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日本一石垣が綺麗な、天空の中世古城 2006.5.5 兵庫縣朝来市和田山町竹田






早朝の雲海に浮かぶ竹田城(撮り人知らず)







	5月の連休に、会社の同僚宮崎君と但馬の日帰り旅行に行った。彼は生野銀山や出石の町を見てみたいと、私はこの
	竹田城を見たかった。今まで何度か但馬路は訪れているのだが、この竹田城はいつも車窓から眺めるだけで、「あぁ、
	あんな高い所に石垣がある、すげぇなぁ。」と思いつつ、城崎温泉や夕日が浦温泉や蟹の香住へ行く時間に追われて、
	素通りするばかりだった。最初は何かわからず、2度目の但馬旅行の後調べてみたら、中世の城「竹田城跡」とわか
	った。さらに調べると「中空の城」とか、「空中楼閣」と呼ばれている日本でもまれな山城だった。以来、是非あの
	上に行ってみたいと思っていたが、あんがい早くそのチャンスが来た。




	<竹 田 城> 但馬の要衝の地に聳える巨大な石垣群を持つ山城

	所在地 : 兵庫県朝来市和田山町竹田
	別 称 : 虎伏城(とらふすじょう)
	築 年 : 永享3年(1431)
	築城者 : 山名持豊(山名宗全)
	主要城主: 山名氏、太田垣光景、羽柴秀長、赤松広秀
	形 式 : 連郭式中世山城
	廃城年 : 慶長5年(1600)
	遺 構 : 石垣、天守台、郭跡 、曲輪、竪堀、門跡、堀、井戸、二の丸、三の丸、
		  北千畳、見付櫓、平殿、花屋敷、東の丸、南千畳

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	竹田城は、嘉吉3年に但馬守護山名持豊(宗全)が出石此隅山城の出城として築城し、家臣太田垣光景に守らせた。
	戦国時代の天正元年には、播磨龍野城主赤松広秀に攻められ落城し、城主太田垣朝延は因幡に逃れ、広秀が城主とな
	った。天正5年、豊臣秀吉による播磨侵攻により但馬にも兵が入り、竹田城も豊臣秀長によって攻められ落城した。
	秀吉は、但馬攻略の功を賞して弟秀長に但馬を預け、秀長はこの竹田城の城主なった。ここは東の丹波、南の播磨を
	押さえる要衝の地で、戦国末期から慶長期にかけて数度の改修がなされた。その後、桑山重晴が城主になるが、天正
	13年紀伊和歌山城代に転じると、再び赤松広秀が城主に任じられた。この時期に、竹田城に現在残る石垣群が築か
	れた。慶長5年(1600)、赤松広秀は関ヶ原の役では西軍に加担して自刃し、竹田城も廃城となった。

	竹田城は標高353.7mの古城山の山頂に築かれ、日本三大山城といわれる美濃岩村城、大和高取城、備中松山城
	に比べてもひけをとらない日本を代表する山城で、石垣群と郭跡がほぼ完全な形で残っており、国の史跡に指定され
	ている。城の規模は南北約400m、東西約100mで、山上の本丸の天守台を中心に放射線状に南には南二の丸・
	南千畳、北には二の丸・三の丸・北千畳を設け、さらに本丸の北西部には花屋敷と称する一郭を配置するという縄張
	りで、その姿は虎が伏せているように見えることから虎伏城(とらふすじょう)とも呼ばれている。




	竹田城跡の山麓に、実質的に最初の竹田城城主である太田垣光景の墓がある「勝賢寺」、最後の城主・赤松広秀の
	墓のある「法樹寺」など、4つの寺が隣り合わせに並ぶ「寺町通り」がある。JR竹田駅の側に小さな駐車場付広
	場があって、そこに竹田城の説明板、トイレ、東屋、ベンチなどがおいてある。ここが寺町通りへの入り口である。
	約600mの寺町通りは、錦鯉が小川に泳ぎ、城下町の往時を偲ばせる町並みである。最初と最後の城主が隣り合
	わせに葬られているのは面白い。山上の城跡散策も楽しいが、せっかく此処まで来たら、その城主たちの墓(供養
	塔)にも詣でたい。












	太田垣氏一族
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	太田垣氏は、但馬国造の日下部氏の後裔を称する古来からの一族である。『日下部系図』によると、建屋太郎光村
	─ 石和田光忠 ─ 太田垣光保とあって、建屋・石和田・太田垣が同族である。『但馬国大田文』には尊勝寺領
	養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人とされているから、大
	田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の傍流であろう。

