Music: 春の海  発掘された日本列島2008展


歴史倶楽部 第134回例会 2008.9.28 in 兵庫県立考古博物館





受付のお嬢さんがうっとりした目で私を見つめている。(って、なわけないか。また何かからかったのかな)。





「叫ぶ卑弥呼婆ぁ」かね、こりゃ。












1.旧石器時代 太郎水野2遺跡







	出土した石器の分析(火山灰)からは明確な年代は割り出せていないが、類似する遺跡の石器との比較でおおむね2万年前の
	遺跡であろうとされている。石器制作の痕跡はないので、外部から持ち込んだ石器を捨てていった、或いは忘れていったもの
	と考えられる。ナイフ形石器や一部の石刃には、動物を解体したときの痕跡が残っており、掻器には皮をなめした痕跡が観察
	された。ここで旧石器人たちが獲物を捌いていたのは間違いない。出土した石器の少なさから、とさつ場のような恒常的な解
	体場ではなく、狩猟の旅の途中で、自分たちの食料にするために動物を解体した場所と考えた方がよさそうだ。









2.縄文時代 清武上猪ノ原遺跡



矢柄研磨器(手前は今回発見された実物)。




	縄文時代早期(13000年〜10000年前)の集落跡。縄文早期では国内最多の14棟の竪穴式住居が発見された。矢柄研磨器も
	九州では始めて発見された。竪穴住居の一部が隣の住居と重なっていたので、全ての住居が同時に建てられていた訳ではない。
	これまで縄文早期の住居跡は1〜2棟しか見つかっていない事例が多いこと、遺物が大量に存在することからみて、小規模な
	集団が何度もここを訪れていたと考えられる。さらに、重量のある擦り石や石皿が出土している点からみて、ここで定住生活
	を営んでいたものと推測できる。




	これまで東日本からしか出土せず、石器文化の地域差とされてきた矢柄研磨器が九州で始めて出土したこともこの遺跡の特色
	である。これにより、縄文文化の拡散・画一性を新たな視点で見直す必要性が出てきた。矢柄研磨器はすべて住居群の南側で
	発見されており、周辺には石鏃や破片が散乱していた。つまり住居と石器制作の場はあきらかに分離されていたのである。
	縄文人達が、生活していた集落の中で、どのように空間を使い分けていたかを知る事ができる。




	ミニチュア土器出土 清武上猪ノ原遺跡	2008年02月05日	宮崎日々新聞

	清武町船引の清武上猪ノ原(かみいのはる)遺跡から、縄文時代草創期(1万2千年―1万年前)のものとみられるミニチュア
	土器が見つかったことが、4日分かった。同町教委によると、県内では同時期のミニチュア土器が出土したのは初めて。九州で
	もほとんど発見されていないという。
	土器は、おちょこのような形で高さ約4センチ、口縁部は直径約3センチで、輪状にした粘土を積み上げた跡がある。同町教委
	の秋成雅博主事によると、用途は不明だが、基本的な縄文土器の作り方を踏まえているという。
	ミニチュア土器は同町加納のきよたけ歴史館で開催中の企画展「縄文の清武」に展示している。
	問い合わせは同館TEL0985(84)0234。

	
	【写真】清武上猪ノ原(かみいのはる)遺跡から見つかったミニチュア土器=4日午後、清武町のきよたけ歴史館





3.縄文時代 大清水上遺跡




	岩手県の南西部に位置する大清水上遺跡は、一辺20qの日本最大級扇状地である「胆沢扇状地」の最奥頂部、標高280m
	の中位段丘上に立地する。胆沢ダム建設事業に伴い当該地の発掘調査が平成12年度に開始されたが、中央広場を有する環状
	集落であることが判明したため、集落のほぼ全体は計画変更により保存された。遺跡は縄文時代前期後葉の大木5式期に限ら
	れ、遺構がまったく存在しない直径約20mの中央広場を取り囲むように、大型竪穴住居62棟がその長軸を中央広場の中心
	部へ向けて円環状に直径約110mの範囲で配置され、さらにその外側には小型竪穴住居や主に貯蔵穴と想定される土坑が巡
	る。




