神武天皇 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)〜 神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本 神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。 日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)〜 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)。 『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわ れひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、 彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括 撰進したときに付されたとされる。天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が 建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42 年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。
皇居・橿原神宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 都は畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)である。『古事記』に「畝火之白檮原宮(う ねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」とある。 「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基 に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。 幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟 顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初 の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。 京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣 大社)が創建された。 明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家 (畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正 6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。 なお、昭和13年(1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地 下から縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。 鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測 定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は±200年ということであった。 このことから記紀の神武伝承には なんらかの史実の反映があるとする説もある[6]。 またこの時期、第二次拡張事業(昭和13年〜15年、1938年〜1940年)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共 同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年 稿 橿原神宮史」五冊−三、五冊−五(橿原神宮所蔵))なお、この事業は国費および紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。
陵墓・霊廟 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神武天皇陵と陵へいたる道『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮 (かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されて いる。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある。天武期には陵寺として大窪寺が 建てられたとみられる。 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。貞元2年(977年)には 神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も 天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。 元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東 北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山から いかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別の説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデ ン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。 その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、文久3年(1863年)にミサンザイに決まった。幕府が 15000両を出して修復した。このとき神武天皇陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武天皇陵は転々としてきた歴 史がある。国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国 源寺方丈堂の基壇であったという説もある。 陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁に より定められている。現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。 大久保(大窪)または山本である。畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、 4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
