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竃山(かまやま)神社 2007.4.29(日) 歴史倶楽部第121回例会







	【竃山(かまやま)神社】 和歌山県和歌山市和田

	【祭神】   彦五瀬命(=神武天皇の兄、本殿) 
		    神日本磐余彦命、御毛入沼命、稲飯命(弟の命達)  高倉下命、可美眞手命、天日方奇日方命、天種子命、天富命、
		   道臣命、大久米命、椎根津 彦命、頭八咫烏命(神武東征に功ありと伝えられている命七柱) 
	【社格】   延喜式内小社・官幣大社・別表神社・釜山神社
	【末社1殿】 高皇産靈命ほか 末社2殿 息長足姫命 
	【境外摂社】 静火神社  火結神 本来のこの地の神とされる。

	竈山神社は、和歌山県和歌山市内に鎮座する神社である。式内社で、旧社格は官幣大社。釜山神社と表記されることもあった。
	神武天皇の長兄である彦五瀬命を祀る。本殿の裏に彦五瀬命のものとされる墓がある。




	「こりゃまた、えらいややこしい「かま」やなぁ。」「書くのむつかしで。」「完璧に象形文字やね、こりゃ。」とワイワイ。
	竈山駅は、車道から入ると稲田病院の裏口にあたるところにあり、県道から駅に行くにはこの病院を迂回するように狭い路地を通
	っていかないとたどり着かない。



竈山駅下車南へ約10分歩く。徒歩約500m。途中川沿いに大きい鳥居が目印。



駅から南側へ行くと「彦五瀬命竈山墓」(ひこいつせのみことかまやまぼ)があり、その南側一帯が竈山神社の神域となっている。




	彦五瀬命は神武天皇ら弟たちとともに東征に向かったが、難波の白肩津での長髄彦との戦闘で負傷した。太陽に向って戦うのは良
	くないとして、東から回り込むために一行は南下したが、その傷が元で、紀国の男之水門に着いたところで彦五瀬命は亡くなった。







	
	【神倭伊波禮毘古】神武天皇 (古事記)

	神倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】與其伊呂兄五瀬命【上伊呂二字以音】二柱、坐高千穗宮而、議云「坐何地者。平聞
	看天下之政。猶思東行、」即自日向發、幸御筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人名宇沙都比古、宇沙都比賣【此十字以音】
	二人、作足一騰宮而獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡〔冠横目脚止〕田宮一年坐。亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁
	理宮、七年坐。【自多下三字以音】亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮、八年坐。故、從其國上幸之時、乘龜甲、爲釣乍、
	打羽擧來人、遇于速汲門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。名宇豆毘古。」又問「汝者知海道乎。」答曰
	「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故、爾指度槁機、引入其御船、即賜名號槁根津日子。【此者倭國造之祖】

	故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古【自登下九字以音】興軍待向以戰。爾
	取所入御船之楯而下立。故、號其地謂楯津。於今者云日下之蓼津也。於是與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古
	之痛矢串。故、爾詔、「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行迴而、背負日以撃期」而、自南
	方迴幸之時、到血沼海洗其御手之血。
	故、謂血沼海也。從其地迴幸、到紀國男之水門而詔、「負賤奴之手乎死。」爲男建而崩。故、號其水門謂男水門也。陵即
	在紀國之竃山也。



	
	【神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)】神武天皇

	~倭伊波禮毘古の命【伊より下の五字は音を以ちてす】と、其の伊呂兄(いろせ)五瀬(いつせ)の命【上の伊呂の二字
	は音を以ちてす】と二柱、高千穗の宮に坐(ま)しまして議(はか)りて、「何地(いずこ)に坐(ま)しまさば、平け
	く天の下の政(まつりごと)を聞こし看(め)さん。猶(なお)東に行かんと思う」と云いて、即ち日向より發ちて筑紫
	に幸御(いでま)しき。故、豐の國の宇沙に到りし時に、其の土人、名は宇沙都比古(うさつひこ)・宇沙都比賣(うさ
	つひめ)【此の十字は音を以ちてす】の二人、足一騰(あしひとつあがり)の宮を作りて大御饗(おおみあえ)獻(たて
	まつ)りき。其の地より遷移(めぐ)りて、竺紫(つくし)の岡田の宮に一年坐しましき。また其の國より上り幸(いで
	ま)して、阿岐(あき)の國の多祁理(たぎり)の宮に七年坐しましき【多より下の三字は音を以ちてす】。また其の國
	より遷り上り幸して、吉備の高嶋の宮に八年坐しましき。故、其の國より上り幸しし時に、龜の甲に乘り釣を爲しつつ打
	ち羽擧(はぶ)り來る人、速汲(はやすい)の門(と)に遇いき。爾くして喚(よ)び歸(よ)せて、「汝は誰ぞ」と問
	いき。答えて曰く、「僕(やつがれ)は國つ~ぞ」。また、「汝は海道を知れるや」と問うに、答えて曰く、「能く知れ
	り」。また、「從いて仕え奉らんや」と問うに、答えて曰く、「仕え奉らん」。故、爾くして槁機(さお)を指し度して
	其の御船に引き入れ、即ち名を賜いて槁根津日子(さおねつひこ)と號(なづ)けき【此は倭(やまと)の國造(くにの
	みやつこ)の祖(おや】

