Music: Across the Universe

暑気払い・夏の夕べ

歴史倶楽部 第124回例会 ビアガーデン・カラオケ
2007年6月87日(土) 大阪市



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		7月例会  投稿者:筑前  投稿日:2007年 7月22日(日)13時23分33秒   
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		そもそも8月は暑いので例会はナシですが、7月も暑いか雨の中だろうというので、今回は暑気払い
		を中心に、その前に映画を見て、その跡でカラオケにという話が前回のみゆき会ででたのですが、ど
		うも夏休みに入って、映画もロクなのが無いようです。そこで急遽アンケートをとりたいと思います。
		以下のプランのどちらに賛同されるか、そして参加されるか、或いはどちらも参加されないか。
		出来るだけ速く返答をお願いします。

		1.28日(土曜日)に、当初の予定通り、「映画ー暑気払いーカラオケ」とする。
		  この場合、映画は孫悟空、暑気払いは居酒屋、カラオケはBIGECHOあたりとなります。
		2.28日(土曜日)に暑気払いのみ行う。
		  この場合、京都四条の河床で、3000暗いのコース料理。(予約が取れればですが)。
		3.29日(日曜日)に、いつもの近畿圏遺跡巡りを行う。
		  この場合、奈良県二条山周辺の散策となります。コースは当麻寺付近へ下山してくるもの。

		以上3プランにつき、参加・不参加も含めてお返事を頂きたく。掲示板でもmailでも、電話でも
		OKです。2,3日うちに返辞をください。  
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		7月例会再び、  投稿者:筑前  投稿日:2007年 7月24日(火)19時25分9秒  
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		二転三転しましたが、以下のように決定しました。奮ってご参加ください。

		日時 : 7月28日(土曜日)17:00 梅田阪神百貨店1階(JR大阪駅のトイ面)集合
		催事 : ビヤガーデンにて暑気払い。(17:00〜)
		その他: カラオケはその後、興がのれば有志で。
		現時点での参加者: 錦織、栗本、杉本、郭公、井上
		 〃   (?): 河内
		 〃 不参加者 : 服部、井上靖

		他の皆さんも、可能な方は是非参加してください。懐かしいビヤガーデンでの暑気払いです。
		集合時間が間に合わない方は、阪神の上か、阪急の上ですので、携帯へ電話ください 
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		RE:7月例会再び、  投稿者:筑前  投稿日:2007年 7月25日(水)02時01分29秒  
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		久しぶりに、乾さんも参加するそうです。楽しみ、楽しみ。 
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	阪神ビルの上は、大阪でもど真ん中に位置しているので結構客が多い。さらにテレビで阪神戦が行われる日は、切符を買えなかった人
	たちや、甲子園までいくのがおっくうな人々が、ここにある120インチのTVでプレーを観戦して気炎をあげるので、ビアガーデン
	は開場前から行列だった。みなさん、「ビアガーデンで並ぶなんて始めてやわ。」とか「えらいもんやな」とその混雑ぶりにあきれて
	いた。




	このHPを製作するにあたり、ビールの歴史を調べようと日本の国産ビール会社のHPを覗いてみたが、「ビールの発祥」についての
	記述はまちまちで「ビールの起源」に関する統一した見解はないようである。紀元前4000年の終わり頃とか、8000年以前とか、紀元前
	8000〜4000年までさかのぼるとか、考古学的な調査によると今から8500年くらい前、とかさまざまである。しかし、発明された地域に
	ついては、「古代メソポタミア」ということで一致しているようだ。以下、各ビ−ル会社の記述から抜粋して転載する(金色部分)。



