SOUND:Yellow submarine
小倉城

2006.10.9 北九州市小倉北区







	小倉に来た。何の用事で帰省したのかはもう忘れてしまったが(義母か岳父の法事だったと思う)、博多での催事まで時間があったの
	で、これまで十何年か足を踏み入れたことがない北九州へ行ってみようと思い立った。小倉城と、北九州埋蔵文化財センターを訪ねた。
	小倉城は生憎改装中だったが、それでも小倉の街は昔のママの風情を見せていた。ちなみに小倉城は、JR小倉より、「西小倉」で降
	りた方が近い。「北九州市立埋蔵文化財センター」も近くにある。

	北九州市の小倉の中心地から近い位置にある小倉城。周辺は勝山公園となっており小倉城、小倉城庭園、市民会館、松本清張記念館、
	リバーウォーク、水環境館などの施設があり市民の憩いの場となっている。この小倉城は慶長7年(1602年)細川忠興が豊前32万石
	のシンボルとして築城した南蛮造りの名城である。その後小笠原15万石の居城となったが、慶応2年(1866年)の長州戦争で焼失し
	た。現在の天守閣は昭和34年に復元されたもので内部は民芸資料館やカラクリ人形を使った出陣前夜の作戦会議の風景、乗って楽し
	める本物そっくりの大名かごなどがあるす。また、天守閣の最上階の展望所からはリバーウォークや市役所、紫川などの、すばらしい
	眺望が楽しめる。





駅前に立つ大門跡




	小倉城		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	天守 		通称 勝山城、指月城
	城郭構造 	輪郭式平城
	天守構造	連結式層塔型
	築城主		細川忠興
	築城年		1602年
	主な改修者	小笠原氏
	主な城主	細川氏、小笠原氏
	廃城年		1866年
	遺構		石垣、堀、再建天守、模擬櫓、復元庭園

	小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区にある城跡。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。
	渦郭式平城。城郭の中心に天守閣のあった本丸と松丸、北の丸。それらを囲い込むように二の丸、三の丸が配された。城の東を流れる
	紫川を天然の堀として活用し城内に城下町を形成する総構えをとった。城の南側の虎口には稜保式の出張りを作った。石垣は野積みで
	構成されている。その他平櫓 117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を数えた。その構造は北九州いのちのたび博物館にある全体模型でう
	かがい知ることができる。現在、遺構として石垣・堀が残り、天守・櫓・庭園と大名屋敷が再建されている。

	天守閣は、4層5重の層塔式天守。最上層が下層よりも張り出している唐(南蛮)造り様式である。現在見られる天守は望楼式天守風で
	千鳥破風や唐破風などの装飾的な破風が見られるが、創建当時の小倉城天守は最上層の入母屋破風を除き、装飾的な破風は一切無く、
	簡素な造りだった。
	1600年、関ヶ原の戦いの論功行賞で細川忠興が豊前国と豊後国二国を領する。中津城に入城するが、1602年から7年かけて新たに小倉
	城を築城、そこに居を構える。1632年、細川家が肥後国に移ると、譜代大名として、播磨国から小笠原忠真が15万石を領し、小倉城に
	はいる。以後、小倉藩藩主の居城となる。1837年、天守閣が炎上。以後再建されず。1866年、第二次長州征伐で小倉藩と長州藩の戦闘
	の際、小倉藩は長州の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年8月1日、小倉藩の手により小倉城は炎上。藩主は熊本城に避難した。 
	1867年、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城は灰燼に帰していたので、以後、藩庁は香春にあった奉行所に置かれた。






	お濠端より天守閣を望む。築城時、天守閣の外観は五重、内部は六層だったが、再建された現在は四重五層になっている。当時は五重
	目の内部が上下段に分かれていた。外観はその五重の下段まで白塗りで、五重の上段は黒塗りで、張り出していた。天守閣の屋根には
	破風(はふ、切妻造や入母屋造の屋根のの両端にあって垂木の外に取付けられた板)がなく、当時、唐作りと言われた。