	大清水上遺跡は、標高280m、胆沢川によって造られた河岸段丘上にある縄文時代前期後葉(約5000年前)の環状集落であ
	る。上図に見るように、環状集落の遺構は直径20mの広場を中心に、大型住居が放射状に配置され美しい円環を描いている。
	ほぼ同じ所で何度も建て替えたり、規模を広げたりしながら合計62棟の住居跡が見つかっている。この地で何世代にもわた
	りながら定住生活をおくっていたことがわかる。
	大型住居の床面からは、火を焚いた跡が1棟から数カ所見つかっている。多くの土器・石器のほか、イチジク型土製品、燕尾
	形石製品など、この地域では珍しい遺物も出土している。土器のほとんどが縄文時代前期後葉の大木(だいぎ)5式期のもの
	(上右、下左の土器)で、遺跡の年代もこの頃と考えられる。




	縄文時代の環状集落の萌芽は縄文時代前期中葉の史跡綾織新田遺跡(岩手県遠野市・大木3〜4式)や史跡根古谷台遺跡(栃
	木県宇都宮市・黒浜式)に見られるが、それらはいまだ中央広場に大型竪穴住居の長軸を向けない構造になる。これに対し、
	時期的にも後出する大清水上遺跡は、中央広場に軸線を向けて環状を形成する集落で、縄文時代中期に普遍化する環状集落の
	初期形態として、その形成状況がわかる極めて重要な遺跡である。 





4.弥生時代 寺福童遺跡






	発掘者は最初「箱が埋まっている」と思ったそうである。埋納土杭のなかには中広形銅弋(どうか)が9本、刃を立てた状態
	で、密接して並べられていた。銅弋を埋めた穴(埋納杭)は一部が後世に毀されたことが分かるので、本来はそれ以上が埋め
	られていたようである。発見当初は、周囲と色が違う黒褐色の部分に、木箱や袋に入れられていると予想されたが、室内に運
	び込んで分析した結果、容器には入れず直接地中に埋められていたことが判明した。




	この遺跡は、福岡県の中央部を流れる宝満川が筑後川へ注ぐ下流付近にある。九州自動車道と長崎道が交差し、西鉄本線と甘
	木鉄道が交差する場所でもある。付近には小郡正尻遺跡(墓地)、大崎遺跡(集落)、小郡大板井遺跡、乙隈天道町遺跡、と
	弥生時代の遺跡が点在し、川の上流には隈・西小田遺跡がある。そして、大崎遺跡を除く全ての遺跡から銅弋が出土している。
	しかし今回のようにまとまって、しかも何度も埋め戻した跡がある遺跡は初めてである。




	青銅器は通常何かのタイミングで発見されることが多いが、今回は発掘調査で見つかった。発掘調査で青銅器が発見されるの
	は極めてまれである。発見された銅弋は弥生時代中期から後期前半(約2000年前)のもの。




	何かの用件で取り出してはまた埋め戻すという事を繰り返している。しかも写真のように丁寧に埋納しているのである。この
	遺跡は、弥生人達の青銅器の取り扱いに関する謎を解明する、何かヒントを与えることになるかもしれない。









5.弥生時代 桜馬場遺跡






	この遺跡は第二次世界大戦中の1944年に発見されている。防空壕の工事中に甕棺墓が発見され、当時としては豊富な副葬品が
	発見されたので、末羅国の王墓に違いないとされた。当時の遺物は、後漢鏡の方格規矩鏡2、有鈎銅釧(ブレスレット)26,
	巴型銅器3,ガラス製小玉1、鉄刀片1などであり、すべてが重要文化財に指定された。戦後2度にわたって周辺の発掘作業
	が行われたが、いずれも当時の王墓を発見できず、既に王墓は消失したと考えられていた。




	2007年に唐津市教育委員会が再度発掘調査を実施し、ついに王墓発見の契機となった防空壕跡を発見した。そしてここから、
	多くの青銅器が出土したのである。鏡片、巴型銅器、ガラス製小玉、ガラス製菅玉、碧玉製菅玉、硬玉製勾玉、素環頭太刀、
	などなど、圧倒的の量と質の副葬品が出土した。王墓と特定は出来ないが、相当高位の首長クラスの人物の墓であることが確
	認された。最初の発見から実に63年振りになる。しかし遺跡というものは、掘り返してみるもんだねぇ。









