SOUND:Penny Lane
油山観音正覚寺
2006.3.25 福岡市城南区東油山



	油山観音(正覚寺)  
	臨済宗東福寺派。山号は東油山。もと東油山の座主坊泉福寺。天平年間(729〜748)西域僧清賀上人の開基。東油山は 360
	の僧坊が建つ一大法域。油山の地名は清賀が胡麻で油を作り諸寺に送ったことによるといわれている。天正年中、兵火にあ
	い全山炎上。元禄7年再建の時、寺号を正覚寺とした。現在では油山観音で知られ、聖観音坐像は国指定の重要文化財。
	晩秋頃、境内の楓や大銀杏の紅葉が美しい。 
 



	福岡市の繁華街天神から直線距離で約10キロ。開発のすすむ福岡市に残された貴重な緑である。全山公園化されており油山
	市民の森、油山牧場、青少年自然の家を中心にした世界の樹木園、キャンプ場(大学生の頃、我がワンゲルの先輩がここで
	バイトをしていて、訪ねていって一泊した覚えがある。)、子供広場、県民の森、草スキー場、つり橋などがある。大型駐
	車場もあり案内板や道も整備されている。春は桜やツツジが美しく行楽客でにぎわう。それでも展望台から入る尾根登山道
	は90分もかかり山歩きが楽しめる。展望台も2ヶ所あり博多湾や福岡市内、若杉山、宝満山などが望める。油山山頂は標
	高592mである。






	車だと「油山バス停から約10分。歩きだとバス停からは40分はかかる。片江展望台(かたえてんぼうだい)へと登って
	いく途中に油山観音正覚寺がある。まわりを緑の山々に囲まれて自然が多く、特に新緑の頃、秋の紅葉は見事。道の端から
	福岡市南部から東部が一望できる。正覚寺は、6世紀敏達天皇(572年即位)の御代に、インドから渡来した僧である清
	賀上人(せいがしょうにん)が、眺望絶景な油山中腹に堂宇を建てて、付近に咲き乱れる白椿の幹で諸仏を刻み安置した。
	当時の我が国の灯火はタイマツだけという状況であったが、上人は山内に群生するツバキの実から製油するという、画期的
	な油による照明の道を初めて開いて、各地方の寺々に配って回ったのが、「油山」の由来と言われている。
	清賀上人が「正覚寺開山の祖」である。
 



	聖武天皇の時代の頃は十二万石の御朱印を賜り、七堂伽藍および720坊を建立し、大分国東半島の伽藍と肩を並べる程の
	一大法城として栄えたというが、戦国時代に豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏との戦いによって灰燼に帰す。その後江戸期に
	入って、福岡藩主黒田公の庇護により、現在の正覚寺に至る。ちなみに、黒田藩の歴代藩主は友泉亭公園を別荘とし、油山
	をお狩り場として保護したそうである。




	平安時代に唐の清賀上人が開いたと伝えられ、もとは「泉福寺」という東油山の中心寺院だった。清賀は油を作って諸寺に
	送ったので「油山」の名が広まったそうだ。上の写真は正覚寺(しょうかくじ)の中にあるひばり観音堂。ここは昭和の国
	民的歌手・美空ひばりをまつったもので、百円をいれるとひばりの曲が流れるしかけがある。



油山観音入り口の2層門





















石塔に刻んであった文字を読んでいたら、なんと我が故郷甘木市の人が寄進していた。




	黒田藩初代藩主長政が福岡城を築いた折、石垣の石が不足して近在の平尾や高宮一帯の山中にあった百怩壊して、それを
	石垣に使用した。その時、ここ正覚寺の寺塚の穴観音の石室も壊して運びだそうとした。ところが、その夜、長政の夢枕に
	観音が立ち、「観音の石室を壊すとは何事ぞ!即刻元通りに修復せねば汝の命は無いものと思え!」と一喝した。
	長政は驚き、翌日部下に命じ、急いでもと通りにしたという。上がそのときの磐石と思われる。






	一方上人は、草木の実を集めて絞り、醤油の製法も伝えたといわれ、その「かす」を南の山腹に捨てたので、一帯の石が茶
	褐色になったといわれている。以来、約1400年の永きに渡り、市民の観音信仰を集めてきた古刹である。



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