Music: Unchained Melody

歴史倶楽部 第141回例会

再び、纒向の古墳を訪ねて 2009.329 奈良県桜井市

	第141回例会 纒向の遺跡と古墳
	先週説明会のあった巻向遺跡をみる。−邪馬台国畿内説の牙城−
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	建物跡が発見されたという巻向の遺跡を見ます。たぶんまだ埋め戻されては居ないと思いますが、何も説明はないかもしれません。
	その後巻向に点在する初期古墳群、石塚、勝山、矢塚、東田大塚等々を見て、時間があるので、櫻井の文化財センター、三輪神社
	あたりを散策したいと思います。(残りの予定は現地で相談しましょう)。

	日時 : 3月29(日)
	集合 : AM9:30 JR桜井線「巻向駅」集合
	装備 : 弁当、水筒、防寒具、雨具、そのた
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	以下の新聞記事を見て、「また近畿圏の郷土史家たちが騒いでるな」と思ったが、もう馬鹿馬鹿しくて相手をする気にもならない。
	三世紀の木片が出た、三世紀の土器が出たと言ってはすぐ、「邪馬台国だ!」とか「やっぱり邪馬台国はここだった」などという
	見出しを付ける新聞記事にもうんざりする。三世紀の木片や土器など、青森県にも高知県にもある。

	どうして岩手県は邪馬台国ではないのか? 三内丸山が大和朝廷へ発展した可能性はどうして無いのか。それは文献と考古学が証
	明しているからである。同様に、邪馬台国が近畿圏には無かった事は、文献(魏志倭人伝)と考古学の成果が証明している。近畿
	圏の考古学者達は、自分の仕事の分析もろくろく出来ないようである。実に嘆かわしい、というか、もう哀れでさえある。
	1+1=2、が理解できるからと言って、頭の中が論理的とは言えないのである。

	以下は「邪馬台国大研究 本編」に書いた文章である。ここに採録する。(図や写真は省略)


	(1).鉄

	魏志倭人伝と、記紀に書かれている日本神話の大部分は弥生時代のことである。神話の第一ステップとも言える、伊邪那
	岐・伊邪那美の日本列島形成に用いられる道具は矛(ほこ)である。2人は海の中で矛をかき回し矛先からこぼれ落ちる
	したたりで、「おのごろ島」という島を造る。ここに降って、SEX(と思われる表現)で次々と日本の国土を造って行
	くのである。「古事記」には、天の神々が2人に「天(あま)の沼矛(ぬぼこ)を授けて」とあるが、矛が祭祀用に用い
	られるのは明らかに「弥生時代」である。又、今日その出土地域は、北九州をはじめとする西日本に集中している。
	素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲で「八俣の大蛇」(やまたのおろち)を退治したときに尾の中からでてきたという
	剣は、一般に「三種の神器」の一つとして知られるが、今日これは天皇家の「神宝」とされ、名古屋の「熱田神宮」にあ
	る(と言われている)。誰も見た者はいないが、古来よりこの剣は弥生時代の有柄銅剣(吉野ヶ里からも出土した)であ
	ろうとされている。
	同じく「古事記」をはじめから読み進んでいくと「天の岩戸」物語までの間だけでも、今日我々が博物館で見ることので
	きる「弥生時代」の遺物を表現した描写が繰り返し登場する。即ち、「長い剣」、「剣の柄」、「御剣」、「左の手に付
	けた腕輪」、「右の手に着けた腕輪」、「大きな勾玉」、「靭(ゆぎ)」、「矢」、「玉の音」、「玉の緒」、「珠」、
	「鏡」、「大きな鏡」等々。
	「邇邇芸の尊」(ににぎのみこと)が降臨に際して高天原から持ってきたという「八咫の鏡」も「三種の神器」の一つで、
	現在伊勢神宮にあるという事になっているが、福岡県前原市の三雲遺跡から出土した「内行花文鏡」を想定する学者も多
	い。同じく「八尺の勾玉」(やさかのまがたま)も現在皇居にある(と言う事になっているが、今日では、天皇自身もこ
	の「三種の神器」は実見できない。したがって実物を見た者は誰もいないのである)。
	三種の神器は「剣」「鏡」「玉」である。これらは九州の特に北九州の弥生墳墓および畿内の古墳から出土する。これら
	の事実からみて、神話の時代を「縄文時代」と言う人はいないだろうし、「白鳳時代」とも言えないと思う。明らかに、
	「弥生時代」「古墳時代」の遺物について語っているし、状況的には「古墳時代」よりも「弥生時代」の方に分がある。
	つまり、日本古代の「神々」は弥生時代に活躍していたのである。

