Music: Baby it's you


高槻市散策・今城塚古墳・闘鶏山古墳
歴史倶楽部 第114回例会
2006年11月5日 大阪府高槻市
第113回例会「高槻市を歩く」
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<日時>: 11月5日(日) 9:30AM 阪急電車京都線「高槻市」駅集合
<交通>:
大阪組:阪急梅田駅(9:03)発−(京都線・急行)−高槻駅(9:26)着(270円)
奈良組:近鉄奈良駅(7:54)発−(京都行き・急行)− JR京都(8:43)(8:59) − JR高槻(9:12)
−(徒歩8分)− 阪急高槻 (990円)
<持参するもの>: 弁当・水筒・雨具・その他
<行程>: 市バス2往復とJR摂津富田まで乗車
@9:30 阪急高槻駅−−−城跡博物館、高山教会、寺町界隈−−−阪急高槻駅 11:00
A11:10 阪急高槻駅−−−バス(220円)−−−磐手橋−−−宮山古墳、昼食−−−磐手橋−−−市バス(220円)
−−−JR高槻駅 −−−JR(150円)−−−摂津富田13:00
B13:10 摂津富田−−−市バス(220円)−−−土室−−−埴輪工房博物館−−−今城塚−−−闘鶏山古墳
−−− 市バス(220円)−−−摂津富田
適時解散
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高槻市にはもう何度か訪れた。我が歴史倶楽部の例会としても2,3回は来ている。一度は今回と同じく高槻在住の
西本さんの案内で安満宮山古墳などを訪れたし、私は個人的にも、吹田市の歴史研究会などの例会で西国街道などを
めぐった。大阪府埋蔵文化財センターの例会でも、高槻市の遺跡を歩いた。それらのレポートは「大阪府の文化財」
HPの高槻市コーナーに報告してあるので、そちらも併せてご覧いただけば幸いである。というわけで、解説はもう
さんざんそれらのHPでやったので、今回はそこからここへの転載という形にした。従ってここでの解説は、前述の
HPの中の文章とほぼ同じであることをお断りしておきたい。
カトリック高槻教会
阪急高槻駅から高槻城跡方面を目指して歩く。今日は高槻市のイベントが開催されていたようで、結構な人出だった。
「現代劇場」ではJAZZ FESTEVALのような事もやっていて、駅前でパンフレットを貰った。
<カトリック高槻教会>
高槻は、キリシタン大名で有名な高山右近ゆかりの地。高槻城主であった右近は、徳川家康のキリシタン禁制が配布
された際にマニラに追放され、そこで生涯を終えいる。その右近の臨終の地であるマニラ郊外アンテイポロにある聖
母大聖堂を模して高槻カトリック教会に建てられたのが、高山右近記念聖堂。聖堂の前庭には、教会に向かってひざ
まづいて祈りを捧げる右近の大理石像がある。

教会の門を入って直ぐ左手にイタリアの彫刻家ニコラ・アルギィニによって彫られた大理石の高山右近像がある。こ
れはローマの高名な教会関係者から寄贈されたものといわれている。像の高山右近は手に十字架を持っており、着衣
も含め武士、城主というよりも、キリスト教信者という雰囲気が強い。
高山右近は永禄6年(1563年)に洗礼をうけ「ジュウスト」の洗礼名をもつキリスト教徒であり、熱心に布教に努め、
天正9年(1581年)にはイタリアから有名な巡察師ヴァリニァーノを招いて復活祭を催したという。それほどの熱心
なキリスト教徒であった高山右近は、かつての上司であった和田惟政の子、惟長を倒して高槻城を奪っている。戦国
時代のキリシタン大名達のキリスト教徒としての務めと、人を滅ぼしてまで城を乗っ取る行為とはどう折り合いが付
くのだろうか?

高槻カトリック教会内にある高山右近記念聖堂は、キリシタン禁制でマニラに追放された右近臨終の地、マニラ郊外
アンティポロの聖母大聖堂を模して建てられたもの。前庭には、イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作品であ
る、ひざまずいて祈る高山右近の像がある。高山右近(たかやまうこん)は安土桃山時代の武将,茶人。キリシタン
大名。初め摂津(せっつ)国高槻城主として織田信長に対抗したが,のち信長に従い,本能寺の変後は豊臣秀吉に属し
明石城主となる。1614年、徳川家康のキリシタン国外追放によりマニラで没す。
高山右近(長房)は、天文21年(1552)、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれた。父の高山飛騨守(ひだのかみ)
と父子ともに熱心なキリシタンで、城内に教会堂を建て活発な布教活動を行った。洗礼名ジュスト。
高山右近は21歳から33歳までの12年間、摂津の国 高槻城主だったが、その間に、キリシタン大名として、戦
国時代のさなか、イエス・キリストを愛した。2万5千人の領民のうち、1万8千人(72%)がキリシタンになっ
たとパーデレ神父が報告している。しかし、織田信長、豊臣秀吉の家臣として多くの武功を挙げたにもかかわらず、
キリシタン禁制によりおよそ30年間の苦難の生涯を過ごし、信仰を貫き、最後はマニラに追放された。

右近が高槻にいたのは12年間で、明石城主に転封され、その2年後にキリシタン禁令で大名を追われる。加賀国
(今の石川県)の前田利家のもとに身を寄せるが、慶長19年(1614)、江戸幕府のキリシタン国外追放令によって
マニラに追われ、その地で熱病により翌年没した。千利休の弟子として茶道にも優れていて、南坊等伯と号していた。
この聖堂は、かって高山右近が高槻城内に建てた聖堂を思わせる純日本式な様式にする計画があったが、途中で変更
され、右近終焉の地であるマニラ郊外のアンテイポロ聖母大聖堂を模して設計され、昭和37年3月に竣工した。右
近当時は25,000人の信者を数えたという高槻だが、現在この教会に集う人々の多くは、大阪市のベッドタウンとなっ
た新興住宅地高槻に移り住んできた人たちである。
野見神社
文化ホールの南隣で商工会議所の西側、が野見神社である。野見宿禰(のみのすくね)を祀る神社で、 宇多天皇の頃
(887〜897年)に創建されたと伝わる。野見宿禰は日本書紀の伝承上の人物で、出雲(島根)の出身で当麻蹶速(た
いまのけはや)と力比べをして勝ったという説話が残る。その後、享禄、天文年間(1528〜1554年)の頃には祭礼も
盛大に行われるようになり、歴代の高槻城主の信仰も篤かったという。高槻城主の和田惟政も篤く信仰していたが、
その後城主となった高山右近は神社を取り壊してしまった。キリスト教徒の、他教に対する排斥・攻撃は、自らが被
ってきた迫害に対する報復なのか、非常に辛辣なものがある。ブッシュのイラク攻撃などはその最たるものだ。何年
経とうと、人の性(さが)は変わらない。

