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壺阪寺

歴史倶楽部第96回例会 奈良県高取町 2005.4.29(土)







	壺坂寺バス停の後ろ側を、2,3分坂道を上っていくと、寺への参道がある。そこを更に2,3分降ると山門である。
	西国観音霊場巡りの6番札所である。創建は大宝3年(703)で、都が藤原京から平城京へ遷る7年も前である。法相
	宗弁基上人の開基で、京都の清水寺の北法華寺に対して南法華寺といい、長谷寺と共に古くから観音霊場として栄えた名
	刹である。
	平安時代を代表する随筆「枕草子」の中で清少納言によって「寺は壺坂、笠置、法輪」として賞賛されている。創建以来
	4回も火災に遭って、現在の建物は文政10年(1827)に建立されたものである。三重塔は礼堂と共に重要文化財に
	指定されている。「日本霊異記」の中に、この観音の信仰によって目が見えるようになったという説話があり、これに基
	づいて浄瑠璃「壺坂霊験記」が創作され、一躍有名になった。 






	一般には「壷坂観音霊験記」の壷阪寺の名で知られているが、正しくは南法華寺(みなみほっけじ)という。
	「寺は壷阪、笠置、法輪」と清少納言の「枕草子」にあるように、平安時代から壷阪寺は霊験あらたかな寺として知られ
	ていたようである。しかしその創建については、他の多くの寺社同様に、はっきりしたことはわかっていない。寺蔵の、
	「南法花寺古老伝」や「帝王編年記」などは、大宝三年(703)の創建としており、境内からは藤原宮の時期の瓦が出
	土したというので、事実なら創建年が大宝三年でも矛盾はない。開基についても弁基、海弁、道基、佐伯姫足子などさま
	ざまな説があるが、「南法花寺古老伝」にある弁基上人というのが妥当なようである。


折から寺域は牡丹の花満開だった。50歳を過ぎて、ようやく花の美しさが判ってきたような気がする。








	「南法花寺古老伝」によれば、大宝3年(703年)、弁基上人が水晶の壺の中に観世音の姿を感得し、その像を刻み、
	壺を庵に納めたのが縁起とされる。後、天正天皇が壺を八角堂に納め観音像を安置して、「南法華寺」とされた。
	当山は、仏道の布教活動の中心をを社会福祉にとり、盲老人の老人ホームや盲人のための匂いの花園を運営、国際奉仕事
	業団の設立等にも注力している。インドのハンセン病患者救済にも協力し、その縁でインド政府から寄贈された20mの
	大観音像が、牡丹や躑躅に囲まれた丘の上に聳えている。







	壷阪寺は眼病の効験で知られる。これは後述の「沢市・お里」の浄瑠璃、「壷坂霊験記」流布により、一般に広まったも
	のと考えられる。「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壷阪観音の信仰で開眼治癒したという話もあり、
	すでにこのころから本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。









	承和十四年(847)には長谷寺と共に定額寺となり、貞観八年(866)には香山寺・長谷寺とともに大般若経が転読
	され、元慶四年(880)には清和太上天皇の病気平癒のため使いが遣わされている。一方、天暦年中に藤原師輔が藤原
	氏繁栄のために五大堂を建立し、天禄四年(973)には藤原兼家が春日明神のために三昧会を置くなど藤原氏との関係
	も深まっていったようである。 
	寛弘四年(1007)には藤原道長が高野山参詣の途中、壷阪寺に一泊している。壷阪寺が隆盛をむかえるのは、10世紀
	終わりの永観年中に子島寺真興が入ってからである。真興は子島流あるいは壷阪流とも呼ばれる真言の一大流派を創立し、
	壷阪寺は子島寺とともにその根本道場となった。西国33ケ所めぐりでも6番の札所として、いまも訪れる人が絶えない。











 

 


	<天竺渡来大石堂>
 
	平成4年落慶した大石堂はインドの有名なエローラ・アジャンタの石窟寺院をモデルにし、7年の歳月と延べ12万人の
	人々の手によって建立された。総重量1500トン、高さ8.5m、横幅12m、奥行き11mの御堂で3000個の花崗
	岩を使ってインドで彫刻され、日本に運ばれて組み立てられた。御堂内には石仏、一字金輪曼陀羅、大仏舎利塔が安置さ
	れている 









 









	<壷坂観音霊験記>  日本芸術文化振興会 参与 山田庄一
  
	本年七月の大阪中座の花形歌舞伎公演で、中村勘九郎の沢市、中村児太郎のお里という配役により”沢市開眼三三0年記
	念”と銘打って「壷坂霊験記」が上演された。その前月には国立文楽劇場でも鑑賞教室の演目として採り上げられている
	ので、今年(平成三年)は”壷阪の当り年”の感がする。

