Music: 青葉茂れる
歴史倶楽部 125回例会

一日目 みたらい渓谷を歩く
2007年9月1日(土)







	吉野行きの近鉄電車の中に、チラホラと行者姿をした人が乗っている。「ヘェー、行者さんも電車でいくんか」とか、「今日は何か
	えらく行者さんが多いなぁ」「なんか大会でもあるんかもしれんな」等と話していたら、「下市口駅」に着いて驚いた。電車からゾ
	ロゾロと修験者達が降りてくるのだ。えらい数である。週末で天気も良く、大峯山(山上ケ岳)か稲村ケ岳にでも登る催しがあるの
	だろう、それともホントに行者達の大会があるのかもしれない。我々が路線バスに乗り込んで出発を待っていると、行者一行は駅前
	から貸し切りバス2台に分乗してどっかへ出発して行った。「バスなんか乗らずに、こっから歩いて行くんが修行ちゃうんか?」と
	誰かが悪態をついていた。
	井上靖さんは、阿部野橋(天王寺)で近所のおじさんが行者姿をしているのに出くわしたそうで、その人もおそらくこの電車に乗っ
	てこの集団の中にいるのだろう。靖さんは、そのおじさんのことを、「いゃー、こんなんやってはるなんて全然知りませんでしたわ」
	と言っていた。






	下の地図の、「下市口駅」から「洞川温泉行き」のバスに乗って「天川川合」で降りる。乗車時間73分と案内にある。錦織さんの
	隣にはうら若き乙女が座って、後ろから見ていると、錦織さんとずいぶん会話がはずんでいた。「いいなぁー。」





下市口の町を出てすぐの橋を渡ったところにあった銅像と顕彰碑。だれか町の偉人なのだろうが、バスからは名前が見えなかった。




	洞川の温泉街を流れる山上川は、みたらい滝を過ぎたところで弥山川と出合い川迫(こうせ)川となるが、この川迫川はこの先、天
	ノ川、十津川、熊野川と名前を変えて北山川と合流し、太平洋の熊野灘に流れ込んでいる。川が合うので「天川川合」である。下市
	口を10時15分発のバスに乗って、「天川川合」のバス停に着いたのは午前11時半近かった。



「天川川合」のバス停兼休憩所。ずいぶん下を川が流れていて、これから行く渓谷美の予感がしてくる。それにしても高い。








	靖さんが、友人から「天川に行くんやったら絶対見てこいや、おもろいで」と言われた店があるというので、コースからはずれた所
	にある雑貨屋をみんなで見に行った。驚いた、そして笑った。「なんやこれぇ」「ええんかいな」「やるもんやなぁ」と皆口々に感
	嘆の声を上げる。偉大なパロディーと言うか、たくましい商魂と言うのか、いや驚いた。店内へ入ってもパロディーは続いている。
	レジにいたおばさんに、誰かが「これ、誰が考えたん?」と聞いていたが、おばさんは「うちのおとうちゃん」と屈託がない。
	店はほんらい「森田商店」と言うらしく、それで 「MAWSON」や「MORIQLO」となっているのだろうが、靖さん曰く「ここを教えてく
	れた友達も森田言うんですわ」「は、は、は」
	クチコミでこの店のことは相当知れ渡っているらしく、何台も車を止めては写真を撮っていた。「いやぁ、ここまでとは思わんかっ
	たわぁ」と言っている女の子もいた。










	近畿随一といわれる「みたらい渓谷」に沿って天川川合と洞川温泉を約2時間で歩く。渓谷美を満喫する天川村を代表するコース。
	天川村で唯一の信号がある天川村川合から川沿いの集落を抜けて「みたらい遊歩道」に入り、天の川と山上川の合流地点からみたら
	い渓谷へ。急な上りや、足もすくみそうな吊り橋があったりするが、階段や手すり、案内板などコースはよく整備され、光の滝など
	渓谷美を堪能できる。展望台、みたらいの滝を経て洞川温泉までの距離は約7.4kmである。木々の緑や巨大な岩、豪快な滝、エ
	メラルドグリーンの水が織りなす自然の風景の美しさは格別である。奇岩・巨岩にビックリしながら歩いて、山上川左岸の林間コー
	スを抜ければほどなく村営洞川温泉センターが見えてくる。



