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東福寺
2007.4.12 京都市伏見区



	<泉涌寺・東福寺界隈> (せんにゅうじ・とうふくじかいわい)  

	仕事で京都へ行った。昔のお客さんを訪ねて会社を変わった挨拶をしに行ったのだが、時間があったので、昔から側を通るだけで
	寄ったことのない東福寺に、ついでに寄って行くことにした。
	東山通から泉涌寺道を東へ行くと、まず左手に那須与一ゆかりの即成院がある。さらに東へすすみ、大門を入ると皇室の菩提寺で
	知られる泉涌寺である。境内は樹木が多く静寂な雰囲気を味わうことができる。この泉涌寺周辺には、観音信仰で知られる今熊野
	観音寺、茶室と美しい庭の来迎院がある。中心の泉涌寺も、楊貴妃観音、仏殿など見るべきものが多い。
	もう泉涌寺には何度か行ったし、「天皇陵めぐり」を見て貰えばその概要は分かるので今日はパスして東福寺へ向かう。三門など
	壮大な伽藍が建つ、「臨済宗東福寺派大本山東福寺」。東福寺は、国宝三門をはじめ禅堂、東司など古い建物があるが、渓谷にか
	かる通天橋からの景色も絶景だ。古くからもみじの名所として知られており、秋にもう一度来たいものだ。 
 











	<光明山・即成院> (こうみょうさん・そくじょういん)

	源平の戦いの那須与一(なすのよいち)のゆかりの寺として知られ、本堂裏にお墓がある。

	光明山と号する真言宗泉涌寺派の寺である。当院は、正暦3年(992)恵心僧都により伏見に建立された光明院を始まりとする。
	寛治年間(1087〜94)には、関白藤原頼通の第三子橘俊綱が、山荘造営にあたり当院を持佛堂として傍に移設し、伏見寺または
	即成就院と呼ばれていた。文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治に至り、廃佛毀釈
	の法難に遭い廃寺となり、本尊諸尊は当院の本山である泉涌寺の仮堂に移された。その後本寺である法安寺である合併、更に明
	治35年泉涌寺総門の現在の地で再興され、昭和のはじめに「即成院」(泉涌寺の塔頭)と呼ばれるようになった。「即成院」
	とは、「即成就院」の略で、本尊阿弥陀如来の御利益で速やかに願い事が成就することを意味する。寺名にちなんで、ポックリ
	信仰の寺院とされる。
	本堂には、本尊阿弥陀如来像を始め二十五菩薩座像が安置され、境内には那須与一の墓と伝えられる石造宝塔がある。寺伝によ
	れば与市は出陣する途中病に罹ったが、当院に参籠し、本尊の霊験で平癒し、屋島の戦いで戦功をたてたので、佛徳を感じて出
	家し当院に庵をむすび、没したと伝えられている。本尊の阿弥陀如来および二十五菩薩坐像は重要文化財で、もともと阿弥陀信
	仰と共に建立された即成院では、日々参詣者で溢れ諸願成就、病気平癒の祈願等、広く信仰を集めている。 



表 門



本 堂





本堂から那須与一の墓へ



那須与一の墓。本堂の裏にある。




	那須与一 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	那須与一(なすの よいち、嘉応元年(1169年)? - 没年不詳)は、平安時代末期の武将。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。
	父は那須資隆(太郎)。妻は新田義重の娘。一般的には本名は那須宗隆(平家物語では宗高)と紹介されることも多いが、これは
	初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。

	<略歴>
	吾妻鏡など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は軍記物である平家物語や源平盛衰記に伝えるところが
	大きい(そのため、学問的には与一の実在すら立証できていない)。平家物語の記述から逆算すると、1169年(あるいは1166年、
	1168年)頃に誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
	治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の
	的を射落とすなど功績を挙げ、源頼朝より丹波・信濃など五カ国に荘園を賜った(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・
	信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)。また、十郎為隆を除く九人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一
	が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し領土を分け与え、下野国におけ
	る那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、某年、山城国伏見において死去。法名は即成院殿禅海宗悟大居士(又は即成院殿
	月山洞明大居士)。なお、「寛政重修諸家譜」では文治5年(1189年)8月8日死去、「続群書類従」では建久元年(1190年)10月
	死去とある。家督は兄の五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の実子(異説もある)である
	頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際にホスト役を務めた光資である。

	<異説・伝承>
	幼いころから弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、
	那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た源義経に出会い、父・資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍
	させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。
	子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説(越後那須氏)もあり、梶原氏といさかいをおこ
	したため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女をもうけ(息子は越後那須氏の祖となる)たとい
	う。その他、常陸国、出羽国、阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある。
	また、没年についても、1189年(又は1190年)に没したとするのは頼朝の粛清を免れるための偽装、出家した理由はハンセン病に
	かかり顔が変わってしまったため、とする伝承もある。また、那須義定によると頼朝の死後に赦免されて那須に戻った後に出家し
	て浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年余り続けた後、貞永元年(1232年)に中風のため摂津国で没したという。




