Music: 琵琶湖周航の歌

第131回例会

琵琶湖周航の歌 2008年4月27日 滋賀県今津町・長浜町








	
			第131回例会 竹生島クルーズ

			日本のど真ん中、琵琶湖のど真ん中、「竹生島」を訪ねて、長浜の街へ
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			日時  : 2008年4月27日(日)10:30am集合
			集合場所: JR湖西線・近江今津駅 改札前
			アクセス: 大阪 09:15 〜 10:34 近江今津  
				  乗車 1時間19分 距離:101.5km 13駅 JR東海道本線新快速 1,890円 
			行程  : JR近江今津駅 →(徒歩5分)今津港・観光船乗り場10:50発 →(25分)
				  → 竹生島(50分滞在)・宝厳寺・都久夫須麻神社(12:05竹生島発)→
				  (30分)→ 12:35 長浜港着 (昼食は船の中でとります。) 2,750円
				  <接続便に乗り遅れた場合は、約1時間後の次の船に乗ります。) →
				  長浜市内散策
				  (慶雲館・長浜鉄道スクェア・長浜城歴史博物館・黒壁スクェア等)→
				  JR長浜駅発(17:00頃) →(1時間12分)→ 京都着 1,280円
			 	 (京都にて反省会・解散)
			持参する物:弁当・水筒・防寒具・タオル・替上下着・その他
			費用  : 交通費 6,320円
				 (大阪発・京都解散の場合 1,890円+2,750円+1,280円+島拝観料400円)
				  拝観料 900円
				 (慶雲館 200円、長浜鉄道スクェア 300円、長浜城歴史博物館 400円)
			見所  : 




	今回は琵琶湖である。それも北方に位置する小島の「竹生島」を訪ねた。今まで何度も行きたいとは思っていたがなかなか機会が
	なかった。今回は、ずっとここへ行きたかった私のわがままを聞いて貰ったような例会になった。しかし他の人も「行ったこと無
	いので是非行ってみたい。」という人もいて、「古代史」からは少し離れた例会になったが、縄文からの湖底遺跡などもあるので、
	あながち古代史と関係ない訳ではない。今日は天気も良く、琵琶湖を横断する船旅も正味1時間に満たないが、結構楽しかった。

	実は今回の例会はハプニングから始まった。「大阪発 09:15の新快速」を予定していたのだが、私は早く大阪駅に着いたので、そ
	の一つ前の新快速に乗った。そしたらそれに杉本さん、高野さんも乗っていて、杉本さんとは一緒に座って今津駅に着いた。そし
	たらなんと服部さんはもう改札で待っていた。
	途中郭公さんから携帯が入り、9:15発の新快速は、宝塚かどこかで人身事故があってだいぶ遅れるという事だった。今津港を出る
	観光船は 10:50発である。間に合うんかいなとヤキモキしながら、観光船乗り場へ行って事情を説明したら「5分ほどなら待って
	もいい。」という返辞だった。船が待ってくれるのもおもしろかった。

	ここでの写真は、私が写したものと、服部さん、郭公さんが写したものが混在している。お二人さん、ありがとうございました。




	今津駅前の高野さんと、駅構内の案内所で色々とお世話になった青地さん。青地さんは我々が、後続が間に合うか心配しているの
	を見て観光船乗り場へ電話してくれたり、「駅で切符買っといたら。」と一緒に心配してくれる。すっかり仲良くなって写真を撮
	らせてもらった。「写真撮られるのなんか始めてですぅ。」笑顔が可愛かった。




	駅から観光船乗り場までは4,5分なのだが、その途中に「琵琶湖周航の歌資料館」があった。後続組の電車が着くまでにまだ時
	間があったので、しばらくここを覗いてみた。後続の人は時間が無く、電車が駅に着くなり船着き場へ駆けだしたので、当然ここ
	は見ていない。














	連絡している電車が遅れているという情報は船会社にも入っていたようで、我々が船に乗り込んでもまだ来ていない人を待ってい
	た。結局15分ほど遅れて船は港を出た。以前南九州に行ったときも、松ちゃんが遅れて、あの時はフェリーを10分ほど待たせ
	てしまったが、考えるとよく待ってもらえたもんだ。フェリーに比べれば今日の船は小さいし、乗り損なったら1時間待ちだから、
	船会社もギリギリまで待ってくれたのだろう。