その参道の脇から小径を畝傍山の方へ入ってゆく。このあたりはかって「洞」(ほら/ほうら/)という集落が在った所で、林の 中にその痕跡を幾つか見ることが出来る。今回の、この「丸山御陵」という存在は、この洞集落(被差別部落)周辺で、長いこと ここが「神武天皇の墓」として伝承されてきた場所なのである。 その、現在の神武天皇陵が建設されていく過程についての詳細は、後段の「もう一つの神武天皇陵」論(京都大学人文科学研究所 :高木博志氏))を読んで貰いたいが、要するにそのあたりの経緯を簡単に言うと、 (1).畝傍山北東の田んぼの中に、江戸時代終末期(文久三年:1863)に突然盛り土が現れ、ここが神武天皇陵とされた。 (2).次いで畝傍山一帯が皇室の所有となり、周辺住民や部落は強制的に近辺へ移住させられた。 (3).畝傍山山麓に橿原神宮が建立され、この地が現皇室発祥の地として定められた。 ということになるのである。今日訪ねようとしている「丸山御陵」は、この洞部落にあった伝「神武天皇陵」なのである。さぁ、 そこはほんとに陵墓だろうか。それともこの集落のただの「聖地」なのか? ちなみに1863年は、日本史受験時に「イヤムザン」 と覚えていた、アメリカにおけるリンカーンの奴隷解放宣言の年である。
洞村移転問題 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 洞村移転問題(ほうらむらいてんもんだい)とは、1917年から1920年にかけて奈良県高市郡白橿村の大字である洞(現在の橿原市) の住民が土地全域を隣接する神武天皇陵拡張のために宮内省に献納した問題。同地域が被差別部落であったことから今日では部落 差別問題における事件として捉えられている。 神武天皇の実在性については諸説あるものの、古代において「神武天皇陵」が存在して祭祀が行われていたことは『延喜式』によ って知ることができる。だが、中世以後荒廃して所在地が不明となり、江戸時代以後の調査の結果、1863年になってミサンザイの 地が「神武天皇陵」であったとされて江戸幕府が修繕を施し、1898年に拡張工事が行われた。ところが、初代の天皇の陵墓として ふさわしいものに整備すべきであるとしてその拡張を求める意見が出された。加えて、ミサンザイに隣接していた200戸余りの 集落である洞が当時言われるところの「新平民」の集落であったことを問題視する意見が出された。すなわち、大正天皇の即位に 合わせて1913年に刊行された後藤秀穂の『皇陵史稿』において神武天皇陵に面した地に新平民の醜骸が土葬で埋められて聖域であ る陵墓を穢していると非難し、暗に住民を神武天皇陵から一掃すべきことを述べた。こうした見えない圧迫に耐えかねた住民は土 地の献納に追い込まれたのである。 移転は3年間かけて行われ、他地域住民の所有地を含めた洞の全域が宮内省からの下賜金26万5千円(後に5万円追加)で買い取られ る形で行われ、住民には代替地が与えられることになった。これは当時の部落改善運動と融和主義に応えた形で行われ、原則的に は小作人・借地人を含めた全住民に土地と瓦葺の住宅が支給された。だが、実際に支給された土地は献納地4万坪に対して1万坪に 過ぎず、しかも周辺住民からの反発により洞の元住民は更なる差別に晒されるようになった。 ともあれ、洞の全域を潰す形で行われた拡張工事は1940年の神武紀元2600年に合わせる形で完成されることになった。 なお、この問題は住井すゑの『橋のない川』に「"路"部落強制移転事件」として描かれている。 参考文献 辻本正教 「神武天皇陵拡張移転問題」 『日本史大事典』第2巻 平凡社、1993年
かって洞村だった集落の中も、植林によって全くその面影を偲ぶことは出来ないようになってしまっている。かってはここに200 戸の家々がひしめいていたのである。上右の写真の上方に、写真では良くわからないが石段が数段残っている。部落の上へ登って いく道があったのだろう。下の写真は、防空壕のような穴の中に水が溜めてある施設だが、煉瓦造りなので近世になって作られた もののようだ。飲料水の施設ではないようだが、農業用水にでも使ったのか、それとも何か別の用途があったのか、今となっては 皆目わからない。
洞部落 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 洞部落(ほうらぶらく)は、奈良県橿原市にかつて存在した被差別部落。戦後の部落解放運動の歴史のうえで、部落問題の視点に よる天皇制批判の好材料としてたびたび議題に上げられてきた。 麓に神武天皇陵(ミサンザイ古墳)を見据える畝傍山の麓からやや上方にかけて、かつて洞(ほうら、大和国高市郡白橿村大字山 本枝郷洞)と呼ばれる村が存在した。この村は、神武陵の南手、ちょうど同陵を見下ろす場所に位置する、嘉永7年(1854年)の 時点でおよそ120戸、大正9年(1920年)の時点でおよそ200戸を数えた、同陵墓の守戸―いわゆる墓守の集落と伝わる村で、被差 別部落であった。 大正時代に入って間もない頃、国の主導による本格的な神武陵一帯の整備が始まると、その拡張の必要などにともなって、洞村は 自体の移転を余儀なくされる。その後移転先の決定について難航を重ねた末に大正6年(1917年)に付近の平野部に移転した。 洞部落の歴史に初めて光が当てられたのは第二次世界大戦後、1960年代後半のことである。『天皇制と部落差別』と題して鈴木良 により採り上げられたことをきっかけとして、天皇を主軸とした国家権力による横暴の好例であるとの論旨をもって、部落問題の 原因を天皇制に求めるうえでの重要議題として認知されるに至った。 国家権力によって強制的に執行されたものであるとされてきた洞部落移転問題であったが、この認識に対する反証を行ったのが移 転後の部落に生まれ育った辻本正教(後の部落解放同盟中央執行委員)であった。氏による反証では、強制執行は行われておらず、 洞村の人々が陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めたとの事実が明らかにされた。また移転に際しては補償費用も出ていた。 移転先に形成された地区はその後同和対策事業の対象地区とされ、現在も同和地区として存在している。旧洞村は雑木のうちに遺 構としてその痕跡を残すのみである。