<野見神社>
祭神は「古事記」に登場する野見宿禰(のみのすくね)である。「古事記」の中で、当麻蹶速(たいまのけはや)と
いう人物と日本で最初に相撲をとった逸話で有名。野見宿禰が勝って、投げられた大麻蹶速はその時の傷が元で死ん
でしまう。今日では、これが相撲の起源だといわれ、日本相撲協会でも相撲の祖神を野見宿禰命としている。
日本書記巻六には、「11月2日、倭彦命(垂仁天皇の同母弟)を身狭の桃鳥花坂に葬った。」という記事がみえ、
倭彦命の死で殉死する侍従を墓の周りに生き埋めにしたら、土中から数日間泣き叫ぶ声が聞こえて、天皇はおおいに
胸を痛めた。そこで、天皇は以後殉死を禁じ、出雲の野見宿禰の進言によって、皇后である日葉酢媛が死去した際に
は、墓には、人の代わり埴輪を作って並べた。これが埴輪の起こりと言う事になっている。また野見宿禰は、土師氏
の始祖で、土師氏は後に菅原に住み、菅原姓になり、菅原道真の先祖となる。土師氏の一族は高槻の山手の方に住ん
でいた職業集団で、彼らの神である野見宿禰を祀っていたと言われている。最近、高槻市の今城塚古墳から国内最大
級といわれる家形の埴輪が出土し、私もその時の現地説明会には参加した。
野見神社は9世紀後半、宇多天皇の頃の創建と言われ、元々の祭神はインドの祇園精舎の神様「牛頭天皇」だった。
明治の神仏分離令で牛頭天皇神を廃し、日本の神のスサノオノミコトに名前を変えた。同時に高槻に縁のある神様と
して野見宿禰を祀ることになり、神社名も野見神社となった。

野見神社は城跡公園のすぐ側にある。周りには高山右近記念聖堂や高槻カトリック教会などがあり右近一色であるが、
野見神社と縁の深い永井家は、実は現在の高槻市の元を築いた人である。キリシタン大名・高山右近はキリスト教へ
の強い信仰で、野見神社の社殿を破壊したという。高山右近が高槻城主だったのは慶長年間の12年間で、当時の高
槻城下にはキリスト教信者が3〜4万いたともいわれ 、キリスト教の祭典の時には大変賑わったと、高槻を訪れた
イタリア人宣教師がローマ法王に手紙で送っている。
高槻城主は、17世紀中頃までは度々交代した。高槻といえば高山右近と言われるほど有名だが、実は永井家は慶安
2年(1649)に永井日向守直清が高槻城主になって以来、3代将軍家光の時代から明治の廃藩置県まで221年間、
13代続いたのである。今も子孫が横浜市にいる。現在の高槻の町の元は永井氏によって築かれたのだ。年に一度の
野見神社で行われる祭りには、その子孫も参加するそうである。この神社はもと高槻城内にあり、高山右近を除いて
歴代城主の信仰も厚く、慶安2年(1649)には永井直清が社殿を修築している。

元和5年(1619年)に当時の高槻城主松平紀伊守によって神社は復興され、更に慶安2年(1649年)には永井直清が城主
になり、神社の例祭も盛大に行われるようになった。上左の写真は現在の野見神社拝殿であるが、写真でもわかるよ
うに、最近建て替えられ、見た目にも新しい。
高槻城主となった永井家は220年間13代にわたって続いたとされており、野見神社は長年に亘り永井家の庇護を
受けることになった。野見神社拝殿の東側境内に永井神社があり、永井家の祖先を祀っている。永井神社の東側に
「永井先公遺愛碑」と彫られた石碑が建てられている。

高槻城跡公園
<高槻城>
高槻城は、平安時代に近藤忠範(ただのり)によって築かれたのが最初で、南北朝には入江氏の居城となり、戦国末期に
は和田惟政(これまさ)が城主になった。和田惟政は永禄12年(1569)に高槻城主になったが、元亀2年(1571)に白井河
原の合戦で戦死し、惟政の子、惟長が城主となった。その後、元亀4年(1573年)には和田惟政の家臣であった高山飛騨守、
右近父子は和田惟長を滅ぼし、天正元年(1573年)に右近が高槻城主になった。高槻城跡公園の片隅小高い場所に高山右
近の像が建っている。

今の茨木市耳原にあたる白井河原の合戦で、将軍の足利義昭と織田信長が戦って織田軍が勝ち、織田軍に加担して戦った
高山右近の父・飛騨守が元亀2年(1571)に城主になって、それを右近が継いだ。右近が高槻にいたのは13年間で、
その後、新庄・内藤・土岐(とき)・松平・岡部氏と目まぐるしく城主が変わり、永井直清が慶安2年(1649)に入城し
てからは安定し、明治維新まで13代続いた。明治維新後、高槻城は取り壊され、城の石垣は鉄道工事の用材などに使わ
れた。明治42年(1909)には陸軍工兵隊の駐屯地となり、城跡は大きく変貌した。現在は城域の一部が城跡公園として
整備され、市民らの憩いの場に変わった。

キリシタン大名として有名な高山右近が13年間城主であった高槻城は、現在その姿は見られない。しかし今の城内町に
かつて高槻城があったとされ、槻の木高校のある位置が本丸のあったところとされている。その東側の城跡は高槻城跡公
園になっている。昭和50年に本丸石垣の基礎部分を発掘したが、今でも遺構が地中に埋もれているらしい。現在公園は、
旧三の丸を中心に公園化しているが、石垣は東海道線建設のために使われたので一部を残すのみになっている。池や石を
配した、緑のある明るい感じの公園である。なお、高槻城跡は現在大阪府史跡に指定されている。
高槻高校の敷地の東側に隣接して、「高槻城跡」と彫られた石碑が建てられている。その石碑の南側に石組がある。
この石は高槻城の天守台や本丸御門の基礎石であるという。

高槻城は平安時代に城が築かれたのが始まりと伝えられているが、城の存在が確認できるのは、14世紀の室町時代に
入江氏がここに居城を構えてからである。当初は小さな館程度だったが、戦国の世、天正元年(1573)高山右近が
町家も堀で囲い込んだ堅固な城を築いた。さらに徳川時代に入って西国ににらみを利かす拠点として、幕府による城の
修築が行われた。3層の天守閣や高石垣、土塁をめぐらす、東西510m、南北630mの城域の強固な近世城郭だっ
たことが発掘調査などで判明している。

高槻城を含む西国街道一帯は昔から京阪間の重要拠点だった。高槻城の歴史は南北朝時代の入江氏の居館に始まり、戦
国時代には和田、高山氏が名を連ねる。当初は小さな舘だったが、戦国時代を通じて拡張され、元和3年(1617)徳川
幕府は西国監視の重要拠点として修築に着手し、近世城郭としての姿を整えた。城は三層の天守や二重の堀などを備え
た、南北に長い凸形で、城下の面積は18世紀頃で約64haとみられている。慶安2年(1649)に永井直清が高槻城
に入り、以後13代幕末まで高槻を治めたが、明治7年(1874)、石垣石を鉄道工事に使用するため高槻城は壊され、
城跡は昭和25年、府の史跡に指定された。府立島上高校の前にある高槻城跡碑は、当時の石垣の一部を利用して刻ん
だ。
公園内には、市の文化財に指定された江戸時代の商家・旧笹井家を移築した 高槻市立歴史民族資料館がある。館内には
生活用具や農具・漁具、特産の寒天製造用具、古曾部焼きなどが展示されている。古曾部焼きは素朴な落ち着いた色合い
の焼き物で、かっては高槻の名産品だった。いまも小規模ながら窯は続いている。

