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薬師寺

2005.10.25 奈良市西ノ京町







	<薬師寺>

	薬師寺(やくしじ)は、仏教の寺院で、奈良県奈良市にある法相宗大本山のこの薬師寺が著名だが、他に同名の寺院が日本
	各地に存在する。薬師如来を本尊とすることからこの名が付けられている。
	興福寺とともに法相宗の大本山であり、南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇で
	ある。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

	所在地 : 奈良県奈良市西ノ京町457 
	山 号 : なし 
	宗 派 : 法相宗大本山 
	本 尊 : 薬師三尊(国宝) 
	創建年 : 天武天皇9年(680年) 
	開 基 : 天武天皇(勅願) 
	文化財 : 東塔、薬師三尊像ほか(国宝)、南門、伝大津皇子坐像ほか(重要文化財)
	アクセス: 最寄駅 JR・近鉄奈良駅、近鉄西ノ京駅 
	駐車場 : あり。大型バス2,200円、マイクロバス2,000円、普通車500円、二輪車100円 

	「薬師寺縁起」(平安時代中期の長和4年・1015年成立)によれば、薬師寺は今からおよそ1300年も昔の白鳳時代、天武天
	皇9年( 680年)に、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后(うののさららこうごう)の病気平癒を祈願し、飛鳥の
	地・藤原京にて創建された。天武天皇は6年後寺の完成を見ずに没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
	持統天皇によって本尊開眼、更に文武天皇の御代に至り、698年、発願より18年の歳月が費され、飛鳥の地、藤原京に
	おいて七堂伽藍の完成を見た。持統天皇2年( 688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたこと
	が史料からわかり、この頃までには伽藍が整っていたものと思われる。また、この頃には官寺の指定を受けて朝廷の厚い保
	護を受けるようになった。








	当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇り、なかでも裳階を施した金堂や塔のたたずまいの美
	しさは「龍宮造り」と呼ばれて、人々の目を奪った。
	その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移
	転の時期は『薬師寺縁起』によれば養老2年(718年)であった。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、始薬師寺東
	塔立 とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。
	移転については、伽藍、仏像を全部そのまま移したという説と、寺院の名籍だけを移し、伽藍や仏像は新しく造立したとい
	う説がある。前説なら東塔や薬師三尊像などは白鳳時代の作となり、後説では天平初期の作となるため、美術史学界を二分
	する重大な問題であり、現在も論争が続いている。






	なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀頃
	までは存続していたようだが、後に廃寺となった。寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿(きどの)
	町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。平城京の薬師寺にある東塔や本尊薬師三尊
	像が本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては古来論争がある。現在では、東塔は平城京
	での新築、本尊は本薬師寺からの移座とするのが、通説となっている。平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元
	年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、創建当時の姿を残すのは東塔のみである。






	20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは
	焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧
	進による白鳳伽藍復興事業が進められ、昭和51年(1976)金堂が、昭和56年(1981)には西塔が、その後中門、回廊、玄
	奘三蔵院伽藍が復原造営され、平成15年(2003)には大講堂も落慶し、法相宗の始祖玄奘三蔵を祀る玄奘三蔵院伽藍も完成
	した。今なお白鳳伽藍の復興を目指して再建が進められている。 






	当寺の伽藍配置は、金堂、講堂などを中心に、東塔と西塔の2つの三重塔を配する構成は独特なもので、薬師寺式伽藍配置
	と呼ばれている。金堂の背後に講堂を、またそれらを取り囲むように回廊を配している。






	<金 堂>
	金堂は享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまった。その後、豊臣家が金堂
	の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈だったが、豊臣家滅亡などで400年近く仮堂のままの状態だっ
	た。金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願で、昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進に
	よる金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩き、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)
	4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興した。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊薬師三尊像(国宝)
	を安置する。わが国仏教美術の最高傑作といわれる白鳳時代の金銅仏である。

