Music: 冬の夜

歴史倶楽部 125回例会

天川村資料館
2007年9月2日(日)











			天川村立資料館 「ギャラリーほのぼの」新設記念

			『大峯の景色』 〜作品展のご案内について〜
			■8月29日(水)〜9月24日(月)まで

	 		山上ヶ岳の宿坊に務めて15年 水のフィルターを通して出会った光と風の大峯
	 		神崎士郎氏 作品展
 
			*天川村立資料館*
			 開館時間 午前10時00分〜午後5時00分
			 休館日   毎週火曜日
			 入館料   大人250円 小人100円
			 ※ギャラリーは入場無料となっております。
			 電 話   0747−64−0630
			*お問い合わせ*
			 天川村総合案内所 TEL:0747-63-0999
			 天川村立資料館 TEL;0747-64-0630 













	天川村は山と谷によって形成されており、冬季がきわめて寒冷など自然条件が厳しかったため、太古には人びとは定住していなかった
	とされている。天川村のHPにも、「本村には原始遺跡はほとんど発見されておらず、耕地に適した地形が少ないことが、先住者を妨
	げたことが容易に推察されます。」と書かれている。しかし私見では人々はこの地にも足を踏み入れていたのではないかと思う。定住
	はしていなかったかもしれないが、山の獣や川の魚を求めて、人々は気候の温暖な季節にはここまでやってきていたような気がする。
	はっきりした証拠は無いのだが、今まで見てきた多くの縄文遺跡を考えると、この地のような谷間には結構縄文人たちの痕跡がある。
	そのうち、ここからも太古の遺跡が出現するような気がしてならない。








	この地が歴史上に登場するのは、今から約1300年前に、葛城は御所(ごせ)に生まれた「役の行者」が「大峰山」を開山してから
	となっている。ここから修行者たちがこの地を「行場」と見なし、以来、人びとが定住するようになり、山岳修験道の根本道場として
	栄えてきた。そして、平安時代には、宇多天皇、菅原道真、藤原道長、白川法皇、西行法師などをはじめとする多くの貴族・皇族や一
	般人たちが、熱心に大峯山への御岳詣を行ったとされている。
	しかし「役の行者」そのものは実在も不明だし、大峯の開山時期も明確ではない。「古代史の謎」の「古代のスーパースター役行者」
	でも書いたように、おそらくは、大峰山が修験者達のメッカになったあと、役の行者が大峰山を開山、となったものだろう。有史以前
	から、この山は人々の山岳信仰の対象になっていたものと思われる。古代人達の信仰の対象は自然である。河川であり、風雨であり、
	夜であり、また山岳でもある。古代アニミズムの信仰に、6世紀ごろ大陸からもたらされた仏教をはじめとして、道教・神仙道といっ
	た宗教が伝わる。なかでも密教の伝来は、古代アニミズムと結びついて、修行僧を強く山岳へ誘ったものと思われる。求道僧侶たちが
	神聖な山中へ分け入り、近畿圏に於いては、大峯山上ヶ岳がそのなかでも最も神聖な場所とされたのだろう。

	大和朝廷は仏教を国家統治の手段として利用し官制の寺院を全国に建立していくが、この地はその流れからは一歩離れて、山岳宗教と
	いう形態を色濃く今日にまで残している。洞川で8月に行われる行事「行者まつり」は、役行者が冤罪で伊豆に流され、後に無実が晴
	れて大峯山にかえった時、行者の高弟「後鬼」の住民(洞川住民)が、熱狂的に出迎えた様子を鬼踊りとしてあらわした奇祭である。
	こういう伝承が残っているのを見ても、この地が太古から「大峰山」とともに生きてきたのがわかる。修験道とは、山へ籠もって厳し
	い修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする神仏が融合した宗教である。修験道の実践者を修験者または山
	伏といい、時に命がけの修行を行う事で知られる。地元では「大峯を知らぬものは男子にあらず」といわれており、成人するまでに多
	数の少年が修行を経験する。



