	山名氏の但馬制圧に協力したことから、宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名
	氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する朝来郡竹田城を本拠とするに至っ
	た。延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職
	内の田一段を寄進した実阿などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年
	(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太
	田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見する。『日光院文書』にも光朝・
	時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いて
	その名を欠き、不明な点も多い。




	光善・通泰の時期に「明徳の乱(1391)」「応永の乱(1399)」で、山名時煕(ときひろ:宗全の父)のもとで戦い、
	その功績で備後守護代に取り立てられ、朝来郡一円の領有権も握った。明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏
	興隆のもとを築いたのは通泰であった。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される。太田垣氏は明徳の乱に、
	一族を挙げて山名時熈方に味方して戦った。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但
	馬守護代に任ぜられた。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその
	任を遂行したようだ。ちなみに、通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していた。さらに、通泰は翌八年三月、備
	後守護代にも任ぜられている。




	上の供養塔が太田垣光景の墓である。その上の段には現代の墓が並び、一角に太田垣家の墓があったが、おそらく
	子孫なのだろう。




	太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、竹田城が太田垣氏代々の居城となった。応仁
	元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊に従って太田垣氏も戦場に出かけた。応
	仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、宗朝の弟新兵衛を留守将として
	竹田城を守らせていたが、その守備は手薄であった。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、
	山名の領地である但馬国は、西軍の丹波守護細川氏にとって、侵攻するのに好都合な状態であった。そして、長九
	郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入した
	のである。  








	山名氏と播磨赤松氏は幾度も戦いを繰り返した。嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍足利義教を殺害するという「嘉吉
	の乱」の時に、山名持豊は室町幕府から赤松満祐追討の命をうけて、播磨の城山城を攻めて赤松氏を討伐し一旦は
	播磨の守護として入国している。一方、赤松一族の反撃は、文安元年(1444)に赤松満政が三草城に挙兵し、山名氏
	が生野で迎え討った話もある。これらの戦いをつうじての竹田城は、播磨との国境を守る城であり、播磨へ出撃す
	る城でもあった。



台風23号の被害で、この寺の墓地は殆どが土砂に流されたそうで、補修の跡があちこちに見られた。

 


	永禄12年(1569)、羽柴秀吉が2万の軍勢で但馬を攻撃し、わずか10日間で生野城から此隅山城までの18城を
	落とした。天正5年(1577)からの播磨攻めでは、三木城落城を期に、但馬攻めが再開され、竹田城や出石有子山城
	は羽柴秀長によって落とされ、秀長が竹田城主になった。秀長は但馬一円を平定した後、出石・有子山城主となり、
	竹田城には秀長の部将・桑山重晴が城主として入る。天正13年、重晴の後を継いで竹田城主になったのが、播磨
	の赤松一族の広秀である。




	赤松広秀は最後の竜野城主で,1577年に中国征伐で攻めてきた豊臣秀吉に降伏して城を明け渡して,家老平井貞利
	の所領平井郷佐江に蟄居した。そして蜂須賀正勝の配下に入り、秀吉の中国や四国攻めに加わった。その功績から
	竹田城主になった。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに先立ち、赤松広秀は東軍の細川幽斎(藤孝)の丹後・田辺城
	を攻めていたが、東軍が勝利したことから軍を率いて竹田城に撤退する。その後、広秀は鳥取城攻めに加勢して出
	陣していたが、徳川家康より切腹を言い渡され、鳥取の真教寺で自刃しました。そして竹田城も廃城となった。


	
	赤松広秀の長女は,伊藤新四郎の妻,二女は平井善右衛門の子伝左衛門の妻となった。この「平井善右衛門」はそ
	の後,九州福岡の黒田藩の家臣となっている。子孫は黒田家中で平井氏および斉村氏として存続した。


竹田城

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	竹田城は嘉吉年間(1441−43)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣に築かせ
	た城である。そのころの竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。最近の調査では、現在のような壮大な石積みの
	城郭になったのは、廃城時(慶長5年、1600)にごく近い時代と考えられている。竹田城の縄張りは、最高所
	の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸、三の丸、南二の丸が城郭式に配され、大手口を防御する枡形部に
	沿う北千畳部とからめ手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。 
	また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査
	・保存が必要となっている。 規模は南北約400m、東西約100mである。
	(昭和18年9月8日、国史跡に指定) 
	竹田城遺構の見せ場は石垣にある。この石垣は構築技法からみて、穴太積みを採用している。穴太積みとは、近江
	国(現滋賀県)坂本を中心に発達した石垣構築法の総称であるが、積み方から言えば野面積み石垣といえよう。野
	面積みとは、加工をほどこさない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、一見して粗雑に見えるが水はけ
	がよく、崩れを防ぐ。竹田城の場合、石垣が築かれてから約400年経つが、一部の復元箇所を除いて当時のまま
	の姿を今日に伝え、石積みのもつ深い味わいはたとえようもない。 『竹田城案内』より
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「竹田城の山門」。竹田城へは、この門から山を周回して「大手門」から入るコースと、近道の「花屋敷」から入るコースがある。





