Music: Mr.Postman
歴史倶楽部第144回例会 日本一の古墳の町をゆく
柏原市歴史資料館
2009.6.28 大阪府柏原市
柏原市歴史資料館
柏原市は古くから歴史の舞台となった河内平野の東南部に位置しているが、旧石器時代から中世までの時代別に展示された考古資料や
玉手山、松岳山、平尾山古墳群など柏原市内からの出土品を展示している。稲作やぶどう酒造り展示など、市民から提供された民俗資
料も展示されている。また、年4〜5回特別展示(今月のみどころ)もおこなわれている。
所在地 柏原市高井田1598−1 電話 072−976−3430
開館時間 午前9時30分から午後4時30分 入館は午後4時まで
休館日 月曜日 年末・年始(12月29日〜1月5日)
入館料 無料
松岳山古墳は、前方後円墳で4世紀後半のものと推定されている。大和川を左岸から眼下にする丘陵地に築かれた120mを測る前期
の前方後円墳である。周辺には、ほぼ同時期の築造とされる径30mの円墳、東大塚古墳を筆頭とした7基の円墳と1基の方墳が存在
したが、現存するのは、松岳山古墳の1基だけとなっている。
松岳山古墳が築かれた4世紀の前半、大和では、盆地の北部で巨大な前方後円墳の築造が始まる。河内の石川谷では、玉手山丘陵を中
心として、続々と小型の前方後円墳が造られていた。まだ、古市古墳群や堺の百舌鳥古墳群の姿はなかった。松岳山古墳は、特異な内
容が目立つ古墳だといわれる。墳丘の長さは130mで前期の前方後円墳としては、やや大きい。墳丘の表面を覆う葺石の状態は、斜
面に礫(れき)を葺き上げるのではなく、板状の石を垂直に積み上げ、階段のように造っている。この方法は近畿ではあまり類例がな
く、讃岐(香川県)の積石塚古墳にそっくりである。
後円部の頂上に造られた埋葬施設も注目される。棺は6枚の板石を組み合わせた石棺で、のちに長持形石棺と呼ばれる棺形式の祖形と
推定される。この棺の周囲には、大量の板石を積み上げ、棺を保護する槨(かく)を築いている。さらに特異なのは、石棺の両短辺側
に巨大な板石を立てていることである。この立石には、穴が開けられているが、どのような目的をもったものか、いまだ謎は解けてい
ない。
松岳山古墳は1965(昭和40)年に京都大学の小林行雄によって発掘調査が実施された。石棺の内部は、すでに乱掘を被っていた
が、硬玉製の勾(まが)玉、碧玉製の管玉や丸玉、ガラス製の小玉、碧玉製の腕飾り形の宝器、鏡、銅製と鉄製の矢じり、鉄製の刀・
剣・鍬(くわ)・鎌(かま)など多彩な副葬品が見つかった。前方部に接するように造られた茶臼塚古墳からも、柏原市教育委員会の
調査で鏡や腕飾り形の宝器が多数出土していて、松岳山古墳に本来納められた副葬品が並みのものでなかったことがしのばれる。
特異な構造と優れた副葬品に彩られて松岳山古墳に葬られた人物については、河内の最有力な首長(国立歴史民俗博物館の白石太一郎
を代表とする)、大和勢力の有力な一員(神戸商船大学の北野耕平を代表とする)とする見解に分かれる。ただ、両方の見解とも松岳
山古墳を造った勢力が古市古墳群の造営主体と深くかかわったとする点は一致している。つまり、松岳山古墳をどのように理解するか
が古市古墳群の成立とその後の展開を解き明かす重要なキィーだと考えてられる。
『広報ふじいでら』第323号 1996年4月号より
史跡高井田横穴 は、総数200基以上と推定される大規模な横穴群である。横穴は、6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られた墓で、
二上山の火山灰が積もってできた凝灰岩と呼ばれる岩盤に洞窟のような穴を掘り、 死者をほうむったもの。横穴からは、土器や武器、
装身具などが発見されている。 また、人物、鳥、馬など様々な線刻壁画が描かれた横穴もあり、貴重な文化財である。
高井田山古墳は、薄い板石を積み上げて造られた横穴式石室をもつ古墳で、5世紀の終わり頃に造られたと考えられる。石室内からは、
日本で2例目の発見となった火熨斗(古代のアイロン)や鏡、冑、甲のほかたくさんの武器や土器が出土している。この石室には透明な
屋根をかけて内部を見学できるようにし、石室内には出土物の模造品を並べている。