	■魏志倭人伝には、倭人は鉄の鏃(やじり)を使うと記されている。「兵は矛・楯・木弓を用いている。木弓は下を短く
	上を長くし、竹の矢の先は鉄鏃( てつぞく)だったり骨鏃である。」鉄の鏃は、畿内よりも九州から圧倒的に多く出土
	する。上下の図表を見ても分かるように、福岡県からは、「鉄の鏃」は398個出土している。奈良県からはわずか4個
	しか出土していない。実に奈良県の約100倍の鏃が出土しているのである。奈良県を掘っていない訳ではない。同志社
	大学の名誉教授森浩一氏によれば、「奈良県の弥生遺跡の発掘は、おそらく佐賀県でやっている発掘よりも広い面積をや
	っています。いろんな人たちが、まるで、ふるいにかけるように、奈良県の弥生遺跡を掘っている。大面積を発掘してい
	る。遺跡が多いですから、福岡県の方が広いとは思いますけれど、奈良県でも、たくさんの弥生遺跡の、丁寧な発掘は進
	んでいるんです。」(季刊邪馬台国53号「考古学と邪馬台国」)

	■鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈
	倭人伝にはまた、倭人は兵器に矛を持つと記録している(前出)。鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内より
	も、九州から圧倒的に多く出土する。102個と1個で、これまた福岡県からは、奈良県の約100倍出土している。   

	■刀子(とうす)
	刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。その分布は、倭人の鉄の使用状況をよく示すと思われる。
	西日本の博物館に行くと、長いさびた鉄の刀に混じって短い10−20cm位の鉄の棒が並んでいるが、これはたいてい
	刀子である。刀子も、畿内より九州から圧倒的に多く出土する。福岡県では210本も出土しているが、奈良県では一本
	も出土していない。

	上記のような考古学上の成果に対し、邪馬台国=畿内説を唱える学者たちの大半は沈黙しているが、中には良心的な学者
	もいて、橿原考古学研究所の寺沢薫氏などはすなおにこれらの事実は認めている。「鉄器が、弥生時代を通じて九州地方
	で多く出土する事実は変わらない、鉄器は腐食すると言っても、近畿だけが錆びてなくなることは無い。」「(弥生時代
	後半に)近畿勢力が出雲の鉄生産ルートを掌握していたとか、(近畿勢力が)九州とは独自に鉄入手ルートや外交ルート
	を持っていたというような近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。あまりにも恣意的である。」
	(日本の歴史02「王権誕生」2002年講談社刊)