上をクリックすると、説明板全体が見れます。

	< 竹  田  城  関  係  年  表 >
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	年 号		西 暦      記   事
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	永享 3	1431 		山名持豊(宗全)竹田城構築に着手する(口碑) 
	嘉吉 3	1443  		竹田城が完成する。初代城主に太田垣光景を配す (*)
	寛正 8	1465  		太田垣光景没す。景近(光景の子)二代城主となる 
	応仁 1	1467 		山名持豊、管領細川勝元と対立。挙兵し京都で交戦(応仁の乱) 
	応仁 2	1468  		細川方の軍勢朝来郡に侵入。景近二男・宗近らこれを夜久野が原に破る 
	文明11	1479  		太田垣宗朝三代城主となる 
	大永 1 	1521  		太田垣宗寿四代城主となる 
	天文 7	1538  		太田垣朝延五代城主となる 
	天文11	1542  		朝延、生野奥山に銀山を開く。山名祐豊支配する 
	弘治 2 	1556  		朝延、祐豊から銀山の領有権を奪い取る 
	永禄12 	1569  		羽柴秀吉、二万の軍勢で但馬を侵攻。生野銀山から比隅山城まで 十日間
					で十八城を陥落させる (『益田家什書』) 
	永禄13	1570		太田垣輝延、第6代竹田城主となる。 
	天正 1 	1573  		毛利の但馬侵攻の気配を感じ、朝延毛利方へ投じる 
	天正 5 	1577  		秀吉、但馬を侵攻する。竹田城を攻略して弟の木下小一郎(秀長)を城代
					とする 
	天正 6 	1578  		秀吉、再び小一郎(秀長)を城代として入れる(「信長公記」)
					秀長、秀吉の三木城攻めに加わる。 
	天正 8 	1580  		秀吉、小一郎(秀長)に命じ但馬に侵入。秀長、竹田城を陥落させ城を修
					築し人数を入れおく この時点で、太田垣氏の竹田城支配は終わる
					桑山修理太夫重晴、竹田城主となる 所領1万石(『藩翰譜』) 
	天正13	1585 		赤松広秀、竹田城主に封せられる (2万2千石) (『廃絶録』) 
	慶長初期			現存の竹田城、このころに完成する 
	慶長 5	1600		関が原の戦い。広秀、西軍に属し、鳥取市街焼き討ちの責任を問われ鳥取
					市真教寺にて自刃(十月二十八日)
					竹田城廃城となる
	------------------------------------------------------------------------------
	元和1		1615		竹田城、生野代官所支配下となる。 
	明治1		1868		久美浜・生野(明治2)・豊岡縣(明治4)に属する。 
	明治9		1876		兵庫県に編入される。 
	昭和14	1939		竹田城、竹田町役場の所有となる。 
	昭和18	1943		竹田城、国史跡に指定される。 
	昭和31	1956		竹田・和田山・南但各町の合併(現和田山町)により、竹田城、大字竹田
					(竹田財産区)の所有となる。 
	昭和46	1971		竹田城、石垣復元工事に着手。 
	昭和52	1977		『竹田城保存管理計画書』を策定。 
	昭和55	1980		竹田城、石垣復元工事が完了。 
	------------------------------------------------------------------------------
	* <太田垣光景は初代城主ではなく、播磨の実質的な初代守護代となった太田垣通泰が築いた城との説もある。>






	登山口(駐車場横)にある「山名氏・赤松氏の両軍供養塔」。両軍の子孫が建てたもの。
 
	山名氏・赤松氏は宿命のライバルであったが、平成2年5月26日、但馬竹田虎臥山頭に、山名・赤松両氏顕彰会
	が宝塔を建立した。塔内には、往昔山名・赤松両軍の流血の跡である但馬真弓峠・播磨坂本城・宝山城・城山城等
	の土砂一瓶と、山名・赤松両氏の末裔が今日を記念して至心に浄写した「宝篋印陀羅尼経」が収められているとあ
	る。建立時、「平成の手打ち式」として、世間の話題になった。