「風の中へ」に栗本さんが書いた「サンカ」をめぐって議論する田上さん。

	麦芽に関する記録が初めて記されたのは、古代メソポタミアである。8000年以前にこの地に小麦と大麦が存在していたことが確認され
	ている。その模様を伝えるものに、5000年ほど前のモニュマンブルーの粘土板がある。紀元前4000年の終わり頃、メソポタミア地方に
	シュメール人が押し寄せ、原住民のウバイド人を征服した。このことが、この地に世界最古の文明といわれるメソポタミア文明を築く。
	このシュメール人は4種類のビールを飲んでいたと言われる。すでに農耕文化を手にしていた彼らは収穫した麦を貯蔵する知恵を持っ
	ていた。その貯蔵していた麦に雨がかかり、水分を含んで発芽してできたパンの煉粉や粥に空気中の酵母の胞子が落ちて繁殖すると、
	糖分は分解されてアルコールと炭酸ガスになり、煉粉はふくらんで気泡のあるパンとなり、粥は泡立ちながらアルコール飲料となった。
	これが現在のふくらんだパンとビールの原型となったと考えられている。



杉本さんはさすがにまだ寝てない。

	ビール造りは、シュメールからバビロニア、エジプトへ伝わる。エジプトではビールは広く人々に愛され、給料の一部として用いられ
	た。ビールは飲料としてではなく医薬品にもなり、エジプト女性は、若さを保つためにビールで洗顔していたという。紀元前1700年代
	半ばに制定された初めての成文法『ハムラビ法典』にも、ビールにかかわる法律が制定されている。この頃には各所に醸造所が建設さ
	れ、今日のビアホールにあたる店も出現していたようで、その取り締まり規則、罰則などが公布された。例えばビールを水で薄めた者
	は、水の中に投げ込まれるという罰を設けたり、ビアホールで謀叛の密議などをしているのを知った店の主人は、すぐに届け出ないと
	同罪に処す、といったものである。やがてビールは地中海を経由して、イギリスや北部ヨーロッパ、ゲルマンに伝わる。ゲルマン人の
	ビール好きは相当なもので、ゲルマン一族である北欧の神話の中でも、神々はビールを痛飲している。
	中世のヨーロッパではビールは宮廷や僧院を中心に醸造され、さらに各都市にビール醸造のギルドができ、市民にも醸造権が与えられ
	て、その技術も次第に進歩し、各地で特徴のある地酒が造られた。11世紀後半になると「ホップ」を使用した場合に、ビールの品質が
	飛躍的に向上することがわかってきて、このビールが次第に広まっていく。
	(「紀元前2000年頃のオリエントのビールには、まだホップは使われていません。ホップが、いつ頃からビールに使われるようになっ
	たかについては定説がありません。」という記述もある。)



西本さんは「快気祝い」だ。飲めるようになって良かったですね。

	18世紀にイギリスではじまった産業革命の波はビール醸造も巻き込み、19世紀の中頃には機械化が大いに進み、さらに科学面での
	大発見、大発明がビール醸造産業を決定的に変革する。ドイツでは、1516年に「ビール純粋令」が出されており、大麦・ホップ・水の
	3つの原料以外は使用してはならないと定めることで、ビールそのものの定義を決定するとともに、品質維持向上に貢献した。大航海
	時代には、ビールは腐りやすい水の代わりに飲料用として用いられており、アメリカ大陸発見で有名なメイフラワー号には、400樽
	ものビールが積み込まれていたそうである。 
	近代以降のビールに決定的な影響を及ぼしたのは、細菌学者パスツールである。彼は生物の自然発生説を否定し、生物は生物からのみ
	発生することを実験によって証明した。彼はその理論の延長から、葡萄酒の再発酵を防止するために低温殺菌法を発明している。この
	方法はパストリゼーションと呼ばれ、ビールはこの方法を採用することによって長期間変質しないでおくことが可能になった。わが国
	にビールが入ってきたのは英米の船が来航してからのことである。万延元年(1860)、幕府の第一回遣米使節の一人、玉虫左太夫は、
	初めてビールを飲んで「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と書いている。それ以前、ペリーが来航した嘉永6年(1853)に、蘭方医川本
	幸民は蘭書の記載を見て、江戸の露月町の私宅でビールを試醸したといわれているので、これが日本でのビール醸造の起源といえるだ
	ろう。明治3年にはアメリカ人コープランドが横浜の山手居留地に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設してビールの醸造を開
	始し、主に居留外人向けに販売した。明治5年に大阪で渋谷庄三郎が日本人では初めてビールの醸造・販売を本格的に開始、翌6年に
	は甲府で野口正章が、そして9年には札幌で北海道開拓使麦酒醸造所が創設され、中川清兵衛を中心に醸造を開始、翌10年には東京
	に出荷していく。こうして日本のビール産業は黎明期を迎えることになる。明治20年には東京で日本麦酒醸造会社が、21年には北海
	道庁から払い下げられ札幌麦酒会社が、22年には大阪で大阪麦酒会社が設立され、26年にそれぞれ日本麦酒株式会社、札幌麦酒株
	式会社、大阪麦酒株式会社となった。また、横浜のコープランドビールは、その後香港法人のジャパン・ブリュワリー・リミテッドが
	引き継ぎ、明治21年から麒麟ビールを発売している。現在に至るビール会社はいずれもこの時期に新たな出発をしているのだ。