	(2).絹

	倭人伝は、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記録する。「禾稲 (かとう:稲)・紵麻(ちょま:麻)を種(う)
	え、蚕桑(蚕)を育てて糸を紡ぎ、細紵(さいちょ:?)・ケン緜(けんめん:絹?)を産出している。」とある。
	絹が、畿内よりも、九州からはるかに多く出土することは、以下の図を見ても明らかである。奈良県に比べると、福岡県
	は圧倒的に出土地の数が多い。 
	養蚕の歴史は新石器時代にまでさかのぼる事が出来るので、日本にも相当古くから絹は存在していたと思われる。養蚕技
	術は、完全に大陸からの移植と考えられている。それは、日本も含め現在世界中で飼われているカイコの生殖細胞の染色
	体(n)は28なのに、日本の野生のカイコのものは27だからである。中国大陸の野生のカイコの(n)も28なのだ。
	つまり、養蚕は日本独自であみだされたものではなく、明らかに中国大陸から伝播したものなのである。絹を使った織物
	は、魏志倭人伝にいくつか登場する。中国から送られた交龍錦、紺地句文錦、卑弥呼が送った倭錦、こう青兼、異文雑錦
	(台与が貢納)等々である。
	京都工芸繊維大学の名誉教授で絹に関する世界的な権威、布目順朗(名前も布である)博士は、長年、各地の遺跡から出
	土した絹の細かい分析をしてきた。その結果から次のように述べている。「中国もそうであったように、養蚕は九州の門
	外不出の技術であった。少なくともカイコが導入されてから数百年間は九州が日本の絹文化を独占していたのではないか。」
	事実、弥生時代後期までの絹の出土は全て九州の遺跡からであり、近畿やその他の本州で絹が出土するのは古墳時代にな
	ってからである。出土地は筑後川北岸の福岡県と、有明海北岸の佐賀県に集中している。福岡県甘木市の栗山遺跡、佐賀
	県吉野ヶ里などが有名である。時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で作られていた絹が、後の古墳時代になっ
	て、近畿など他の地域に広がったように見える。

			<弥生時代・古墳時代の絹製品を出土する遺跡>

			■弥生前期
			 福岡市早良区有田遺跡(前期末)
			■弥生中期
			 福岡市西区吉武高木遺跡(中期初頭)
			 福岡市博多区比恵遺跡(中期前半)
			 福岡県甘木市栗山遺跡(中期前半及び後半)
			 佐賀県神埼郡神埼町朝日北遺跡(前期中葉)
			 佐賀県神埼郡神埼町吉野ヶ里遺跡(中期)
			 福岡県飯塚市立岩遺跡(中期後半)
			 福岡県春日市門田遺跡(中期後半)
			 福岡県春日市須玖岡本遺跡(中期後半)
			 福岡県太宰府市吉ケ浦遺跡(中期後半)
			 長崎県島原市三会村遺跡(中期後半)
			 福岡市西区樋渡遺跡(中期後半)
			■弥生後期
			 福岡県甘木市栗山遺跡(後期初頭)
			 福岡市西区宮の前遺跡(後期終末)
			 福岡市東区唐の原遺跡(後期終末−古墳前期)
			■古墳前期
			 富山市杉谷A遺跡(前期初頭)
			 福岡市博多区那珂八幡古墳(前期初頭)
			 京都府中郡峰山町カジヤ古墳(前期後半)
			 奈良県天理市柳本町大和天神山古墳(前期後半)
			 石川県七尾市国分町国分尼塚一号墳(前期後葉)
			 福岡県糸島郡二丈町一貴山銚子塚古墳(前期末)
			 京都府福知山市広峯一五号墳(前期末)
			 島根県安来市矢田町椿谷古墳(前期)
			 島根県安来市小谷土礦墓(前期)
			 島根県安来市荒島町造山三号墳(前期)
			 島根県飯石郡三刀屋町松本一号墳(前期)
			 奈良県桜井市外山桜井茶臼山古墳(前期)
			 福岡県太宰府市菖蒲が浦古墳(前期)
			 京都府園部町園部垣内古墳(前期)
			 熊本県宇土市松山町向野田古墳(前期末−中期前半)


	(3).勾玉

	魏志倭人伝には、倭の使いが魏の国に、「白珠五千・孔青大句珠二枚」を奉ったことが記されている。この記事を巡
	っても諸説あるが、白珠は真珠、大句珠というのは大きな勾玉と理解できるようである。孔は「ふかい・大きい・は
	なはだ」という意味(日本古典文学大系「日本書紀上」岩波書店)があり、孔青とは、「ふかい青」という意味にと
	れる。また、句は勾の本字だそうだ。(「学研漢和大辞典」藤堂明保、「大漢和辞典」諸橋轍次)。つまり「句」も
	「勾」も同じ意味を持った字で、曲がる、ひっかける、かぎ、という意味になる。日本書紀では勾玉とも曲玉とも記
	されている。
	福岡の平原古墳からは、長さ約3cm、幅約1.8cm前後の深い青色をしたガラス製の大勾玉が三個出土している
	が、これなどは正(まさ)しく孔青大句珠と言えるだろう。平原遺跡出土のメノウの首飾りやコバルトブルーの勾玉
	(下)は、2000年近い時を隔ててもなおすばらしい輝きを秘めている。