上左は「山上が岳遺跡」から発掘された仏像2体。












	天川村は、大海人皇子と深いつながりがあり、皇子は壬申の乱に勝利して即位した後、吉野総社として天河社の神殿を造営している。
	また、天平5年(773 )、光明皇后は、生母供養のための奈良興福寺西金堂建立にあたって、西金堂の荘厳具のひとつである華原磬の
	台石に、洞川地区から産出される白石(大理石)を用いたと伝えられる。その後、南北朝時代には、本村は南朝方の重要な拠点として
	後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇などを擁護しつづけ、現在、十三通もの綸旨・令旨が残されている。
	村は、天河弁財天社の信仰を核にして繁栄し、ことに南朝天皇による課役免除の綸旨による恩典もあって、経済的にも安定していた。
	村は、戦の必需品である弓竹の矢の産地としても知られ、南朝方、織田・豊臣両氏に矢竹を上納した。江戸時代には、天川23ヶ村
	(和田、栃尾、九尾、坪内、日裏、中谷、沢原、河合、中越、沖金、小原、南角、五色、沢谷、北角、洞川、山西、籠山、庵住、塩野、
	滝尾、塩谷、広瀬)は天領とされ、年貢の他に矢竹を上納し、幕府の役人である代官によって統治されていた。幕末期には、天誅組挙
	兵による若干の余波があったが、天川郷は比較的平穏裡に明治維新を迎え。そして、明治22年の「市制及び村制」の発布によって、
	旧天川郷・三名郷(吉野八荘の一つ天川荘が分かれたもの)の合体により天川村となり、以来、村政百年をへてその歴史を刻んでいる。




	南北朝時代は後醍醐天皇による建武の中興(1333)の3年間と、吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史を数える。
	その3分の2以上の期間は、奥吉野の各地に拠点がおかれた。天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の
	光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされた。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さなが
	らの栄華を極めたといわれている。嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」とし
	るされている。天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たした。天河郷には十三
	通の綸旨、令旨が下賜され現存している。そのなかには天河郷の忠誠を賞でたものや、その加賞として天河弁財天へ賜った地行地配
	分のお墨付きなどが含まれている。