6.弥生時代 広田遺跡




	広田遺跡は、鹿児島県種子島の南種子町にある弥生時代後期から古墳時代併行期にかけての集団墓地の遺跡である。広田遺跡で
	は、太平洋に面した砂丘に、豊富で多彩な貝製品が副葬された人々が埋葬されていた。調査の結果、90箇所の埋葬遺構と157
	体の人骨,総数4400個に及ぶ貝製品が出土した。出土した貝製品の中には,南海産の貝を素材とした腕輪,首飾り,貝符等
	がある。これらの貝製品の形状や文様は、南島文化との関連性を示唆している、貝製品の中には広田遺跡特有のものも多く、広
	田遺跡の人々は南島文化を取り入れつつ独自の豊かな文化を形成していたと考えられている。




	昭和30年、台風22号によって「広田遺跡」のある砂丘の海側の一部が崩壊し、人骨や貝でつくられた製品が砂浜に転がって
	いるのを、地元の長田茂、坂口喜成氏が発見した。長田氏の通報を受けて、盛園尚孝氏が現地を確認したところ、今までに見た
	ことないような貝の製品を伴う墓地遺跡であることが判明した。発掘調査は、昭和32年に第一次調査を盛園尚孝・国分直一氏
	が中心となって行い、その後昭和33・34年と夏ごとに発掘調査が行われた。3次に及ぶ調査には、金関丈夫・永井昌文・金
	関恕・森貞次郎・佐野一・井関弘太郎・三島格・藤井三男・大森浅吉・林田重幸・山内忠平・大森誠吉・重久十郎・橋口尚武氏
	等が参加している。今日の講師、金関恕氏も、若き日に父とともにこの遺跡を掘っているのである。
	発掘調査は,約230平方メートルに及び,合葬を含む埋葬遺構90箇所、157体分の人骨と、副葬された4万4千点に及ぶ
	貝製品が発見された。その膨大な貝製品の中には、広田遺跡で初めて見つかった、独特の文様を持つ貝の小板である「貝符」や、
	同じく広田遺跡でしか見つかっていない竜ハイ状貝製垂飾と呼ばれる貝のアクセサリー等多種多様で、広田遺跡独特の貝製品が
	数多く含まれている。




	広田遺跡からは、上下2層から150体以上の人骨が発見された。下層は屈葬で,サンゴ塊を周囲に置いたものが多く,巫女ら
	しい女性などがていねいに埋葬されていた。上層は集骨再葬墓である。上、下層ともに多量の貝製の副葬品が出土した。上層人
	骨には、死者に供えるために作られた貝札が、下層人骨には,貝符、貝小玉、貝輪など生前の装身具が主に副葬されていた。素
	材には南海産のゴホウラ、オニニシ、イモガイ、オオツタノハなどが使われている。




	遺跡発見の発端となったのは、昭和30年の台風の襲撃であった。その後の調査で100体を超える人骨や貝輪・貝符をはじめ
	とする4万個を超えるたくさんの貝製品などが発見され、弥生時代前期から古墳時代前期に至る貴重な遺跡であることが判明し
	た。広田遺跡に見られる弥生文化は、約2300年前の弥生時代前期から古墳時代前期に至る貴重な遺跡であることが判明した。
	南方から伝わったと思われる興味深い埋葬法や古代中国の模様によく似た貝製品など、”南種子弥生人”の文化交流の深さが偲
	ばれる。発見された人骨は成人男性が約154cm,成人女性が約143cmだったということで、小さな古代人たちだったよ
	うである。




	種子島の広田遺跡を中心に、同島の鳥ノ峯遺跡や馬毛島・椎の木遺跡、あるいは奄美大島など南島各地から独特の特徴を持った
	弥生人が発見されている。後頭部が異様な程に扁平で短頭性が強く、顔面は著しく低顔、小顔傾向をみせ、鼻根部周辺は縄文人
	に似てかなり立体的である。身長は男性でも154cm(女性:142.8cm)しかなく、これまで日本で発見された古人骨
	集団では最も背の低い人々である。一応、縄文人的特徴を強く残した人々とされているが、独特の文様が彫られた貝製副葬品に
	は、大陸南部の影響も指摘され、その系統についてはまだ疑問が多い。 