高槻城といえば高山右近である。戦国時代のキリシタン大名として名をはせ、やがて秀吉・家康に追われ、遠くマニラ
の地で没した悲劇の人物として有名だ。しかし、彼が高槻城にいたのは15年、城主になってからでも12年という短
い間だった。
天文21年(1552)、高山彦五郎、通称右近は摂津・島下の高山(現・豊能郡豊能町)に生まれた。父、飛騨守は勇猛
果敢な武士であったと伝えられる。後に、飛騨守は松永久秀の配下として、大和の国沢城主(現在の奈良県榛原町)に
なる。
天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルが来日し入洛したが、戦乱の京都を避けて山口で宣教活動を行う。そこで
目と足の不自由な琵琶法師ロレンソが入信、将軍義輝から京都での布教許可をもらう。永禄6(1563)年、松永久秀
(多聞山・信貴山城主)の家臣として沢城(現・榛原町)を預かっていた高山飛騨守は、ロレンソの説法を聞き、主従
ともにキリスト教の洗礼を受けるのである。この時、高山飛騨守の息子右近も受洗した。洗礼名ジェスト、12歳であ
った。
しかし高山親子は、沢城でキリシタンとして平穏な祈りの日々を送っていたわけではない。世は戦国・下剋上の世界で
ある。高山家はやがて主君松永を捨てて、摂津高槻の和田氏の臣下となるが、右近が初めて歴史に名を残すのは、さら
にその主君和田氏の息子を右近が殺害し、信長配下の荒木村重の力を頼って高槻城を乗っ取った時である。高山飛騨守
は高槻城主となるが、まもなく21歳の息子右近に城を譲り、このときはじめて高山右近友祥(ともなり)と名乗るの
である。後にキリシタン大名として敬虔でまじめな大名というイメージを築く右近であるが、この頃にはまるでキリシ
タンらしい所はない。
飛騨守はダリヨと名乗り、引退後はもっぱら宣教に専念した。足利義昭は毛利に逃げ、天下は信長の支配力が強まり、
やや平穏な時代であった。天正2年から4年の間、高槻でも多くのキリシタンが誕生したという。一時期、2万5千人
の領民のうち、1万8千人がキリシタンであったとも言われる。

天正4年(1574)、高槻で最初の復活祭が行われ、宣教師オルガンチノも生まれて初めて経験したと記録するほど盛大
であった。この年には、1年で約4000人が受洗した。しかし右近は決して領主の権限で信仰を強制するようなこと
はなかった。仏教徒にも自由を認め、寺社を今までどおり保証するという右近の文書も発見されている。信長や当時の
武将たちの間でもキリシタンへの信頼は厚かった。あるとき法華宗の者が信長にパテレン追放を願い出た。信長は、摂
津守護であり、右近の主君である荒木村重に「キリシタンについてどう思うか」と尋ねた。荒木は「教理についてはよ
く知らぬが、キリシタンの家臣たちは、よく善に従い、徳を行い、申し分ない。」と言うと、そこに居た武将たちも同
意し、信長も「予も同意見だ」といって法華宗の訴えを退けたという。
天正6年(1578)、荒木村重は毛利、石山本願寺と組み信長に謀反を翻す。右近は26歳、キリシタンとしての最初の
試練であった。悩み抜いた末、妹、3歳の子を荒木の元へ人質に出して忠誠を示し、謀反が無駄で、信長には勝てない
ことを説得するが、強行派に押し込められ、信長の軍勢を迎え撃つ事になる。信長、秀吉らは高槻城に迫り開城を要求
する。信長にとって高槻は戦略上の要所で、また一向宗にたいしてもキリシタン大名は必要な存在であった。ここで右
近を失いたくなかった信長は、使いを出し、加増とキリシタン保護を右近に約束した。右近は、荒木と信長を和解させ
ようとしたが、信長は拒否。右近の父ダリヨは娘、孫を思い、荒木側につくことを主張した。信長は怒り、教会を焼き
払いながら、荒木村重の有岡城(現在の兵庫県伊丹市)へ迫る。
信仰か打算かを迫られた右近は、ここに至って決心した。密かに城を脱出、髪をおろし武器を捨て、信長のもとへ下る
のである。彼は武士であることを捨て城主は父に返上。その代わりキリシタン保護を願う。受け入れられなければ殉教
する覚悟であった。信長は右近の決心に感動し、やがて、右近の家臣がダリヨらを押さえて開城した。信長は喜び、右
近に再び信長に仕える事を強要した。村重らは迫り来る信長軍に尼崎へ逃げ、有岡城は無傷で落城、人質も無事であっ
た。ダリヨは本来なら死罪であるが、右近に免じて柴田勝家預けとなり、福井県北荘(きたのしょう)に軟禁された。
この時から信長は右近を重く取り立てるようになったと言われる。
こうして信長のキリシタン保護政策は継続され、安土に教会を建てることも許可する。右近は家臣1500人を動員し
て1カ月で3階建てのセミナリオを建てた。右近は築城の名人とも言われ、教会建築にもその才能を発揮した。多くの
武家の師弟たちがこのセミナリオで学んだ。教会は領内に20程あったと言われる。ここではパイプオルガンが鳴り、
聖歌が歌われ、また天文学や西洋絵画教室まで開かれたという。右近は今や信長の寵愛する家臣の一人となっていた。
およそ2倍になった領国で、キリシタン大名としておもいのままの政治を行った。彼が仕えた3人の主君、松永、和田、
荒木は既に無く、彼らを右近が見捨てたわけではなく、彼らの滅亡に力を貸して4人目の主君信長に仕えたのである。
高山右近の絶頂期と言ってよい。

天正10年(1582)6月1日未明、明智光秀は、丹波亀岡から1万3千の兵を率いて京への道、老いの坂を越えた。丹
波街道はやがて桂川にぶつかる。南に道をとれば秀吉の待つ中国路へと至る。しかし光秀は、桂川を渡るよう臣下に命
じた。そして全軍にはじめてその攻撃目標を明かすのである。「わが敵は本能寺にあり。」
高山右近は毛利戦に合流するため高松へ進軍中であった。明智光秀は右近に書簡を送り本領を安堵すると約束をしたが、
右近は引き返し、5人目の主君秀吉の元で光秀と戦った。この戦で安土城は焼失。安土のセミナリヨは高槻へ移された。
信長の法要では右近は信仰に従い焼香しなかったが、その時点では特に秀吉も咎めなかったようである。信長の死によ
り右近の父ダリヨは高槻に帰ることを赦された。
信長の死後、秀吉もキリシタン保護を継続した。天正11年、秀吉はオルガンチノを歓待、大阪に教会用の土地を提供
した。右近も自費で大坂に教会を建設した。秀吉の側近の多くが右近の影響で入信し、蒲生氏郷、黒田官兵衛、宇喜多
氏家、中川秀政、細川忠興の妻ガラシャ、小西行長一家などが洗礼を受けた。信長に謀反を起こした荒木村重は、減禄
されてもなお秀吉に仕えていたがある時、茶席で秀吉が右近を誉めたとき、荒木は「それはみせかけだ。」と答え秀吉
の怒りを買う。荒木は完全に秀吉の信用を失い、それ以来歴史に登場する事はない。秀吉の右近への信頼も絶大であり、
毎日のように右近を賛辞し、多くのキリシタンが登用された。