もしそうなら、この足の下に神武天皇が眠っていることになる。しかしそれにしては若干狭いような気もするが、木々のせいで全 体像はなかなか掴めない。すぐ側にはかって「生玉神社」もあり、祭神は「神武天皇」だと言うが、各伝承は丸山が真の神武陵で あることを伝えているような気もする。
京都産業大学 2004/2/26 ■■■■ 京都部落問題研究資料センターメールマガジン vol.046 ■■■■ ********************************************************************** □研究動向□ 幻の「洞部落強制移転」問題 部落差別が天皇制によって生み出されたとする説を象徴的に示す事例としてあげられてきたものに、「洞部落強制移転」(1917年 =大正6)がある。神武天皇陵を見下ろす位置に被差別部落があるのはけしからんということで、天皇制国家権力により蹴散らさ れるように強制移転させられたというものである。 この事件をはじめて取りあげたのは意外に新しく、1968年2月、鈴木良氏に よる「天皇制と部落差別」(『部落』)がはじめてである(もちろん、移転したこと自体は知られていたが)。これは、政府の 「明治百年祭」にたいし、部落問題研究所が反対のキャンペーンを繰り広げる一環としてなされた主張で、「『明治百年』と部落 問題」というシリーズの第1回目である。そして、この鈴木説が部落解放運動家に急速に普及していく。のちに部落解放同盟中央 執行委員となる辻本正教氏も「その一文を胸が張り裂ける思いで読んだ。自分の生まれ育った部落が、こんなにも大きな歴史事実 に遭遇していたのかと思うと、天皇制に対する怒りや部落差別に対する怒りが、腹の底から沸き立つのを禁じ得なかった」と回想 している(辻本『洞村の強制移転』)。そして、辻本氏はこの事件を、同地を訪れる人に「まるでテープレコーダーでもあるかの ように」語り続けていく。 しかし、辻本氏は、移転後の洞部落の道路が縦横に整然と走っていることなどに気がついて、鈴木説に疑問をいだくようになり、 研究の結果強制移転ではなく、部落大衆の「自主的献納」であったことを明らかにした(辻本、同上)。また、その後、高木博志 氏は「近代神苑論」をあらわして、被差別部落だけでなく、一般の村落も移転していることを明らかにした。 以上、紹介した論 文も大枠においは反天皇制なので、旧説である鈴木論文の見直しが明確でないが、私流にまとめれば以下のようなことになる。 「江戸時代から続いてきた天皇陵整備が明治になって加速し、その一環として神武天皇陵が拡張されるときに、洞部落が敷地にひ っかった。洞部落では、これを機会に村をまとめて移転をはかり、補償費用で部落の改善を行なった(200戸の部落に総額25万円 以上)。しかし、移転の途上や移転後、まわりの村からは、様々な差別排斥を受けた。」 もちろん天皇陵の拡張なので、天皇制と無関係とはいえないが、「天皇制が部落差別の元凶である」という事例としては、既に用 をなさなくなったと、私は考える。(灘本昌久) 〈参考文献〉 鈴木良 「天皇制と部落差別」(『部落』1968年2月号) 鈴木良 『近代日本部落問題研究序説』兵庫部落問題研究所、1985年、p.154〜164 高木博志「近代神苑論―伊勢神宮から橿原神宮へ―」(『歴史評論』573、1998年1月) 竹末勤 「日本近代史研究における洞部落移転問題の位置」『部落問題研究』143、1998年5月) 竹末勤 「近代天皇制と陵墓問題」(『部落問題研究』149、1999年12月) 辻本正教『洞部落と強制移転』解放出版社、1990年
以下は、私の私淑する安本美典大先生の主宰する、東京の「邪馬台国の会」が製作しているHPである。月一回の先生の講演内容を まとめてHP化している。今回特に断ってはいないが、以前先生から「本でも、HPでも、どんどん使って貰っていいですよ。」と 言われた言葉に甘えて、ここに転載させてもらった。先生は「丸山陵墓」説である。 邪馬台国の会 第225回 神武天皇陵の謎 1.現在の神武天皇陵 ■ 神武天皇陵の位置 現在、神武天皇陵は橿原市大久保町字ミサンザイに治定されている。現在の神武天皇陵の位置は、幕末に宇都宮藩が中心となって行 った「文久の修陵(1863)」の際に、宇都宮藩の顧問団の検討により決定されたという。神武天皇陵が現在の地に定められる前 には、陵墓の候補地は六つあり、そのうち、特に次の三つが有力であった。 1).畝傍山の丸山 (大和の国高市郡洞村の近く) 本日の探訪地 2).大和の国高市郡白橿村山本のミサンザイ (神武田。現在の神武天皇陵の場所。橿原市大久保町字ミサンザイ) 3).四条村の福塚 (塚山ともいう。現在、綏靖天皇陵とされている。大和の国高市郡四条村。現在の橿原市四条町) 江戸時代でもっとも有力であったのは1).の丸山説であり、蒲生君平や本居宣長などがこの説を支持した。宇都宮藩顧問団の中で も、北浦定政は丸山説を主張し、谷森善臣はミサンザイを推すなど意見が分かれたが、最終的には顧問団の筆頭であるの谷森善臣の 主張で現在の位置に決まった。 ■ 大きさと墳形 『延喜式』には、東一町(訳100m)南北二町(約200m)とされている。1940年の皇紀2600年にあたる年には、陵墓 は大拡張され、大きさは東西約500メートル、南北約400メートルの広大なものとなり、延喜式記載の約十倍の面積を占めるこ とになった。またこの年、神武天皇をまつる橿原神宮も大規模につくりなおされた。現在の神武天皇陵の墳形は、八角墳ともされる が、1915年印刷の『陵墓要覧』(宮内省諸陵寮発行)や小林行雄『歴代天皇陵一覧』では「円墳」としている。 ■ 場所が違う! 以上のように場所の比定が行われ、拡張整備されてきた神武天皇陵であるが、安本先生は、「現在の神武天皇陵は場所を誤っている。 真の神武天皇陵は畝傍山の一部の丸山である。」と述べる。以下に少し詳しく解説する。 2.