上左の写真が、2つの川が出会う地点である。「川合」なのだ。





渓谷への入り口はいきなり大きな吊り橋から始まっている。これから幾つ
吊り橋を渡るのだろうか。高所恐怖症の私としては若干心配ではある。



小さな吊り橋を幾つか通る頃、渓谷の清らかな水の流れと、巨岩などが見え隠れしてくる。





歩き始めて30分ほどでお昼となったので、適当な岩場を見つけて昼食にする。吊り橋の端から岩場へ降りる。









野趣満点の遊歩道である。ほんとにこの渓谷ウォークは近畿圏では一番かもしれない。





ホントは、どうやらこのあたりからを「みたらい渓谷」と呼ぶようだ。今までは遊歩道だったのか。







驚いた、ここにも「98代長慶天皇」崩御伝承がある。長慶天皇は全国で死んでいる。

	長慶天皇は、正平23年(1368)後村上天皇崩御の後を継ぎ即位した。後醍醐天皇、後村上天皇、そして長慶天皇と続く南朝3代目
	の天皇である。弟の4代目後亀山天皇に譲位するまで、およそ16年間在位したとされる。南朝は4代を以て終焉を迎え、後亀山天皇
	は北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し、およそ60年に及ぶ南北朝時代は終わりを迎える。

	長慶天皇も父後村上天皇と同じく対北朝強硬派で、南北朝の戦乱の中にその生涯を過ごした。足利幕府の軍勢は、各地の行宮に頻繁に
	攻撃をしかけ、帝はこれに応戦し続けた。大和吉野から、河内金剛寺、大和五條の栄山寺と転戦している。弟に譲位した後は、各地の
	南朝方の武将を訪ね、南朝への協力を求めたと言われているが、その為「長慶天皇墓」と称する陵墓も全国各地に点在している。
	陸奥国(青森県)、川上村(奈良県)など20ヶ所に及ぶとも言われている。
	この帝は動乱期の天皇だと言うこともあってその生涯については謎が多く、即位についても疑義が多かった。江戸期には歴代天皇とは
	見なされていなかったが、それでも『大日本史』などは、本紀に第71代として長慶天皇を列記していた。明治を経て、大正年間に至っ
	ても即位は確認されなかったが、大正4年頃『長慶天皇御即位の研究』(八代国治著)という論文が発表され、大正15年10月21
	日付詔勅で皇統に加えられた。

	朕惟フニ長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乗ノ紀述審ナラサルモノアリ今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ深究精覈セシメ
	其ノ事蹟明瞭ナルニ至レリ乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス茲ニ之ヲ宣示ス

										御 名 御 璽
										摂 政 名

										大正十五年十月二十一日

										宮内大臣 一木喜コ郎
										内閣總理大臣 若槻禮次郎

	その後宮内庁は、昭和19年になって、京都嵯峨の慶寿院跡を「長慶天皇御陵墓」と決定した。
	例によって宮内庁による詳細な調査が行われたようであるが、ここを長慶天皇陵とする確固たる証拠は見つからなかったようだ。
	結局、一番ゆかりの深いこの地が選定されたようである。この帝の著作集として、『仙源抄』『長慶院御千首』等がある。

	京都を追われた後醍醐天皇は、三種の神器を持って吉野に逃げ込み南朝を立てた。一方、足利尊氏は、京都で持明院統である光明天皇を
	擁立し北朝をうちたてた。これにより南北朝時代が幕開けをし、以後60年あまりにわたって南北朝対立の時代となる。しかし南朝側は
	吉野の山奥に逃れたため、ほとんど記録らしい記録が残っていない。長慶天皇の即位行為も長い間認定されなかったし、また後亀山天皇
	の生年も明らかではない。足利3代将軍足利義満によって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して譲位し、戦乱に
	明け暮れた南北朝時代は幕を下ろした。
	これ以降は皇位が継承された北朝が正統とされていたが、南朝の正統性を主張する議論は、北畠親房の「神皇正統記」以来続き、明治
	44年に明治天皇が南朝の正統を勅裁し、「南朝が正統であるが、北朝の天皇も歴代以外の天皇」とした。その根拠となったのは、皇位
	のあかしである三種の神器を南朝方が最後まで保有していた点にあると思われる。 皇室にとって、三種の神器がいかに重要なものかを
	窺わせる。




