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虎塚古墳
2005.9.3/4(土・日)



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	虎塚古墳 (とらづかこふん) 茨城県ひたちなか市中根字指渋 国指定文化財 史跡 
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	6世紀末頃から7世紀初頭にかけて築造されたとされる、東日本で初めての色彩壁画が発見された古墳。墳丘長57mの
	前方後円墳である。横穴式石室に、色彩壁画が良好に保存されている。後円部にある横穴式石室の玄室壁面に、円形・三
	角形・環形の幾何学文様や、大刀・槍・矛・盾等の武器武具類がベンガラで描かれ、石室内部は毎年春秋の2回、一般に公
	開されている。中を見たかったが、わたし一人にそんな便宜は図れないだろうと思って、鴨志田さんに言うのを断念した。

	石室に絵が書かれた装飾古墳が北部九州に多い事はよくしられているが、福島、茨城、宮城など東国にも分布している。
	そのなかでも、このひたちなか市の虎塚古墳は、華麗な幾何学的文様があることで知られている。同古墳は昭和48年夏、
	壁画のある横穴式石室が発見され話題となった。昭和49年1月、国の史跡指定を受けている。






	埋蔵文化財センターを出て、前の林の中に入っていくと、急に視界が開けて、芝生の中によく整備された虎塚古墳が現れ
	る。形状的には前方部と後円部は同じような大きさ高さを持っている。全体に修復が施されていて、周壕とその土手の構
	造もよく分かる。鴨志田さんの話では、近在の人が古墳の手入れをやってくれるのだそうだ。「ありがたいことです。」
	と鴨志田さんは感謝していたが、このあたりの人々にとっては、自分たちの祖先かもしれないのである。






	この古墳は、前方部を西に面した前方後円墳である。後円部直径32.5m、高さ5.5m、前方部幅38.5m、高さ
	5mを測り、前方部が発達した古墳時代後期形式の古墳である。昭和48年の調査により、後円部南側に長さ4m余の横
	穴式石室が発見された。横穴式石室には、凝灰岩(ぎょうかいがん)の上に白色粘土を下塗りした上に、顔料のベンガラ
	(酸化鉄)で描かれた彩色壁画が発見されて話題となった。奥室から、成人男子の遺骸(いがい)1体と,黒漆塗り小太
	刀・刀子・やりがんな・鉄鏃(てつぞく)などの副葬品が出土し、7世紀ごろの勝田付近の豪族の埋葬と推定された。




	松林の中にこじんまりとした、芝生に覆われた美しい姿の古墳があった。周りも雑草一つ無く翌管理されている。手前が
	前方部、右端が土手、その内側が周壕である。写真からも、前方部と後円部が同様の形状を持っているのがわかる。後円
	部の写真右側の部分に横穴式石室がある。






	石室内には、東日本で初めての珍しい彩色壁画が発見された。奥壁と側壁は白色粘土で下塗りした上に、酸化鉄で三角文
	・環状文・円文・渦巻文などの幾何学文と、武器・武具・馬具・装身具などの絵画を描いていた。天井石・床石も赤く彩
	色してあった。魔よけの意味をこめて赤い顔料で描いた図文は、豪族の身を悪霊から護るために必要なものと信じられて
	いた。茨城・福島・宮城県下で発見された彩色壁画の中でも、多様さと特異性において他に類例のない貴重なものである。
	また、本古墳は石室内発掘調査に先立って、石室内の科学調査(温・湿度、空気組成、微生物等)をわが国で最初に実施し
	た古墳でもある。観覧室建設にあたっては、これらの重要な記録をもとに設計・施工がなされている。昭和49年1月、
	国の史跡指定を受けた。




	この古墳の最大の特徴はこの装飾壁画である。白色粘土で下塗りしたキャンバスにさまざまな模様がベンガラ(酸化第二
	鉄)の赤で鮮やかに描かれている。連続三角文・環状文・円文などの幾何学文や、槍・太刀・靱(ゆき)・楯などの武器
	・武具や首飾り・馬具などが描かれ、東日本を代表する壁画である。天井は全面が真っ赤に塗られ、奥壁には大きな目玉
	のような赤い二つの丸と槍や矢を入れる靫(ゆき)などの武具か描かれており、また、側壁には円文、三角文や首飾りや
	馬具を抽象化した文様が描かれている。連続三角文・円文・武具などの図柄は、九州の装飾古墳壁画との関連性が指摘さ
	れる。5世紀−7世紀当時、直線距離で千km以上も離れた地域に住む人々が、同じような様式の墓制を採用しているの
	である。強い関連性を思わずにはいられない。
	装飾古墳に描かれたさまざまな絵は、被葬者の死後の安寧を祈って描かれたとされ、北部九州に多い船の絵などは、死者
	を黄泉の国へ運ぶ船であるというような解釈がされるが、ここの絵のような幾何学的文様は具体的な対象が無く。したが
	ってその解釈もさまざまである。



	奧壁には、上部に2段の連続三角文、その下に三角形を縦につなげた文様、その下に二重の同心円が二つ、下部に15本
	の槍か鉾、それぞれ2個の靭、鞆と3本の太刀など馬具と武具がある。東壁(向かって右の壁)には連続三角文、S字状
	(蕨手文)の模様、靫が2個、盾が3個描かれている。右の四角い箱のようなものは鞍を上から見たもの。その下に馬に
	乗る時に使う鐙(あぶみ)一対。さらにその下には、2本の刀子、勾玉状の首飾り、そして靫と馬に乗る時泥除けになる
	あおり一対が並んでいる。
	西壁(向かって左側の壁)には、上部に9個の円(赤く彩色)が並び、その下に弓と思われる図、その下にあおりと鐙が
	一対ずつ。天井は一面をベンガラで赤く彩色、床は白色粘土の上をベンガラで彩色している。武具や馬具、首飾り等は、
	この古墳に副葬品が少なかったため、壁画のなかで副葬品に代わるものとして描かれたのではないかと考えられている。









こちらが古墳の正面入り口。あの森の中を抜けていくと埋文センターがある。








	虎塚古墳の北西500m程の畑の中に、大きな石室が露出している。虎塚4号墳と呼ばれる古墳で、盛土はすべて取り除
	かれて畑になっている、石室の巨石は動かせなかったとみえて、元のまま残る。写真左手が入り口側で床石も確認できる。
	天井石が斜めに落ちてしまっているうえ、内には土砂が溜まっているので内部は見えないが、全長3m近く有りそうな
	立派な石組である。鴨志田さんは、虎塚古墳につながる豪族の墓だった可能性を示唆していた。虎塚古墳の石室に比べる
	とやや小さいそうだが、それでも使用されている石は結構大きく、かなり大きな墳丘を持った、それなりの古墳だった
	のだろう。しかし全く見事に取り払ってしまったものである。




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