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播磨町郷土資料館 2007.01.28(日)兵庫県播磨町







	旧別府(べふ)鉄道の軌道跡に造られた「出会いの道」の脇にこの資料館は建っている。この道は、土山駅から道の両側に桜が植
	わっており、春にはさぞかし沿道の桜が綺麗だろうと思われる。
	資料館は昭和60年(1985)に開館した。主な収蔵品は、隣接する「大中遺跡」からの出土品に加えて、県指定史跡「愛宕塚古墳」
	の遺物、「山之上遺跡」の石器群、県指定建造物「阿え神社」を初め、「今里伝兵衛」「新井(しんゆ)文書」「ジョセフヒコ」
	「別府鉄道」などに関する資料を中心としている。入場無料で、播磨町に関する歴史・文化を伝えており、年間5万人ほどの来館
	者がある。










	いままでにも、小中学生が発見した遺跡は日本中に幾つかある。それは彼等が考古学が好きだったからで、今後もこういう子供達
	が出現するかどうかは、今の我々が行っている教育にかかっていることは言うまでもない。









































かっては大中遺跡は海に面していたと推定され、これはそのムラを復元したもの。イイダコは昔から美味だったとみえる。





この遺跡の竪穴式住居はバラエテイーに富んでいる。室内もなかなかユニークな作りが多い。
















	内行花文鏡は中国の前・後漢時代を起源とし、わが国では弥生時代の墳丘墓や古墳の主体部などから多数出土している。国内で製作さ
	れたと思われるものも多数あり、直径も7cm程度の小型のものから50cm近い巨大なものまである。模様面に描かれた半弧状の花
	文が特徴で、8枚の花弁が表現されているものが多いがたまに7枚や6枚のものもある。一部に「金」「石」「位」「公」「長」「宜」
	などの文字を刻んだものがある。大中遺跡出土のものは、その復元鏡から判断すると舶載鏡(中国製)のようである。

	国産と思われるものは概ね粗製で、櫛歯や円い圏線、花文等の文様はフリーハンドで描かれているものが多い。幾何学的な作図法に則
	って作成される中国製のもと比べると、その優劣は明らかである。材質も、錫分が少ないため脆く、弥生時代の後期〜古墳時代初頭に
	かけて、西日本各地の集落で製造、副葬されたものと思われる。日本最大の内行花文鏡(直径46.5cm)は福岡県前原市の平原遺跡から
	出土している。
	ちなみに、伊勢神宮の内宮に奉安されている鏡は、神道五部書等によれば「八葉」と書かれており、原田大六は平原遺跡出土の内行花
	文鏡と同じ形のものではなかったかと推定している。尚、内宮の鏡は、明治天皇が見た後、封印されたとも伝わる。

	銅鏡の製作地である中国では、今日の鏡と同じように自分の姿を映し出す道具として用いられていた。現在の平壌(ピョンヤン)付近
	に築かれた石巌洞205号墓からは、銅鏡が櫛や紅・白粉を入れる合子とともに漆器の容器に入れられていたことからも、鏡が日用品
	だったことがわかる。一方日本では、三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじ)1号甕棺のように連弧文銘帯鏡などの前漢鏡を30面
	前後とガラス璧・金銅四葉座金具(こんどうしようざかなぐ)などの漢式遺物を多量に副葬する墓が出現する。このような銅鏡の多量
	副葬は、楽浪郡・朝鮮半島南部だけでなく、中国中原地域でも事例が少ないことから、倭人は銅鏡を権威の象徴として用い、政治的に
	利用したと考えられる。

	平原出土の内行花文鏡









資料館前の「出会いの道」(旧別府鉄道軌道跡)










	JR土山駅から大中遺跡を通って加古川市の別府港まで伸びている「出会いの道」。かってはここを別府鉄道・土山線という鉄道が走
	り、一時はSLも通っていた。開通は大正11年(1923)で、廃線は昭和59年(1984)。土山線で輸送した貨物は、そのほとんどが
	多木化学(たきかがく)の化学肥料で、戦前は年間5〜7万トン。戦後は12〜22万トンの記録がある。小型のSLが多くの貨車を
	曳き、現在の大中遺跡を横断して、沿線唯一の急な登り(播磨資料館前の急勾配軌道、といっても勾配差は50cm程度)をガッタン
	ゴットンと走っていた。地元では、「多木のガッタン」と呼ばれて親しまれていた。




	別府鉄道の無煙化は、昭和39年(1964)から始まり、全てのSL機関車がディーゼル機関車に置き換えられたのは昭和42年(1967)
	である。日本が高度成長期に入った昭和40年代になると、臨海部に進出した企業の大半がトラック輸送に切り替えたため、一時は22
	万トンの輸送量を誇った別府鉄道の輸送量は減る一方になった。昭和50年代に入って、国鉄(旧)は貨物大合理化計画を発表し、別
	府鉄道ではこの計画を受けて、昭和59年1月31日をもって営業を停止すると決定した。
	この日播州地方には珍しく雪が積もり、雪景色の中を、土山駅から400人余りの乗客を乗せた最終列車が別府港駅に到着し、別府鉄
	道63年の歴史の幕が閉じられた。
	



	ここに展示されているのは、当時のディーゼル機関「DC302」と客車「ハフ5」である。客車には鍵がかかっているが、資料館へ
	行けば鍵を貸してくれる。我々が見学した時も、前の見学者から鍵を引継ぎ、次の見学者へ渡そうとしたら、その家族連れは頑強に引
	継ぎを拒否した。次から次へと見学客は来ているのだから少し待てばすぐ渡せるのに、あくまでも面倒は嫌だという姿勢を崩さない。
	そのくせ、我々が鍵を閉めようとすると「XXちゃん、早く見てきなさい、鍵が閉まっちゃうよ。」と子供をせき立てているのである。
	まったく呆れたバカ親だ。結局その子供が見終わるのを待って、次に来た見学者に鍵を引き継いだのであるが、ああいう親は博物館な
	どに来ても意味が無いと思った。ああいう親の元では、社会に貢献したいと思うような子は決して育たない。日本は親の教育からやり
	直す必要があるのではなかろうか。









郷土資料館の裏手にある別府鉄道の機関車を見て「考古博物館」へ向かう。







	播磨町の公民館の前のヒコの銅像です。右、下左の写真は、播磨町の蓮花寺にあるヒコが両親のために作った墓石ですが、ローマ字、
	英文なので「英文の墓」と呼ばれています。 






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