	「役行者と修験道」をとりまく背景
	
	1999.9.25−11.14 香芝市二上山博物館開催「役行者と葛城修験」展 
	「展示解説書1.役行者と葛城修験(1).修験道の盛衰」より抜粋

	奈良時代の仏教は、国家仏教として七堂伽藍(しちどうがらん)のなかで政府の保護を受ける学問僧と、日本古来の山岳信仰が外来
	の道教や仏教の影響を受け、山岳修行により超自然の獲得に努める私度僧(しどそう)があった。役行者もその一人で、その呪術的
	な力を民衆に示し、自由に布教活動を行い、次第に勢力を増していった。そのため、僧尼令(そうにれい)等による規制もあったが、
	途絶えることなく平安時代の密教に継承され、新たな展開をとげた。天台・真言両宗の密教が比叡山・高野山を開き、山岳修行を奨
	励したことから金剛・葛城、吉野・大峯・熊野などの各地の霊山に修験者が自らの験力(げんりき)を高めるために入峯(にゅうぶ)
	した。このような山岳宗教の隆盛にともなって、役行者を修験道の開祖として仰ぐようになった。
	葛城修験が大峯修験とともに最盛期を迎えた鎌倉時代前後頃になって、修験道は組織化され、天台系の本山派と真言宗の当山派とに
	分かれた。熊野は寛治4年(1090)に園城寺の僧増誉が白河上皇の熊野御幸の先達を努めたことにより、園城寺に属し、園城寺ある
	いは上皇から賜った聖護院(しょうごいん)を本拠とした。これが本山派であり、天台系で役行者を開祖と仰いだ。それに対して、
	吉野から大峯山にかけては、興福寺などの後盾のもとに、大和を中心とする三十六ケ寺で組織された当山三十六先達があり、室町時
	代になると真言宗の醍醐寺三宝院を本拠として当山派と称し、聖宝(しょうほう)を開祖と仰いだ。また、全国各地の霊山において
	も組織化がおこってきたが、大和中南部の金剛・葛城、吉野・大峯・熊野は他地方とは一線を画しており、修験道の中枢であった。
	また、中世には葛城を顕(けん)の峰(密教以外の仏教)、大峯を密(みつ)の峰(密教)と呼び、金剛・葛城の峰中、神霊が籠も
	る28の地に「法華経」28品を1巻ずつ埋納する経塚が祀られた。この経塚は和歌山県紀淡海峡の友ケ島を起点に、和泉山脈、金
	剛山脈を北上し、金剛山、葛城山、二上山、逢坂を経て明神山北麓の亀の瀬まで続いた。この28の経塚をひとつながりの行場とし
	て葛城修験は形成された。
	なお、大峯修験は75の靡(なびき)と宿(しゅく)を祀った。本山派は法華の峯として葛城修行を重視し、大峯修行とは別に集団
	で入峯し、当山派は大峯修行の後で葛城修行をおこなった。葛城28宿の名称や位置は資料によって相違が見られるが、「葛嶺雑記」
	(かつれいざっき:嘉永3年=1850刊)を基本に、聖護院等の調査によってほぼ確認されている。現在、聖護院により28宿の行場を
	廻る葛城修験が復興されている。
	近世になると、山岳で起居していた修験者達は、全国各地を遊行(ゆぎょう)し、寺社のまつりで護摩をたき、雨乞いや病気平癒の
	加持祈祷をおこなった。また、円空や木喰明満のように、自らの修行として作仏するものもあった。中期以降は、庶民が講(こう)
	をつくり、各地の霊山に登って修行するようになっていった。
	近代に入って、明治の神仏分離令、修験道廃止令によって本派本山に戻って天台・真言両宗に帰入するように命じられ、本山派、当
	山派ともそれぞれに天台宗・真言宗に包括された。第二次大戦後は、宗教法人法の試行により、本山派の聖護院は修験宗(現本山修
	験宗)、当山派の真言宗醍醐派など、多くの修験集団が独立した。




	近畿の山々を巡っていると、たいてい山中か麓に古い寺がある。昼食を取ったり、休憩にそれらの寺の境内を使わせて貰う事が多か
	ったのだが、ある時私はふと気づいた事があった。それは、寺の縁起を読んでいて思ったのだが「役行者開祖」という山や寺が近畿
	にはやたら多いのである。役行者(えんのぎょうじゃ)又は役小角(えんのおづの)という人物が、京都の山奥から奈良・和歌山に
	至るまで、あらゆる山寺を開山しているのである。「なんだこりゃ。ここも役行者かい!」という所だらけなのだ。
	後で知ったが、役行者が開いたという修験場や寺は、近畿一円ばかりか全国に及んでいた。歴史倶楽部を主宰してからは、みんなで
	訪ねる旧跡の近くには殆ど「役行者開祖」の修験場があったが、さすがに歴史倶楽部と言うだけあって、みんな幾らかづつは役行者
	についての知識を持っていた。私は、「修験僧の元締め」くらいの知識しか無かったのでみんなの話に耳を傾けたのだが、それにし
	てもなぜ一人でこんなに広範囲を開山できたかの疑問は残った。
	ある人は、「役行者は忍者の祖で、山を一日に10山位駆け登るなんざ朝飯前やったんよ。」と言い、ある人は、「役行者は実在の人
	物では無い。」という。又ある人は、「役行者の弟子達が手分けして全国に散ったのさ。」と説明してくれる。