	途中、琵琶湖湖底遺跡のビデオを見たり、「アレが賤ケ岳(上)かな。」「いやぁ、ここからは見えんのちゃう。」などと言いな
	がら過ごしていると、あっと言う間に「竹生島」が見えてきた(下)。






	私の「終の棲家」(ついのすみか)の夢は、まさしくこのような島である。ここに一人きりで住み、釣りと思索に晩年を過ごし、
	誰に知られることもなく、ひっそりとこの世を去ってゆく。そんな事の出来る奴はおらんやろなぁ。






	現実の竹生島は、鵜の糞で樹木も立ち枯れ、水辺では岩肌を無惨にさらしている。定期船が発着する港は島の南側に一箇所あるの
	みで、数店の土産物店と寺社はそこからすぐの所にある。人が往来する場所は島の南の一部に限られており、終日無人の北部には
	カワウの大規模なコロニーが形成されている。その数は約2万羽にも達し、糞害により木々のほとんどを枯死させるという景観被
	害を及ぼしている。今日では「緑樹陰沈んで」と観世流謡曲で謡われた在りし日の竹生島の姿を見ることはできない。水質の汚染
	も北側で特に顕著。近年では南側にも糞害の影響は及び始めている。
	このような深刻な状況に滋賀県も対策に乗り出し、営巣妨害のために樹木にロープを張ったり、爆音機や目玉風船による威嚇とい
	ったことがなされ始めた。また、2004年度からは駆除が実地され、もうひとつの滋賀県内での主要なカワウ営巣地である近江八幡
	市の伊崎半島地区と合わせて年間1万羽以上が駆除されている。
	2007年6月2日には、安倍晋三総理大臣が嘉田由紀子県知事らとともに長浜港より竹生島へ向かい、カワウの被害を視察している。



上が私の携帯カメラ(200万画素)で写したもの、下は郭公さんのデジカメの写真。何万画素かは知らないが、相当な違いだ。




	船内のビデオが紹介していた「葛籠尾崎湖底遺跡」(つづらおざきこていいせき)をネットで検索してみた。滋賀県教育委員会事務局
	文化財保護課のHPに以下の情報があったので転載する。琵琶湖には多くの湖底遺跡があるが、実際に人々が暮らしていた遺跡は、南
	の比較的浅い処に集中しているので、この辺りは祭祀遺跡で、おそらくは湖上から土器を投げ込んだのではないかと思う。今なお時折
	漁師の網にかかった遺物が引き揚げられる、世界でも類例のない湖底遺跡である。


	遺跡名: 葛籠尾崎湖底遺跡(つづらおざきこていいせき) 
	所在地: 滋賀県東浅井郡湖北町尾上他 

	湖底にある、縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡(ふくごういせき)です。遺跡は、竹生島(ちくぶじま)を間近に望む葛籠尾
	崎の先端から東沖10〜700m、葛籠尾崎の湖岸に添って北へ数キロの範囲、水深10〜70mの湖底に位置しています。この遺跡
	は、大正13年(1924)末、湖北町尾上(おのえ)の一漁師が縄文土器・弥生土器・土師器(はじき)を引き上げたことがきっかけにな
	り、その後も次々に土器が発見され、その所在が明らかとなりました。現在までに引上げられた遺物の総数は約140点程で、ほとん
	どが完形品です。縄文時代のほぼ全期(約10000年前〜約2300年前)、弥生時代中期・後期(約2100年前〜約1750年前)、古墳時代
	(約1750年前〜1400年前)、奈良時代・平安時代の各期の土器が見られます。

	湖底での遺物は、潜水調査でも確認されていますが、土中に埋没せず露出した状態で沈んでいます。これは、葛籠尾崎周辺に、河川が
	無く、土砂が堆積しなかったため、土器等が沈められた(あるいは沈んだ)当時のままの状態で現在まで残ったためと考えられます。長
	期間に亘り、同じ位置にあったため、湖水に含まれる鉄分が表面に厚く付着(湖生鉄)した土器も見られます。葛籠尾崎湖底遺跡が、
	どのようにして形成されたかについては、湖岸遺跡からの「遺物流出説」、祭祀(さいし)により土器を沈めた「祭祀説」、船が沈没
	・転覆したため積荷の土器が沈んだとする「船舶の沈没説」、葛籠尾崎の地滑りによる「遺跡の沈下説」等がありますが、残念ながら、
	どれも推定の域を出ていません。
 