	 ・日光菩薩
	 ・薬師如来
	 ・月光菩薩



上をクリックして貰えば大きな画面になりますが、よく判別出来ません。




	<大講堂>
	2003年の再建。本尊の銅造三尊像(重文)は、中尊の像高約267センチの大作だが、制作時期、本来どこにあった像である
	かなどについて謎の多い像である。かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、寺では
	「弥勒三尊」と称している。



薬師如来像 − 薬師如来を中心に、右に日光菩薩、左に月光菩薩、あわせて薬師三尊と呼ばれる。仏教彫刻の最高傑作。




	<銅造薬師三尊像>
	奈良時代の作。中尊は薬師如来、脇侍に日光菩薩(にっこうぼさつ)と月光菩薩(がっこうぼさつ)を配している。中尊像
	の威厳ある像容、脇侍像の華麗な身のこなし、各像の完璧なプロポーションなど、日本の仏教彫刻が中国・六朝や唐の影響
	を受けつつ、独自の古典様式を完成した奈良時代の作品のなかでも最高傑作の1つとして古来名高いものである。中尊像の
	台座には、シルクロードの軌跡とも言うべく、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、
	インド風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれている。制作年については、西暦688年頃には
	完成していたと見るのが通説だが、『日本書紀』に持統天皇11年(697年)、薬師寺にて仏像の開眼法会を行った旨の記録が
	あることから、この時に制作されたとする説もある。




	<東塔・西塔> (国宝)  
 
	白鳳時代の偉容を今日に伝える東塔、昭和に白鳳が再現された西塔。二つの塔は一見六重の塔に見えるが、実は三重の塔。
	これは各層に裳階(もこし)といわれる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し
	「凍れる音楽」という愛称で親しまれている。塔は本来、釈迦の墓で、梵語の「ストゥーパー」が中国語に音訳されて「卒
	塔婆(そとうば)」となり、それが「塔婆」、更に「塔」となったもの。釈迦の遺骨(仏舎利[ぶっしゃり])を埋葬して
	盛り土をしたものが原型で、その塔婆を遠くからでも拝めるように、また尊敬の気持ちから、より高い台の上に祀るように
	なったものである。塔の上屋部を相輪(そうりん)というが、実はこれが卒塔婆で、その基部へ仏舎利を納め、墓にさしか
	けた日傘が九輪(くりん)になり、尊い塔が火災にあわないようにと水の煙、水煙(すいえん)を造り祈った。  
	昭和56年(1981)には西塔が復原造営され、実に453年ぶりに東西の両塔が新旧の対比を見せながら西の京の空にそび
	えることになった。新しく再建された建物は朱と緑の彩りも絢爛として、天平の昔が偲ばれる。西塔の方が東塔より2.4メ
	ートル高く、屋根の勾配はよりなだらかである。








	<東塔> (国宝)
	現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高33.6メートル。屋根の出が6か所にあり、一
	見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築として他
	に類例のないデザインは、アメリカの美術研究家フェノロサが「凍れる音楽」と絶讃した。塔の先端部の相輪にある青銅製の
	水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。相輪の中心部の柱の最
	下部には「東塔さつ銘」(「さつ」の漢字は木扁に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の草創縁起が漢文で記さ
	れている。
	塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説と、平城京で新たに建てられたとする説とがあったが、『扶
	桑略記』の記述のとおり、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が有力である。当初、東塔・西塔の初層内部に
	は釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管さ
	れるのみである。 拝観はできないが内部は組入天井で、格間と裳層の間に宝相花門(ほうそうげもん)の彩色がある。 



上をクリックすれば大画面になります。何とか読めます。




	<西塔>
	東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は享禄元年(1528年)に焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建されたもので
	ある。デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に連子窓を設けるなどの違いも
	ある。享禄元年(1528)の兵火のあと、礎石だけが残っていたが、昭和56年(1981)、東塔とほぼ同形に復興された。東塔
	と比較すると、朱と緑、水煙の金色が美しく、まずその鮮やかな色に目を奪われるが、それは奈良を表わす色使いでもあると
	言える。塔の連子窓[れんじまど]に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に使われている色を「丹[に]」色と呼び、
	万葉集の一節に

		あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり

	と歌われている事からも、当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われる。「青丹良し」は奈良の
	枕ことばを意味する。色はもちろん連子窓の有無や屋根の反り、基檀の高さ等、東塔との違い(例えば、東塔より屋根の傾斜
	が少ない、東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられている、等々。)が多く見られるが、その違いこそが1300年と
	いう歴史の流れを表している。



上をクリックして貰えば大画面になって、これは綺麗に読めます。






	<中門>
	両側に回廊が延びる。昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興された。その年、10月8日の落慶法要の時には扉だけを開
	いた。そして、その後昭和天皇が奈良で開催された「わかくさ国体」の開会式(10月10日)に来たとき、その翌日に初通り
	となった。また、平成3年(1991)には二天王像も復元された。回廊は、藤原京薬師寺では単廊であったとされているが、
	平城京薬師寺では複廊と呼ばれる二重構造になっているのが特徴である。




	昭和51年に金堂、同56年に西塔が落慶し、以後中門・回廊の再建工事と平行して大講堂の復元設計に着手。基本設計は西岡
	常一棟梁で金堂以来一貫した裳階付の薬師寺独自の様式である。講堂は正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建
	造物。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講
	讃したためである。特に薬師寺では平安時代に入ると南京三会(なんきょうさんえ)の一つ最勝会(さいしょうえ)の道場と
	なって、勅使を迎えた法会が毎年盛大に営まれた。最勝会では持統天皇が持統6年(629)に天武天皇の菩提を弔うために奉安
	した高さ3丈(8,9m)、広さ2丈1尺8寸(6.5m)の阿弥陀浄土を写した大繍仏像が正面に祀られた。金堂の本尊薬師如来
	像が持統天皇の病気平癒の願いを込め天武天皇が発願されたのはよく知られるところで、いわば薬師寺白鳳伽藍は、天武・持
	統二代の天皇の夫婦愛が、それぞれ金堂と大講堂にこめられているのだ。大講堂は現在の建築基準法に合わせ現代の技法を取
	り入れながら伝統工法による復元建築で、最大級の建物である。薬師寺白鳳伽藍の雄大さを象徴している。



薬師寺「玄奘三蔵院」



	
	奈良の薬師寺に「玄奘三蔵院」げんじょうさんぞういん)という建物がある。西ノ京の、薬師寺本伽藍から北へ少し離れ
	た所に、高僧玄奘三蔵を祀った院がある。孫悟空物語のモデルと言われる玄奘三蔵は、隋の時代(602年)に生まれ、
	僧となり研鑽するも教義に多くの疑義を持ち、国(当時唐)の禁を犯し苦難の旅の末、天竺(インド)に渡り、当地で教
	義の原典に接し、唯識論等の奥義を窮め17年後に帰国。一転、唐の帝の大歓迎を受け、持ち帰った原典の翻訳に余生を
	捧げた。今、宗派を超え広く唱えられている般若心経も玄奘三蔵の訳した経典の一つである。玄奘塔には、玄奘三蔵の遺
	骨が真身舎利として安置され、須弥壇には玄奘三蔵訳経像が祀られている。ちなみに、玄奘の死後遺骨の一部は日本にも
	運ばれ、現在岩槻市の慈恩寺(境内ではなく近くの丘)と薬師寺にある。
 