濠に沿って10分も歩くと城跡に着く。上右はこの街に住んだ大作家「松本清張」の記念館。
	明治42年(1909)、現在の小倉北区で生まれた松本清張は昭和18年(1953)、「或る『小倉日記』伝」で、芥川賞を受賞する。
	上京後、社会派推理小説というジャンルを開き、平成4年(1992)死去するまで、歴史小説、古代史・現代史研究とその活動は多岐に
	わたる。この記念館では清張が執筆していた書斎・書庫・応接室が再現されており、松本清張を体系的に理解できるように展示・紹介
	されている。




	広場から小倉城に入って来た所に大手門がある。小倉城の石垣は切石でない、足立山の自然石を使った。槻(けやき)門跡が右手にあ
	り、その先に鉄(くろがね)門跡がある。小倉城の本の丸は結構広い面積があり、ここに大規模な城主の居館が建てられていたのだ。
	本丸御殿への入り口は槻門と鉄門がある。  
 



	鉄門跡の石段を上っていくと本丸跡である。赤レンガの門がある。これは明治31年(1898)に設置された第12師団司令部の正門で
	ある。翌年、森鴎外が軍医部長として着任する。司令部は大正14年(1925)、軍縮によって、久留米に移転した。







屋根のふき替え作業のため、外側がほぼ覆われた小倉城




	小倉城“化粧直し” 屋根のふき替え工事進行中 2006年12月21日11時36分 
 
	小倉のシンボルの1つとして親しまれている小倉城で、屋根のふき替え作業が進んでいる。現在、天守閣の外側はシートでほぼ覆われ
	ている。“化粧直し”が終わるまでは、しばらく市民の目から遠ざかる。
	1959年に再建された小倉城だが、老朽化していた上、昨年の福岡沖地震で屋根の大部分が壊れていたため、改修することになった。
	改修工事は7月から開始。今は約6万7000枚ある古い瓦の撤去作業中で、天守閣の外側には、瓦などの落下を防ぐためのシ−トが
	張り巡らされている。来年1月中旬には、新しい瓦を針金やくぎで固定していくという。
	工事は来年6月まで続く予定だが、工事期間中も城内の施設には入館できる。市観光課によると、シートで覆われているものの、天守
	閣からは外を見渡せるよう工夫するという。

	=2006/12/21付 西日本新聞朝刊=






	関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた土地だった。この地を抑えるために繰りひろげられた、
	多くの豪族たちの攻防の歴史が残っている。この地に始めて築城された時期は不明であるが、文永年間には緒方惟重が居城していたと言
	われている。その後室町から戦国期にかけて大友・小弐・大内・毛利と大勢力の接点として重要視され争奪戦が繰り返された。天正15
	年、豊臣秀吉の九州征伐後、毛利勝信が8万石でこの地を領した。本格的な小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が
	現在の地に城を築いたことから始まる。その後、高橋鑑種や毛利勝信が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年
	に本格的に築城が始まり、約7年の歳月を要した。
	関が原の戦いの功で、豊前国と豊後二郡の30万石(検地40万石)を所領する細川忠興は慶長7年(1602)、小倉城の築城を始め、中津
	城から小倉城に移る。天守閣は、外観が五重、内部は六層だった。寛永6年(1632)、細川氏は肥後に転封され、豊前国の企救・田川・
	京都・仲津・築城の五郡と上毛郡の一部の15万石が、譜代大名で明石城主であった小笠原忠真(ただざね)に与えられ、小倉に入部し
	た。他の細川氏の旧領には小笠原一族が入部した。
	忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させた。細
	川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある、譜代大名の小笠原忠真が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・
	徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていた。 
	この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄した。小笠原忠苗
	の時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられている。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建さ
	れたが、天守閣は再建されなかった。


























	巌流島は、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたといわれていることで有名。当時は豊前小倉藩領の船島であったが、佐々木小次郎
	が「厳流」を名乗ったことから巌流島と呼ばれるようになった。なお決闘の日時は、『二天記』(安永5年(1776年))によると、慶長
	17年(1612)4月13日(グレゴリオ暦では5月13日)に行なわれたとされるが、それより半世紀前に書かれた立花峯均による『丹
	治峯均筆記』(享保12年(1727))には武蔵19歳のときとあるなど、決闘時期には諸説あり、実際は不明である。
	昔はすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。豊臣秀吉も名護屋から帰阪途中にここで乗船が転覆、毛利水軍によって助けられ
	たと言われている。このとき責任を取って船と運命を共にした艦長・明石与次兵衛の名を取り、江戸時代には『与次兵衛ヶ瀬』と呼ばれ
	たという。