	故、其の國より上り行きし時に、浪速の渡(わたり)を經て青雲の白肩(しらかた)の津に泊(は)てき。此の時に登美
	能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)【登より下の九字は音を以ちてす】、軍(いくさ)を興して待ち向いて戰いき。
	爾くして御船に入れたる楯を取りて下り立ちき。故、其の地を號けて楯津(たてつ)と謂う、今に至りては日下(くさか)
	の蓼津(たでつ)と云う。是に登美毘古(とみびこ)と戰いし時に、五瀬の命、御手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし)
	を負いき。故、爾くして詔りて、「吾は日の~の御子にして、日に向いて戰うは良からず。故、賎(いや)しき奴(やっ
	こ)が痛手を負う。今よりは行き迴りて背に日を負いて撃たん」と期(ちぎ)りて、南の方より迴り幸しし時に、血沼
	(ちぬ)の海に到りて其の御手の血を洗いき。故、血沼の海と謂う。其の地より迴り幸して、紀の國の男(お)の水門
	(みなと)に到りて詔らさく、「賎しき奴の手を負いてや死なん」と、男建(おたけ)び爲して崩りき。故、其の水門を
	號けて男の水門と謂う。陵(みはか)は即ち紀の國の竃山(かまやま)に在り。




	神武天皇東征に際して、五瀬命は難波の渡しから大和国にはいろうとして孔舍衛(くさえ)の坂で、長髄彦の軍勢と会戦。その時
	に流れ矢にあたり、進路を変えて茅渟の水門から紀伊国竃山に至ったところで薨去した。そこでその遺骸を竃山に葬ったとされる。
	紀伊国竈山に墓が作られたと『古事記』にある。『続風土記』によれば、当所がその竈山の地であり、墓が作られてすぐに、側に
	神社が作られたとある。この山に竃山陵と竃山神社が鎮座している。陵墓としては和歌山県内唯一の陵墓である。






	延喜式神名帳では「紀伊国名草郡 竈山神社」と記載され、小社に列している。「釜山神社神主職宛行状」(日前宮文書)によれば、
	永徳元年(1381年)、紀国造家によって鵜飼新五郎が神主に任ぜられた。以降、鵜飼家が神職を世襲していたと見られる。




	中世期には社地社殿も御陵も荒廃。紀州徳川頼宣によって寛文9年に再興。明治14年に墓陵を調査し、陵墓と神社を区分。はじ
	めは村社であったが明治18年に官幣中社昇格。明治42年に静火神社<延喜式内名神大社>を合祀。に大正4年に官幣大社昇格。




	天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州根来衆攻めにより社宝・古文書を焼失し、社領も奪われて荒廃した。慶長5年(1600年)、
	紀伊国に入国した浅野幸長が小祠を再建し、寛文9年(1669年)、徳川頼宣が社殿が再建した。しかし、江戸時代を通して寺社奉行
	の支配下に置かれ、氏子も社領もなく衰微していた。




	明治に入り、宮内省管轄の彦五瀬命墓と、竈山神社は正式に区分され、近代社格制度のもとで明治14年(1881年)に村社に列格した
	が、神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、明治18年(1885年)には官幣中社に、大正4年(1915年)にはつい
	に官幣大社に進むという異例の昇格をした。村社から官幣大社で昇格したのは当神社が唯一の例である。現在は神社本庁の別表神社
	となっている。