次第に薄暗くなってくる。「都会の暮色」だ。

	大正3年に第一次世界大戦が勃発したが、日本は地理的条件にも恵まれ、ほとんど参戦することなく経済的には好況を迎えることにな
	った。ビール業界もその恩恵を受け、ヨーロッパからビールの補給を断たれた東南アジアやインドの市場に進出するなど、大戦景気を
	満喫した。その後もビールに対する需要は旺盛で、ビール会社は次々に新工場の建設に乗り出し、新たにビール事業を始める会社も現
	れ活況を呈した。ちなみに、第一次世界大戦の終了した翌大正8年、アメリカでは禁酒法が議会を通過し、ビール醸造機械が不要とな
	りこれを買い取った日本の企業家が、新しいビール会社をつくるようなことも起こった。大正末期から昭和初期にかけて大戦後の反動
	的不況が深刻化し、ビール産業も混乱と低迷の時代を迎えることになったが、再びビ−ル会社が好況を呈すようになるのは第二次大戦
	以後である。



酒豪乾さんも酒宴となると駆けつけてくれるが、「例会も誘ってよ。」と言われた。
そうかHP見てナインやな。次回から錦織さん同様個別に案内するか。

	戦後の混乱のなかでビール会社は復興への努力を開始した。洋酒の寿屋も昭和3年から9年までしかビールを作らなかったため、戦後
	のビール会社は大日本とキリンの2社だけとなっていた。昭和24年、ビール産業にも過度経済力集中排除法が適用され、トップメー
	カーである大日本麦酒が二分割されて「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となり、戦後の新しい体
	制ができあがるとともに、酒類配給公団が廃止されて、ビール会社は自由に出荷・販売できるようになった。同年6月には料飲店の再
	開を待ってビアホールも各地で復活、ビールファンが押し寄せ大にぎわいだったという。東京都内では500ml入りジョッキ1杯が
	130円だった。その後再び、寿屋(サントリー)が昭和39年麦酒業界に参入し、近年まで4社による独占となっていたが、今では
	資本さえあれば。認可を受けて「地ビール」も生産できるようになっている。




	しかしビールはうまいねぇ。年齢とともに酒量は落ちて、腹の膨れるビールはもうそんなに飲めなくなってくるが、それでも炎天下の
	一杯目のビールは「値千金」である。喉を滑っていくあの苦味とアルコールの爽やかさは何者にも変えがたい。このために今日一日が
	んばってきたのだという気になる。アメリカやヨーロッパでもビールを飲んだし、今では日本でも外国のビ−ルを飲める店はたくさん
	あるが、私は日本のビールが一番うまいと思う。知り合いのアメリカ人もそう言っていた。遠くメソポタミアで発見された麦芽の発酵
	酒は、数千年を経て日本人の手で、日本人の舌に一番適した飲み物となったのだ。





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