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椿井大塚山古墳

晩秋の南山城を歩く 2005.11.27(日) 歴史倶楽部第102回例会






山背古道にある椿井大塚古墳の説明板。ここから右へ折れて20mばかり行くとJRの線路に出会う。







この線路の下をくぐるとすぐ右手に古墳への登り口がある。



見事に線路が古墳を分断している。明治時代にここを切り崩した人々は、ここが古墳だったとは思いもかけなかっただろうな。

 

整備された木坂を5,60段も上ったらすぐ墳頂へでる。

 








	椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)
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	大塚山古墳は京都府相楽(そうらく)郡山城町椿井にある。昭和28年(1953)の、JR(旧国鉄)奈良線の法面拡幅
	工事の最中に古墳であることが判明した。埋葬施設が発見され、竪穴式石室内から「三角縁神獣鏡」等38面の鏡を含
	む大量の副葬品が出土し、その中の33面が「三角縁神獣鏡」であった。古墳は、墳丘長175m、京都府で4番目の
	大きさの前方後円墳であり、後円部4段、前方部2段の築造構造を持っている。木津川を望む東岸の尾根上に立地して
	おり、自然地形としての尾根を利用して古墳の形を造る「丘尾切断型」古墳の典型とされている。そもそもは、明治時
	代に行われた、京都−奈良間の鉄道敷設工事により、古墳は後円部が南北に切断され、現在著しく形状をそこなってい
	る。前方部は民家が建ちこめており、古墳の面影は無い。




	大きさは学者によりまちまちで確定できていなかったが(165mから185m程度と推測された。)このほど175
	mと確定したようである。京都府下の前期古墳としては最大規模である。前方後円墳としても、丹後半島のいくつかと
	並び、大型古墳に属する。築造は4世紀初めとされるが、私はそうは思わない。少なくとも4世紀半ばか後半、もしか
	したら5世紀はじめではないかと考えている。昭和28年に後円部の埋葬施設から大量の副葬品が取りだされたが、特
	に、当時としては鏡の多さが群を抜いており、総数38面の鏡を出土し、その中の33面は三角縁神獣鏡であった。
	このため一躍これが卑弥呼の鏡として脚光を浴び、その妄想にとりつかれた京都大学の小林行雄は、弥生時代であるこ
	とがはっきりしている卑弥呼の時代と、古墳時代の古墳から出土した三角縁神獣鏡を結びつけるため、世にも不思議な
	「伝世鏡」なる考え方を思いついた。卑弥呼が魏からもらってきた100面の鏡は、後生大事に家宝として「伝世」さ
	れ、100年後の古墳時代になって、古墳の副葬品として埋葬されたというものである。これは、今日、数年前に山の
	辺の道にある「黒塚古墳」から34面の三角縁神獣鏡が出土するまで、ほぼ半世紀にわたって「日本一の三角縁神獣鏡
	出土地」とされていたくらいなので、当時の興奮を考えると、ムベなるかなという気もするが、アマチュアの歴史マニ
	アならいざしらず、学者としてはこういう説を唱えるべきではなかった。

	もちろん小林の、三角縁神獣鏡の同笵鏡(同じ鋳型からい鋳出された鏡)の研究で、古墳間の分有関係に注目した大和
	の勢力と地方首長の関係を考察した研究などは、今でも大いに慧眼に値すると思うが、「伝世鏡」」はよくなかった。
	こういう考えは、考古学者の寄って立つ支点そのものを危うくする。鏡以外、まったく弥生時代の土器や遺物は出土せ
	ず、古墳時代に使われていた、あるいは被葬者が身の回りに置いていたと思われるものばかりしか、古墳には副葬され
	ていないのに、鏡のみを100年以上経って埋葬したというのである。誰が考えてもおかしな理論で、どうして誰も異
	を唱えなかったのかが不思議である。奈良時代の墳墓を暴いて、なかから木簡がでたとする。これを見て、「いや、こ
	れは古墳時代に広く使われていたのだが、奈良時代になってみんな古墳に副葬しだしたのだ」とでも言おうものなら、
	考古学そのものが成り立たない。古墳に副葬されているものは古墳時代のものなのだ。縄文時代や弥生時代のものは一
	切副葬されてはいない。(若干例外もある。)これは考古学の原点である。






	この古墳の被葬者は、大和勢力から三角縁神獣鏡を大量に下賜(かし)されるほど有力な豪族だった。おそらくはこの
	地域の首長で、大和の勢力がその覇権を拡大構築するにあたって、この地域で重要な役割を果たしたものと推測できる。
	南山城から木津川沿いにいけば、綴喜郡を経て京都の八幡市で淀川に合流する。この河川の流れの流域一帯を治めてい
	た豪族が、初期大和王権とも結びついていたことはおおいに考えられることである。歴史時代になって、やがて息長氏
	として登場する氏族も、あるいはこの椿井大塚山古墳の被葬者の末裔かもしれない。ここから北へまっすぐに登って行
	けば山背(しろ)を経てやがて近江へいたる。息長氏は近江にも拠点を構えていたことがわかっている。