	南北朝時代にこの川に五色の血が流れたため、五色谷と言われている。その由来には諸説があり、まずは、長慶天皇が合戦に敗れて討た
	れた時に流れたという。これについては下流の十津川村にある国王神社の由緒にも通じるところがあるが、天川の地で首をはねられた長
	慶天皇の頭が、流れ流れて十津川に流れ着いたというものである。また、高貴な人が村人に頭を下げて牛を分けてもらい、食料として堵
	殺した時に流れた血が五色に輝いたとも言う。ほかにも、長慶天皇が乗っていた馬が敵の矢にあたって、流れた血が五色に輝いたという
	言い伝えもある。いずれにしても南朝の合戦による言い伝えがこの谷には多く残っているのである。 
	また、五色谷の入口から500mほど入ったところで、南朝の天皇の皇子が落ちて亡くなったといわれる淵がある。稚児ということで、
	どの皇子かはわからないが、天川の地に避難していた時に起こったことではないかと考えられている。五色谷の上流部には巡り石という
	大きな岩がある。北朝方との合戦の時に、敵を探すために付近をぐるぐる巡ったということで、巡り石と言われているそうでだ。南朝の
	色濃い地方である。





	【みたらい渓谷】

	山岳宗教の聖地、大峰山系から流れる山上川が造り上げた渓谷。大峰山系の水源から流れ出した渓流と、大岩壁に囲まれた山上川の
	下流の渓谷が交わる。みたらいの名は後醍醐天皇の子、護良親王が戦の勝利祈願に手を清めた(御手洗)ところから付けられたとい
	われている。流れは今も冷たく清らかだ。みたらい滝、光滝一帯の巨岩怪石の道、のどかな雑木林の道とコースはいくつもの顔をも
	つ。夏には渓谷の周りに岩つつじなどが花を咲かせ、青葉若葉がきらめく春も魅力だが、何といっても川面を紅に染め上げる秋が一
	番素晴しいようである。紅葉の見時は10月下旬〜11月上旬だという。



ここも、みたらい(御手洗)の滝。



若者や家族連れが水遊びに興じている。巨岩の間を流れる渓谷美は、私の知る限り、宮崎県の大崩(おおくえ)山渓についで美しい。





上左は、河内さんが頭上の大岩に頭をぶつけた瞬間。「ゴツン」と音がしたので相当痛かったと思われる。くくく。




	休憩した渓谷のよどみで橋本さんが釣りを始めた。小さなハヤが一匹釣れたが、先発組は一時間待っても後発組が来ないので、心配
	して靖さんが引き返してきた。










	杉檜の木立に囲まれた遊歩道へ入り、標高差約300m、約7.4kmをゆっくりと歩く。川からの清々しい風が肌に心地よい。形
	の良い真っ直ぐな杉の木が目立つ。有名な吉野杉である。間伐した跡が所々にある。木材として育つまでに、檜は40〜50年、杉
	は50〜60年かかるのだそうだが、吉野杉は100年かそれ以上かけるそうで、まず自分の代では伐採できない。長い年月の果て
	に子孫を潤すのである。最近はそういう事業が少なくなった。誰もが自分の代での売り上げをほしがる。自分の代さえよければ孫子
	の代はどうなってもいいような考えが、やがて地球を滅ぼすのだろう。環境問題などを、ひしひしと感じながらの森林浴になった。







長いスギの林を過ぎたらいきなり洞川(どろがわ)温泉町へでた。





橋本さんが「氷が食いたい」というので、温泉街への入り口にあるお茶屋さんでしばし休憩。イチゴミルクうまかった。






邪馬台国大研究 /歴史倶楽部/ 天川村