Music: Mr.Postman
歴史倶楽部第144回例会
日本一の古墳の町をゆく
2009.6.28 大阪府柏原市

		日時 : 6月28日(日)
		集合 : AM9:30 近鉄南大阪線「道明寺駅」集合
		アクセス:
			<大阪から>
			JR大阪 08:43〜08:58 JR天王寺 (JR大和路快速・加茂行 190円)
			JR天王寺 09:00〜09:03 大阪阿部野橋 (徒歩)
			大阪阿部野橋  09:04〜09:22 道明寺(近鉄南大阪線準急・河内長野行 340円)
			<奈良から>
			JR奈良  08:26〜08:41 王寺 (JR関西本線快速・JR難波行)
			王寺  08:44〜08:56 柏原(大阪府) (JR関西本線・JR難波行 380円)
			柏原(大阪府) 09:12〜09:16 道明寺(近鉄道明寺線 150円)

		装備 : 弁当、水筒、防寒具、雨具、そのた
		散策路:
		
		


	柏原市	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	柏原市(かしわらし)は、大阪府東部に位置する市。羽曳野市と並んでぶどうの町として有名。また、古墳や遺跡も多く、市内にある横
	穴墓(高井田横穴群、玉手山横穴群の2箇所)は大阪府内では、現在柏原市でしか発見されていない。橿原市(かしはらし・奈良県)、
	柏原町(かいばらちょう・兵庫県丹波市)、柏原(かしわばら・滋賀県米原市柏原)と混同されることが多い。大阪都心部から約20
	キロほどの距離に位置する大阪市のベッドタウン。市全体の6割が山間部である。また中央部には一級河川である大和川が流れており、
	市役所の近くで石川と合流する、大和川と石川合流点でもある。

	市域北西部は比較的平坦である。市域北部には生駒山系から続く山がそびえている。大和川を挟んで南側は金剛山系に連なる山地とな
	る。市域東部の亀の瀬(峠地区)近辺は軟弱地盤であり、大雨になれば大和路線関西本線の列車が運休になることや国道25号が通行止
	めになることがある。 かつては近鉄大阪線の電車が大阪教育大前駅付近の急曲線・軟弱地盤上を徐行して走っていた。

	歴史は古く、3万年ほど前の後期旧石器時代にまでさかのぼるとされる。4世紀〜7世紀頃に作られた遺跡や古墳は現在でも市内に数
	多く残っている。古代より大和川が大和から難波へと抜ける地点に位置している為、交通の要所としても栄えた。741年、聖武天皇
	が国状不安を鎮撫するために建立を命じた国分寺建立に、河内国分寺として現在の柏原市国分東条(こくぶひがんじょう)町にも作られ
	たが後に廃寺となる。
	戦国時代後期には織田、豊臣氏の支配下となり、徳川政権下の江戸時代になると、戦争時には大坂の前衛地となる事から、重要な拠点
	として天領となり、幕府の支配下におかれた。大坂夏の陣の際には奈良街道から亀の瀬を経て、現在の国分あたりに進出してきた徳川
	方と、後藤基次が先頭に立つ大坂方が道明寺一帯で交戦状態になり、その結果、基次は遭えなく小松山に散った。
	今日、市内には両軍関わらず、多くの供養碑が建てられている。下の地図はクリックして貰えば拡大する。




ほんとはこの後時間があれば、大和川対岸の「松岳山古墳(まつおやまこふん)」も見たかったが、あまりの暑さで断念した。












	近鉄南大阪線「道明寺駅」に集合して玉手山古墳群を目指す。この駅には以前の例会でも来たが、あの時は反対側へ歩いて、「道明寺
	天満宮」から古市古墳群を歩いたのだった。今回は駅から東側だ。この駅は藤井寺市だが、石川を越えると柏原市となる。それにして
	も今回訪問するまで、「柏原市が日本一の古墳の町である」というのは知らなかった。上の地図を見ると納得する。

	思うに、この地が古墳時代人たちの目にかなったのは、ここが2大河川の合流地点であり、おそらくは大阪湾からそのまま大和川を遡
	ってここまでこれたからではないかと思う。大陸・半島から玄界灘を渡って瀬戸内海を進んできた集団は。ここに安住の地を見いだし
	たのではないか。夥しい数の横穴古墳群は、彼等がここに定着して何代にもわたってここで暮らしたことを証明しているし、なだらか
	な丘陵に取り囲まれた盆地での生活は、よほど快適なものだったのではないかと想像できる。
	



	道明寺駅から2,3分で石川に掛かる「たまてばし」である。玉手橋は柏原市の所有で、昭和3年、当時西日本では最古の玉手山遊園
	地(現在は市立玉手山公園)に通じる橋として、近鉄の前進であった大鉄が石川に架けた長さ151mの鉄製五径間吊り橋である。主
	塔の間を開腹アーチで結んでいる。平成13年、国の文化財に登録された。



石川を渡る。この付近には「石川」という地名もあって「蘇我石川麻呂」との関連から、蘇我氏の出自候補地の一つに挙げられている。

	石川の両岸には、最奥の河内長野市から富田林市、太子町、羽曳野市、柏原市にかけて点々と前期古墳が確認されている。これらの古墳
	は墳丘の長さ概ね70m前後の前方後円墳や前方後方墳で、丘陵の上に造られている特徴がある。今のところ最も早く造られたと考えら
	れる富田林市の真名井古墳や柏原市の玉手山9号墳でも、箸墓古墳が造られた時代までさかのぼることはないようだ。つまり、南河内地
	域は、北河内(枚方市)や北摂津(高槻市)に比べると、やや遅れて古墳造りを開始したようである。

	いったん古墳を造り出した南河内は、大阪府地域で最も前期古墳が数多く築かれる地域になる。玉手山遊園地のある南北に長い丘陵上に
	は、累々と前方後円墳が築かれる。その数は14基にも達し、こんなにも前期古墳が集中するのは、大和を除けばあまり例がない。
	この玉手山古墳群は、おそらく4ないし5つの地域の首長が2代から4代にわたって古墳を築き続けた結果、できあがったと考えられて
	いる。いくつかの地域の首長が玉手山丘陵を共同の墓地にして古墳造りを行ったのであろう。その背景には、これらの首長間に政治的な
	同盟関係が結ばれていたことを想像させる。そして、大陸か半島かはわからないが、その出自を同じくするものたちが、瀬戸内海を渡り、
	河内湖へ入り、大和川を遡ってここに集ったとも考えられる。まだ大和に中央勢力などが存在するはるか以前の出来事である。

	玉手山丘陵の北、大和川が石川に合流する直前に松岳山と呼ぶ独立丘陵がある。この丘陵上に墳丘長130mの前方後円墳、松岳山古墳
	が出現する。この古墳と玉手山古墳群、大和の巨大古墳、そして次に現れる古市古墳群との関係は注目される。 












ここに転載している資料や地図は、JR「安堂駅」近くの「柏原市文化センター(上)」にあったパンフレットから転載した。深謝。





「たまてはし」を渡ると目の前に玉手山(小松山)公園の森が見えている。あの森を目指して住宅街の中を進む。







    


邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部/ 大阪府柏原市をゆく