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歴史倶楽部 第122回例会

彦主人王墓(安曇陵墓参考地)





	三重生神社を後にして里道を500メートルほど南に戻ると、先ほどの「三尾神社旧跡」の説明板がある道へ戻ってくる。「もた
	れ石」の脇を、山中に向かう道を登っていくと5,6分で、継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)を葬ったとされる御陵につ
	く。ここは現在宮内庁管轄の参考地で「安曇陵墓参考地」と呼ばれる。林の中を歩いていると、道の両側で猿たちが騒いでいた。








	「何やこれ、中興の名君やて、江戸時代の大名みたいやな。」「前の武烈があまりにひどかったんで、次の継体は良く見えるんや
	 なぁ。」「だいたい、おらんかったかも知れんのやろ継体て。」「うぅ〜ん、おらんかった言う事はないと思いますけどねぇ。」
	「今の天皇家の先祖でっせ。」「まぁ、それも一つの説ですけどね。」



長い林の中を歩いていく。陵墓参考地も幾つか廻ったが、中には天皇陵よりも大きくて立派なものがある。ここもその一つだ。







古墳の回りをぐるっと一回りしてみる。「帆立貝式古墳ならずいぶん古いもんちゃいます、これ。」と郭公さん。






	真後ろから見た古墳。直径約58m、高さ10mの、二段築成の帆立貝式古墳というが、円墳のようにも見える。実際、昭和45年
	にここを調査した滋賀県教育委員会によると、前方部突出部の形状が不自然で、もともとが大型円墳だったとの推測もあるそうだ。
	素人目には、この古墳の形状は年代が古く、とても継体の父親の墓には年代が合いそうにないような気がするが、ガイドブックには
	「5世紀後半の築造で、彦主人王の活躍していた時代と符合する」と書いてあった。出土した埴輪が5世紀後半のものとされたよう
	だ。宮内庁は、彦主人王の墓という伝承に基づいて、明治38年にここを買収し「陵墓参考地」に指定した。







ここが不自然だと判断された接合部だ。確かにこのくびれの深さは、後から継ぎ足したもののようにも見える。








	継体天皇に関しての「古事記」の記事はわずかである。武烈記に

	「天皇既に崩りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王(みこ)無かりき。故、品太(ほむだの:応神)天皇の五世(いつつぎ)の
	孫(ひこ)、蓑本杼(をほどの)命を近つ淡海国より上りまさしめて、手白髪(たしらがの)命に合わせて、天の下を授け奉りき」
	とあり、継体記に

	「品太王の五世の孫、蓑本杼命、伊波礼(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしめしき」
	とある。

	前半は、「武烈天皇が死んで世継ぎがなかったので、応神天皇の五世である継体天皇を近江から招いて、手白髪命と結婚させ皇位
	につかせた」、後半は、「応神天皇の五世である継体天皇は、伊波礼の玉穂宮で天下を治めた」というものだ。これに反して「日
	本書紀」にはその辺りの事情がかなり克明に記述されている。要約すると、

	小泊瀬(おはつせの)天皇(武烈天皇)は、若い頃恋に破れてひどい女性不信に陥り、女性に対しては悪逆非道の限りをつくした。
	妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、女を裸にして馬と交尾させたり、そのため一生を独身で過ごすはめになり、当然一子ももうける
	ことがなかった。即位から8年で武烈天皇は崩御し、その事で大和朝廷には一大事件が発生する。即ち、世継ぎがいないため王朝
	断絶の危機に陥ったのである。
	重臣達は合議を開き、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)は、丹波の国桑田郡(現京都府北桑田郡・亀岡市あ
	たり)にいる足仲彦(たらしなかつひこ:仲哀)天皇五世の孫である倭彦王(やまとひこのおほきみ)を迎えて皇位につかせよう
	としたが、王は整列して行進してくる兵士を見て狼狽し山中に逃げ去ってしまう。そこで金村は物部鹿鹿火(もののべのあらかひ)
	大連、許勢男人(こせのおびと)大臣らと協議して、今度は越前の国三国(現福井県坂井郡三国町あたり)にいる誉田(ほむだの
	:応神)天皇五世の孫である男大迹(おおど)王(後の継体天皇)を迎える事にした。