	
	玄奘は陳家の四人兄弟の末子で、彼が10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て出家していた次兄のもとに引き取ら
	れた。13歳のときに僧に選ばれ、法名を玄奘といった。25,6歳ころまで、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を
	巡歴した。修行が深まるにつれて教えに疑念を懐き、漢訳経典にその答えを求めるが、各地の高僧名僧も異なる自説をふ
	りまわして、玄装の疑問を解くにはいたらなかった。このうえは、天竺におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論
	師に直接の解義を得るしかほかに途はないと思い立ったのである。当時、唐は鎖国政策をとっており、他国への出入りを
	禁止していた。何度も嘆願書を出したが許可されず、ついに玄奘は決心して、貞観3年(629)27歳のとき、国禁を
	犯して出国する。そして、苦難の旅の末17年後の貞観19年(645)に長安へ戻ってきた。この年は、日本では、中
	大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・入鹿親子を減ぼした「大化の改新」の年にあたる。



	
	玄奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、歩行距離は実に3万キロに及ぶ、壮大な紀行であった。玄奘は
	帰国のとき44歳になっていた。密出国の出発時と違って、彼の帰還は時の唐の帝・太宗の大歓迎を受ける。太宗は、国
	境近くまで出迎えの使者を出すほどであった。自らで迎えたという説もあるほどだ。玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻
	訳に残りの生涯を賭ける。皇帝からは政事に参画することを求められたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、
	翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けている。玄奘の翻訳方針はそれまでとは異なり、あまり意訳しないところに特
	徴があるといわれる。インドから経典を運んだ僧侶はたくさんいて、名前が明確な人だけでも150人程といわれている
	が、玄奘三蔵法師は質、量ともに記録的なものである。また経典のみならず、旅行中に記録した地理のようすや風俗、天
	文、数学、医学的な分野のものまで含まれている。



	
	いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっているが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守る
	べき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といい、普通名詞なのである。したがって大勢の三
	蔵法師がいたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、三蔵法師といえば玄奘のこととなった。
	麟徳元年(664)に、玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこんだが、それでも、
	持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。西安市の大慈恩寺に大雁塔が建てられ、ここに完成した翻訳本が
	納められたが、唐が滅びてからは、戦乱等で散逸してしまっている。







	
	玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教えだった。その教えの流れを継承している宗派が
	法相宗[ほっそうしゅう]である。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる。昭和
	17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が、土中から玄奘三蔵の頂骨を発見した。その一部が昭和19年(1944)
	に全日本仏教会にも分骨されたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後頂骨を祀る石塔が建てら
	れた。薬師寺も、玄奘の遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)に分骨を拝受し、平成3年(1991)玄
	奘三蔵院伽藍を建立した。



	
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	玄奘三蔵像
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	玄奘三蔵院の玄奘塔に祀られている玄奘三蔵像は、大川逞一仏師の手によって作成されたもの。右手には筆を、左手には
	貝葉(インドのお経)を手にしており、天竺からの帰国後、経典の翻訳作業中の玄奘三蔵の姿をモデルにしたものとされ
	る。
>

	
	ここ玄奘三蔵院には、日本画壇の重鎮である平山郁夫による大壁画がある。平成12年12月31日に完成した。画伯は
	30年をかけて唐西域壁画と248枚の天井絵を描き奉納した。高さ2.2m、長さ49mの大壁画が納入されている。
	この壁画を 納入する為に、平成3年に建立された大唐西域壁画殿の天井は、75cm角の天井板 が248枚ならぶ格天
	井になっているが、この天井もすべて画伯の手による彩色が施されている。一般公開は期間を限定して(春・秋の2回)
	行われる。平成17年度の公開日程は、次のとおり。

     一般公開    春季 3月20日(祝)〜6月15日(水)
             秋季 9月16日(金)〜11月25日(金) 午前9時〜午後4時 
     一般公開以外  毎月5日の玄奘会(正午より午後2時)

	西安でわれわれは見なかったが「大雁塔」の絵もあった。玄奘三蔵の長安からインドへの求法の行程が描かれた壮大なも
	のでなかなか見ごたえがある。







	
	平山郁夫(ひらやま・いくお
	-------------------------
	広島県・生口島生まれ。15歳で被爆。前・東京芸術大学学長。世界の文化財の保存・修復を図る「世界文化財赤十字構
	想」を提唱し、私財を投じている。
	













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