<日時>: 7月30日(日) 9:30AM 阪急電車北千里線「関大前」駅集合 <交通>: 大阪組:阪急梅田駅(9:05)発−(北千里線)−関大前(9:24)着(220円) 奈良組:JR奈良駅(8:00)発−(JR難波行き・新今宮乗換)− JR大阪(8:56着)− 徒歩 − 阪急梅田(9:05)発 − (北千里線) − 関大前(9:24)着 (1,000円) <持参するもの>: 弁当・水筒・雨具・その他 <費用>: 今回の反省会は、吹田市でも毎晩盛況の居酒屋さんに行きます。コースは3,000円のを頼みますが、プラス お酒代がかかります。そのおつもりで宜しくお願いします。 <行程>: 10:00 関西大学博物館見学 −(約30分)− 10:30 関大前 −(阪急電車)阪急吹田駅 −(徒歩)− 11:00 アサヒビール吹田工場見学 12:00 JR吹田駅前「片山神社・片山公園」で昼食(お弁当) 13:00 泉殿宮 → 天照皇大神宮 → 建前地蔵尊 → 高浜神社 → 吹田市制発足の地(旧吹田市役所跡) → 石造地蔵菩薩立像・子安地蔵尊 → 観音寺 → 吹田の渡 → 菖蒲池・小女郎稲荷 → 泪の池 → 松の音善蔵の墓(川面墓地内)→ 大の木神社 → 旧仙洞御料庄屋屋敷・西尾家住宅 → 常光円満寺 → JR吹田駅 18:00 JR吹田駅付近・魚と地酒の店「元屋」にて反省会。(3,000円+酒) 適時解散
阪急北千里線の「関大前」駅に集合して、河内さんの母校関西大学の博物館を訪ねた。私は2,3度以前にも来たことがある が、歴史倶楽部の例会としては初めてだろうと思う。ここには膨大な考古資料があるので、是非皆さんにも見て欲しいと思っ て案内したのだが、残念なことにいま建物は改築中だそうで、展示は一部に限られていた。藤井寺の国府(こう)遺跡の出土 物などが山ほどあったのだが、誠に残念。再来を期待しよう。
<関西大学博物館概要> 関西大学博物館は、平成6年4月に開館した。主に考古学および関連資料等約1万5千点を収蔵し、その一部を展示・公開し ている。学外一般への公開を行うとともに、大学設置の博物館相当施設として、学内教職員と学生の教育・研究活動に寄与す ることを目的としています。収蔵資料には、旧本山コレクション(元毎日新聞社主、故本山彦一氏収集資料)の考古学・歴史 学・民族学関係資料等と博物館が収集したり新たに寄贈を受けたものなど、あわせて約1万5千点があります。また、本学文 学部考古学研究室が調査した遺跡の出土資料についても保管し、一部を展示しています。 <関西大学博物館HPより、>
博物館めぐりの「関西大学博物館」のコーナーに、以前行ったときの詳細なレポートがある。ここには、収蔵品の内の約1千数 百点が、第1展示室と第2展示室にわかれて展示されている様子をレポートしているが、改修後はどんな様になるのだろうか。 そのときのレポートでは、第1展示室に日本の縄文時代から弥生時代・古墳時代の資料が展示され、大阪府藤井寺市国府遺跡出 土のけつ状耳飾りや丸玉、縄文式土器、弥生式土器など、奈良県天理市渋谷出土の石枕の重要文化財指定品16点もあった。 第2展示室では、日本の飛鳥・奈良時代以降の考古学資料朝鮮半島、中国、西アジア、エジプト、ヨーロッパ、南アメリカの考 古学資料も展示されていた。他にも、長門国長府鋳銭址資料、朝鮮半島の新石器時代資料、台湾丸山貝塚の出土資料などもある。
旧文部省が国立博物館や国立大学を独立法人化して、入場者数の多いところに補助金を多く出すなどとやったものだから、各 博物館は大変である。ここは私立大学の博物館だから大きな影響は無いのかもしれないが、それでも余波はあるだろう。だが、 博物館が入場者を増やそうとする試み自体は悪いことではない。むしろ、今まで余りにも無いがしろにされてきた感もある。 しかし入場者数で補助金の額を決めるというのはいただけない。参考にはしても、もっと他の面にも眼を向けるべきだ。 そもそも、文部科学省に限らないが、最近の官僚達の施策にはあきれるようなものが多い。厚生労働省は薬害をむしろ官僚達 が後押しし、我々の食品など日頃何を食わされているのかわからないよう感じだし、文化庁など官僚が何が文化かわかってい ない。うそっぱちの遺跡を国指定にしたり、やかましく言ってくる教授には補助金を多く出したりする。 日本国民はこういう官僚達を育てるために税金を取られているのだ。官僚も「国民審査制度」のようなものを設けて、ダメ官 僚はどっかへ行って貰うという制度などを採用できないものだろうか。小中学校、高校、大学、大学院と、全て税金で勉強し、 就職してからの生活費用も税金から貰っているこれら官僚達が、国民に奉仕するどころか、ますます日本をダメにしている。 アホらしくてやっとれん、というのが今の日本国民の声ではなかろうか。官僚達はもっとこういう声を聞くべきだ。
