SOUND:Penny Lane

馬見丘陵を行く

−馬見古墳群− 2005.11.13(日)奈良県北葛城郡河合町・広陵町








上空南部から馬見丘陵を見る。




	ここんとこ参加できなかったこの会の見学会に久々に参加した。今年この会で知り合った高松さんは来ていなかった。

	今回の舞台は馬見丘陵公園(うまみきゅうりょうこうえん)である。馬見丘陵公園は、四季折々の花々と古墳の公園と
	して有名で、奈良県北葛城郡河合町と広陵町にまたがっている。公園は大和平野のほぼ中央、奈良盆地の西に東西3キ
	ロ、南北7キロにわたって横たわっている馬見丘陵上にあり、ここはわが国では有数の大型古墳の集中密度が高い地域
	である。「馬見古墳群」と呼ばれているこの一帯は、主な古墳だけでも数十基を数え、大和川合流の低地の北部(川合
	大塚山古墳など)、丘陵中央部の地域(巣山古墳、新木山古墳など、馬見丘陵公園の部分)、それから築山古墳、新山
	古墳などが存在する南部とに分かれている。今日はこのうち中央部をめぐるわけだ。




	馬の背の形をしている丘というので「馬見丘陵」と言われ地元に親しまれており、四季を通じて人々に美しい緑を提供
	している。そして公園内に足を踏み入れると、雄大な古墳の数々を見渡すことができる。園内には4世紀から5世紀に
	かけてのわが国有数の古墳群があり、中でもナガレ山古墳は土取りで破壊しかけたものを住民等の努力で復元し、国の
	指定史跡となったもので、墳丘に葺石が葺かれ、周りに円筒埴輪・朝顔形埴輪の列が置かれており、整備公開されてい
	る。諸説はあるものの、これら古墳群の被葬者は未だ不明である。




	この丘陵の東側には、「山の辺の道」で有名な天理市の大和古墳群が存在し、北側には奈良市の佐紀盾列古墳群がある。
	名だたる古墳群に囲まれて、一般的にはさほど有名ではないが、大王級の古墳もあり、古代の勢力分布、被葬者を考え
	る上では重要な位置を占めている地域の一つなのである。


	河合町役場前で本日のスケジュールを確認。本日随行してくれるのは広陵町教育委員会の井上義光氏。このHPの随所
	で氏の著作からの解説を引用している。多謝。上右でマイクをもっているのが井上氏、その左はこの会の幹事岡本氏。






	
	上の地図が今日のコース。大部分が「馬見丘陵公園」の中だ。帰り牧野(ばくや)古墳で解散して五位堂(ごいどう)
	駅までが遠かった。下は、この馬見丘陵古墳群の主要な古墳であるが、規模といい副葬品の豪華さといい、この地域に
	も大王級の豪族たちがいたことがわかる。文献から推測するに、時期的にこれだけの規模があるということで葛城氏の
	祖先たちという説が出現したのだろうが、伝承としても残らず、まったく文献に登場していない大王たちであった可能
	性も大いにある。






	
	近鉄池部駅・河合町役場を出て歩きだすと、ほどなく「馬見丘陵公園」につく。

	この公園は、もともと原野(雑木林)や畑だったところを整備して造ったようで、公園のうちそとに、古墳、水田、た
	め池、雑木林など、里山の風景が広がっている。公園内には多くの花々も植えられてきれいに整備されており、人と自
	然が融和している。こんなところがあったなんて全然知らなかった。実に気持ちがいいところだ。また、公園館の周辺
	には涼しげな小川が流れる「流れのある坂道」、6万株の見事な花が咲き誇る「菖蒲園」、紫陽花の「だんだん広場」、
	バラの花が咲き乱れる「バラの休憩所」など、見所が沢山ある。来年暖かくなったら歴史倶楽部の例会でもう一度こよ
	う。
	歩き出してすぐ、大きなカーブの尾根に説明板が設置されていた。旧石器時代の遺跡「馬見二ノ谷遺跡」だった。





二の谷遺跡を抜けて県道を横切る。この公園は南北に長いため、至る所を車道が分断している。そのせいで陸橋が多い。




	おとめやま
	乙女山古墳 (国史跡)
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	■所在地 : 北葛城郡河合町大字佐味田小字乙女
	■規模  : 全長130m、後円部径104m、高さ14.7m、前方部幅52m、長さ30m、高さ3.5m
	■築造時期: 古墳時代中期(5世紀後半) 

	「中央エリア」に入るとすぐ「乙女山古墳」がある。大和地方には20数基を数える帆立貝式古墳があり、乙女山古
	墳はその中で最大の規模を誇る。周りは広陵町だが、この古墳一帯は河合町の飛び地になっている。古墳は、北西か
	らの尾根を利用し、南東を向いて築かれている。前方部は幅50mに対して長さは30mしかなく、前方部というよ
	り祭祀を行った張り出しの1種という人もいるほど短くずんぐり型である。後円部は3段築造の墳丘である。