	■葛籠尾崎湖底遺跡へのアクセス	 	琵琶湖の中。船を利用。泳ぐのは無理。 (これには、笑ってしまう。)
	■現況	湖底 
	■問い合わせ ・湖北町教育委員会	   東浅井郡湖北町速水2745 ・0749-78-1001  
		   ・滋賀県埋蔵文化財センター   大津市瀬田南大萱町1732-2 ・077-548-9681 
	■参考文献 
		琵琶湖北東部の湖底・湖岸遺跡/2003 
		滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会 
		湖北町内遺跡詳細分布調査報告書/1994 
		湖北町教育委員会  
		琵琶湖湖岸・湖西遺跡分布調査概要I/1973 
		滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会 
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	滋賀県文化財学習シート 遺跡編●滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 


	大正13年末、尾上の漁師がイサザ(湖底にすむ琵琶湖固有種でハゼ科の魚)漁をしていたところ、その網に数個の縄文・弥生時代の
	土器が引き上げられました。さらにその後も次々と引き上げられ、湖底に遺跡が存在することが明らかになりました。この遺跡は葛籠
	尾(つづらお)崎の東沖約600m、水深は10〜70m の湖底に眠っています。葛篭尾崎は北湖のほぼ中央にある竹生島を支えるかのように
	突出している半島で、地形は特に険しく急な斜面は深い湖底までつづいています。ここで引き上げられた土器類は、その多くが完形を
	留めており、縄文早期のものをはじめ、弥生土器、土師器、石斧などのほか、平安時代後期のものまで確認されています。このように
	水深数十メートルの場所に、数千年の時間的幅をもった湖底遺跡は、わが国だけでなく、世界でも類をみない珍しい遺跡とされていま
	す。その成因については、これまで、湖上住居跡説や湖中に流出した湖岸遺物が潮流によって湖底の一ケ所に集まった結果であるとか、
	地形変動に基づく説や湖の水神に土器を奉納した祭祀説などの諸説が出されていますが、いまだ解明されておらず、謎に包まれていま
	す。湖底から引き上げられた百数十点の出土品は、尾上公民館に保管展示されています。また、7月下旬に開催される水とロマンの祭
	典では、葛籠尾崎湖底遺跡の謎と題してシンポジウムが開かれ、船上から水中カメラで遺跡を見たり、講演会が毎年開かれています。


	幾時代にも渡っての土器があるところからすると、おそらくこの場所は祭祀場だったのだろうと思う。豊漁か航行の安全かはわからな
	いが、おそらく船の上から土器を投げ入れたものだろう。そしてその土器の中は、酒か木の実か、何か神への貢ぎ物で見たされていた
	のではないかと思う。





船が島の周囲を三分の一ほど廻ると、竹生島の船着き場が見えてきた。







竹生島を後にして、船は長浜港を目指す。行きと同じ30分ほどの船旅。「竹生島よ、さらば、さらば」って、叙情歌そのものやん。



やがて長浜の町が見えてくる。











長浜城で「浪漫パスポート券」を買う。これだと4つまで長浜の施設が見られて割安。バスも無料だが、今日は乗っている閑がない。






長浜城(市立長浜城歴史博物館)




船着き場の横が秀吉にちなんだ「豊公園」になっていて、この中に復元した長浜城(歴史博物館)がある。

 







 



上左は服部さんのデジカメ写真。これも私のよりずいぶん綺麗だ。もう私のデジカメも買い換え時やなぁ。








	長浜城からJR長浜駅へ向かう道路の脇にひっそりと建つ「山之内一豊屋敷跡」の石柱(上左)。かっては長浜城主だったのに、今は
	この石柱一本である。上右がJR長浜駅。