天正15年(1587)、秀吉は九州の島津征討に出陣。陸は右近、海は小西のクルスの旗がはためいたと言われる。島津
は5月8日降伏、6月7日には秀吉は箱崎(博多)に凱旋した。そこで、右近らキリシタン信徒やバテレンにとっては、
晴天の霹靂とも言うべき出来事が起こる。秀吉は、突然バレテン追放令を発布したのである。
秀吉が箱崎に凱旋した時、宣教師コェリョは武装した南蛮船で秀吉を出迎え、大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が
自分の指揮下にあるごとく誇示した。右近らはその南蛮船を秀吉に差し出すように勧めたが、コェリョは拒否した。
秀吉は憤慨した。反キリシタンの全宗派は、このチャンスに秀吉にバテレン追放を進言。6月19日夜突然、コェリョ
に詰問書が出された。秀吉は右近にも使いを出して次のように棄教を迫った。「兄弟もおよばぬ一致団結は天下にとっ
てゆるがせにできぬ。高槻、明石での社寺破却は理不尽。予に仕えたければ、信仰を捨てよ。」
高山右近は、ここで第二の信仰上の大きな試練に直面した。黒田、蒲生、細川など当時の大名やその家族達にも大きな
影響を持ち、近畿におけるキリシタンの中心人物であった右近は、秀吉からいわばみせしめとして棄教を迫られたので
ある。
キリシタンとして自覚してからは、自分の主君を殺し、父親に背いた事を悩む右近ではあったが、今回は悩まなかった。
右近はいさぎよく領地を返上し、その日の夜半には「伴天連追放令」が発布された。秀吉は右近の元へ千利休を遣わし、
前言を取り消すなら取り計らおうと言ったが、右近は、武士として一度言ったことは変えぬ、と返答した。右近は家臣
に対し、おのおのの妻子のために配慮し、自分を捨てて他に主君を求めよと勧めた。肥後32万石へ転封された小西行
長が、右近の家臣の多くを引き取った。
棄教を拒否した右近は、秀吉に所領を没収され、加賀前田家に預けられた。35歳で再び大名の座を失った右近は、そ
の後4分の1世紀以上を、金沢城主前田利家とその子利長の保護の元に過ごすことになった。利家は右近に3万石を提
供したが、右近は教会1つ建ててくれればそれで十分と答えたと言う。キリシタン大名として知られる高山右近が、前
田家の客将として加賀に26年間も住んでいたことはあまり知られていない。26年間といえば12歳で洗礼を受けて
から、異郷の地マニラで客死するまでの右近の生涯のおよそ半分を占めている。彼の教養と品格は、前田家の武士達に
も影響を及ぼしたようで、軟禁とは言え、金沢城修復の縄張りを行うなど前田家の信頼も厚かった。金沢は今でも茶道
の盛んなところだが、「利休七哲」の人としても名高い右近の影響もあるのかもしれない。

右近は天正18年(1590)、小田原征伐に前田家家臣として参戦し、松井田城(群馬県)、武蔵鉢形城(埼玉県)、八
王子城(東京都)を攻略、クルスの旗をかざして戦った。実質的に前田家家臣として秀吉に赦されているのである。秀
吉は、子供時代からの盟友前田利家に右近を預けることで、利家がしかるべく右近を遇してくれる事を期待していたの
かもしれない。加賀時代の高山右近は、むしろ彼の人生で一番自由できままな時代だったかもしれないのだ。事実、同
年6月20日、少年遣欧使節が帰国して密かに京都へ上った時会ったフロイスに右近はこう語っている。「関白どのか
ら離されて、何の支障も無く自由に暮らせるのは自分にとって恵みである。」
文禄元年(1592)、右近は名護屋で秀吉に会見し、翌日茶に招かれる。右近もパアデレも公然と自由に活動できるよう
になった。この後日本においてキリシタン南蛮文化が開花した。文禄4年、父ダリヨ死去。遺言によって長崎キリシタ
ン墓地に葬られた。長崎始まって以来の最大の葬儀であったと言う。
しかし金沢もまた右近にとって安住の地ではなかった。再び秀吉の怒りを引き起こす事件が発生し、長崎での「26聖
人の殉教」で危うく処刑されかかった右近だが、石田三成と利家のとりなしにより助けられた。殉教者は最終的に26
人に絞られた。耳を削がれ、洛中引き回し、大阪から徒歩で長崎まで引いていかれた宣教師・信徒達は、慶長元年
(1596)2月5日、長崎で張付けの刑に処せられた。
これを聞いたスペイン国王は怒り、日本に戦争をしかけるつもりであったともいわれる。しかし、国王フェリペ2世は
死去、その5日後、慶長3年8月18日、秀吉も病で死去した。病に伏せる秀吉に謁見を許されていた宣教師ロドリゲ
スは、最後まで秀吉にキリシタンになることを勧めたが秀吉は拒んだという。
秀吉没後、5大老、5奉行の合議制となる。大老の筆頭は家康、利家であり、奉行の筆頭は三成であった。キリシタン
同情者が多く、しばらくは平穏であった。家康はキリシタン大名を静観していた。貿易権、採掘、造船技術を得るため
に彼らを利用していたのである。利用価値がなくなれば、封建社会にとっては危険思想としてむしろ排除すべきもので
あった。ただその機会を伺っていたに過ぎない。
慶長17年(1612)有馬晴信と岡本大八の内紛をきっかけとして家康はキリシタン禁止の方向へ向かう。棄教しなかっ
た旗本14名を追放。利家の後を継いだ息子の利長でさえ、右近に棄教を求めた。慶長18年、各地で迫害が荒れ狂う
が、ますます信仰を燃やすキリシタンに、家康は怒り「伴天連追放令」を発布。伴天連の国外追放とともにキリシタン
宗門の全面的禁圧を命じた。
慶長19年(1614)、徳川幕府から国外追放を命ぜられて金沢を離れた62歳の右近は、20数年ぶりにはるか淀川の
対岸から旧領地高槻を望みながら大坂に下り、さらにここから長崎を経由して遙かマニラへ流されていった。
家康に追放された右近一行は、慶長19年(1614年)11月21日、長崎を発って43日後にマニラに到着した。フィ
リピン側の記録では、ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を歓迎、船が入港したとき岸は市民が埋め尽くし、
礼砲を撃ち、国賓並みの歓迎であったという。総督はスペイン国王の名において手厚くもてなすと宣言。しかし右近は、
主のために命を捧げようとしたが、それもお許しにならなかったほどの拙い自分は、そのような名誉に値しないと辞退
した。右近は金沢からの苦難の道中と過酷な船旅で疲れ果て、不慣れな南国の気候風土、食物で健康を損なって熱病に
かかり、慶長20年(1615)年正月8日静かに息をひき取った。63歳。
マニラ市をあげての盛大な葬儀が行われた。遺骸はサンタ・アンナ聖堂に納められ、9日間追悼のミサが続いた。家族
は国会から年俸を受け日本人町で平穏に暮らしたと伝えられる。高槻市とマニラ市は高山右近が縁となって姉妹都市に
なっており、また、マニラの日比友好公園には、高槻市と同じ高山右近像が立っているそうである。
宣教師フロイスが著した「日本史」には、高槻のことが以下のように記されている。
「教会堂の廻りには非常に広い庭園が造られ、その周囲には美しい花のある緑樹が植えられた。そしてその横の大樹の
真下には3段の台石に大きな木製の十字架が建てられ、その裏側には池を作って、魚を泳がせてあった。ヨーロッパに
おいてもなかなか見られないような美観を呈していた。」
高山右近後の高槻城は、内藤、土岐氏などの譜代の大名にゆだねられ、慶安2年(1649)には永井直清が3万2000
石で入封。以後明治まで永井氏の治世が続いた。江戸時代の高槻城は、東西510m、南北630m、三層の天守に高
石垣、土居を構えた立派なもので、現在城跡公園として整備されているのはかっての三の丸部分である。



