Music: Magical mystery Tour

2005.9.12(月) 丹後半島へ


	浦嶋神社(宇良神社) 浦島太郎物語の発祥の地
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	日本書記にでてくる、浦嶋伝説が伝わる神社。丹後の名族であった浦嶋一族の業績をたたえて創られたといわれ、同社には、
	玉手箱・浦嶋縁起絵巻などの宝物が残っているそうであるが、訪れたときには宝物殿は閉まっていた。重要文化財の「掛幅
	(かけふく)」もあるという。
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 	<浦嶋物語の成立>
	古墳時代頃、この地方は「日下部」という豪族が治めていたといわれる。この一族は大変大きな勢力を持ち、九州の一部、
	四国、山陽それから山陰、若狭から東海にかけての海岸部で大きな力を持っていた。その一族の文化は、農業を中心とした
	文化を持っていたが、浦嶋子はその「日下部一族」に属していたといわれ、浦嶋子の文化の位置付けは「海人(あま)」と
	して位置づけられていたようである。

 

 




	浦島物語りが文献に出現するのは、「日本書紀(720年)」、「万葉集(759年)」等の記述である。更に「丹後國風
	土記(713〜715年)」にも記述されていたが、これは現存していない。「丹後國風土記逸文」として、平安時代に書
	き写されたものが残っている。それらによれば、丹後の浦嶋伝説は既7世紀ごろには成立している。浦嶋神社に伝わる最も
	古いもので現存しているのは、鎌倉時代半ば過ぎ永仁2年(1294)、丹後筒川庄福田村寶蓮寺で浦嶋の話を書き写したもの
	が残存している。内容は、平安時代後期、承平2年(932)作成の浦嶋物語が元になっている。

 


	浦嶋(太郎)が訪れた所は、「蓬莱山」、「蓬莱」、「常世」、「神仙」、「仙都」である。すべて「とこよ」と読む。室
	町時代以降になり、「龍宮」という言葉が浦嶋物語の中に入って来る。龍宮という概念は、仏教と同時に入って来たという
	説もあるが、3世紀頃の青龍3年という鏡が丹後で発掘され、その中に龍の絵が出ていることから、その時既に龍と言う言
	葉・概念は日本人に知られていたのかもしれない。




	丹後國風土記の成立は、和銅6年(713)から霊亀元年(715)の2ヶ年の間に作成されたといわれ、風土記の作成者は「伊
	預部馬養(いよべのうまかい)で、丹後國国司として風土記を制作した。その頃、浦嶋子の名前は「筒河浦嶋子(つつかわ
	のうらのしまこ)」と書かれている。釣りをしていた時点は、雄略朝というだけで年代は入っていないが、日本書紀によれ
	ば、「余社郡管川人水江浦嶋子(よさのこおりつつかわのひと・みずのえのうらのしまこ)」が、雄略朝の22年7月に釣
	りをしたとなっている。万葉集では、天平宝治3年(759)頃とされ、その頃に完成したのではないかといわれる。

 


	さてそれでは浦嶋子はどこへ釣りに行ったのか。丹後國風土記では「海の彼方の蓬山の国」、万葉集では「常世の国」と書
	かれている。「秦の始皇帝」が「徐福」を遣わし、不老不死の薬を求めて行った先も海の中の「蓬莱」、「方丈」、「瀛州」
	という島の三神仙となっている。それは渤海の沖合はるか彼方にあるという意味で、「海の中」という表現が海の彼方を指
	すとされている。「万葉集」の中の「海の中」というのも、やはり海の彼方を示すと解釈しても差し支えないだろう。



  


	浦嶋神社のすぐそばには現在浦嶋公園があり、浦嶋伝説を建物やモニュメントなどで表現している。「浦嶋館」の中では、
	ジオラマヴィジョンで浦嶋伝説が紹介されている。食事処や土産物店もあるが、いかにもとってつけたような施設である。
	しかし伊根町の浦島伝説は、日本各地の浦島伝説の中でも最古のものとされ、近くの新井崎神社の徐福伝承ともあいまって、
	なにか古代に、海にまつわる椿事が起きた事を想起させる。
	


 

上左のアルミ板に写った姿を写す。私とセガレ(上右)。






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