<行基(ぎょうき)の布教道場> 天平7年(736)行基は民衆救済の為に、諸国を巡っていた。ある日夢の中で、「吹田に聖なる香木がある」というお告げを 聞き、吹田へ来てみると、夢のお告げどおりに一本の香木が浜辺に打ち上げられていた。その頃の吹田は白砂青松(はくしゃせ いしょう)の海岸だった。行基はその香木で聖観音菩薩像を彫刻し、その場所を聖地として御堂を建て、香木の聖観音菩薩像を 本尊として祀った。布教道場となったこの御堂は浜辺に建てられたので、人々は「浜の堂」とよび、行基菩薩の話を聞くため 「集まる者つねに千人を越す」(常光円満寺文書)と言われ、人々は智慧を授かる為に日夜光明(こうみょう)が絶えなかった ので、いつか誰言う事なく、山号は「慧日山」となり、「常に光明を放つ寺=常光寺」とよばれるようになった。 その後、隣村の吉志部(現在の岸部)にあった圓満井流の猿楽(能楽)発祥の地である円満院を合併して、寺名を「常光円満寺 と改め、ますます近郷近在の信仰を集めた。 <円満寺HPより。>
<足利将軍と吹田氏の菩提寺として> かつては七堂伽藍(がらん)が甍(いらか)をならべ、塔頭(たっちゅう)僧坊十三を数え数万坪という広大な寺領荘園を領有 していた荘厳偉容は四隣を圧するほど…と伝えられている。応安二年(1396)足利三代将軍義満は、御本尊・聖観音菩薩に深く 帰依し「石垣の修繕料をすべて寄進」(常光円満寺文書)し、祈願所として自らの武運長久を祈った。以来、足利将軍の菩提寺 として足利尊氏以下歴代の祖先の位牌をまつり、回向(えこう)をつとめた。一方、名将吹田氏も「亡母の供養の為、多くの土 地を寄進」(常光円満寺文書)し菩提寺として深く信仰した。 このように足利将軍や吹田氏が祈願や菩提所を求めているのは、自己勢力結集目的以外に祖先の追善供養や乱世を乗り切るため に安心立命の加護を常光円満寺に求めていたことがよくわかる。その後の常光円満寺は十年戦争であった応仁の乱(1467)で陣僧 (僧侶の兵隊)をもって防戦につとめたが兵火によって全焼され、寺領荘園のすべてを失ってしまう。しかし二百年後の寛文十一 年(1671)教範和尚によって再建。さらに二十年余りの月日をかけ昭和五十六年には老朽化した本堂が建てかえられ、境内は整理 され、面目を一新する事ができた。 <円満寺HPより。>
今日の例会のメインは、実はここだった。この吹田駅近くにある居酒屋さん「元屋(もとや)」は、新鮮な魚を山ほど食わせて くれるので、連日連夜満席という盛況である。私も1ケ月前から予約していた。我が家では何かあるとココで家族の祝い事をし ていて、いつも新鮮な魚に満足していたので、一度会のみなさんをつれてきたかったのだ。地酒も各種揃っていて、一番少ない 「おまかせコース」でも、終いには食べきれなくなる。一度5千円のお任せコースを食べてみたいと思うのだが、飲んだらたぶ ん残すだろうなと思うと、未だに注文できないでいる。ちなみに我々が今夜頼んだのは3千円コースである。それでも刺身から、 煮物、天ぷら、汁物、季節の炊き込みご飯等々、十分過ぎるほどでてくる。4千円のコースには伊勢エビのようなものが付いて、 5千円にはそれにもう2、3品季節の魚が付いてくる。一度はマグロの甲焼きのようなものが皿に乗っていた。あまり飲まずに 食べることに専念すれば、あるいは平らげる事ができるかもしれない。今度挑戦してみるか。
結局昼間のビールが効いて、やっぱり行程の半分くらいをハショッてしまった。6時に予約していたのだが、「井上さん。もう 行こで。」「はよ飲みたい」という声に推されて、5時の開店前に押しかけてしまった。それでもマスターは「いいですよ。」 と気楽に応じてくれて助かった。旧吹田村の風情はまだまだたくさんあったというのに。まぁ、ええか、これが素人の集まりの 良さかもしれない。みなさん、また、どんどんハショりましょう。次に来る楽しみを残して。