	一体「役行者」とはいかなる人物なのか。文献によると、役行者が実在したと思われる唯一の記述は『続日本記』文武天皇三年(699)
	の記述に、「役君小角は葛城山に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に讒訴(ざん
	そ)され、伊豆島に流された」とあり、続いて、巷間伝わる話として、「小角はよく鬼人を使い、水を汲ませ、薪を取らせた。もし
	鬼人が命に従わないときは、呪をもってこれを縛った」と伝えている。これが唯一、信頼できる文献に現れる役行者で、これをもっ
	て一応実在はしていたらしい、というのが通説のようである。しかしその後の風評は実に多彩で、まさしくスーパースターと呼ぶべ
	き縦横無尽の活躍をし、宗教史に偉大な足跡を残している。天を飛んだ、谷から谷を一瞬で渡り鬼人を操って様々な土木工事を行っ
	た、妖惑の術を用いた、などと伝承されている。
	伊豆から大宝三年(701)年に帰国し、68才の時摂津の箕面山で没したとも言う。終焉についても諸説紛々で、天に飛去ったとい
	い、或いは、海を渡って彼の地に消えた、いや唐に着いたと様々である。実在したとすれば、役行者は奈良時代の初め頃に没したと
	思われるが、平安時代中期以降の役行者伝説は、『三宝絵詞』『本朝神仙伝』『今昔物語』などに書かれ、鎌倉時代になると『古今
	著聞集』『私聚百因縁集』『元亨釈書』等に詳しい。これらの書を通じて「役小角」は「役行者」と呼ばれるようになり、修験道と
	強く結びつけられていく。
	修行の場所も生まれ故郷の葛城山から、生駒山、信貴山、熊野山中と広がっていき、やがて全国各地の霊山が役行者の聖跡となって
	いくのであるが、これらの伝承の大元は、実はたった一書である。




	奈良後期から平安初期に生きた薬師寺の僧、景戒(けいかい、ぎょうかい)がまとめたとされる、我が国最古の仏教説話集「日本霊
	異記」に役行者の記事がある。
	上巻の「孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁 第二十八」
	というのがそれだ。ちなみに読み方を記しておくと、
	「くじゃくおうのじゅほうをしゅぢしてめづらしきげんりきをえ、もってげんにせんとなりててんをとびしえにし 第二十八」
	となる。

	孔雀明王(くじゃくみょうおう)の呪法を修めて霊術を身につけ、この世で仙人となって天を飛んだ話 第二十八

	役優婆塞(えんのうばそく)と呼ばれた在俗の僧は、賀茂(かも)の役君(えんのきみ)で、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)
	はこの系統の出である。大和国葛城上(かつらぎのかみ)郡茅原(ちはら:現在の奈良県御所市あたり)の人である。生まれつき賢
	く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行に努めていた。この僧はいつも心のなかで、五色の雲
	に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人達といっしょになって、永遠の世界に遊び、百花でおおわれた庭にい
	こい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。
	このため、初老を過ぎた40余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛(かずら)で作ったそまつな着物を身にまとい、松の葉を食
	べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって、様々の欲望を払いのけ、『孔雀経』(くじゃくきょう)の呪法を
	修め、不思議な験力(げんりき)を示す仙術を身につけることができた。また鬼神を駆使し、どんなことでも自由自在にこなす事が
	できた。
	多くの鬼神を誘いよせ、鬼神をせきたてて「大和国の金峯山(きんぶさん)と葛城山(かつらぎさん)との間に橋を架け渡せ」と命
	じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武(もんむ)天皇の御代に、葛城山の一言主(ひとことぬし)
	の大神が、人に乗り移って、「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている。」と悪口を告げた。天皇は役人を差し向けて、
	優婆塞を逮捕しようとした。しかし彼の験力で簡単にはつかまらなかった。そこで母をつかまえることにした。すると優婆塞は、母
	を許してもらいたいために、自分から出てきて捕らわれた。朝廷はすぐに彼を伊豆の島に流した。
	伊豆での優婆塞は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万状もある高山
	に置いていて、そこから飛び行くさまは大空に羽ばたく鳳凰(ほうおう)のようでもあった。昼は勅命に従って島の内にいて修行し、
	夜は駿河国(するがのくに:静岡県)の富士山に行って修行を続けた。さて一方、優婆塞は極刑の身を許されて、都の近くに帰りた
	いと願い出たが、一言主の再度の訴えで、ふたたび富士山に登った。こうしてこの島に流されて苦しみの三ケ年が過ぎた。朝廷の慈
	悲によって、特別の放免があって、大宝元年(701年)正月に朝廷の近くに帰ることが許された。ここでついに仙人となって空に飛
	び去った。
	わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅(しらぎ)
	の国に行き、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本の言葉で質問し
	た。法師が「どなたですか」と尋ねると、それは役優婆塞であった。法師は、さては「我が国の聖(ひじり)だなと思って、高座か
	ら下りて探した。しかしどこにも見あたらなかった。例の一言主大神は、役優婆塞に縛られてから後、今になってもその縛(いまし)
	めは解けないでいる。
	この優婆塞が不思議な霊験を示した話は、数多くあってあげつくせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の力は広大で
	あることがよくわかる。仏法を信じ頼る人には、この術を体得できることがかならずあるという事を実証するだろう。
	(訳文は、講談社学術文庫「日本霊異記(上)全訳注 中田視夫」による。)


