王とは、平安朝時代未婚の内親王が選ばれて奉仕した。現在は京都在住の一般から選ばれた女性が務めている。
	十二単を着て神社のみたらしの池で川の水に手を浸し、身を清める御禊(みそぎ)を行う。古くは鴨川の河原で行われてたが、
	鎌倉前期に斎院の廃止と共に中断。昭和31年の斎王列復活により、両社の隔年交替で行うこととなった。日時は一定しない
	が五月初旬、御手洗川のほとりで、葵祭に先立ち斎王代と女人列が清流に臨んで祓い(ハライ)を受ける。青葉こもる神域で
	華やかな十二単の上に白い小忌衣(おみごろも)をまとった斎王代、あどけない童女、小袿の命婦(みょうぶ)・女嬬(にょ
	じゅう)・内侍(ないし)・女別当など50余名の女人列が雅楽の流れる中、進む様はまことに優美な王朝絵巻である。この
	禊の儀が終わると約2週間で葵祭となる。


	<葵祭> (あおいまつり) 5月15日
	今から約1400年前の(540〜572)年、凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延した時に、欽明天皇が勅使を遣わし「鴨の神」
	の祭礼を行ったのが起源とされている。上賀茂、下鴨両神社の例祭であり、この国の祭り中の祭として「枕草子」にも称えら
	れている。また、「祇園祭」「時代祭」と並んで「京都三大祭」の一つに数えられるが、時代祭は町衆参加の町の人が主体と
	なる祭りであるのに対し、葵祭は官の祭であったことが色濃く残されている。応仁の乱の後、元禄6年(1693)までの約2百
	年の間、また、明治4年(1871)から明治16年(1883)、昭和18年(1943)から昭和27年(1952)までの間は、祭の中
	断や行列の中止があった。葵祭は平安王朝時代の古式のままに「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」の三つに分けて行われ、
	内裏神殿の御簾をはじめ、御所車、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、全てを葵の葉で飾ったことから「葵祭」と呼ば
	れるようになった。「路頭の儀」と「社頭の儀」がよく知られており、路頭の儀が葵祭のハイライト、都大路の行列である。
	行列のすべてに葵の葉が飾られるので、その名がある。行列は、勅使をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎
	王代など平安貴族そのままの姿で列をつくり、午前10時30分、京都御所を出発する。そして、王朝風の優雅な列が市中を
	練り、下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう。

 

帰りに、四条大橋のたもとにある料理屋「出雲屋」で瓢箪弁当を食べた。まだうすら寒いのに、河床は満杯だった。









足の裏見せてるやん。



邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 / 下鴨神社