	<墓所>
	墓所は、京都府京都市の即成院であるが、兄の那須資之が功照院という寺を建立し、分骨を埋葬したといい、永正11年(1514年)
	に、一度は廃寺になったものの、天正18年(1590年)、那須資景が那須氏の菩提寺玄性寺(栃木県大田原市)として再建し、那須
	氏では、こちらを本墓としている。
	神戸・那須與一宗高公御墓所また、兵庫県神戸市須磨区には、那須興一宗高公御墓所という与市の墓とされるものがある。この墓
	にお参りすると、年老いても下の世話にならないとする言い伝えがある。また近くには与市が信仰したとされる北向八幡神社と、
	地元の人々が与市を祀った那須神社がある。
	米沢市中央5丁目の西蓮寺の北西隣の虚空蔵菩薩堂の前には、那須与市の名を刻む三重の、高さ高さ約4.2メートルの石塔がある。
	これは那須与市の供養塔とされ、塔には「那須与市宗隆公」「千坂対馬守景親公」と刻まれており、裏には「享保四年孟夏十三日
	建立」と建立日が刻まれている。千坂景親は上杉謙信の重臣だが、千坂氏は那須氏とは婚族関係にあり、与一の守本尊(虚空蔵菩
	薩像)が伝わっていたとされる。
	また扇の的を射た功名で全国に得た荘園のうち1つの備中荏原庄(現在の岡山県井原市西江原)の山中にも与市の五輪供養塔が存
	在する。また備中荏原の菩提寺として開基した永祥寺の境内には、屋島での合戦時に破り捨てた片袖を祭った袖神神社や、那須一
	族の居城とされる小菅城址や創建した神社も存在する。

	<後世への影響>
	那須氏の当主の通称は一部の例外を除いて代々「那須太郎」であったが(那須資隆、那須光資等)、江戸時代以降、那須資景など那
	須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになった。現代の日本において、各種の二次創作物やフィクションに登場す
	る「那須与一」は、この与一をモデルにしている。那須氏に関係する、または与一と関係があったとする伝承が存在する神社仏閣な
	どでは、与一にちなんだ祭りが行われている。 




	【即成院の歴史・経緯】

	 992年(皇紀1652)正暦3年	源信(げんしん)が、伏見に建立した「光明院」が前身。
	 1087年(皇紀1747)寛治元年	藤原頼通(ふじわらのよりみち)の子の歌人・橘俊綱(たちばなのとしつな)が、伏見山に
					山荘を営むときに、光明院を持仏堂として、阿弥陀如来と二十五菩薩像を安置して「即成就
					院(そくじょうじゅいん)」と称したのが由来。「伏見寺」とも称された。
	 1594年(皇紀2254)文禄3年	豊臣秀吉の伏見城築城にともない強制的に、大亀谷(伏見区深草)に移転させられる。
	 1872年(皇紀2532)明治5年	廃仏毀釈により廃寺となり、仏像は泉涌寺に引き取られた。
	 1887年(皇紀2547)明治20年	泉涌寺大門前に仮堂が建設されて復興する。
	 1899年(皇紀2559)明治32年	泉涌寺塔頭の法安寺(ほうあんじ)と合併する。
	 1902年(皇紀2562)明治35年	大門前から総門近くの現在地に移される
	 1911年(皇紀2571)明治44年	阿弥陀如来と二十五菩薩像が「法安寺」の所有として重要文化財(当時の国宝)に指定される
	 1941年(皇紀2601)昭和16年	「即成院」の寺号が復活する





	このあたりはもう東福寺の域内である。いくつもの寺院が立ち並ぶ。境内には25の塔頭が建ち、三門、禅堂、本堂、方丈等の
	諸堂が立ち、伽藍には禅宗の建築様式がみられる。明治に規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院で
	ある。敷地面責20万平方メートルという大きな禅寺で、東山の山腹と渓谷にある。「恵日山東福寺」と号する臨済宗東福寺派
	の大本山で、京都五山に列せられる禅宗寺院である。








	東福寺 (とうふくじ)
	摂政九条道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に並ぶ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、
	「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが「慧日(えにち)山東福寺」である。嘉禎2年(1236)より建長7
	年(1255)まで実に19年を費やして完成した。工事半ばの寛元元年(1243)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天
	台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319)、建武元年(1334)、延元元年(1336)と、相次ぐ火災のために大部
	分を焼失した。
	延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ、
	延元の火災以降実に20余年を経て再び偉観を誇ることになった。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていたか
	ら、再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなった。仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両
	菩薩像は7.5mで、新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、東福寺は永く
	京都最大の禅苑としての面目を伝え、兵火を受けることなく明治に至った。
	明治14年12月に、惜しくも仏殿・法堂(はっとう)、方丈、庫裡(くり)を焼失した。その後、大正6(1917)年より本堂
	(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和9(1934)年に落成。明治23(1890)年に方丈、同43年(1910)に庫裡も再建され、鎌倉
	・室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している。