	広田W遺跡は,広田遺跡の立地する砂丘のすぐ後背にある微高地にある遺跡で,畑を作る際にここからは多くの土器の破片が拾
	われている。平成15年度、南種子町教育委員会で調査をした結果,縄文時代後期の市来式土器や一湊式土器、それに中世の青
	磁類が出土した。遺構は確認されなかった。この年の調査では、弥生時代から古墳時代にかけての埋葬址である広田遺跡と直接
	関係する遺物は出土しなかったが、広田周辺には,縄文時代後期から遺跡が形成されていたことがわかった。
	平成16年種子島には非常に多くの台風や大雨があり、その際に平山の広田の海岸砂崖面より人骨が発見された。砂の崖面から
	発見されたので、雨や台風などで崩れる恐れがあるため緊急発掘を行った。
	平成17年度は、広田遺跡の範囲確認調査と、昨年の大雨で崖面が崩れ、新たに見つかった人骨の緊急発掘調査が実施された。
	調査は主に7月〜8月、真夏に行われた。調査の結果,昭和30年代に調査を行った砂丘の南側において,更に西側に墓が広が
	っていることがわかった。砂丘の北の端でも新たに墓が確認され,広田遺跡の墓域がまだ広がることがわかった。17年度の調
	査では,弥生時代から古墳時代にかけての人骨が,8体分見つかった。

	1) 貝殻で作られたのアクセサリーをどのように身につけていたかがわかる人骨
	2) 墓を作った際に,墓標として,墓穴の上を石で覆った,『覆石墓』と呼ばれる遺構
	  ※覆石の上には,南九州の中津野式と呼ばれる土器と,種子島の在地の土器とが一緒に置かれていた。種子島の在地の土器
	   の年代を知る上で,重要な発見である。
	3) 1,2歳の乳幼児が埋葬された墓
	  ※この乳幼児の墓からは,ガラスの小さな玉と貝の小玉で作られたネックレス状のものが見つかっていて,幼くして亡くな
	   った赤子に対する思いが伝わってくる。
	4) 夜光貝で作られた貝匙やオオツタノハという貝で作られた貝の腕輪を7個以上身に付けた青年男子の人骨。
	  ※この埋葬遺構からは,更に体に突き刺さったと見られる石のやじり(石鏃)が見つかっている。ほぼ同じ時期の埋葬遺跡
	   である,中種子町鳥ノ峯遺跡でも,墓の中から石鏃が見つかっていることから,この時期の種子島では争いがあった可能
	   性がある。

	ここでの解説は、2007年9月29日(日)に大阪府立弥生文化博物館で行われた展示会、「日向・薩摩・大隅の群像 −南九州の弥
	生文化− 東アジアの中の広田遺跡」のHPに書いたものを転載した。




7.古墳時代 塩田北山東古墳



	
	素材 青銅(銅・錫・鉛)。寸法 径18.6cm。神戸市北区道場町塩田の見晴らしの良い丘陵上に作られた前方後円墳に副葬されて
	いた。三角縁の青銅鏡は数百点出土しており、同じ鋳型で作られたものや、同様鏡背文様の研究がされているが、今回の文様は、
	他に類例がなく初めて見つかったもの。また、仏像が描かれた鏡は神戸市内で初めての出土である。もちろん、仏像が刻まれて
	いるからと言って、古墳時代に仏教が伝わっていたわけではない。おそらく当時の人は神仙も仏像も区別はつかなかっただろう。













8.古墳時代 太子塚古墳




	群馬県高崎市の太子塚古墳は、古墳時代中期(5世紀)の帆立貝式墳。墳長25mで、盾を持つ人物、琴を弾く男性、矢が刺さり血
	が流れる鹿、馬具で飾られた馬などの埴輪が多数出土した。
 






















