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歴史倶楽部 第171回例会
山辺の道を桜井市埋文センターへ歩く
2011.11.27(日)






	上の写真の撮影者は郭公さんだから、参加者6名で、ここには小生(筑前)が写っていない。前回に続いてまた遅刻したのである。
	今回は鶴橋で乗る電車を間違えたのだ。急行と快速(だったかな?)を間違えて、ちょっと遅い電車に乗ってしまった。それでもエ
	ライもので、途中で気づいてまた電車を乗り換え、何とか初瀬川堤で追いついた。やれやれ。いかんねぇ、ホームで漫画なんかよん
	でたら。下の写真は、桜井駅から山辺の道を歩き出したところにある素麺屋さんじゃなかったかな。






	日本最古の官道「山の辺の道」のスタート地点(ゴール地点でもある)の初瀬川堤には、仏教伝来之地碑が建っている。ここ初瀬川
	畔の一帯は、欽明天皇の皇居とされる磯城嶋金刺宮をはじめ、数々の天皇の宮跡伝承地がある。また最古の海外交易の市、海柘榴市
	(つばいち・桜井市金屋)は、大阪から大和川を遡ってくる川船の終着地点だった。さらに、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街
	道が交差する陸上交通の要衝でもあった。当然さまざまな物産が集まり、我が国最古の交易市場がこの地に興ったと考えられる。
	この市がいつしか海柘榴市と呼ばれるようになったのは三輪山の椿に因むのではないかともいわれている。
	このような史跡を残す金屋の地が、飛鳥に都が移るまで古代大和朝廷の中心地であったことはほぼ疑いのないところであろう。




	【仏教伝来の地碑】
	仏教伝来の地碑は日本書紀に、大意「欽明天皇 13年(552年)の冬10月に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)という王様からの
	使いがきて、お釈迦様の金銅製仏像、一光三尊の阿弥陀仏、百済大仏、幡蓋(はたきぬがさ)幾つか、經論何巻かを献上した」と記
	されているのを根拠に建てられたもの。












	【海柘榴市跡】
	この海柘榴市の地もまた日本書紀に大意「推古天皇 16年(608年)小野妹子が遣隋使、裴世清(はいせいせい)を伴って帰国し、飛
	鳥の京に入るとき、飾り馬75頭をつかわして海柘榴市の路上で阿倍比羅夫(あべのひらふ)に迎えさせた」ことが記されている。






















御堂の下には高床があって、そこにも石棺の蓋らしきものが横たわっている。おそらくはこの近辺に古墳があったに違いない。






山辺の道の「金谷の石仏」の向いに、崇神天皇の「磯城端籬宮跡」と呼ばれる場所がある。

 


	【崇神天皇磯城端籬宮跡(しきみずがきのみやあと)】
	第10代崇神天皇の宮殿があった所とされている。初代神武天皇から欠史八代の、9代開化天皇までは実在した天皇ではない、という
	のが戦後歴史学界の定説である。この第10代崇神天皇が大和朝廷の初代ではないかという説は結構有力で、そうするとここが日本の
	最初の首都であったのかもしれないのだ。大きな立て看板の横を進んでいくとすぐ志貴(磯城)県坐(主)神社がある。磯城県主神社
	はこの地の有力な豪族であった磯城県主(しきのあがたぬし)の氏神であろうと思われる。天皇陵は三輪山の北の方にあり、山辺の道
	の散策コースの脇にある。




	崇神天皇		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日))は、『古事記』『日本書
	紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。
	和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめ
	らみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込め
	る初めての天皇であると言われている。

	記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える
	見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを
	信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。
	後述の諡号から、崇神天皇を初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある。
	欠史八代を史実の反映と見る立場からは、書紀の記述によると、神武天皇が畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしか出てこない
	が、崇神天皇の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を
	出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に
	始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。




	<諡号・追号・異名>

	御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』 
	所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと) - 『古事記』  
	御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』 
	御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』 
	美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記』 

	ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られてお
	り、初めて天下を治めた天皇という意味であるが、初めて国を治める天皇がふたり存在することになる。
	これについては、神武天皇の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、崇神の称号にみえる国という具体的な語より上位の観念で
	あり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武天皇は崇神天皇より後に「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考え
	られる。それ故に国(大和)を初めて治められたのは崇神天皇であると考えられる。『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」と
	ある。
	崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。イリ
	ヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王
	族は実在の可能性が高まり、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。

	崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱)をそのまま記紀に記載した、とする説も存在しており、「イリ王朝」が古代日
	本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせる。




	< 系譜 >
 
	開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の
	祖)。

	皇后:御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命(孝元天皇の皇子)女 
	皇子:活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇) 
	皇子:彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと) - 記の伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)に当たるか 
	皇女:国方姫命(くにかたひめのみこと) 
	皇女:千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと) 
	皇子:倭彦命(やまとひこのみこと) 
	皇子:五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと) - 記には伊賀比売命(いかひめのみこと)で女性 
	妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ) - 紀伊国荒河戸畔女 
	皇子:豊城入彦命(とよきいりびこのみこと) - 上毛野君・下毛野君等祖 
	皇女:豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと) - 初代斎宮 
	妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命) - 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀) 
	皇子:大入杵命(おおいりきのみこと、大入来命) - 能登国造祖 
	皇子:八坂入彦命(やさかいりびこのみこと) - 八坂入媛命(景行天皇の皇后・成務天皇の母)父 
	皇女:渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと、沼名木之入日売命) 
	皇女:十市瓊入媛命(とおちにいりびめのみこと) 




	<皇 居>
	都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。『古事記』には、「師木の水垣宮(みづ
	かきのみや)に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。


	< 陵墓・霊廟>
	山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。
	現在、同陵は奈良県天理市柳本町の柳本行燈山古墳(前方後円墳・全長242m)に比定される。しかしながら、それより少し前に造ら
	れた西殿塚古墳(前方後円墳・全長220m)を、その真陵とする考え方もある。また、江戸時代には渋谷向山古墳が陵墓とされていた。
	行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の
	改修工事によるものとも言われている。












	平等寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	平等寺(びょうどうじ)は、奈良県桜井市三輪にある現在は曹洞宗の寺院。三輪別所ともいう。本尊は釈迦如来である。かつては、
	大神神社の神宮寺であった。寺号で呼ばれることとなったことは確実であり、これが、現在史料で明確に確認できる最古の例である。

	鎌倉末期には、同じ神宮寺であった大御輪寺をもしのぎ、大神神社の別当寺の地位にたっていた。一方で、「大乗院寺社雑事記」に
	は、興福寺が平等寺に御用銭を課していることが見られ、大和国の他の寺院同様、興福寺の末寺でもあった。また、同時に修験道を
	伝えていたことから、醍醐寺との関係も保持していた。そのため、内部に「学衆(興福寺大乗院)」と「禅衆(醍醐寺三宝院)」と
	いう、二つの僧侶集団が作られ、両者が共存する関係にあった。室町中期には、禅衆と学衆が激しく争ったことも、「大乗院寺社雑
	事記」には描かれている。
	江戸時代には、興福寺の支配を離れ、真言宗の寺院となりつつも、修験道も伝えていた。朱印地の石高は80石。また、伽藍配置は、
	江戸時代の写本により知られる。それによると、三輪山の最端に慶円上人開山堂があり、行者堂・御影堂・本堂・一切経堂など、複
	数の堂舎が存在したことがうかがわれる。
	1868年(明治元年)、神仏分離の太政官布告が出される。これにより、1870年(明治3年)には、平等寺は三輪社の社人が管理するに
	いたり、堂舎は取り払われ、平等寺は廃止となる。1959年(昭和34年)の『大三輪町史』編纂の段階では、「現在は、その伽藍は存
	在せず、わずかに塔中の石垣のみが遺跡として存在するとともに、主たる仏像は翠松寺も移されているような現況である」(『大三
	輪町史』p496)とあるように、堂舎は存在せず、一切の建物も残っていない状態となっていた。
	1977年(昭和52)、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。現在は伽藍も復元されている。