	後世の、役行者について書かれた書物は、すべてこの「日本霊異記」に基づいていると言ってもいい。この説話をBASEに、あること
	無いこと、よってたかって脚色されていくのである。「古今集」などは明らかにこの「日本霊異記」の焼き直しだと言っていい。
	平安から鎌倉へ中世に入ってからも江戸時代になってからも、各山や寺の縁起(由来)が作られていくが、それらの作者は旧説に自
	説を加えて、どんどん「役行者」のイメージを広げてゆく。
	つまり、修験道の分派と発展に伴い、各修験派は自派の開祖を「役行者」として、その生い立ちから果ては終焉に至るまで、他派に
	無い独自の「役行者」像を創造していくのである。熊野に籠もった、富士山で修行した、箕面の滝に千日打たれた、九州の英彦山に
	籠もった等々、まさしく日本中を股に掛けての活躍ぶりである。ついには、それらの話がさも真実であるかのように世間に受け入れ
	られ、古代に「超人」が存在した事が明らかな事実であったようになってしまった。
	寛政年間には天皇までもが、その「役行者」の働きに対して「大菩薩」の称号を授けている。つまり「役行者」とは作られたSUPER
	 HEROなのだ。実際の所、修験道を創設した教祖ではなく、逆に修験者達によって理想的なあこがれとも言える行者に祭り上げられ
	た教祖なのである。

	我が国では古来より、山岳は神の領域として崇め奉られる事が多かった。風雲をいただく山頂に、深い谷を取り巻く森林に、人々は
	何か人間の営みを越えたものの存在を感じていたのである。やがて山頂や山中やそして山麓に人々は祠を建て、そこに山の神を具現
	化して日々これを敬うようになっていく。これが神道の始まりだという説もある。一体何時の頃からそういう山岳信仰が芽生えたか
	については、研究者間でも諸説あり判然としない。遙か石器人の時代からという人もいるし、仏教の影響だという人もいる。私見で
	は、それはおそらく縄文中期から末期にかけてではないかと考える。
	即ち、人々が社会性を持つようになってからだろうと思う。人々が集まり、意識はしないまでも社会というものが発生し、一定のル
	ールが必要になりだした頃、人間の存在を越えたものが必要だったのではないか。神は常に季節とともに在り、風とともに去って行
	く。そして高い山々から人々の営みを統治している。山は常に神がおわす聖域であり、侵すべからざる霊域だったのである。
	弥生時代になってからは、稲作と農耕の中にも神々が存在し、又渡来人のもたらした新しい技術や渡来人自体も神と見なされるよう
	になるが、山岳信仰は根強くそれらの新しい神々と共存しながら日本民族の中に根付いていったものと思われる。律令国家が発生す
	る頃になると、山を対象として神と対話し、己の精神性を高めるための修行を山岳や峡谷で行う者達が現れた。これには明らかに外
	来の道教や仏教の影響が見受けられる。山岳信仰は渡来の新しい教典をも取り込み、時代により場所により変化を見せながら今日ま
	で生き残っている。