	弥生時代の硬玉製勾とガラス製勾玉の出土状況は以下のようになる。やはり福岡県、佐賀県、長崎県などの北九州か
	ら圧倒的多数が出土している。
	

	(4).ガラス

	上の写真は、福岡県春日市の赤井手遺跡から出土したガラス勾玉の鋳型である。このHPでも紹介している春日市の
	「奴国の丘歴史公園」に行けば、歴史資料館で本物が実見できる。弥生時代のガラス製品は、岩手県から山口県まで
	の本州内で約50、北九州で約100カ所から発見されているのであるが、ガラスの勾玉鋳型が出土したのは4カ所
	しかない。大阪府茨木市の東奈良遺跡、山口県菊川町の下七見遺跡、福岡県弥永原遺跡、そして春日市の赤井手遺跡
	である。ガラス製品全体を見ても鋳型は9カ所からしか出ていない。東奈良と七下見を除けば全て福岡県春日市周辺
	である。従って当時の日本に、ガラスで勾玉を製作する技術が、少なくとも伝わっていた事は確かである。
	一番可能性があるのは、福岡県それもいわゆる「奴国」とされている春日市周辺である。しかし、原材料も日本で入
	手していたかは、現段階では不明なのだ。管玉は出土数が少ない事から、吉野ヶ里の管玉も、東京ガラス工芸研究所
	の由水(よしみず)常雄所長は「製造は朝鮮半島であろう。」と推測している。朝鮮半島での管玉出土がその可能性
	を高めている。日本で出土するガラス製品は、圧倒的に「鉛・コバルトガラス」なのだが、いくつかは「ソーダガラ
	ス」も混じっている。当時中国産のガラスにはソーダガラスは全く存在しないので、由水氏の言うように、ガラスは
	「中国−朝鮮ルート」と「中央アジア−朝鮮ルート」の二つの道を辿って日本へもたらされた可能性も否定はできな
	い。
	上記の図には出てきていないが、実は弥生時代のガラス製品が大量に出土している地域がある。丹後半島である。
	北九州と並び、丹後半島も他地域に比べて圧倒的な出土数を誇る。どうして上図に表わされていないのかちょっと不
	明だが、丹後半島のガラスの多さは一つの謎である。
	丹後のガラスに関しては、歴史倶楽部の例会で丹後半島を訪問したので、その時のレポートを参照されたい。
 
	以上見てきたように、魏志倭人伝に記載があるもので、弥生時代の主な出土物の分布から言えば、弥生時代の奈良に
	は殆ど見るべきものがない。2,3世紀の福岡県と奈良県には圧倒的な差があるのである。3世紀には既に奈良の大
	和王権が日本中を支配していたなどという、一部の畿内説論者の発想は、この考古学の成果をどう判断しているのだ
	ろうか。しかも奈良県を掘っている考古学者のなかにも、そういう意見を言う人がいるのである。頭の構造はいった
	いどうなっているのか。よく学者などになれたものである。
	以下のコーナー、三角縁神獣鏡と前方後円墳については、これまでとは逆に「魏志倭人伝に記載されていないもの」
	のデータである。これらを邪馬台国の時期へ近づけるために、邪馬台国近畿説の論者達は様々な、詭弁とも思える論
	を展開しているが、全く先入観無しの公平な目で見ても、無理のある主張が多いと思う。近畿圏の学者達の、奈良県
	の前方後円墳の発生を古く古く持って行こうとする思いつきの学説、そして、思い込みによるため学術的な証拠や証
	明が全くなく、自己主張のみの断言や、マスコミも動員してのPRばかりが目立つ、ほとんど目茶苦茶な議論をして
	いる。かくて、考古学者が考古学的な事実すらも無視する傾向が目立ちはじめている。
	安本教授の言うように、全く「空理空論の考古学」というほかはない。