	男大迹王は、応神天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)王の子で、母振媛(ふりひめ)は垂仁天皇の七世の孫であったという。振
	媛は近江の国高島郡三尾の出身である。琵琶湖西岸の中央部に位置し安曇川によって開けた平野部が故郷であった。この振媛を迎
	えて妻にしたのが、越前の国三国の坂中井(さかない)の彦主人王である。男大迹王が生まれてすぐに彦主人王は崩かったので、
	振媛は子を連れて高向(たかむこ)に隠棲する事になった。男大迹王は、大伴金村らが皇位継承の要請に来るまでここに住み、既
	に57歳になっており多くの妃、子達に囲まれて暮らしていた。
	ちなみに、越前の国三国の坂中井は、九龍川の下流域に位置し交通の要所であった。「国造本紀」によればここに三国国造が置か
	れ、蘇我氏一族の若長足尼(わかながのすくね)がその任にあたっていた。蘇我氏が、継体天皇の嫡子である欽明天皇の時代に台
	頭してくる豪族であることを考えると、この蘇我氏と継体天皇の結びつきはおもしろい。継体天皇出身越前説に少し信憑性が増す
	と考えられる。
	男大迹王ははじめ皇位継承の要請をなかなか受け入れなかったので、金村らは北河内一帯を基盤とする、王の知人河内馬飼首荒籠
	(かわちのうまかいのおびとあらこ)を説得役に越前へ使わし、ようやく王もこれを聞き入れ、やがて 507年2月4日に樟葉宮(く
	ずはのみや:現大阪府枚方市楠葉)で即位した。ところが、男大迹王は即位して直ちに大和で政治を行ったかというとそうではな
	い。5年間樟葉で過ごした後、都を山背国の筒城(つつき:現京都府京田辺市)に移し、更に6年後には同じく山背国の弟国(乙
	訓:おとくに:現大阪府高槻市から京都府長岡京市にかけてのあたり)に遷都する。更に8年たって、ようやく大和の国磐余(い
	われ)の玉穂宮(たまほのみや)に入るのである。

	そこは現在の、奈良県桜井市池ノ内付近であろうという説が有力だが、実はこの磐余は皇位継承者には非常に重要な聖地なのであ
	る。初代神武天皇は神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)と名乗っていたし、神功皇后は磐余の若桜宮(わかざくらのみや)を
	都としている。仁徳天皇の子履中(りちゅう)天皇も磐余の若桜宮に遷都し、雄略天皇の子清寧(せいねい)天皇も磐余の甕栗宮
	(みかくりのみや)を都としている。磐余は歴代の宮居が置かれていたところなのである。
	磐余は桜井市の阿倍丘陵を中心とする一帯、という説が有力だが、一方曾我地方にも神武天皇を祀る磐余神社があり、また磐余田
	と呼ばれる場所があることから、桜井市と特定できないという学者もいる。なお、継体の父彦主人(ひこうし)、母振媛(ふりひ
	め)の出身にも諸説有り、父が近江で母が越前という説もある。

	継体天皇をめぐる謎は、まとめれば以下のように集約される。

		(1).出自。すなわち、継体天皇はどこからきたのか?
		(2).20年の間どうして大和へ入らなかった、あるいは入れなかったのか?
		(3).継体天皇はほんとに新王朝の創始者か?即ち、現皇室の祖先なのか。

	(1).から見ていくことにしよう。現在継体天皇の出自については大きく3つの意見がある。

		 @.「古事記」を信用し、近江の国の豪族だったという説。
		 A.「書紀」の記述通り越前から招聘されて皇位に付いたとする説。
		   それから、これは学会では賛同者は少ないが、
		 B.新羅から渡来した王族の末裔であるという説。

	3番目の説については出典がはっきりしない。何時の頃からこういう説が出現したのだろう。幾つかの「読み物」風歴史本を読む
	とこの説が紹介されているが、何の本にそう書いてあるのか説明がない。おそらく後世になって、皇族の出自も朝鮮半島であると
	強調したい歴史家によって唱えられた説だろうと思われる。勿論、時代を遡って縄文末期、あるいは弥生前期までたどればその可
	能性は大いにあるが、それは日本人全てにあてはまる。
	また、それまでの天皇家とは全く関係ない豪族が、地方豪族の力を結集し力ずくで王権を奪い、さもそれまでの天皇家の系譜であ
	るかのように「記紀」を捏造した、という説も現れたが、これまた出典がない。あいまいな「記紀」の記述から想像はできるが、
	やはり記録されている内容を分析し大筋ではそれに沿うのが学問としては王道だろうと思う。