	この古墳は、後円部西側にも幅23m、長さ11mの方形の張出部がある。これもくびれ部の造出しと合わせて祭祀
	に利用されたものと思われる。86年、87年の発掘調査で、後円部の墳丘1段目をめぐる円筒埴輪列、方形張出部
	の凝灰岩の葺石、造出し前面の埴輪列などが検出された。円筒埴輪列は隙間無く立てられ、その中の一つに、中に土
	師器の、小型の丸底壷が7個納められていた。1段目埴輪列の前面はバラス敷き、そこに家形埴輪と楕円筒埴輪が2
	個づつあり、家形の1個は復元の結果、切妻造りで平入り(玄関が正面)であった。バラス敷きの上から籠目土器や
	高坏が出土した。地元の伝承では、戦後、墳頂部から大量の滑石製の勾玉や、刀子、斧など、祭祀用の模造品が出土
	したという。粘土槨の存在が推定されており、5世紀後半の築造と見られている。1956年に、墳丘と周濠部が国
	史跡に指定された。
















	べっしょしも
	別所下古墳 (雨山古墳)
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	■所在地 : 北葛城郡河合町大字佐味田字別所下
	■規模  : 60メートル、高さ6メートルの円墳 帆立貝式の可能性もある。
	■築造時期: 4世紀後半 

	南北に伸びる尾根の頂上部を修景して4メートル以上の盛土を行い、径60メートル、高さ6メートルの大型円墳に仕上
	げ、北側に幅6メートルの濠と外提を設けている。公園の建設に先だって86年に橿原考古学研究所が行った範囲確認
	のための発掘調査で、墳丘は上下2段に築かれたことがわかった。また、下段の肩部に円筒埴輪列を巡らせ、ところ
	どころに朝顔形埴輪や鰭つき円筒埴輪を置いていることも判明した。地形から、西か南側に、短い前方部を持つ帆立
	貝式古墳の可能性もあるという。









公園を抜けてほどなく、ナガレ山古墳が見えてくる。








南エリアへのエントランス部分。きれいに整備されていて、トイレもきれいな建物である(下右)。


















	<三吉二号墳>

	馬見丘陵公園南エリアの入り口にきれいに整備再現されている。巣山古墳の西に寄り添うように築かれた北向きの帆
	立貝式の古墳で、巣山古墳の陪塚に見えないことはない。公園整備事業の事前調査で、全長約90m、後円部径78
	m、高さ4.7m、前方部幅41.2mの規模と判明した。円筒埴輪が出土しているが、ほかは不明。巣山古墳に次
	ぐ時期の築造と見られる。この古墳のすぐ北に「ダダオシ古墳」の墳丘が復元されている。全長50mあまりと推定
	される前方後円墳であったが、前方部と後円部北側は削られている。東側で幅7mの濠と幅8mの外堤が確認され、
	周濠と外提を持っていたと考えられている。後円部に盗掘の跡があった。いずれも古墳時代中期の築造と推定される。











ここを過ぎると、この古墳群最大級の「巣山古墳」である。豊富な副葬品から大王墓とnewsになった。








	<広陵町立竹取公園>

	広陵町が「竹取物語」の伝説を元に「町おこし」として建設した公園である。広陵町は、この公園の西側、馬見丘陵
	に広がる大規模な住宅地開発で潤ったと言われ、その上がりでこの公園を作ったのだろうか。家族連れで遊びに来れ
	るように色々な遊具もあり、広い駐車場を備えている。一番奥には大きな図書館まである。広陵町では、ここがかぐ
	や姫の「竹取物語」の地であるとして、様々なモニュメント等を製作してPRに努めている。







竹林のなかに、里中満智子の描いた「かぐや姫」の絵コンテがあった。「かぐや姫STORY」を読みながら歩く。







 

トイレや水飲み場も「古代仕様」である。











 







竹取公園から舗装道路を横切り、竹林を抜けて小さな森の中を抜けると讃岐神社である。




	竹取物語の舞台となったのが讃岐神社(公園外の南)の周辺とされている。讃岐神社は延喜式神名帳に記された神社
	で、一般的には、四国の讃岐から斎部(いんべ)氏がこの付近に住みついて祭ったのが讃岐神社であるとされている
	が、はっきりした創祀、祭神は不詳である。この周辺はかって「散吉(さぬき)郷」と呼ばれていたが、現在は広陵
	町三吉(みつよし)である。



























 






	全国で1年間に約6億足の靴下が生産されているが、そのうち約4割が奈良県の広陵町で造られている。町内には、靴
	下を製造している会社が約150社あり、グンゼや福助といった大手靴下メーカーも、ここに下請けを持っている。
	我が社のお客さんもそれらの会社の中の一つで、営業現役時代の大昔、この五位堂にはよく通ったが、駅前は昔とはす
	っかり変わってしまっていた。


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