	両軍が対立し出したのは観応の擾乱(1350〜1352)の頃で、最初の合戦は「太平記」の第32巻に見える神南(こ
	うない)合戦である。赤松則祐と山名時氏が山崎の西・桜井駅の南で戦い、この時は時氏の嫡男の師義が傷を負い、
	山名側劣勢となった。次の戦いは、康安元年(1361)美作国で起こり、「太平記」第36巻には山名時氏の嫡男師
	義と次男中務大輔が赤松則祐側を攻めたて、山名の勝利に終わった。その次は、「明徳記」に明徳2年(1391)京
	都二条猪熊にて、赤松義則と山名氏家が戦ったとあり、この時は引分けている。 

	そして次は、有名な「嘉吉の乱」(1441)での合戦である。書写坂本城・城山城・白旗城などで、赤松側が幕府側
	の山名と戦った合戦で、赤松満祐はじめ一門69人が城山城で自刃した。その後、赤松家再興後も対立は続いた。
	「応仁記」「応仁別記」には山名相模守と赤松政則が戦ったことが記録されている。応仁の乱後も、「真弓峠の戦
	い」では山名側の勝利、「蔭木城の戦い」では赤松側の勝利、「英賀・坂本の戦い」では赤松側の勝利と、山名氏
	と赤松氏は170年に及ぶ対立を繰り返してきた。 







駐車場の隅っこに竹田城への近道がある。急な登坂路だが、車道を大手門へ廻るよりも半分ほど(15分くらい)ですむ。



ヒィヒィ言いながら坂道を登って来て、「もうアカン!限界や。」と思った頃、花屋敷の石垣を見上げる。






	雲上にそびえるような花屋敷曲輪。花屋敷曲輪の周囲は銃撃陣地のような石垣が取り巻いている。本丸跡の北西部
	にあり、主郭の中でも最も低い位置にあるため、南北に向かい合った塁状石垣が築かれている。





 



花屋敷跡からの遠景。アーチ橋も見える。

 


	<竹田城と竹田城主>

	竹田城は、室町時代中期・嘉吉年間(1441〜43)に、但馬の守護大名、山名持豊(山名宗全)が、出石城の出城と
	して播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に、13年を費やして築いたと伝えられている。当時は、
	土塁をもとに作られた城と考えられ、嘉吉3年(1443)、山名氏の武将でこの地の国人であった太田垣光景が初代城
	主となり、以降太田垣氏が6代にわたって城主となる。
	応仁元年(1467)に始まった「応仁の乱」では、山名持豊は西軍の総大将となり、東軍の総大将である管領細川勝
	元と対立して京都で挙兵。2代目城主太田垣景近は京都に出陣した。応仁2年(1468)細川方の軍勢が竹田城のあ
	る朝来郡に侵入したが、景近の次男太田垣宗近らが、細川軍を夜久野が原で討ち破った。
	太田垣氏は6代続いたが、永禄12年(1569)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は但馬に侵攻し、再三にわたって
	竹田城を攻撃したが城は落ちなかった。しかし天正5年(1577)、秀吉の2度目の但馬征伐でついに竹田城は落城。
	山名氏とともに太田垣氏も没落した。

	同年、秀吉は異父弟の小一郎(後の豊臣秀長)を城代として竹田城内の整備を命じた。後に秀長は出石・有子山城の
	城主になったため、天正8年(1580)、秀長の重臣である桑山修理太夫重晴が竹田城主となるが、天正13年
	(1585)桑山重晴が和歌山城代として転封されると、播磨龍野城主赤松政秀の子赤松広秀が竹田城主となる。広秀
	は2万2千石を領有し、城の大改修に着手して文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在見られるような豪壮
	な石垣積みの城郭を築き上げた。13年を要したと言われる。竹田城の石垣の積み方は、織田信長の安土城と同じ
	技術で、近江穴太衆(あのうしゅう)の手による穴太流石積み技法が用いられている。野面積みで、石材は現地の
	ほか山麓付近から集めたものと考えられ、花崗岩で最大のものは5トンと推測されている。その石垣は、400年
	を経た現在でも、当時の偉容をそのままに誇っており、いつもながらその作業量と完成した建造物の壮大さには舌
	を巻く。

	「穴太は古代に大陸から渡来して滋賀県大津市坂本町穴太に住んでいた氏族の名前で、信長が安土城を築く時、石
	垣の造営を穴太衆に要請し、その技術の見事さから穴太積みが全国の城々に普及していった。」