役の行者が書いた文章、エライもんだ。高野さんが「なんか、今でも読める字ばっかりですね。」と言っていたがそこがポイントかも。




















	昭和20年6月1日に、北マリアナ諸島から飛びたったB29の大編隊が大阪を攻撃した。被害は甚大で多くの死者が出たが、B29
	の数機は日本軍の高射砲攻撃を受けて墜落した。そのうちの1機が大峯山に激突し、乗組員の多くは死亡し生き残った者は捕虜とな
	った。機体はただちに取り除かれたが、分解できなかったエンジンだけは残されたまま野ざらしとなり、やがて大峯山の土中に埋も
	れ、近年61年ぶりに掘り出された。ここに展示してあるのがそのエンジンである。
















	陀羅尼助(だらにすけ)は、古くからの伝統に支えられた民間薬で、関西地方その周辺では家庭常備薬、あるいは修験山伏の持薬と
	しても知られており、関西では子供の頃から苦い薬といえばダラスケとしてまかり通っていた。洞川には、
	「陀羅尼助(だらにすけ)は、今から1300年ばかり前、大峯山中で修行をしていた役行者が、山中の黄柏の木の皮を剥いで煎じ薬と
	して人々に飲ませ、疫病から救いました。後に役行者の従者「後鬼」の子孫の村、洞川「現在の奈良県吉野郡天川村洞川」で村人が
	陀羅尼助の製法を役行者から伝授されたと伝えられています。」と伝わる。




	洞川を歩いていると至る所に「陀羅尼助」の看板が掛かっているので驚く。旅館にも喫茶店にも何かの店にも「陀羅尼助」とあって、
	勿論「陀羅尼助」だけを専門に売っている店もあり、入り乱れてまるで町中が「陀羅尼助」屋のような感じである。奈良や和歌山の
	他の町を歩いても「陀羅尼助」はあるが、これほど町を挙げて宣伝・販売活動を展開している所はほかにない。してみると、ここが
	「陀羅尼助」の発祥の地というのは案外真実なのかもしれない。




	■ 陀羅尼助の由来 ■ 
	 飛鳥時代の斉明天皇3年(657)のこと。内大臣の藤原鎌足が急に腹痛をおこして苦しみ、天皇は大変に心配して、百済の禅尼法明に
	維摩経を唱えさせた。すると験があり薄紙をはぐように鎌足の腹痛が治りました。ところが一説によると、実は役行者が鎌足の病気
	をなおしたとも伝えられています。
	 その頃、疫病が、大和、河内、摂津から山城、近江と広がり、朝廷では医師を派遣したり薬を配給しました。この時、役行者は道
	場茅原寺(今の奈良県御所市茅原吉祥草寺)の門前に大釜を据えて薬草を煎じて呑ませました。さしもの疫病の大流行もおさまり、役
	行者に対する民衆の信頼は一層高まりました。 
	 役行者には、前鬼・後鬼と呼ばれた弟子がいました。行者には大峯山で修行中に、今後山中で修行する山伏達のため山中に多いキ
	ハダの皮から万病に効く「だらすけ」の製法を後鬼に伝授しました。これが大和洞川の陀羅尼助の起源とも伝えられています。陀羅
	尼助の主原料は黄柏すなわちキハダです。キハダは古くから朝廷に貢物として納められていました。 
 