城跡公園の北入口には、工兵第四聯隊跡碑が立っている。明治42年〜昭和20年まで存在した兵舎の営門がこの
あたりにあり、兵舎はかつて学校の校舎として使われていたが、今はモニュメントとして、この碑だけが残っている。
吹田市の何とか(忘れた)いう小学校が空襲で倒壊した時、真っ先に駆けつけて修復してくれたのがこの師団だった
という。



<高槻市立しろあと歴史館>
・住所 : 〒569-0075 高槻市城内町1番7号
・tel: 072−673−3987
・FAX : 072−673−3984
・開館時間 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
・休館日 毎週月曜日、祝日の翌日、12月28日〜1月3日
・入館料 無料(ただし特別展は有料)
・駐車場 無料(9台まで)大型バスなどについては事前に相談。
・交通アクセス 阪急高槻市駅より南へ徒歩約10分
JR高槻駅より南東へ徒歩約15分












ここで高槻駅へ戻り、ここからはバスで安満宮山古墳へという事だったが、
4人で乗ればバス代と変わらんと言うのでタクシー相乗りとなった。

安満宮山古墳
<安満宮山古墳>
平成9年に発掘され、「青龍三年銘」の方格規矩鏡が発見された事で話題を呼んだ、大阪府高槻市の安満宮山(あま
みややま)古墳が平成10年12月11日(金曜)から一般に公開された。この古墳は市営公園墓地内の発掘調査で
発見され、3世紀後半に築造されたと見られている。高槻市ではこれを保存し公開している。
古墳は、眼下に山城盆地から大阪湾へ至る淀川を眺める事ができる急峻な狭幅( 20〜30m)の尾根上につくられてい
る。全て発見当時のままの形で復元されており、木棺埋納抗は強化ガラスで覆われている。埋葬者の頭部付近に散ら
ばっていたガラス玉や、底一面に塗られていた朱をこぼした跡など、忠実に復元してある。








ここからは北河内平野一帯が見晴らせて、天気が良ければ大阪港から奈良まで見える(?)という。


安満宮山古墳から降りていく途中で、最近発掘されたという古墳を西本さんが案内してくれた。安満宮山古墳から5,
6分の所である。この文じゃ、この山にはまだまだ古墳が有りそうだね。河内さんが荷物を「ミャンマー運び」して
いる。








今度はバスに乗ってJR高槻駅へ。それから1駅大阪側へ戻って摂津富田で降りる。ここからは歩きだ。

新池ハニワ製作所跡



<新池ハニワ製作所跡>
真の継体天皇陵である可能性が高い「今城塚古墳」にハニワを供給していた埴輪製作所の跡が発見されている。日本一の
埴輪製作所跡ではないかと言われる。この遺跡公園はマンション群のど真ん中にある。マンション群の中に、古代の窯の
跡が残っている。真の継体天皇陵である可能性が高い「今城塚古墳」にハニワを供給していた埴輪製作所の跡が発見され
ている。驚くことに、この遺跡公園はマンション群のど真ん中にある。古代の窯の跡だけを残して開発されまくっている。
「古代」と「現代」の取り合わせが何とも言えない。










このハニワ工場で生産された埴輪は今城塚古墳のみならず、広く近畿一円に供給されていた可能性がある。
窯の数も多く、もしかしたら関東や西国にも運ばれていたのかもしれない。








遠くにトタン屋根の煙突みたいなものが見えているなと思っていたら、「ハニワ工房館」という古代の窯をそのまま
保存した遺跡だった。



館内ではVIDEOが、継体天皇の出生から今城塚古墳の概要など、わかりやすく解説してくれている。






>


歴史に詳しい人なら、この画面を見れば「VIDEO」がだいたいどんな解説をしているかがわかると思う。







池は古代からあった。池のほとりに、今城塚古墳から出土したハニワの
レプリカが並んでいる。 よくまぁこんな大きなものを、と思ってしまう。






闘鶏山古墳








<闘鶏山古墳> (つげやまこふん)(未破壊・未盗掘石室の残る貴重な古墳)
古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳。平成14年12月、国の史跡に指定。史跡闘鶏山古墳は、平野に突き出た
丘陵先端部にある、全長86.4mの前方後円墳である。平成14年の確認調査によって後円部から未盗掘の竪穴式石
室2基が発見され、大きな話題になった。石室内部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじ
ゅうきょう)や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認され、4世紀前半の三島の王墓と考えられている。墳丘の段築や
葺石、さらに平野に向かって開けた周辺の丘陵地形もよくのこっており、古墳の祭祀や古墳時代の解明に向けて、極め
て重要な古墳である。
南東側からみた古墳 左側の高まりが前方部、右奥の高まりが後円部
後円部でみつかった2基の石室 第1主体の内部
画面手前 第1主体、同奥 第2主体 手前から三角縁神獣鏡2面、腕飾り、
方格規矩鏡が並び、その奥に頭骨が
のこっている