	赤松広秀は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦に際しては西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めたが、西軍は敗戦。
	徳川方の亀井茲矩の誘いで、鳥取城攻めに加わり戦功を挙げるが、鳥取城下を焼き払ったとの罪を押し付けられ鳥
	取の真教寺で自刃した。享年39歳。慶長5年10月28日のことであった。鳥取城攻めに戦功があったにもかか
	わらず、家康が赤松広秀を自刃に追いやったのは、広秀が西軍の副大将であった宇喜多秀家の妹婿だったからと言
	われる。赤松広秀の死後、竹田城は建物すべてが焼き払われて廃城となり、現在見られるような穴太積みの見事な
	石垣を残すのみとなった。 

	天守台を中央に、南千畳、北千畳、花屋敷が放射状に配され、その姿は、虎が臥せているようにも見えることから、
	別名「虎臥城」(とらふすじょう・こがじょう)とも呼ばれている。山の地形を巧みに活用し、防御に対する配慮
	も綿密に計算されているようだ。縄張りの規模は南北400m、東西100m、完存する遺構としては、全国屈指
	のもので、国史跡に指定されている。


	太田垣光景(1443年(嘉吉3)〜1465年(寛正6)) 
	太田垣景近(1465年(寛正6)〜1479年(文明11)) 
	太田垣宗朝(1479年(文明11)〜1521年(大永元)) 
	太田垣宗寿(1521年(大永元)〜1538年(天文7)) 
	太田垣朝延(1538年(天文7)〜1570年(永禄13)) 
	太田垣輝延(1570年(永禄13)〜1577年(天正5)?) 
	城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6)〜1580年(天正8)) 
	桑山重晴(1580年(天正8)〜1585年(天正13)) 
	赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13)〜1600年(慶長5)) 



花屋敷から本丸へ向かう道から、南二の丸跡と南千畳跡を臨む。この光景だけでも、息せき切って登ってきたかいがある。












	山上の本丸跡に残る見事な石垣の天守台(上)。本丸跡一段下の平殿跡から天守台のある本丸跡へは急な石段が設けられ、
	天守台の上には梯子を使って上ることができる。天守へは直接入る石段はなく、建物内に階段が設けられていたと推測で
	きる。天守台から見下ろす竹田城の縄張りと竹田の町は圧巻である。




	天守台から見る「二の丸、三の丸、北千畳」方面(上)と、「南二の丸、南千畳」方向(下)。

	竹田城は、山上の最高所中央に「天守台」を設け、「二の丸」「三の丸」「南二の丸」が悌郭式(ていかく)に配置され、
	大手口を防御する「北千畳郭」と搦手口の「南千畳郭」を双翼としている。さらに天守台の北には「花屋敷郭」がある。




	本丸天守台の石垣から眺める但馬の山々。資料によれば、竹田城跡が最も美しいのは、10月下旬から12月中旬の良く
	晴れて冷え込んだ朝だそうである。山麓を流れる円山川からの朝霧が石垣の裾まで迫り、柔らかな絨毯のように広がり、
	雲海を下に見下ろせる事もあると言う。それ故に「天空の城」と呼ばれるのだろう。






	天守台からの竹田の町。我がふるさとの筑前秋月城もそうだが、中世の城はその多くが山上に造られている。こういう縄
	張りを見ると、その時代の戦闘の最終目的が敵の殲滅にあったのがよく理解できる。
















	竹田城の美しさは石垣にある。この石垣は野面積みの一種である穴太(あのう)積みを採用している。穴太積みは、近江
	国の坂本を中心に発達した石積み技術集団・穴太衆の石垣構築法の総称である。穴太衆は大陸からの渡来人といわれ、6
	世紀頃の大津には二千を超える「横穴式古墳」の石室を造り、その技法を受け継いできたと言われる。野面積みは、加工
	をほどこさない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、一見して粗雑に見えるが、水はけがよく、崩れを防いで
	いる。織田信長が比叡山の焼き討ちで、穴太積みの存在を知り、安土の築城にも採用して穴太衆は一躍有名になった。姫
	路城・大阪城・伏見城など、全国で数多くの城に採用されている。築城から400年を経ても、一部の復元箇所を除き当
	時のままの姿を残している。 







 





北千畳跡。千畳という名のとおり広々とした郭である。





北千畳からの竹田城下町。手前の山麓直下を寺町通りが左右に走る。太田垣光景、赤松広秀の墓がある寺も見えていた。



登城者を威圧する大手口からの石垣の眺め。



 



上をクリックしてもらえば、説明板全体が見れます。

 

こちらが大手門口で、正式な登城口である。ここから駐車場まで車道が続く。ここではまだ桜が満開だった。

































竹田城ギャラリー











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