群集墳 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
群集墳(ぐんしゅうふん)は、古墳時代中期から終末期にかけて造られた狭い区域に集中し密集度のたかい古墳群のこと、また、小規模
な古墳(円墳、稀に方墳)が群集している状態をいう。さらに、主に墳丘をもったものが多いが横穴墓も群集墳と呼ぶ。
群集墳は、古墳時代後期に最盛期を迎え、しばしば山の斜面や丘陵上の比較的狭い土地に築造された。古墳どうしが接するように、個々
の古墳が濠や空堀で区別されることが稀であるように、古墳それぞれに名のあることが少ない。そのため、古墳郡全体を新沢千塚古墳群
とか岩橋千塚古墳群とかで呼び、個々の古墳を何号墳、例えば新沢126号古墳とか岩橋千塚では一番大きな古墳を「天王塚」、次を
「将軍塚」とかと呼んでいる。
大阪八尾市の高安千塚古墳群は、現在でも155基の古墳の存在が確認されている。また、少し遅れて古墳の構築が始まった大阪府柏原
市の平尾山千塚古墳群は、古墳総数が千基を越えることが分かってきている。中期と後期では、古墳の大きさはともかくとしても、
数がまるで違う。古墳を築くことの出来る人が激増したという事実をまず認めないわけにはいかない。
5世紀ごろからの初期群集墳は、小型化していても竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬の埋葬施設を備え、鉄製の武器や農耕具など前期古墳と
同じような副葬品をもっている。
5世紀代に形成が開始され、6世紀末まで営々と続くものから、7世紀に入って新しく形成が始まるものまで、その出現、形成、終末の
時期がそれぞれ異なっている。また、埋葬施設の関しては、5世紀代から6世紀末ころまで、木棺直葬であるものから、5世紀代から横
穴式石室を営むもの、5世紀後半から6世紀中葉過ぎまでは木棺直葬が中心で、6世紀後半になって横穴式石室を採用するものなど千差万
別である。さらに、副葬品につても、武器や農具の副葬が主たるものから、農耕具の副葬が主たるものなど、群集墳を営んだ集団の性格
を反映して、極めて多様である。
直径10メートルから20メートル程度の円墳が隣接する古墳と墳丘の裾が接するぐらいであるから、周濠や堤は造られていない。
群集墳は、幾つかの小単位を形成しており、全体として大きな群集墳になっている。この小単位を支群と呼んでいる。
本来は約500基ほどあったと推定されている高安千塚群集墳が占有する土地の広さは、東西約500m、南北約400mの範囲。この
広さは、誉田山古墳(現応神陵)1基が占める面積(兆域)とほぼ同じである。
<主な群集墳>
吉見百穴(埼玉県吉見町)
万田熊之台横穴群(神奈川県平塚市)
木幡山古墳群(京都府宇治市、120基の小円墳で南山城最大、藤原氏の墓所も含む)
桑原遺跡群集墳(大阪府茨木市)
平尾山千塚古墳群(大阪府柏原市、約600基、後期)
雁多尾畑古墳群(かりんどばた、大阪府柏原市、約400基、横穴式石室、後期)
和爾群集墳(奈良県天理市和爾)
新沢千塚古墳群(奈良県橿原市、5世紀代から初期群集墳)
山口千塚古墳群(奈良県北葛城郡新庄町)
石光山古墳群(奈良県御所市、5世紀後半から)
岩橋千塚古墳群(和歌山県和歌山市)
清音村峠古墳群(岡山県清音村)
大県遺跡
大県遺跡(おおあがたいせき)は大阪府柏原市に所在し、古墳時代〜奈良時代の大遺跡で、最近の発掘調査で、次々と渡来系
の鍛冶技術集団の集落遺跡であったことを示す鍛冶炉や建物跡・井戸のほか、多数の韓式土器や鉄縡なども出土している。生
駒山麓西側南端部の集落遺跡で、西方には恩地川が北流し、大和川と石川の合流地点より約1km北に位置している。
1980年遺構の発掘調査によって、縄文時代以降の遺構・遺物が確認されているが、この遺跡は特に古墳時代の鍛冶工房遺
跡として著名である。これまでに、鍛冶炉、金床状遺構、鞴(ふいご)羽口、鉄滓、砥石といった遺構・遺物が大量に出土し
ている。1985年の発掘調査でも、古墳時代中期〜後期の鍛冶関連遺構が多数見つかっている。なかでも、5世紀後半の陶
質土器壺、韓式系土器甑(こしき)、砥石、鉄製品などを伴う竪穴建物跡の出現は、この集落の性格を考える上で貴重な資料