	さてそうなると、近江か、越前かという事になる。だが、現在の史学会ではこの問いに対する結論は出ていない。
	歴史学や考古学以外の学者もこの問題に取り組んだりしているが、前述した「蘇我氏」との関係を捉えて「越前」としたり、「近
	江」の安曇川周辺の豪族だった息長(おきなが)氏との関係で「近江」を唱えたりと入り乱れている。私の意見としては、堺女子
	短期大学教授だった塚口義信氏が唱えていた考え方に近い。

	(2).(3).の問いに対する答えも含めて以下に要約する。

	第26代継体天皇は、越前か近江の出身であった王族の血統につながる彦主人と、これまた越前か近江の出身であった振姫との間に
	生まれ、越前に居住していた。(後の蘇我氏との関係はこれに起因すると考える。)また、近江の息長氏との姻戚関係も堅固であ
	り、おそらく継体は越前に居住しながらも近江・河内地方と絶えず行き来していたと思われる。(樟葉宮での即位、筒城宮・弟国
	への遷都、馬飼部首荒籠との交流などは、北河内に強く継体天皇擁立を推す集団がいたと推測できる。)
	息長氏は元々近江の北西部を基盤とする豪族というのが相場だが、実は北河内から綴喜郡にかけても居住していたと思われる。神
	功皇后は別名、息長帯比売(おきながたらしひめ)といい息長氏の血統であるが、その祖先の名には綴喜郡から来ていると思われ
	るものが多い。またその子応神の妃も息長真若中比売(おきながのまわかなかひめ)といい息長氏一族であるし、継体から数えて
	5代後の舒明(じょめい)天皇にも息長足日広額天皇という別名がある。

	さて、琵琶湖・淀川水系に力を持っていた豪族に支えられ継体は天皇となるが、当然奈良にいたそれまでの王族につながるもの達
	は面白くない。王族とは言え直系でもない「遠い王族」(応神の5世。あるいは5世の子)がいきなり天皇に即位するのである。
	「それなら俺だってなれる」と考えた者達がいたとしても不思議ではない。むしろ古代にあってはその方が自然である。おそらく、
	王権を巡っての争いが20年間続いたのではないか。危機に瀕するたび、あるいは戦いにおける防衛上の理由で、継体は樟葉、筒城、
	弟国と遷都を繰り返したと考えられる。大和盆地の勢力はそれほどに強かったのであろう。しかしやがてその大和勢力も、越前・
	近江・淀川水系連合軍である継体軍門に降り、継体は即位から20年後に、大和の磐余の玉穂宮へ入るのである。

	継体が仁賢天皇(24代。武烈天皇の父)の娘、手白香(たしらか)皇女(武烈の姉)を妃に迎えるのも、自らは王族の血統から遠
	いためあえて皇統の血を濃くしようとしたとも考えられるし、あるいは、大和勢は仁賢・武烈の血を引く者こそ正当な王位継承者
	であるという態度を崩さなかった為、手白香皇女の生んだ欽明天皇(第4皇子)がやっと即位できるような年齢になった頃、やっ
	と大和入りを許されたとも解釈できる。継体天皇は、我が国で始めて生前に譲位した天皇としても知られているが、第一皇子の安
	閑(あんかん)天皇に譲位した当日に崩御したとされているのはどうも作為臭い。安閑天皇の次は第2皇子の宣化(せんか)天皇
	が即位するが、この2人の天皇は即位していないという説もある。継体の次はいきなり第29代欽明天皇だというのだ。継体を擁
	立した大伴氏と、欽明天皇を推す蘇我氏の対立がからんで、継体以後の王位継承も混沌としていて霧の中である。

	安閑、宣化天皇は在位期間が4年である。継体天皇も大和入りしてからは4年で崩御するが、大和入りの直後北九州で有名な「磐井
	の反乱」がおきる。この事件の詳細についてはまた別の機会に譲りたいが、この反乱も継体の大和入りに対する反抗と見れなくも
	ない。いずれにしても、継体の即位・大和入りを巡っての期間は我が国の王権を巡る大混乱の時期だったのは確かである。

	継体陵は現在、彼と結びつきの強かった北河内の弟国(乙訓:現大阪府高槻市)にある。

	(「日本古代史をとりまく謎」コーナーの、「継体天皇はどこから来たか」を転載。)









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