	しかしながら、見てきたような状況は4世紀にはいると逆転する。以下の三角縁神獣鏡や巨大な前方後円墳は、奈良
	を中心とする近畿地方で圧倒的な優位に立っている。福岡県には巨大古墳はほとんど無い。三角縁神獣鏡も近畿圏が
	圧倒的な出土数を誇る。これは王権の或いは政権の実勢が、大きく北九州から近畿圏へ移動したことを物語っている。


	(5).三角縁神獣鏡

	弥生時代の鏡は、多くが北九州から出土している。庄内式土器の時代の鏡は、奈良県よりも、福岡県から出土してい
	るし、古鋳の三角縁神獣鏡も、福岡県から出土している。このことは、八咫の鏡についての国内伝承とも重なりあい、
	三角縁神獣鏡の誕生の地が、北九州であることを示唆している。しかし、現在出土している三角縁神獣鏡のほぼすべ
	ては、四世紀後半の、崇神天皇−景行天皇を中心とする時代に、主に近畿圏を中心に、九州から関東にわたる日本各
	地で生産されたものと考えられる。  
	三角縁神獣鏡は、4世紀の墳墓からしか出土していないし、日本では500面以上出土しているのに、中国からは、
	1面も出土していない。九州よりも、畿内のほうが圧倒的に出土数が多い。奈良県から100面出土しており、福岡
	県からはその半分の49面が出土している。もし三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だという事になれば、当然邪馬台国は近
	畿に決まりである。北九州にあった邪馬台国から、近畿圏に鏡だけを大量に運んでくるわけはないからだ。当然、近
	在に居た配下の豪族達に鏡を配賦したのであろうし、邪馬台国の卑弥呼の勢力は、近畿一円に及んでいた事がはっき
	り見て取れる。いや近畿圏のみならず、西日本を中心としてほぼその当時の日本を既に支配していた事になる。

	これは、弥生時代の鏡を、後生大事に一族で保管して、古墳時代になって一斉に古墳の副葬品として埋葬するという、
	いわゆる「伝世鏡」という考え方に基づいている。しかし伝世などなかったとすれば、三角縁神獣鏡は明らかに4世
	紀になって出現した鏡であるし、邪馬台国時代が終りをつげて、古墳時代の幕開けに、急速に邪馬台国とは違う勢力
	が近畿に出現した証拠にもなる。だとすれば、卑弥呼の鏡は北九州一円に散逸している前漢鏡・後漢鏡あるいは魏晋
	鏡という事になって、邪馬台国は北九州である可能性が俄然高くなる。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡でないことは、こ
	のHPの「日本古代史をとりまく謎」コーナーの「三角縁神獣鏡の謎」で詳細に検証したので、そちらを参照願いた
	い。

	(6).前方後円墳

	■巨大前方後円墳(80m以上)
	巨大前方後円墳はの成立発展は、大和朝廷の成立発展と結びつく。そして、三角縁神獣鏡は、しばしば、前方後円墳か
	ら出土し、その分布のようすは、巨大前方後円墳の分布とよく似ている。三角縁神獣鏡が、大和朝廷の祭器として前方
	後円墳の発展に伴って普及したことを思わせる所以である。   
 
	■巨大前方後円墳(100m以上)
	5世紀になると、100メートル以上の巨大前方後円墳の築かれることがより多くなり、その分布のようすは、奈良県
	と福岡県の格差が大きくなる傾向にある。つまり、時代が下がるにつれ、福岡県にくらべ、奈良県の優位性が進むので
	ある。
	鏡の、墓への埋納の習慣や、鏡・剣・玉の尊重など、九州と近畿が連続性を保ちながら、出土の中心が大きく動き逆転
	するのは、いわゆる「邪馬台国東遷説」によって説明が付く、と安本教授は考えている。北九州と近畿圏(奈良)の地
	名の類似や古方言の類似などを考えると、私も大きくこの説に惹かれるがまだ完全には検証し終えていない。
	また、この「東遷」の考古学的な事実と、古事記・日本書紀の語るストーリーとは驚くほど一致しているのもはなはだ
	魅力的である。考古学的な事実も、文献学的な事実も、統一的に説明ができるというのは確かにいい理論と言えよう。