である。
ここからは、弥生時代中期〜後期の遺構から鏡の直径21.7cm(一部欠損)の多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と呼
ばれる鏡も出土している。朝鮮半島と日本の遺跡で発見される青銅の鏡で、朝鮮半島で29個、日本では福岡、佐賀、山口で
6面、大阪、奈良、長野で3面の、計9面が今までに出土している。この鏡は今から約2200年前(紀元前200年頃)に
朝鮮半島で製作され、当時弥生時代であった日本列島にもたらされたものと考えられる。弥生人にとって権威の象徴であり、
またシャーマンの祭祀道具でもあった日本列島の鏡は、やがて中国が「漢」として統一されると、前漢・後漢の鏡に取って代
わられ、姿を消してしまう。これらの前漢鏡、後漢鏡は、その殆どが北九州域内においてのみ普及し、畿内には渡っていない。
大和川付け替え記念碑・中甚兵衛銅像
大和川はここから北へ流れ、現在の八尾市、東大阪市、大東市、寝屋川市を通り淀川と合流して大阪湾に注いでいたが、大雨毎に氾濫
して河内平野は何度も洪水に悩まされた。これに心を痛めた今米村(現東大阪市)の庄屋、中甚兵衛は40年間にわたって地形を測量
し、洪水を防ぐために大和川を真っ直ぐ西へ付け替えて欲しいと何回も幕府に陳情した。
やっと重い腰を上げた幕府は宝永元年(1704)に大名達に工事を競争させ、僅か8ヶ月で堺港北の大阪湾まで貫通させた。その結
果、河内平野は洪水のない肥沃な土地になって多くの新田が開発され、米や綿が豊かに実るようになった。この辺りは現在でも「築留
(つきとめ)」と呼ばれている。
河内さんが持っているのは「柏原ぶどう」一箱である。種類は忘れたが、小さな種なしぶどうで甘かった。買ったものではない。これ
をどうして入手したかと言うと、そのいきさつはこうである。
「王寺」で打ち上げをという杉本さんの要望を入れて、柏原市歴史資料館を後にした我々は、JR高井田駅で王寺方面行きの列車を待
っていた。ホームで、私と河内さんはイスに掛けて、残り四人は立ったままでひとしきり、今見てきた高井田古墳や玉手山古墳の話に
夢中になっていた。そのうち、河内さんの隣に座っていたおじさんが、河内さんに向かっていきなり「これ、貰ってくれませんか?」
とぶどうの箱を差し出したのである。「え、え?」と河内さんは何がなにやらわからず「いや、そんな、そんな」と手を挙げて断って
いた。見ず知らずの人にいきなりブドウを差し出されても、普通は怪しんで断ると思う。河内さんもそうしたのだ。立っている四人も
何事かと河内さんとオジサンのやりとりを見ている。
しかし私は、タダでもらえるものなら何でもという精神の持ち主なので、横から河内さんの膝の上で右往左往しているブドウの箱に手
をかけて、「いやぁ、そうですか。すみませんこんな立派なものを。」と強引に河内さんの膝の上に固定してしまったのだ。
オジサンの話を聞くと、オジサンはもともと柏原の出身で、今日は親戚の結婚式に呼ばれて奈良から柏原に来ていたのだという。そう
いえばオジサンの足下には引き出物がぎっしり詰まった紙袋が置いてあって、「いや、こんなに荷物があるのに、その駅前でまたこの
ぶどう一箱を持たされてどないしょうかと思うとったんですわ。」と言う。小さい頃からぶどうはもう食べ飽きてさほどありがたくも
ないのだという。ホームで我々の話を聞きながらときどき頷くほど歴史には興味があったようで、誰かが「柏原の名物はぶどうだ」と
言ったので、このぶどうを挙げてしまおうと考えたらしい。それにしても奇特な。
ほどなく列車が来て、我々はオジサンに感謝しながら高井田駅を離れたが、王寺で反省会をする間、ブドウは店の冷蔵庫で冷やして貰
っていた。反省会終了時に箱を開けてみると11房あって、ジャンケンで負けた河内さんだけが1房、あとは2房づつ持って帰ったと
いう訳である。
河内さんは「運んできたのに儂が1つかい」とボヤいていた。郭公さんは。大阪へ戻る列車が来る前にもうホームでブドウをパクつい
ていた。私は、wifeがブドウ大好き人間なので、wifeの土産に家まで持って帰ったのであった。
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