駅前に立つ、「秀吉と三成」像。





豊国神社






	豊国神社 (長浜市)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	所在地 滋賀県長浜市南呉服町6-37 
	主祭神 事代主大神、豊国大明神(豊臣秀吉)、加藤清正、木村重成 
	創建 慶長5年(1600年) 
	本殿の様式 神明造 
	主な神事 豊公まつり 

	豊国神社(ほうこくじんじゃ)は、滋賀県長浜市に鎮座する神社。 「豊国大明神」こと豊臣秀吉のほか、事代主大神、加藤清正、
	木村重成を祭神とする。近江長浜6瓢箪巡りの第一番札所。










	豊臣秀吉は天正元年(1573)〜天正4年(1576)に長浜城主であったが、当社は長浜町民が、秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600)、
	その遺徳を偲んで建立したものである。江戸時代に入ると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されたが、町民によ
	って祭神は町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀っていた(現在の豊国神社で事代主が一緒に祀られ
	ているのはこのため)。明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建さ
	れた。毎年10月の豊公まつりには武者行列が行われる。北陸本線長浜駅から徒歩3分。 







黒壁スクェア




	北国街道を中心に、情緒ある明治の風格建造物にガラスをちりばめた30館からなる建物群の総称が「黒壁スクエア」である。中心的
	存在である黒壁1号館の重厚な黒漆喰の建物は、明治33(1990)年に旧百三銀行長浜支店として建造され、「黒壁銀行」の名で長浜市
	民に親しまれていたもの。さまざまなガラス製品が約3万点展示販売されている。「黒壁銀行」は、平成元年から原形復旧が行われ、
	世界中のガラス作品を集めた、ガラスの殿堂「黒壁ガラス館」としてよみがえった。その周囲にはガラス工房、ステンドグラスや世界
	のガラス芸術を展示するギャラリーなどガラスの魅力にこだわった施設をはじめ、郷土料理、土産物店、作陶ができる店など多種多彩
	な約30の店が集まり、ノスタルジックな趣が漂うガラスの町「黒壁スクエア」を形成している。




	黒壁ガラス館(1号館)
	3万点を超すガラス製品を展示・販売する黒壁スクエアの中心的な存在。
	開館時間/10:00〜18:00(冬期〜17:00)
	休館日/年末
	入場料/無料
	問い合わせ/(0749)65-2330 




	さらに北国街道沿いには、20世紀初頭に流行したアール・デコを代表するガラス作家であるルネ・ラリックの作品が堪能できる「成田
	美術館」や、北国街道と琵琶湖の水運によって築かれた、湖北地域ならではの生活文化を貴重な古美術を通して紹介し、とりわけ櫛や
	かんざしのコレクションが秀逸な「郷土資料館」など、長浜ならではの美意識を満喫できる。
	秀吉の時代の城下町に始まり、北国街道の宿場町として栄えた一帯は、その伝統を受け継ぎながらガラス文化と融合することによって、
	長浜独自の歴史を歩み続けていこうとしている 
 



	北国街道は長浜の町を南北に貫く。江戸日本橋を起点とした五街道に次ぐ重要な道で、多くの武将や旅人の往来、荷物の運搬でにぎわ
	ったといわれる。なかでも、長浜城の大手門から岐阜の谷汲山華厳寺へと通じる谷汲街道と北国街道との交差点あたりは、江戸時代か
	らの町の中心地である。






	この一角に明治33年、第百三十銀行長浜支店が建造された。洋風土蔵造りに黒漆喰の壁という和洋折衷の様相から「黒壁銀行」の愛称
	で庶民に親しまれていたが、昭和末期、建物は解体の危機に遭遇する。それを聞いた市民の間から、この地に息づく歴史と文化遺産を
	未来へ守り生かそうという気運が高まり、昭和63年、第三セクター「黒壁」が誕生し、江戸時代の面影を残す古い街並みを生かした
	まちづくりが始まった。




	「うぉー、味の素やて、懐かしぃー。」「しかも、ちに点々やし。」「え、味の素て何ですか?」「え、味の素しらんの?」「はい」
	「嘘やろー、昔は出汁(だし)とるのに必ず使(つこ)てたで。」「ダシ。カツオとか昆布とか?」「そうそう。」「へぇー。」「漬
	けモンとかにもよう掛けてたなぁ。」「あぁ、そやねぇ。」「何であんなにはやったんでっしゃろね。」「そらやっぱ、昆布とかカツ
	オとか高かったからちゃう。」「そやろねぇ。」 郭公さん撮影。