	もともとこの芝居は明治初年に、壷阪寺に伝わる沢市開眼の伝説をもとに出来た作者不詳の浄瑠璃「観音霊場記」に、近
	世文楽三味線の最高峰である二世豊沢団平と妻女の千賀が加筆、改曲して、明治一二年の大江橋の席で「観音霊場記」の
	中の一段として上演されたものを、さらに団平が手を加えて同二0年二月の彦六座、「三拾三所花野山」”沢市内の段”
	で現行曲が完成したのである。一二年のときには団平は”糸調、里暁”の名で改作に携っただけで出演はしていないが、
	彦六座の場合は自ら三味線を弾き三世竹本大隅太夫が語って大当りとも再演されている事実によって裏付けられよう。歌
	舞伎としても翌二一年の京都四條の芝居で早速上演され、以後人気演目の一つとなって繰返されてきた。

	「壷坂」は数多い団平の作品の中でも最高であるばかりか、明治期の新作を代表する名曲だ。”三つ違いの兄さんと……”
	のお里の口説き(サワリ)がとくに有名だが、マクラの”夢が浮世か……”の弾き出しから夫婦のやりとり、山へ登る途
	中の描写、死を決意した沢市の述懐、そして沢市の死を見たお里の狂気のような悲観から谷底になって沢市の開眼、ここ
	で曲調がガラリと明るくなってツレ弾きが入り、巧みに万歳を採り入れた夫婦の喜びの段切りまで、実に一分の隙もない
	見事な構成である。物語自体も江戸期の浄瑠璃のように複雑にからみ合った義理や柵がなく、ただ沢市夫婦の愛情一本に
	絞って、単純明快でわかりやすい点も人気を集める一因であろう。こうした広い大衆の支持から、昭和初期には浪花節に
	も移され、浪花亭綾太郎の名調子”妻は夫を労わりつ、夫は妻を慕いつつ……”は一世を風靡し、その一節”頃は六月中
	のころ、蛙の声もかまびすし……”というところから、原作の方も初夏の物語と錯覚している方が多いが、浄瑠璃の方は
	”頃は如月中空や……”とあって早春に設定されている。

	「壷坂」はこれほど一般に周知された芝居だけに、その成立の過程が劇化されている。昭和一六年に花柳章太郎のお千賀、
	大矢市次郎の団平という配役で新派により上演された川口松太郎作「浪花女」がそれである。ここでは勝気なお千賀の描
	くお里が団平の気に入らず、そこに盲目の人形遺い文吉夫婦を登場させて、その献身的な妻の姿に初めてお千賀が真の夫
	婦愛に目覚めるという、いかにも川口らしい旨い作創術が見られる。

	実際に上演される舞台では、文楽でも歌舞伎でも、名曲に乗って派手に動けるお里が得をするので、小芝居では原作にな
	いお里に横恋慕する眼九郎という悪者を登場させて沢市の役者が二役早変りを見せる演出が行われる。ただ二世中村鴈治
	郎は”三つ違い…”のお里の口説きについて、盲人を相手だけに自分の気持ちを伝える動きが難しいと語っていた。なお、
	舞台に登場する壷阪寺の本堂は、実際の大伽藍とは及びもつかぬ辻堂まがいの小さな建物だが、これは二人が飛込む谷を
	舞台の中に組込まねばならぬためで、芝居の絵空事としてお許し願いたい。





ここが沢市・お里が身を投げたと言われる谷である。今は鬱蒼と木々が茂る。ホントにそうした事実があったのかも知れない。








	<石像大仏伝図>

	昭和61年10月に完成をみた仏伝図は同じカルカラの古石を用いインドで製作されたものである。高さ10mに及ぶ世
	界にも比類ない仏伝図で釈尊の生涯(釈迦の前世から涅槃)を10の場面に分け彫刻が施されている。この事業は日印文
	化交流の一貫であり、また、壷阪寺とインドを結ぶ友情の産物である 

 





 

 

 

しかしインド彫刻の女人達の像は、ほんとに艶めかしい。官能仏と言われるはずだ。

 

象もコキ使われるばかりではやはり頭にくる事もあったんだな。「もう怒ったゾーッ。」





どういうわけか「役行者」を祀った御堂もあった。これはどういう意味かな?何の関係があるんだろ。よぉわからん。





朝鮮式記念撮影。この写真はどうしても合成できなかった。


	大観音石像と涅槃像

	大観音石像は、インドに対して社会奉仕事業(救ライ事業)を行ったお礼として、インド政府から贈られたもので、高さ
	が20m、総重量1200トンあり、石像としては世界最大である。文化勲章受賞者マイソール大学名誉博士シェノイ氏
	一門が中心となり、中央インドカルカラの3億年前の古石を用い、延べ人数約7万人の石工達の協力で4年7ヶ月の歳月
	をかけ完成した。観音石像の前に売店と休憩所があり、そこから1段下がったところに涅槃像が置かれている。この広場
	の端にはベンチもあって休憩出来る。我々もここで、少し早い昼食となった。






 

 


	観音様も腰の線が色っぽいねぇ。菩薩像、観音像というのはそもそも、その時代時代の一番いい女をモデルにしているよ
	うな気もするがどうだろう。それとも、ただ単にポッチャリ型が好きな私の好みなのかな。仏様にこんな懸想をしたら罰
	あたりかもしれん。





売店の前にゴロンと転がっている観音様の手首。「銭くれや、銭!」と言っているような気も。











これは合成。後で私だけを追加した。下はお寺から貰った写真。現物は15インチ画面の1.5倍くらいの大きさ。








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