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	椿井大塚山古墳第4次発掘調査報告 
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	所在地 京都府相楽郡山城町大字椿井小字三階・大平 
	調査主体 山城町教育委員会 
	調査期間 平成8年1月8日〜3月15日 
	調査面積 160平方メートル 
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	1. はじめに 
	 椿井大塚山古墳は、全長180mをこす前方後円墳で、古墳時代前期の古墳としては全国でも有数の規模を持ちます。
	昭和28年(1953)、この古墳の後円部を南北に切断する現在のJR奈良線の法面改良工事が実施され、偶然に竪穴式石室
	が発見されました。石室内からは、40面近い中国鏡が出土し、しかも、そのうち三十数面もが「三角縁神獣鏡」だったの
	です。このことは、鏡の大量出土だけではなく、その鏡が邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡と考えられるがゆえ、一躍、全国
	の注目を集めることとなりました。そして、椿井大塚山古墳は、古墳の出現と古墳時代の成立を考える上で、極めて重要
	な遺跡となったのです。
	 今回の発掘調査は、椿井大塚山古墳のよりよい活用と保全をめざし、今後4カ年計画で実施する同古墳の墳丘規模確認
	調査の第1年目にあたります。なお、この調査は、過去に実施された発掘調査から数えて第4次調査にあたり、「椿井大
	塚山古墳発掘調査委員会(会長 猪熊兼勝)の指導のもと、山城町教育委員会が国庫補助事業として実施しました。 
  
	2. 調査の概要 
	 椿井大塚山古墳は、木津川を望む東岸の尾根上に立地しており、自然地形としての尾根を利用して古墳の形を造る「丘
	尾切断型」古墳の典型とされています。今回の調査では、この尾根を切断した個所から古墳後円部の頂上付近にかけて合
	計3本のトレンチ(発掘溝)を設定し、その構造を探りました。
	 調査の結果、従来考えられていた墳端(古墳の端)よりもさらに外側で葺石の面を検出しており、今回の調査個所では
	合計3段の階段状の構造をもつことがわかったのです。しかも、その残り具合は良好で、築造当時の偉容を目の当たりに
	することができます。
	 葺石に使用されている石は、1段目では主に花崗岩(この付近での岩盤の石)の風化したものが用いられ、2弾目より
	上では花崗岩を割ったものや、近くの木津川で取れるような川原石などが使用されています。また、葺石の面の傾斜角度
	は、水平面に対して約 25°程度であり、傾斜面との間に幅約2.7mの平坦面(テラス)をもちます。そして、そこには小
	石が敷かれていたようです。
	 今回の発掘調査で出土した遺物には、二重口縁(口が二段に開く形)の壷や小型の壷があり、いずれも古墳時代初頭の
	様相をもつものであることから、この古墳の築造時期を考えるうえでの新たな資料を得ることができました。 
  
	3. まとめ 
	・椿井大塚山古墳の構築状況、たとえば、段築構造(階段状の構築構造)などがはじめて明らかになった。
	・椿井大塚山古墳の構築年代やその後の変遷を知るうえでの土器資料を、新たに得ることができた。
	 いずれにしろ、古墳時代初期の大型前方後円墳としての椿井大塚山古墳の全容解明に、確実な一歩を踏み出したことの
	意義は大きいものと考えます。
	 調査は、次年度以降も継続実施しますので、また、新たな発見が期待されます。椿井大塚山古墳をよりよく後生に伝え
	るため、皆様の御協力をお願いいたします。 
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下が、みんなが読んでいる(上)、この墳上にあったチラシの内容。「この内容はおかしいですよ。」と一説ぶった。




	京都新聞Kyoto Shimbun News 2005年10月13日(木)
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	前方部の端 ほぼ確定  山城・椿井大塚山古墳

	半世紀前、三角縁神獣鏡など多数の古代鏡が出土した京都府山城町椿井の国史跡「椿井(つばい)大塚山古墳」(前方後
	円墳、3世紀後半)で、町教委がこのほど実施した発掘調査の結果、これまで確定ができなかった前方部の端の位置(墳
	端)がほぼ絞り込めたことが分かった。 
	これに伴い、諸説あった古墳の全長も町教委が設定する175メートルに落ち着くとみられる。想定されている墳端のす
	ぐ外側を発掘し何も出土しなかったためで、町教委は「何も出ない発掘調査も、時には大きな成果になる」としている。 
	椿井大塚山古墳は後円部の大きさが直径約110メートルと確定しているものの、西方に伸びる前方部周辺には民家が多
	く本格的な発掘調査ができなかった。このため、全長は考古学者によって200メートル−165メートルの幅で異なる
	学説が存在。町教委は1995−98年の調査で後円部とのバランスなどから175メートルと定めていたが「決め手に
	欠けていた」という。 
	今回の調査地点は、全長を175メートルとした史跡範囲から町道を挟んだ西側の位置で、民家の建て替えに伴い実施。
	8月31日から9月22日のまでの間、幅約2メートル、長さ21メートルにわたり、深さ1・7メートルまで掘り下げ
	たが古墳を造成した痕跡は見つからなかった。 
	椿井大塚山古墳は、山城地域最古、最大の前方後円墳。53年、後円部を横断する現JR奈良線の改良工事で竪穴式石室
	が発見され、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡30数面などが出土。古墳研究を飛躍的に発展させた。 
	同志社大歴史資料館の辰巳和弘教授は「椿井大塚山古墳の規模が確定されることは、学術的な価値が高い」と話している。
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上左の写真は合成です。一人を後から追加しました。さて、誰を追加したでしょう?結構うまくいってるでしょ。



 


	椿井大塚山古墳については、南山城に住む〇〇さんの、以下のホームページが詳しい。ここを見ればこの古墳の全貌がわ
	かる。〇〇さんとは何度かメールのやり取りをして、「おいでになるときはご連絡ください。ご案内します。」と言われ
	ていたが、大人数だし今回は失礼した。しかし、ごらんいただけばわかるがすごいページである。




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