長浜御坊 大通寺




	慶長7年(1602)、教如上人(本願寺12世住職)は徳川家康より本願寺の分立の許可を得て大谷派本願寺(東本願寺)を興した。これ
	にともない長浜城の旧地に移っていた当寺は、道場から無礙智山大通寺と号して発足した。
	大谷派本願寺第13世・宣如上人の長男霊瑞院宣澄が住職として入寺1639(寛叡16年)し、これを契機に当寺は彦根藩主・井伊直孝の援
	助を得て寺域の拡大をはかると共に、東本願寺より伏見城の遺構と伝えられる本堂や広間を譲り受け、寺観の整備を図った。ここに当
	寺は真宗大谷派の別格別院として七千坪の境内を要し、名実共に当地方における信仰の要として今日に到っている。




	伏見城の遺構と伝わる雄大な桃山建築の本堂や大広間。国宝級の山門は京都東本願寺の山門のモデルになっている。また、脇門は豊
	臣秀吉の長浜城の搦手門である。建物内には、丸山応挙や狩野山楽、山雪の襖絵、国の名勝に指定された2つの庭園など数多くの見
	所があり、町の中心部に位置するランドマーク的な建物である。地元の人からは「御坊さん」と呼ばれている。



	大広間(重文)江戸初期
 
	書院造りの構成要件である、床、帳台構、違棚、附書院などを、上段の間に正面一列に並べているところに、この建物の特徴がある。
	本堂と同様に、もと伏見城の遺構で極彩色で描かれた花鳥図や人物図は、桃山風御殿の豪華な趣をよく伝えている。




	附玄関(重文)江戸時代
 
	宝暦十年(1760)に当寺の住職・横超院の内室であった彦根藩主・井伊直惟の息女数姫が親鸞聖人五百年忌に建てたもので、豪華なか
	ごは数姫輿入れの時に使われたものである。






	本堂・阿弥陀堂(重文)江戸初期
 
	もと伏見城の殿舎であったが、大谷派本願寺が分立した際、御影堂として移されたその御影堂を承応年間(1652〜1654)に当寺に移し
	て本堂とした。
	拝観料300円だが、山門から中庭、正面広間までは無料で入れる。工事中で覆いが掛かっていたが、この寺の山門は見事で、東本
	願寺の山門のモデルというのも頷ける。以下は修復前の山門。



	山門(市指定)江戸時代
 
	文化五年(1808)起工し、33年後の天保十一年(1841)落成した。総ケヤキ造りで、近世大型建築としては、県内屈指の名作である。







いかにも城下町らしい佇まいの通り。



途中みんなで歩きながら飲んだ、地ビールの「長濱浪漫ビール本社」を見附けた郭公さんは、まだ飲むつもりらしい(上左)。









線路沿いに駅へ戻り、長浜駅から京都へ向かう。反省会は全員に都合のいい京都駅周辺でと言うことになって京都駅で下車。




京都駅の地下街で、なにやらしゃれたレストラン風の店に入る。お姉ちゃんは可愛かったが料理は最低の部類に近かった。






	「アジの三杯酢」を頼んだら、親指ほどのアジが5,6匹出てきて、「なんやこれぇ、これがアジぃ!」「ようこんなもの、三杯酢な
	んかに漬けるなぁ、恥ずかしうてよう漬けんで、わしゃ。」「哀れなアジやなぁ。」とみんなボロカス。他の料理もおしなべて同様の
	モノで、とても料理とは呼べないような代物ばかりだった。
	「やっぱ中年はこういう店に入ったらイカンのやで。」「しかし、こんなもん喰わされとる今の若いモンは、そのうちオカシなるんと
	ちゃうか?」「こんなんで、金とれるなんて、ちょっと日本おかしいで。」




久々に大はずれの反省会となりました。皆さん、次回に期待しましょう。お疲れ様。しかし琵琶湖、竹生島はよかったですねぇ。




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