9.古墳時代 土盛マツノト遺跡




	マツノト遺跡は、鹿児島県奄美大島の砂丘ともいえる笠利町の土盛から崎原にかけての海岸一帯にある。この辺りは「笠利町マツ
	ノト」といって、遺跡の名前はその集落や字名から名づけられることから、この名前がついている。奄美諸島では遺跡全体の60
	%超が砂丘遺跡で、土盛マツノト遺跡を含む島の東側海岸一帯は道路を挟んで山手側に縄文時代前期から後期、海側に弥生時代か
	ら古代までの遺跡が密集している。
	遺跡からはヤコウガイ、サラサベティラなどの大型巻貝が大量に出土した。そのほか、鉄・銅製品・土師器など、島外唐持ち込ま
	れたものと、奄美で造られた土器の兼久(かねく)式土器、ヤコウガイ製品(貝匙)、貝札などが出土している。また、これほど
	大量のヤコウガイが出土することはまれで、遺跡前の海岸に広がるサンゴ礁リ−フの先から採取したり、よそからもヤコウガイを
	持ち込んでいたのではないかと考えられている。




	平成4年に発見されたこの遺跡から大量のヤコウガイが見つかっている。熊本大学の木下尚子教授の研究グループは、このヤコウ
	ガイの個体数を、巻貝の頭とへそやフタまで全て数えあげたそうである。そして、その貝の破片やフタから夜光貝の大きさを推測
	すると、ある一つの謎が見えてきたと言う。
	貝とフタの数と大きさの関係グラフは、ある一定の大きさを頂点とした姿になっていた。木下教授の推測では、各国から長安に集
	められた莫大な宝物の種類や量からいっても、日本と長安を結んだ遣唐使だけのつながりだけでは説明がつかないほどに異常な量
	の多さだそうである。つまり、奄美が直接、今の中国と交易があったかも知れないという壮大な説を挙げている。







10.平安時代 城久遺跡群




	<城久遺跡群>(ぐすくいせきぐん)
	2003(平成15)年5月から調査開始,現在も継続中。城久集落を取り巻く8遺跡の総称。古代(平安時代)の9世紀〜10世紀の
	時期と中世の12世紀代の2つの時期が中心であると思われる大規模な集落跡。 北側(九州など)や南側(琉球)との交流を示す
	多数の陶磁器などが出土した。 




	かつて15世紀から16世紀頃、琉球弧の島々を支配した琉球王国、喜界島はその支配の北限と言われているが、しかし、その支配よ
	りも数百年も前に、喜界島に注目し利用していた、大きな勢力があったことを示す遺跡がこの島にある。奄美諸島の喜界島で城久
	遺跡群グスク)と総称される古代末・中世初頭の大規模な遺跡である。その遺跡は、広さ13万平方メートルに及ぶ大規模な遺跡で、
	9世紀から14世紀頃までの遺跡と考えられている。喜界島にこれだけ大きな遺跡を残した大きな勢力とはいったい何なのか。
	2003年(平成15)年5月の発掘から5年、いまだ発掘作業が進められている。




	喜界島は奄美群島の北部、沖縄と鹿児島のほぼ中間に位置している。面積は57平方km、周囲48kmの隆起珊瑚礁でできた島。
	沖縄の離島で言うと、ちょうど久米島と同じくらいの大きさである。人口はおよそ8500人。農業を主産業とする穏やかな島で
	ある。
	喜界島には現在、129の遺跡がある。1985(昭和60)年の先山遺跡に始まりこれまでに数次にわたり発掘調査が実施され、その成
	果として縄文時代前期の約6,000年前に喜界島に人が住んでいたことや平安時代の末〜14世紀頃まで九州や沖縄の南北両地域と盛
	んな交流が行われていたことなどが分かってきている。




	平安時代編纂の歴史書「日本紀略」には、「998年太宰府がキカイガシマに命令した」という記事がある。この遺跡が大和朝廷の
	役所だった可能性が高まった。ここが、貴駕島・鬼界島等々の名で史料に登場するキカイガシマなのか。有力な手がかりの一つは
	出土物である。ここから本土各地、中国・朝鮮の焼き物が大量に出土したのだ。しかも、これまで日本では特に役所跡などでしか
	発見されない「越州窯系青磁」が出土した。これを以て、この遺跡が太宰府の出先機関だったという説は俄然信憑性を増している。
	さらに、山田半田と呼ばれる場所からは50を越える建物群が発見された。なぜ喜界島にこのような遺跡が有るのか、大和朝廷と
	の関係も含めて、さらなる研究が待たれる。