この神社の裏が闘鶏山古墳であるが・・・。



残念なことに古墳へは立ち入り禁止である。中にはまだ鏡や人骨が埋まっており、
それが大々的に発表されたもんだから、おそらく盗掘を警戒しているのかもしれない。


この神社への正式な参拝道は、名神高速道を跨いでいる。



闘鶏野神社の参道(高速の歩道橋)から見た高槻市街。


闘鶏山古墳(第一次調査)現地説明会資料
調 査 地 高槻市氷室町6丁目1番〜30番
調 査 面 積 約183u
調 査 期 間 平成14年4月8日〜現在継続中
調 査 主 体 高槻市教育委員会 文化財課 埋蔵文化財調査センター
調査担当者 高橋公一
1.はじめに
闘鶏山(つげやま)古墳は、淀川北岸地域に展開する三島古墳群の中にあって、極めて良好な状態を保つ古墳時代
前期(4世紀前半)の前方後円墳です。古墳は奈佐原丘陵先端の尾根筋の標高84mの地点にほぼ南向きに築造さ
れています。
闘鶏の名称は、『日本書紀』の仁徳62年の記事にある「闘鶏野氷室」に由来します。いまも古墳のすぐ南側には
「養鶏野神社」が鎮座し、丘陵の裾野には氷室の集落があり、古代のツゲノ遺跡がひろがっています。高槻市教育
委員会では、この貴重な闘鶏山古墳の恒久的保存を図るため、確認調査を計画的に実施していきます。今回の調査
は、古墳の規模確認等を目的に実施したものです。また調査の実施にあたり、奈良文化財研究所の協力を得、ファ
イバースコープ及び地中レーダー探査による埋葬施設の調査をあわせておこないました。
2.調査でみつかったもの
(墳丘)
古墳は全長 86.4m、後円部の直径約60m、後円部と前方部の比高差4.5mを測ります。後円部は2段ないし3段、
前方部は2段に築城され、外表には葺石をほどこしています。埴輪をめぐらさず、テラス面の幅が 1.2m前後と
狭いことは本古墳の特徴のひとつです。後円部及び前方部に設けた各トレンチからは人骨大の石を並べた裾石列
とともに、多数の拳大の葺石がみつかっています。墳丘の傾斜角度は、おおむね20°〜25°と緩やかになってい
ますが、上段の裾部では35°〜40°前後と比較的な斜面になっています。
後円部西部のトレンチ3からは葬送儀礼に伴う祭祀用の丹塗りの二重口縁壷形土器、また前方部西側のトレンチ
7からも土師器の壷などが出土しています。
(埋葬施等)
埋葬施設は後円部で2基の竪穴式石室を確認しました。ともに後世の撹乱を受けず埋葬当時のままに保存されて
きた、完全未盗掘の埋葬施設です。中央部にある第1主体の石室は古墳の主軸と平行に設定されたもので、墳頂
から天井石までは約2mとかなり深く、厚さ約10〜15cmの粘土で被覆し、密封していました。
また側壁の持送りが急角度であることもわかりました。天井石や側壁を構築する石材は徳島県吉野川流域産の緑
泥片岩が主体です。棺は前期古墳に一般的な割竹形木簡で、遺骸は頭を北側に向けて葬られていました。朱が付
着した頭蓋骨とともに、三角縁神獣鏡2面、方格規矩四神鏡1面、石製腕飾り(鍬形石)1点、鉄刀などの副葬
品が確認されました。
第2主体は第1主体のすぐ西側に平行して設けられ、墳頂から天井までの深さは約1mとやや浅いところにある
追葬時の埋葬施設です。石材は緑泥片岩を多用し、少量の石英斑岩を含みます。棺は割竹形木簡で、保存状況は
極めて良好です。
(土壇状遺構)
闘鶏山古墳の前方部前面に一辺約12m四方、高さ約2mの方形を呈する土壇がみつかりました。トレンチ調査
の結果、幅1.3m、深さ0.8mの土坑状の遺構を検出しました。土壇周辺の今回の調査では遺物が検出されず、遺
構の時期等は判然としませんが、闘鶏山古墳の造営や祭祀にかかわるものと考えられます。
3.調査でわかったこと
闘鶏山古墳は幅の狭い急峻な尾根上に築くという前期古墳の特徴が典型的に示され、地形・環境を含めた古墳の
立地や兆域、古墳の正面観についての在り方が顕著にうかがえる希有な事例です。なおかつ東南側の平野部に開
かれた谷部は、被葬者が住まっていた集落から古墳へ至る墓道をも包含し、古墳の選地と当時の集落とのかかわ
りを具体的に把握できる貴重な事例となります。
副葬品にみられる三角縁神獣鏡や方格規矩四神鏡は、いずれも中国からもたらされたものとみられ、闘鶏山古墳
の被葬者は大和王権と政治的に深いつながりをもちながら、三島を統治していた人物であったと考えられます。
三島古墳群における首長墓は、邪馬台国時代の安満宮山古墳(3世紀中頃)からはじまり、古墳時代初期の岡本
山古墳(3世紀後半)、弁天山古墳(3世紀末〜4世紀初頭)へと変転していきます。今回、確認された闘鶏山
古墳(4世紀前半)の存在は、王権がその後の弁天山C1号墳(4世紀中頃〜後半)から郡家車塚古墳(4世紀
末)へ引き継がれたkとを明確にしました。とりわけ闘鶏山古墳が立地する丘陵は、西方に展開する安威川流域
まで見通す位置にあって、あらたな地域支配の拡大とともに、王権そのものの伸長がうかがえます。やがてこの
三島の王権は、新池埴輪制作遺跡(5世紀中頃〜6世紀中頃)と太田茶臼山古墳(現継体陵・5世紀中頃)の造
営に象徴されるように、大和王権との結び付きを一層強固なものとし、今城塚古墳(6世紀前半)の段階では全
国統治の頂点に立つという歴史的な展開をみせることになります。
さらに闘鶏山古墳の完全な依存状態にある埋葬施設の発見は、前期古墳における葬送儀礼の復元において極めて
重要な資料となるものです。古墳の立地や形状からは、古墳時代前期における王墓の在り方・環境を探究するう
えで貴重な事例といえ、全国的にも、学術的にも、とくに重要な位置を占めるものと考えられます。
今城塚古墳

<今城塚古墳> 継体天皇陵か?
<第26代 継体(けいたい)天皇>
異称: 男大迹尊(おおどのみこと:日本書紀)、
哀本杼命(おほどのみこと:古事記)
生没年: ? 〜 継体天皇25年 42歳(古事記)、82歳(日本書紀)
在位期間 武烈8年+?(継体天皇元年) 〜 継体天皇25年
父: 彦主人王(ひこうしのおおきみ:応神天皇5世の孫)
母: 振媛(ふるひめ:垂仁天皇7世の孫)
皇后: 手白香皇女(仁賢天皇皇女・武烈の妹)
皇妃: 目子媛(めのこひめ)、稚子媛(わかこひめ)、広媛(ひろひめ)、
麻績娘子(おみのいらつめ)、関媛(せきひめ)、倭媛(やまとひめ)、
夷媛(はえひめ)、広媛2(ひろひめ)
皇子皇女: 天国排開広庭尊
(あめくにおしはらきひろにわのみこと:欽明天皇:母は手白香皇女)、
勾大兄皇子(まがりのおおえ:広国排武金日尊:安閑天皇:母は目子媛)、
檜隈高田皇子(ひのくまのたかた:武小広国排盾尊:宣化天皇:母は
目子媛)、他皇妃との間に18人
宮: 樟葉宮(くずはのみや:大阪府枚方市楠葉)→ 筒城宮(つづきのみや:
京都府京田辺市)→ 乙訓宮(大阪府三島郡)→
磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:奈良県櫻井市)
陵墓: 三島藍野陵(みしまのあいのみささぎ:大阪府高槻市)



今城塚古墳は今整備中で、廻りはフェンスに囲まれており中へは入れなかったが。

「わざわざ大阪からここを見にきたんでっせ。」「入れんなんて殺生や。」「すぐ出てくるさかい、頼んますわ。」
と頼み込んだら、現場のオジサンは根負けして、「しゃあないな、ほな入り口から見るだけにしてや。発掘現場には
決して立ち入らんように。」と中へ入れてくれた。勿論、発掘現場なんてビニールシートが架かってるし、素人が見
ても何かわからんのは当たり前で、歴史ファンにとってはそこへ来たと言うだけでいいのだ。オジサンありがとね。