	■ 江戸期からの陀羅尼助 ■ 
	 史実上、陀羅尼助の名が出てくるのは文楽浄瑠璃で、延享4年(1747)大阪竹本座で上演された『義経千本桜』には「洞呂川の陀羅
	尼助」の請け売屋が出てきます。また『役行者大峯桜』寛延4年(1751)では、苦味ばしった男役「陀羅助」が登場し「だらすけ」の
	口上を唱えます。陀羅助が自分の名を薬の名にして、竹の皮と箱を提げ在所を売り歩いたとあり、陀羅助の名が知られていました。  
	 陀羅尼助の陀羅尼は仏教の<総持>の意味で、助は救助する薬を意味し、経典にも陀羅尼経というのがあります。さて、和薬陀羅
	尼助は、山伏によって各地にもたらされ、また大峯参拝者は、吉野・洞川で土産として買い求め、諸国に運ばれていきました。 
	 また、その効能から遠く江戸にも送られ、江戸の薬問屋相模屋では、陀羅尼助の効能書を刷り込んだ紙に包み販売していました。
	その効能書には、役行者御夢想「大峯だらにすけ」御免として菊の御紋が刷り込まれていました。文化年間(1804〜1818)には、その
	売価は1包24銅となっています。 




	■ 陀羅尼助とは… ■ 
	 ヘボン式ローマ字の創始者であるヘボンが作った日本で最初の和英辞典『和英語林集成』(1867)には、「陀羅尼介」と「万金丹」
	がでています。「Daraniszke or daraszke, ダラニスケ, 陀羅尼介 A kind of bitter medicin.」とあります。大江戸には大和の陀
	羅尼助の評判は高かったことから、当時流行った川柳に<だらすけは腹よりはまず顔に効き>というのがあります。   
	 板状の陀羅尼助は、慣れない人には呑みにくいので丸薬が造られるようになりました。キハダエキス単独では、製丸しても互いに
	固着して団子状になるので、ガジュツやクシンなどを配合して丸薬を製造していました。これが、和漢薬「陀羅尼助丸」の初期のも
	のです。これに配合・賦形薬を研究して、現在では「陀羅尼助丸」として製造販売されています。  
	 胃腸薬としての陀羅尼助の主成分は、アルカロイドのベルベリンとその同族体などです。ベルベリンには消炎作用もあげられてお
	り、古来から陀羅尼助は打ち身や捻挫、眼病にも応用されてきましたが、薬事法の改正による再評価でこれらの効能は効能書から排
	除され、胃腸専門薬となりました。   





	「山上ヶ岳歴史博物館」は期間限定で開館されており、8月15日(水)で前回の展示は終了していた。次回は9月22日(土)〜
	9月24日(月)の3日間で、全く不定期だ。今なお女人禁制の山上ヶ岳山頂にある世界遺産「大峰山寺」。この寺の至宝が展示さ
	れているはずで、千三百年の祈りをささえた遺物の数々をを見たかったが、マコトに残念だった。


	*** 2007年 「藤原道長」大峯参詣から一千年 ***   ◇◇大峯修験道遺宝展を開催◇◇

	■開館日
	  8月 2日(木) 〜 8月 5日(日)
	  8月13日(月) 〜 8月15日(水)  
	  9月22日(土) 〜 9月24日(月)   
	 10月14日(日) 
	■開館時間 9時00分〜18時00分
	※8月5日・9月23日・9月24日・10月14日は開館時間が異なり、7時〜16時までとなっておりますので、お間違いのないようご注意
	 ください。        
	■入館料  大人300円 小中学生150円 (10名様以上の団体 大人200円・小中学生50円)
	■お問い合わせ 	 山上ヶ岳歴史博物館	 電話 0747−64−0099
				 天川村総合案内所	 電話 0747−63−0999



邪馬台国大研究 /歴史倶楽部/ 天川村