二重塔の廻りには五百羅漢の石仏が配置してある。実際に五百もある訳はないが、実に様々な羅漢が塔を取り巻いている。



胸襟を開いて私の本当の顔を見せましょう、ってか。



上下の羅漢は「酒飲み地蔵」やね。





橋爪君、孫の成長でも祈願したんかね。すっかり爺様になっちゃって。





平等寺を出て三輪神社の方へ少し行くと、左手に延喜式にも記載がある「日向神社」がある。延喜式では「日向王子」となっている。



正式には神坐日向神社(みわにいますひむかのかみのやしろ)といい、通称「御子宮」と呼ばれている。



祭神は、櫛御方命(くしみかた)、飯肩巣見命(いいかたすみ)、建(武)甕槌命(たけみかづち)。




	櫛御方命(くしみかた)、飯肩巣見命(いいかたすみ)なんて初めて聞いたと思ったが、玄松子さんのHPによると、
	祭神は、大物主神と陶都耳命の娘・活玉依毘売の子である櫛御方命。その子が、飯肩巣見命。その子が、建甕槌命。その子が大田田根子。
	ということで、大神神社初代神主の始祖。
	となっている。そういえば日本書紀に書いてあったような。日本書紀によれば、
	崇神天皇時代、疫病や飢饉によって政治が平穏に治まらないので、その理由を占ったところ大物主の祟りだといわれ、意富多多泥古(お
	おたたねこ)に大物主を祀らせれば治まるとお告げがあった。早速「意富多多泥古(大田田根子)」を探しだし「おまえは誰の子か」と
	尋ねると、「私は、大物主大神と陶津耳命(すえつみみ)の娘である活玉依比売(いくたまよりひめ)の子、櫛御方命の子、飯肩巣見命
	の子、建甕槌命の子の意富多多泥古である」と答えた、となっている。


          素盞嗚尊              大山積神
           ┃                 ┃
           ┃                 ┃
           ┃                陶津耳命 <三島溝咋耳命>
           ┃                 ┃
           ┃                 ┃
         大物主大神             活玉依比売 <玉櫛姫>
           ┃                 ┃
           ┗━━━━━━━━━┳━━━━━━━┛
                     ┃
                    櫛御方命
                     ┃
                     ┃
                   飯肩巣見命
                     ┃
                     ┃
                    建甕槌命
                     ┃
                     ┃
                   意富多多泥古
 



三輪(大神)神社。

	大神神社		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古
	の神社」と称されている。日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられている。
	三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神
	道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像
	されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものであるが、日本唯一のものではなく、他に
	も三ツ鳥居は存在する。




	<祭 神>
 
	大物主大神(倭大物主櫛甕玉命)を主祭神とし大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を配祀する。
	日本神話には、当社にまつわる次のようなくだりがある。大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、国造りなか
	ばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らし
	て神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神は御諸
	山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
	大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。
	また国の守護神(軍神)、氏族神(太田田根子の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。




	<歴 史>
 
	巳の神杉崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主とし
	て大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神
	託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたとある。
	国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神
	階は最高位の正一位に達した。延喜式神名帳では名神大社に列し、摂末社の多くも記載されている。
	摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっている。また、作者
	不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌に「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座・言わく
	ら)や」との言葉がある。伊勢神宮との関係を示唆している。
	なお、全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されているが、それは既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)
	にも見える。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。吉備国を征服する時に大和王権によって分祀され
	たのではないかと推測されている。









この写真は私が写しています。やっぱり、一人だけちょっとボケてますな。でも、あんまり違和感ないでしょ。



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