古代に2度王朝の交代劇があった!
記紀によると新羅出兵から戻った神功皇后は、九州筑紫で第15代応神天皇を生んだ。つまり応神天皇は九州から大和
にやってきて即位するというわけで、この時大和で王朝の交代があったのではないかと考えられる。たとえば応神天
皇以前の、第12代景行(けいぎょう:けいこう)天皇から、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、神功皇后までの
呼名はそれぞれ、「大足彦(おおたらしひこ)」「稚足彦(わかたらしひこ)」「足仲彦(たらしなかひこ)」「気
長足姫(おさながたらしひめ)」とあるようにタラシという語がつくが、応神の名は「誉田(ほんだ)」というよう
にそれがなく、簡潔なものに一転している。

第26代継体天皇の時にも王朝が交代したのではないかと言う説がある。その理由は次のようにいくつか挙げられる。
仁徳天皇より続く血筋が第25代の武烈天皇の死で途絶えたとき、記紀には越前の国にいた応神天皇の5世の孫である
継体(母は垂仁天皇の7世の孫)が即位したと記されているが、その間の系譜にはまったく触れられていない。この
ような記述の仕方は異質である。
継体天皇が即位した場所は現在の大阪府枚方市楠葉で(我が家は長男が産まれてから7年この楠葉に住んでいた。)、
それまで都が営まれてきた大和や河内から遠く離れている。しかも継体が大和に入ったのは即位から20年後(「日本
書紀」別記では7年後)であることから、対立する勢力が大和にいたことをしめしているのではないか。
継体という諡号(しごう)は跡継ぎの意味だが、「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)」の嗣の字には血縁関係のある継承
の意味があっても、継の字にはそれがない。つまり継体天応は前天皇と血のつながりがないこと、氏族を異にしてい
るのではないかと推測できること、などである。
水野祐氏は応神天皇および継体天皇のとき王朝が交代したのだとする、三王朝交代説を唱えている。一系とされてい
た天皇家は崇神天皇からはじまる崇神王朝、応神天皇からはじまる仁徳王朝、継体天皇から始まる継体王朝の三王朝
に分けられる。すなわち現在の天皇家の始祖は継体天皇だということになる。もちろんこの三王朝交代説にはさまざ
まな反論もあり、定説となっているわけではない。しかし天皇家が「万世一系」だとする考え方には多くの疑問があ
ることも事実なのである。
【(株)学習研究社 1998年6月1日発行 :「天皇の本 −日本の霊的根源と封印の秘史を探る−」より抜粋】

別資料によれば、武烈天皇の崩御後、越前三国の王であった継体を臣下達が探し出し中央に招いたと言う。既に継体
は幾人もの妃を持ち57歳であった。生前に位を譲る譲位を日本で初めて行ったとされる継体は、皇子(安閑天皇)が
即位したその日に崩御している。また日本書紀は、武烈天皇の残虐非道ぶりを記録しているが、(妊婦の腹を割き胎
児を眺めたとか、女と馬を交尾させたとか、生爪をはがして芋を握らせたとか)これは、応神・仁徳皇統最後の帝を
貶めその非道ぶりを強調することで、続く継体王朝の正当性を強調したものと考えられている。これを見ても継体と
それ以前の王朝とは明らかに対立関係にあったと推測できる。また一説には、継体は近江出身の豪族で、北陸・東海
の豪族と連合して自力で大王の地位を獲得し、天皇の系譜を継いだ、とも言う。


継体天皇の時代には、朝鮮においても動乱の様相が濃かった。朝鮮半島内において諸国の勢力が増大して日本の勢力
は相対的に低下していたのである。日本は百済と関係を保っていたが、百済は任那四県の割譲を日本に要求してくる。
神功皇后が新羅征伐で勝ち取って応神天皇に与えられたそれらの土地を容易く与えてしまう事に対しては、相当な抵
抗勢力があったものと思われるが、結局日本はその要求を受諾してしまう。しかし、決定した大伴金村は、512年、
任那4県を百済に割譲したことで、物部尾輿らの弾劾を受け失脚した。

修羅(シュラ・スラ)のようなものが置いてあった。「100人で曳こう大王の棺」イベントで使えわれた修羅かもしれない。









摂津富田のお好み焼き屋さんで反省会。驚いたことに、以前「邪馬台国大研究」HPを見て冊子を送ってきてくれた
「三島に邪馬台国を探す会」のパンフが置いてあった。送ってくれた人はたしか学校の先生だったように思うが、こ
のお好み焼き屋さんもその会員なのかな。有料だったが、一部呉れませんかと言ったらただで呉れた。邪馬台国を三
島に探している西本さんとしては、この会にも参加すべきではなかろうか。