丸山説 ■ 記紀の記述 『古事記』の記述 「御陵(みはか)は畝傍山の北の方の白檮の尾の上(かしのおのえ)にあり。」 『日本書紀』の記述 「畝傍山の東北の陵に葬りまつる。」 ■ 本居宣長vs谷森善臣 本居宣長は『古事記』の記述の「尾の上」から、神武天皇陵は「尾根」の上にあるとした。丸山は「尾根」の上にある。他の候補は 尾根の上にない」と主張。宇都宮藩の北浦定政も同意見。 いっぽう、谷森善臣は次のように主張した。『古事記』の原文は「畝傍山之北方白檮尾上」と記されている。古点のままに読めば 「白檮尾上」は「白檮尾(かしお)」という地名であり、その「白檮尾」に陵があったのである。竹口英斎の『陵墓史』(1794) などの古文献によれば、丸山の地には古くから「加志(かし)」「カシフ」「カシハ」など、「白檮」と結びつく地名があった。こ れに対し、谷森善臣はミサンザイの地に「橿檮尾」という地名があったという具体的根拠を提示していない。谷森善臣の読み方は少 々強引のようだ。記紀の記述と地名との関係からは、丸山説のほうが有利である。 ■神武天皇陵の守戸(または陵戸) 丸山のすぐそばに洞村(ほらむら)と呼ばれる部落がある。この村は神武天皇陵の守戸または陵戸だったという伝えがあった。丸山 の近くに洞村があったことは、江戸時代の津久井清彰の図(下図)にも描かれている。 律令時代、天皇陵には「陵戸」や「守戸」が置かれた。「陵戸」は、律令制における賎民のひとつで、治部省の諸陵戸(諸陵寮)に 隷属し、課役の代わりに山陵の警備に従ったもの。また「守戸」は、古代、天皇陵の番人。陵戸が不足した時に良民から指定された。 蒲生君平は『山陵志』で、 「洞村のことを相伝うるに、その民はもと神武陵の守戸なり。およそ守陵の戸は、みな賎種。もと罪隷をもって没入したる者は、郷 にならばず」といっている。 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のよ うに伝えている。 「丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもり と高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。 その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であっ た。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝 えられていた。 洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然としている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』 は神武天皇陵と伝えているところと一致する。神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。 この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところ とも、生玉神社のところとも伝えられている。旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井 上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。」 明治の初年、神武天皇陵認定のときに、この地の人が賤民であったばかりに、神武戸と称する部落の人の作り田を、強制没収でとり あげてしまった。それが、今の御陵となっている地である。神武戸とは、神武天皇陵の戸、入口の意味である。 今の御陵は真実の御陵でないといったら、全村千人のものが、放りだされて路頭に迷うかもしれないので、頭(かしら)がかたく箝 口令をしいていて、絶対に口外しなかった。今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。 洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持し ているように見える。 ■生玉神社 丸山に生玉神社がある。津久井清彰が描いた「畝傍山東北面の図」にも「生玉明神社」として描かれている。この神社は『日本書紀』 の文において、壬申の乱のさい「身狭(むさ)の社にいる生霊(いくたま)の神」が、神武天皇陵に馬および種々の兵器を奉れ、と 述べたことと関係があるのではないか。丸山の地が「身狭」の地域に属していたことは、古文献で確認できる。 神社はもと丸山のところにあったが、集落の移転に伴い、大正9年に現在の大久保町3-56番地に移された。 3.古文献にみえる神武天皇陵 神武天皇陵に関する記述は古文献にたびたび登場する。すなわち、10世紀のはじめごろまでは、神武天皇陵をはじめとする諸天皇 陵の所在地は知れていた。しかし、その後、なんらかの事情でその場所が分からなくなってしまったようだ。『日本書紀』の天武天 皇元年(672)7月の条に次のような記述がある。 壬申の乱のさい大海の皇子側の将軍の大伴の連吹負が戦に敗け、ちりぢりになった軍兵を集めていた時、高市の県主の許梅(こめ) が神懸りになり、「吾は高市の社にいる事代主の神である。また身狭(むさ)の社にいる生霊の神である」といった。そして、神意 をつげて、「神武天皇陵に、馬および種々の兵器をたてまつれ」といった。そこでただちに、許梅をつかわして、御陵をまつり、馬、 兵器をたてまつった。 この記述は、天武元年には神武天皇陵が存在し、その場所も分かっていたことを示している。『古事記』(712)では「御陵は畝 傍山の北の方の白檮の尾の上にあり」と記す。『日本書紀』(720)では「畝傍山の東北の陵に葬りまつる」と記す。『延喜式』 (927))には「畝傍の山の陵。畝傍の橿原の宮に御宇しし神武天皇。大和の国高市郡にあり。兆域東西一町、南北二町。守戸五 烟。」とある。 結局の所、ここが果たして「丸山陵墓」なのかどうかは判らなかった。それはそうだろう。見ただけで判るようなシロモノなら、も う誰かがとっくに断定しているはずだ。つまるところ、ここを掘ってみるしかないのだろうが、今では畝傍山麓東北部全体が宮内庁 のものであり、発掘も不可能である。しかし、現在の神武天皇陵(白橿村山本のミサンザイ:神武田)は、古地図で見る限り明らか に平野部の田圃のなかに作られており、現在の神武陵が真の神武陵である可能性は低いと言わざるを得ない。