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平野神社
2001.11.7 京都市北区平野宮本町





		平野神社 

		創  建 : 延暦13年(794年) 
		社格等  : 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社 
		所在地  : 京都府京都市北区平野宮本町1 
		主祭神  : 今木神(いまきのかみ :第一殿)-- 染織・手芸・衣の神 
			   久度神(くどのかみ  :第二殿)-- 竈・台所・食事の神(おくどさん)
			   古開神(ふるあきのかみ:第三殿)-- 斎火の守護神。古開神と久度神は同一ともいわれる。
			   比売神(ひめかみ   :第四殿)-- 炊ぐことを庶民に教えた神で光仁天皇の皇后である
								 高野新笠のこととされる。
		本殿様式 : 比翼春日造(平野造) 
		アクセス : 市バス 15,50,52,番系統で「衣笠校前」下車徒歩3分。北野天満宮すぐ西。

		平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都府京都市北区、古都京都の西北、衣笠山麓の平野にある神社である。
		式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。延暦13年( 794)、桓武天皇による平安京遷都にともない、平
		城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。元々今木神は平城京の田村後宮
		に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるよう
		になったものである。なお、「今木」は元々の意味は「今来」であり、これは百済他からの渡来人を示して
		いる歴史用語で、高野新笠も渡来人であるためここは渡来人の神を祀っているとの説もあるが、神社ではそ
		れを否定している。




		『文徳天皇実録』によれば、仁寿元年( 851)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五
		位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞
		観元年( 859)には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。延喜式神名帳には「山城国葛野郡平
		野祭神四社」と記載され、名神大社に列していた(かつての鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。
		また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。
		例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇ま
		での17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家
		の氏神にもなった。中世には皇城鎮護二十二社の一社となった。神紋は桜で、今も桜の名所として名高い。
		平安時代の中頃、花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、寛和元年985年4月10日に臨
		時勅祭が開かれ、平野桜祭りとして今に残る。
		応仁の乱をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および
		社領は完全に荒廃したといわれる。1871年(明治4年)に官幣大社に指定された。




		境内東側に立っている大きな「鳥居」をくぐると「参道」が「楼門」まで伸びている。鳥居は鮮やかな朱塗
		りで大きく派手、楼門は質素で落ち着きのある造りになっている。



		社域は江戸時代初期に再建された重要文化財の社殿を中心に、方約150メートル、8000坪の欝蒼とし
		た社の森に囲まれている。当社は桓武天皇の平安京遷都にともない、延暦13年(794)に平城京田村後宮
		から現在の地に御遷祀された。以来1200年にわたり皇城鎮護の社として信仰を集めている。

		奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、平城
		京の宮中に祀られていた。当時、平野神社のある場所は桓武天皇の父光仁天皇の御所だった。当初境内地は
		方八町余(平安尺で11.5km四方)で、現在の京都御所とほぼ同じだったが、時の変遷と共に現在の200
		m弱四方となった。




		平安時代になると祭神は急に位が上がり、貞観六年(864)には今木皇大神が正一位の位を授けられた。その
		前年貞観五年には久度・古開両大神に正三位、比賣大神は従四位上に叙せられている。『延喜式』の「神祇
		官式・祝詞」によれば、「皇大御神」と呼称されていて、また全国唯一の皇太子御親祭が定められた神社で
		ある。この皇大御神の呼称は日本の神社としては伊勢神宮にならぶ破格の扱いとされる。また「東宮坊式」
		には「神院」と言う宮中神と同様の扱いを受けている。『文徳天皇実録』仁寿元年(851)には勅使を「平野
		神宮」に遣わすとある。これらの尊称から宮中外の宮中神であったことが窺える。




		<拝殿>

		楼門をくぐると直ぐ眼前に「拝殿」が建っている。「接木の拝殿」として有名であるといわれるが、その
		由来はよく分からない。拝殿は慶安三年(1650)東福門院(後水尾天皇中宮・徳川秀忠の娘)建立。拝殿
		内には寛文年間(1661〜1673年)に平松時量が寄進した、近衛基煕書、海北友雪画で描かれたとされている
		三十六歌仙の絵が掲げられている。






		<本殿>

		「本殿」は四棟からなっている。「平野造」又は「比翼春日造」と呼ばれる二殿一体となつた御本殿が二
		棟南北に建ち、本殿は東向きに建てられており、本殿、拝殿、楼門、境内東側の鳥居は直線上に配置され
		る。寛永二年(1625))南殿と、同九年(1632)北殿建立。「本殿」は慶長三年(1598年)と慶長九年(1604)
		に再建されたものとされ、特異な造りであるといわれ、重要文化財に指定されている。本殿に向かって右
		側、拝殿の北に当たる場所に、枝垂桜の木があり、季節には見事な花をつける。






		<稲 荷 社>
		摂末社は玉垣内本殿南に摂社縣社鎮座。拝殿の北側には境内社として、西から春日神社、住吉神社、蛭子
		神社、八幡神社の末社が、参道には出世導引稲荷神社、猿田彦神社の二社が祀られている。

		<猿 田 彦 社>
		猿田彦社は東の大鳥居から入って、右側の稲荷の鳥居が並んでるところから入って突き当たりに、稲荷の
		右側にある。古くから「知恵の神」「子守の神」「習い事の神」として知られている。猿の縫いぐるみを
		奉納して祈願すると霊験あらたかであるとされている。

		<櫻  池>
		平野神社は桜の名所として知られており、特に夜桜は有名である。現在、境内には五百本余の桜の木が植
		えられている。平安神宮に植えられている枝垂桜はこの桜園にある枝垂桜の苗を移したものといわれてい
		る。寛和元年(985年)に花山天皇が4月の桜の咲いているときに祭りを行ったことから、桜の名所として有
		名になったというが、一方、花山天皇が桜の木を自ら手植えしたことが、この場所を桜の名所として有名
		にしたという説もあるようである。 




	「延喜式の「内膳司式」によれば、天皇の食を饗する御竃には「平野・庭火・忌火」の三竃があり、庭火御竃は平時の食膳、
	忌火御竃は祭時の食膳を饗し、平野御竃は健康・吉祥を司る御竃であるとされる。これは平野四神の御神徳が一体となり常
	に宮中と関わりを持っていたことを示す。平野神社の祭祀には二人の神主が、同時にそれぞれ今木神と久度・古開神を祀っ
	ており、神社祭祀の形態としては異例といえる。それは、桓武天皇の外祖父・外祖母それぞれに由縁のある神を合祭・合祀
	したことによる。桓武天皇の母高野新笠は田村後宮に今木神を祀ってきたが、これは父方(天皇外祖父)和氏の神だった。
	同様に母方(天皇外祖母)土師氏の神だったのが久度神であろう。桓武天皇は外戚の父方・母方の氏神を合祭して新しい都
	の皇太子守護神とし、桓武天皇子孫への皇位継承を確実にしていくために創始された。
	奈良時代末期から「臣籍降下(皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)」の制度が定まり、臣籍降下した源氏・
	平氏はじめ高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏他天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇さ
	れた。当社が宮中外に祀られたのは、この臣籍降下と深く関わっているようで、『源氏物語』の光源氏は臣籍降下した一族
	の繁栄を願った平野大神の顕現であるとの説もある。
	歴史的には平野神社は格式の高い神社であるが、観光情報誌等には殆ど採り上げられておらず、参拝者も近くにある北野天
	満宮に比べてはるかに少ないようであるが、桜の季節には北野天満宮よりも多い人々が参拝する。




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