	聖一(しょういち)国師
	円爾弁円(えんにべんえん)といい、三井園城寺の学徒として天台の教学を究め,のち、栄西(建仁寺開山)の高弟行勇・栄朝
	について禅戒を受け、嘉禎元年(1235)34歳で宋に渡り、在宋6年、杭州径山の無準の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月に帰
	朝した。宋よりの帰朝にあたっては多くの文献を伝え、文教の興隆に多大の貢献をしたが、また水力をもって製粉する器械の構
	造図を伝えて製麺を興し、今日、わが国最大のお茶の生産地となった、静岡茶の原種を伝えたことも見逃せない功業である。
	帰朝後、まず筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、名声は次第に国内に及んで寛元元年(1243)には藤原(九条)道家に迎え
	られて入京、道家に禅観密戒を授けた。次いで東福寺開山に仰がれ、同4年(1246)2月には山内の普門寺を贈られて常住した。
	その後宮中に宗鏡録を進講し、後深草天皇の勅を奉じて京都岡崎の尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺などの大寺院を観閲し、
	また時には延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので学徳は国中に讃えられ、遂に建長6年(1254)には幕府執権
	北条時頼に招かれて鎌倉の寿福寺に住することとなった。翌7年6月,一条実経の東福寺落慶供養にあたり帰山。爾来東福寺に
	住し、弘安3年(1280)10月17日79歳で入定した。聖一国師の号は花園天皇より贈られたもので、日本禅僧最初の賜号であ
	る。







	<通天橋>
	仏殿から開山堂に至る渓谷洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊。1380年(天授6)、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷
	を渡る苦労を無くすために架けたとされている。現在のものは昭和34年に台風によって倒壊したものを昭和36年に再建したも
	のだが、この一帯に茂る約2千本もの楓は通天紅葉といわれ、まるで紅葉の雲海を見ているような素晴らしい景色である。臥雲橋、
	偃月橋(えんげつきょう)とともに、東福寺三名橋と呼ばれる。












	<本堂>
	三門の北にある。明治14年に仏殿と法堂が焼失したあと、大正6年から再建にとりかかり、実に17年もの月日を費やし、昭和
	9年に仏殿兼法堂として完成した。高さ25.5m、間口41.4mで昭和の木造建造物としては最大のもの。本尊は釈迦立像、
	脇に摩訶迦葉尊者 阿南尊者、四天王を安置している。天井の龍の絵は堂本印象作である。






	現在の本堂、方丈、庫裏などは明治時代以降の再建。国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建
	物が現存している。壮麗な迦藍が南北一直線に並び、25の塔頭はその西側に立ち並んでいる。国宝の絹本着色無準師範像や宋版
	太平御覧など千点を超える文化財を所蔵する。








	<三門>
	大仏様、禅宗様、和様をそれぞれ組み合わせた建造方式となっている。重厚なつくりの三門は国内最古のものと言われ国宝に指
	定されている。現存する三門の中で日本最大最古のもの。五間三戸、重層入母屋造で両脇に上層へ登る山廊があり、上層には釈
	迦如来、月蓋長者、善財童子・十六羅漢像が安置されている。楼上天井には画聖兆殿司・寒殿司の彩画がある。











東司 禅宗式のトイレ。




	拝観時間 : 9:00〜16:00(11月のみ8:30〜16:30)
	拝観料  : 境内自由 方丈庭園 400円、通天橋・普門院・開山堂 400円 
	住所   : 京都市東山区本町15丁目778  TEL 075-561-0087 
	交通   : JR東福寺駅から徒歩13分。・京阪本線「東福寺駅」下車,南東へ徒歩10分
		   市バス202,207,208系統「東福寺」バス停下車  駐車場は紅葉時期以外無料。 







	後宇多天皇(1267-1324) 鎌倉末期の第91代天皇(在位1274-87)   亀山天皇第2皇子 大覚寺統。
	1287年に譲位後、大覚寺に住んだところから大覚寺統と呼ばれた。持明院統の伏見・後伏見天皇が相ついで即位したため、
	鎌倉幕府に抗議し、両統迭立(りょうとうてつりつ)を行わせた。大覚寺統の後二条・後醍醐朝の11年間院政を行った。
	しかし、1301年(正安3)には出家して法皇となり、1321年に院政を廃止して後醍醐天皇の親政とした。大覚寺で
	学問と仏道の研究に専念したと云われる。







JR「東福寺駅」、京阪電車「鳥羽街道」の近くが訪問先である。



そのお客さんの会社の庭に咲く「しだれ桜」。これは円山の八坂神社のしだれ桜を、枝分かれして貰ってきたものである。




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