	石鍋片に中世の文字 喜界町城久遺跡群 南西諸島で4例目	2008年11月19日 00:53

	喜界町教委は18日、同町城久(ぐすく)地区の城久遺跡群で、中世のものとみられる文字資料1点を発掘した、と発表した。
	中世の文字資料が同遺跡で見つかったのは初めてで、南西諸島でもこれまで3例しかなかったという。文字は、同遺跡群の1つ
	である大(おお)ウフ遺跡から昨年度に出土した滑石製石鍋片(8センチ四方)に刻まれていた。今年10月、鍋の縁部分に「大」
	(縦2センチ、横2.2センチ)とあるのを東京大の研究者らが確認した。滑石は長崎県西彼杵半島産という。
	2002年に発掘が始まった同遺跡群は、9‐14世紀の集落跡とみられ、広さは約13万平方メートル。100棟を超える建物
	跡や土坑墓などのほか、大宰府(福岡県)で使われたものと似た土師(はじ)器などが出土した。規模や遺物などから、大宰府の
	出先機関説が浮上し、古代から中世にかけた律令(りつりょう)国家の境界領域を覆す可能性があるとして、考古学関係者が注目
	していた。
	同町教委の澄田直敏・埋蔵文化財係長は「やっと文字資料が出土した。『大宰府』と結びつけることはできないが、類例に当たり、
	資料の意味を解明したい」と話している。
	=2008/11/19付 西日本新聞朝刊=

	「鍛冶炉跡:鹿児島・喜界島で20基以上発見 鉄器生産拠点」
	城久遺跡群。これまでに9〜12世紀の多数の建物跡や石敷きの道路跡が発見されている。この時代には国の役所跡でしか出土し
	ない中国製青磁なども見つかっており、大宰府(現福岡県太宰府市)の出先機関があった可能性も指摘されている。
	=毎日新聞 2008年1月3日=

	奄美が交易や文化伝播の中心だったとも考えられ、沖縄本島を中心に発展したと考えられてきた琉球弧の古代史は大きく見直しを
	迫られそうだ。
	=沖縄タイムス 2006年9月10日=


11.鎌倉時代 塩津港遺跡




	塩津港遺跡の所在する西浅井町は現在、伊香郡に属しているが、明治13(1880)年以前は琵琶湖を挟んで浅井郡に属していた。平安
	時代に作られた『倭名類聚抄』に「浅井郡塩津郷」がみえ、『延喜式』にも「浅井郡塩津神社」がみえる。塩津は海津(かいづ)
	(高島市マキノ町)・大浦(伊香郡西浅井町)とともに湖北三湊の一つと言われ、古代以来、畿内と北陸を結ぶ重要な港だった。
	塩津湾を臨んで古保利(こほり)古墳群が築かれ、さらに当地の北西には前方後円墳1基・円墳3基から構成される塩津丸山古墳群
	が築かれたのも、こうした地理的位置によるとされている。律令に対する施行細則『延喜式』では、越前・加賀・能登・越中・佐
	渡の北陸六ヵ国からの物資は敦賀に集め、そこから塩津街道を通って塩津に運んだのち琵琶湖上を大津に運漕し、平安京に進上す
	ることになっていた。「塩津」の地名は塩の中継港であったことに由来するとも伝えられる。




	神仏へ誓い2メートルの木簡出土 −水運業者ら最古の起請文−	滋賀・塩津港遺跡

					
	最古の起請文には、誓約を守らなければ体中の8万4000の毛穴から神罰を受ける、との内容が記されていた=滋賀県教委提供 


	滋賀県西浅井町の琵琶湖北端にある塩津港遺跡(平安時代後期)で、神仏への誓約「起請文(きしょうもん)」を書きつけた国内
	最長を含む大型木簡55点が出土し、県教委が5日、発表した。木簡に書かれた例は初めてで、起請文としても国内最古。琵琶湖
	の水運に携わった流通業者などが魚や米を盗んでいないなどと誓約、誓いを破れば神罰を受けるという内容で、県教委は「商売を
	含む日常の営みに、信用や潔白さを重んじた人々の有り様がわかる」としている。