	
	<宮本武蔵>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図(弘化3年(1846年)以前に養子伊織の子孫作成)並びに、武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く
	『宮本氏正統記』には、天正10年(1582年)壬午の生まれ、正保2年(1645年)享年64と記されていることから、天正10年(1582年)
	生誕説を主張する意見もある。
	武蔵の養子伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に記した『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)によると父は兵法家の新免
	無二である。同時代に活躍した当理流の宮本無二助藤原一真と同一人物という見方もある。武蔵の養子伊織による『泊神社棟札』にある
	「有作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于 筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信」という記述から、天正年間に秋月城で亡くなった新免某
	を無二とし、武蔵は無二の養子となったと主張する意見もあるが、新免無二は明らかに天正年間以後も生存している。
	武蔵の養子伊織が残した武蔵の記録は、生前の武蔵を知る者によって書かれたことから無批判に用いる傾向が強い。しかし、原史料が不
	明であり、伊織が武蔵のことをどこまで知っていたかを問題視する意見もあり、他史料との比較から明らかな事実誤認も認められる。
	また、武蔵を顕彰するための脚色も多く見られる。
	また、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図の「新免無二之助の養子となる《為新免無二之助養子》」の記述を根拠に無二は養父であ
	ると主張する意見もある。美作国(現在の岡山県)の名家であった新免姓は無二の代から用いていたと伝えられる。『小倉宮本系図』に
	は伊織の祖父田原家貞の次男とされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や小倉碑文にはそのことは記されていない。また、武蔵や
	伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられ
	ていない。
	大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説
	である。実際は水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けら
	れている。その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行
	っている。『海上物語』ではこの時期、夢想権之助(神道夢想流開祖)と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天
	記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)
	
	元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に
	亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに
	養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。

	寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津城主小笠原長次の
	後見として出陣している。乱後に延岡城主の有馬直純に宛てた武蔵の書状には「拙者も石ニあたりすねたちかね」と一揆軍の投石によっ
	て負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

	寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣
	接する千葉城に屋敷が与えられ、家老以上の身分でなければ許可されない鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。
	 同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に、忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代
	藩主細川光尚によりこれまでと同じように、毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった
	士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御
	家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸な
	どの作品が今に伝えられている。
	寛永20年(1643)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称
	される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。
	正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に、養子伊織による
	武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。














	2003年4月に小倉城の北側に複合商業施設リバーウォーク北九州がオープンした(上右)。右手には北九州市庁舎がある。小倉城大
	手門に通じるこ広場は小倉祇園の際の小倉祇園太鼓競演会の会場になる。










	幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦ったが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦
	意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえなかった。明治維新後、城跡に陸軍の砲兵部隊が置かれる。
	明治10年の西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が乃木将軍に率いられて出征した。
	その後は、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれた。太平洋戦争後は米国に接収されたが、1957年に解除され、1959年市
	民の熱望によって、鉄筋コンクリートで4層の天守閣が再建された。この天守閣は「唐造り(からづくり)の天守」と呼ばれ、四階と五階
	の間に屋根のひさしがなく五階が四階よりも大きくなっているのが特徴である。ただし、実際は層塔式だったものを望楼式風にするなど、
	史実とはやや異なる形をしている。 また、城の石垣は切り石を使わない野面積みで、素朴ながらも豪快な風情にあふれている。
	1988年、小倉城庭園および松本清張記念館が開館した。 2004年春から秋にかけての調査により、篠崎口〜清水門の外堀で畝堀と
	堀障子が発見。忠興当時のものと考えられる。なお現在、天守閣内部は郷土資料館として利用されている。




	小倉城の五層天守は、南蛮造りと言われる様式の天守で有名である。 美作の森忠政が津山城築城の折り、この小倉城天守を参考にする
	ため家臣を派遣したと言われている。天守を見るなら、天守東側の小倉城庭園前から見るのがいい。天守台の高い石垣、その上には五層
	天守、堀に映る白い城壁となかなか絵になっている。本丸には三層の月見櫓が復興されているが、この櫓は天守復興のときに、天守と釣
	り合うように、本来二の丸から本の丸へ入る虎口多門口門脇に建てられた。



小倉城発掘

























































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