	日本書紀では、神武天皇は紀元前711年に生誕、前585年に127歳で崩御したと伝えている。日向を発った神日本磐余彦尊
	(かんやまといわれひこのみこと:神武天皇)は、宇佐や筑紫を経由して瀬戸内海を東進し難波の浜に上陸しようとするが果たさず、
	地場の長随彦(ながすねひこ)に破れて兄五瀬命(いつせのみこと)を失う。「日の御子等である我らが、日の昇る方角へ攻め入っ
	たからだ」と、難波から紀伊半島を迂回して、熊野から大台ヶ原山中を越えて奈良盆地へ入る。そして長随彦を滅ぼし、冒頭の橿原
	宮での即位となるのである。この東征物語は、古事記・日本書紀ともに同じような内容を持ち、似た故事を伝えている。




	勿論、寿命127歳からして、この物語が史実そのままであると言う人は少ない。しかし、西から来た武装集団が近畿勢と戦って勝
	利し、何らかの勢力圏を近畿内に確立して、やがてそれが大和朝廷を成立させる源になったという意見は近年とみに多くなっている。
	一部の学者先生の中には、これを戦前への逆戻りだ!とか、皇国史観の復活だ!と目くじらを立てる人もいるが、この物語には何ら
	かの史実が含まれているのではないか、と考えた方が諸事象をうまく説明できそうな気がする。

	熊野から奈良に至る途上に神武旧跡が数多く点在しているのはなぜなのか? 
	神武東征にまつわる事象や人物にゆかりの場所が現存しているのは、後世の人々が記紀を読んでその旧跡をねつ造していったのか?
	地名は人名に比べてその由来が残りやすいと言うが、これも誰かが東征の足跡を辿(たど)り、神武ゆかりの地名を付与して歩いた
	のだろうか。とてもそうとは思えない。
	神武東征に似た史実が過去にあり、土地の人々はその記憶を忘れていなかったのだ。語り伝えて子々孫々にその由緒を伝承し続けた
	のだろう。だから、国見丘があり、宇陀(うだ)があり、磯城(しき)があり、各所にヤタガラス神社が残っているのである。
	



	神武天皇は、大和入りに際して原住民との戦いに追われるが、すべて平定して橿原に即位した後で三輪の大物主神(おおものぬしの
	かみ)の娘、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を正式な皇后(当時はまだそういう呼び名はない)として迎える
	のであるが、これは、天津神(あまつかみ:渡来系氏族)がこれ以上の無益な争いをなくすため国津神(くにつかみ:縄文・弥生時
	代を通しての豪族)の娘をめとり、その地での支配権を周りに確定させようとする行為だろう。それによって天津神も国津神となっ
	て、やがて今日の日本人となれたのである。もっとも、国津神自身も、もともと先の渡来で縄文人と融和していった初期の渡来人た
	ちの可能性も非常に濃厚なので、ますます「原」日本人、すなわち縄文人の血は薄れていった事だろう。




	神武天皇の実在について、今日でも論議はますます盛んである。神武天皇その人の実在は不確かだとしても、それに似た事績を行っ
	た人物が過去に実在したのだろうと思われる。日本書紀の天武紀に、「壬申の乱」に際し高市の県主許梅(こめ)が神懸かりになっ
	て、大海人皇子(おおあまのおうじ)軍が神武陵に軍馬・武器を奉納したという記事がある。少なくとも、日本書紀の成立した時期
	(7世紀)にはすでに「神武天皇陵」が存在し、当時にあっては最大の献物「軍備」を奉納されるほど、皇祖としての認識が確立し
	ていたのである。




	駅のホームにいたオバチャンに早速橋本さんが話しかけ、「日前宮には店は何にも無いらしいで。」との情報を得たので、「そりゃ
	イカン」と、弁当を買ってない田上さんを先頭に、ホームから線路を横切って二、三人で、弁当・ビールを買いに走る。ところが、
	「日前宮」に着いてみると、なんと目の前にコンビニが。「何や、あのオバハンら!」と橋本さんは怒ったが、「あーあ、また女に
	ダマされて。」




	入ってきた電車は、わかやま電鉄が新しく作った「いちご電車」だった。外にいちごの絵が書いてあるだけかと思ったが、なんと内
	装はさすが「木の国」、全てが木造りで床はフローリング、木製の肘掛け椅子、木製の水屋や、窓にはスダレのカーテンまでしつら
	えてあった。ここまでやるんなら、いっそ畳張りにして乗降車時には靴を脱いで座ったらどうだろうと思った。中でいちごを売れば
	いいのにと思ったので、「日前宮」についた時、駅員にそのアイデアを話しておいた。



つり革の輪っかも木製。隣の車両へ移る部分には「暖簾」が掛かっているし。





邪馬台国大研究 /歴史倶楽部/ 春の貴志川線