	木簡は、神社遺構の南約35メートルで、堀跡(長さ11メートル、幅4・5メートル)から出土。長さ2・2〜1・3メートル、
	厚さ1・4〜0・4センチの杉板で、10点はほぼ完全に形が残り、保延3年(1137年)〜永暦元年(1160年)の年号を
	確認できた。
	墨書の起請文は冒頭、梵天(ぼんてん)、閻魔(えんま)大王、八幡や賀茂、地元の鎮守神などを列挙。後半に「決して米を盗ん
	でいません」「請け負った荷物を失わない」などと誓い、誓約にうそ偽りがあった場合は、「3〜7日の間に八万四千の毛穴から
	神罰を受ける」などと記している。
	木簡は下端にひもでくくりつけたような跡があり、神前での宣誓後は屋外に掲げたり、神社に奉納したりしたらしい。塩津港は古
	代から、北陸と畿内を湖の舟運で結ぶ物流の拠点として栄えた。

	 高橋一樹・国立歴史民俗博物館准教授(日本中世史)は「当時は盗みなどのうわさが出るだけで周囲から白眼視された。自分は
	信用できる人間だと知らせるために木簡を高々と掲示したのだろう」と指摘。
	 起請文に詳しい千々和(ちぢわ)到・国学院大教授(日本中世史)は「起請文は通常、公開を前提としておらず、驚くべき発見。
	起請文の起源や形成過程を知るうえで第一級の史料」と話す。

	現地説明会は7日午後1時。木簡は8日、県立安土城考古博物館で公開。
	(2007年10月06日  読売新聞)













	平安期の神像5体出土 滋賀・塩津港遺跡	2008年11月11日 朝刊 中日新聞

		
	塩津港遺跡から出土した木彫りの神像5体=10日、滋賀県西浅井町で(佐伯友章撮影)
 
	滋賀県西浅井町の塩津港遺跡から、平安時代後期(12世紀)に作られたとみられる木彫りの「神像」5体が見つかり、県教委が
	10日発表した。神像の出土は島根県出雲市の青木遺跡に次いで全国2例目だが、一度に複数見つかったのは初めて。
	 神道には偶像を礼拝する習慣がなかったが、6世紀に伝来した仏教の影響で奈良時代末ごろから神像が作られ始めた。遺跡が神
	社遺構であることの裏付けにもなり、県教委は「神仏習合のあり方や神社信仰を考える上で極めて重要な史料」としている。

 	5体は、社殿と推定される区画の北側の堀から見つかった。高さ12−15センチの座像で彩色を施された跡はない。冠をかぶり
	胸元で両手を合わせた貴族の礼装姿の男神と、着物の袖を胸元に持ち上げた髪の長い女神が1体ずつ確認でき、残り3体は男神1
	体と女神2体とみられる。神像は、経典などで姿を規定される仏像と違い、僧や童子など当時の人間生活をモデルとして表される。
	だが、公開される機会は少なく、研究が進みにくかった。
	遺跡では昨年、神への誓詞「起請文(きしょうもん)」を記した木簡55本も出土。今回の調査では、仏具の一種で仏堂や神殿の
	柱を飾る華鬘(けまん)の一部や複数の建物跡、神事に使われた道具なども見つかった。
	現地説明会は15日午後1時半から。問い合わせは、県文化財保護協会=電077(548)9780=へ。

	■県立近代美術館・高梨純次学芸課長の話…遺跡の近隣の寺社にある同時期の神像は、高さ20−30センチくらいのものが多い
	ので、今回は主神の周りにいる脇侍的な神か祭祀(さいし)用の像なのかもしれない。遺跡の研究が進めば、宗教や美術、建築、
	社会生活などさまざまな分野において平安から鎌倉時代へと移り変わる時期の様相を教えてくれるのではないか。



12.安土桃山時代 本能寺跡











13.安土桃山時代 宇治川太閤堤跡(パネル展示)











14.江戸時代 大阪城跡














特別史跡 高松塚古墳










































世界遺産登録 石見銀山

























常設展示





























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