高野さんはもう2杯目を飲んでるのか、私が早く飲み過ぎたのか。

駅のホームから眺めた摂津の空に輝く十五夜。みなさん、お疲れ様でした。また次回も宜しく。

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西本さん寄稿 「風の中へ」第8号第一弾原稿
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邪馬台国を支えた高槻安満の豪族
平成15年4月29日 西本恆俊
弥生時代から邪馬台国時代があって古墳時代へと移行していく様子については大変興味を覚えるものである。歴史学と
考古学との丁度境目の時期でありいまだ良く解明されていない事が多いからこそ、そのミステリアスな動向に目が離せ
ないのであろう。この時期は日本列島に住む日本人(当時はこの定義は存在しないのだが。)が始めて国際化の波を感
じてその中で力つけた豪族は結果的にナショナリズムを高揚させ列島全体を統一する活動を強力に推し進めていった。
古代国家を誕生させた日本国建国のプロセスであった。
私が住まいする大阪の北摂三島地区の高槻市とその隣接茨木市にもその道程の片鱗を垣間見る事ができるのである。こ
こではまさに弥生時代の後半から古墳時代へと移りゆく道筋を地域の遺跡を訪れることで感じ取る事が出来る。
その軌跡を時代を追ってあげてみると、弥生後期の拠点集落と稲作跡を残す安満(あま)遺跡、古曽部・芝谷の高地性
集落跡、安満宮山古墳とその特徴的な副葬品、溝咋(みぞくい)神社と神武皇后との関係、継体天皇と今城塚、藤原鎌
足の個人を比定された人骨が掘り出された阿武山古墳等である。これらの中で数年前に発見発掘された安満宮山(あま
みややま)古墳ではとくに驚くべき副葬品が掘り出された。青龍三年の銘がはいった青銅鏡で卑弥呼が中国に使いを出
した3年前に作られたもので,中国皇帝からくだされた100枚の鏡のうちの一枚ではないかと大きな話題となった。
そこで今回はこの古墳について少し調べる事とこの古墳が造られた当時の高槻市の様子を思い浮かべる事としたい。こ
の遺跡の掘り出された場所は高槻市の市街地より少し離れた小高い丘の中腹である。この丘は大阪平野の北の区切りを
なす北摂の連峰の先端にあたる。南側はすぐ平野であり,その向こうに淀川が流れている。高槻市はこの丘と淀川に囲
まれた地域である。
この遺跡の丘は安満宮山とよばれ100メートル程度の高さの丘であるが、その頂きに立てば晴れた日には大阪平野が
一望できる。南は泉州、西は淡路島,東は京都宇治、木津の方面までが見渡せる場所である。遠くの木津川、目前の淀
川、南側遠くの大阪湾、が大きなパノラマである。
古代において、奈良地域と瀬戸内海 その先に中国があるが を結ぶ通路としては大和川を利用して河内地域を経由す
るものと上記木津川から淀川を経て瀬戸内海にいたるものがあった。両ルートともその流域は古代統一国家を作り上げ
るに大きな役割を果たす舞台となった。
このような場所に位置する安満宮山の近接した周りは弥生時代の稲作跡を含む集落跡の安満遺跡がすぐ前に広がる。淀
川に流れ込む檜尾川がその横を流れている。肥沃な田園であった。また1キロメートルも離れていない西側の丘には1
世紀ごろに使われた高地性集落の古曽部芝谷遺跡があり、矢じりや武具が発見されている。この二つの遺蹟は弥生集落
と高地性集落の密接した関係を表している。これらは弥生後期の動乱した瀬戸内各地の遺跡と全く同様の状況である。
このような周りの状況の中、この安満宮山古墳が発見されたのである。市の公園墓地の造成に伴いたまたま発見された。
発掘調査がなされた。墳墓そのものは山の斜面を利用した墳丘をもっていた。墳丘は大きく崩れ落ちていたが、墓坑内
部には木製の棺のなごりと完全な副葬品は盗掘もされず手付かずの状態であった。特に5面の銅鏡はほぼ完全な形で発
掘されたのである。
古墳は南北21メートル、東西18メートルの方憤で山の斜面を利用し南面は大きく下を見下ろす状態になっている。
高さは平地から50メートルほどのところだ。墓坑は深く掘られ、木棺が埋置されていた。副葬品は舶載鏡5面のほか
ガラス玉1000点以上、鉄剣1振り、鉄斧2点、鎌1点、槍カンナ3点があった。5面の鏡はすべて棺の中で死者の身
近くに納められていた。一般に古墳時代の大型墳墓においては重要な副葬品は棺の外側に立てかけるように安置される
場合が多く祭礼に立ち会った外部の人間にその財力を誇示する目的も大きかった。しかしこの安満宮山の埋葬者は生前
自分が手に入れた重要な財を棺の中に入れて埋葬された。このことは後代の古墳時代の様式が固まる前の少し古いタイ
プの古墳であると言われている。
次に出土した5面の鏡(1号鏡〜5号鏡)はすべて中国製の鏡であった。最も古いもので後漢の後半3世紀の初めに作られ
た四神四獣鏡だ。2号鏡は今回もっとも注目を浴びた魏の年号が入った青龍3年鏡で方格規矩四神鏡をなしている。すな
わち卑弥呼が中国に使いを出した3年前に作られた鏡である。これと同じものは京都府大田南5号墳から出土している。
この二面の鏡は正確には同型異笵の鏡である。3号鏡は獣文帯四神四獣鏡で特徴的な笠松模様が神と獣の間に配されて
いる。4号鏡は斜縁「吾作」二神二獣鏡で周りの文様や周縁の形から三角縁神獣鏡と兄弟鏡の関係にある。図像は精緻で
状態はすこぶるよい。ほとんど使われず伝生もしなかったことをうかがわせる。5号鏡は「陳是作」半円方形帯同式神獣
鏡で内区の文様が同じ物としては群馬県出土の正始元年鏡(西暦240年)、和泉黄金塚景初3年鏡(西暦239年)がある。
そこでこの5号鏡も西暦240年頃の作と思わせる。以上これらの鏡の制作はすべて3世紀前半の限られた時期に制作され
たものであった。また鏡自身も文様がはっきりとして摩耗も非常に少なく伝世していなくて埋葬されたと想定される。
この墓の主人はこれらの鏡を一づつ手に入れ最後のものを手に入れるとそれとともに埋葬されたのだろう。そうすると
この墓の成立は西暦250年から260年頃となる。
さらにこの族長が生前活躍していた時期は卑弥呼が中国との交易を盛んにしていたころと重なるのである。その時2号
鏡の青龍3年鏡や5号鏡は中国の皇帝から贈られた100枚の鏡のうちの一つである可能性が高い。このような数の多
い副葬の鏡を考えると高槻に住んだこの安満の族長は邪馬台国の国を支える部族の長の一人であったと思われる。
邪馬台国が大和に存在したという前提に立つと卑弥呼が中国に送った使者は木津川を下り淀川に入り瀬戸内海を経て中
国に出かけていたのであろう。この場合淀川の中域を制する高槻の豪族の長の役割はおおきいのである。安満(あま)
の地名は海人と同一であるといわれており、安満宮山に葬られた人物の一族は漁労・水上交通に長けた部族でこの水系
全体を掌握していたものと思われ邪馬台国の中国交易においても重要な役割をはたした部族であっただろう。
邪馬台国の所在は我々一般の者からすると大いに興味のあるものである。この高槻の地がその活動を支え、次なる時代
への橋渡しをなし淀川水系を巧みに利用した内陸大和にあった邪馬台国の姿が目に浮かぶのである。
最近の発掘を伴う研究では大和の中の纏向地域がその中心だという学者もいる。弥生時代の終焉日本各地で豪族たちが
互いに争い併合征服を繰り返して大きな国へと発展していった。その中で卑弥呼を擁立した邪馬台国は多くの国を従え
女王国として列島全体に広がる勢力範囲を構築していったのである。この時期これらの国々は盛んに中国と交易をして
おり各地にその痕跡は多い。その中で巨大中国の情報や物品が国内にもたらされこれらにより日本列島により強大な国
を作り全体を統一する動きが活発になった。すなわち古代大和政権の成立の大きな原動力である。
次にこの三島地区おいては邪馬台国時代に続く古墳時代の到来の兆しを表す遺蹟も多い。安満宮山の豪族の後裔の痕跡
はその後消えてしまうが、西側3〜4キロメートル西側の芥川西岸に勢力ある豪族が誕生して行くことになる。高槻市の
西部から茨木市にかけての山裾には古墳時代の前期から中期の古墳が連なっている。
また日本書紀に記述が見える神武天皇の皇后となる姫踏五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を送り出した溝咋神社(み
ぞくい)が今も立派な社殿と広い社域を保っている。継体天皇が即位した後奈良に直接入らず三島に地でこの辺りの豪
族の後押しを得て勢力の基礎固めをしたことはよくしられている。死後はこの地に大型の前方後円墳を作らせた。今城
塚がそれにあたり昨年もこの墳墓の周りから葬礼の儀式に使われた多くの埴輪が掘り出され話題を集めている。
このように見てくると大和地方にあった邪馬台国を支え次なる大和朝廷の成立に大きな影響をもたらした高槻、茨木に
かけての古代族長の存在は大きく今でもその遺蹟の立派さや豊富な財力や知恵を感じる遺物により十分な存在感がある。
当時の彼らが踏み締めた同じ大地に今自分が立ち、彼らが古代安満宮山から眺めたと同じ自然の風景を見れる自分が我
が国のルーツの一端を担ったような気分になれてすこぶる気持ちのいいものである。
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