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	この考古学の成果は、一研究者である川越氏単独の研究結果ではない。多くの考古学者たちが統計を取った結果でも、
	ほぼ同様の数値と分布が導き出されている。これはどんな人が考えても以下のような結果になっているのである。

	(1).わが日本列島においては、3世紀の邪馬台国頃までの遺跡からの発掘品は圧倒的に九州、それも北九州から出
		土している。
	(2).特に鉄・絹製品については、圧倒的に北九州が多く、近畿地方の特に奈良県では殆ど鉄は無かったといっても
		いいほどである。
	(3).これは、いままで見てきたような、中国の文献に書かれたわが国の弥生時代の状況とまったく完全な一致を見
		ている。
	(4).4世紀にはいると、この状況は反転し、多くの古墳が近畿に出現しだし、5世紀にいたっての大型古墳は、近
		畿以外の地方ではほとんど見られない。

	このような、小学生でも分かるような簡単な理屈が、一部の考古学者たちにはまったく理解できていない。いったい頭
	の中はどうなっているのかと言いたいほどだ。

	鉄の分布をめぐって、かって奥野正男氏と佐原真氏の間で論争があった。奥野氏はアマチュアの考古学者から宮崎公立
	大学の教授になった人で、佐原氏も幾つかの研究機関を経て、千葉県佐倉市にある国立歴史民族博物館の館長だった人
	である。奥野氏の見てきたような考古学の成果に対して佐原氏は、松本清張編「銅鐸と女王国の時代」という本の中で
	奥野氏に反論し、「九州からは弥生時代の鉄器がたくさん見つかっているのに畿内では乏しい。古田武彦さんも奥野正
	男さんもこれを「直接的事実」と理解し、畿内と比べて九州の優位を説いている。これに対して私は、たとえば弥生時
	代V期の畿内には石器が基本的に無いという現象を鉄器の普及とみ、「間接的事実」として受け取り、鉄器はあったの
	だと考える。」と述べている。
	つまり近畿では、石器が見つからないから鉄器を使っていたのだとし、これを「間接的事実」と名づけて以後も同様の
	主張を繰り返している。また畿内は九州に比べて鉄の腐敗が激しく、腐ってしまった、あるいは他の製品を作るのに鋳
	溶かしてしまったなどと述べている。そして驚く事に、この論争以後もこういう主張を繰り返しているのである。さす
	がにこれには、畿内説の学者の中でも批判が強く「いくら腐敗すると言っても、鉄だけが九州に比べ畿内の方が腐敗が
	激しいなどという事はありえない。鉄については、畿内説論者がいくら詭弁を弄しても、北九州が圧倒的に優位に立っ
	ているという事実は否めない。」(寺沢薫氏。橿原考古学研究所)という、きわめて常識的な意見もある。


		<参考資料>  <主要な遺跡・遺物数の全国的な統計> 出典:兵庫県HP
		====================================
		1 遺跡所在件数( 平成5年3月文化庁調べ)1位兵庫県25,406 カ所
							 2位千葉県25,131 カ所
							 3位福岡県16,968 カ所
							 4位静岡県14,149 カ所
							 5位鳥取県13,192 カ所
							 全国370,840 カ所

		2 古墳所在基数(平成13年3月末)	 1位兵庫県16,577 基
							 2位千葉県13,112 基
							 3位鳥取県13,094 基
							 4位福岡県11,311 基
							 5位京都府11,310 基
							 全国161,560 基

		3 出土遺物量累計(平成13年3月末)	 1位大阪府870,762 箱
							 2位福岡県493,356 箱
							 3位千葉県331,998 箱
							 4位京都府273,846 箱
							 5位兵庫県231,631 箱
							 全国6,296,680 箱

		4 銅鐸出土数(平成13年3月末)	 1位兵庫県56 点
							 2位島根県54 点
							 3位徳島県42 点
							 4位滋賀県41 点
							 5位和歌山県41 点
							 全国約500点

		5 三角縁神獣鏡出土数(平成13年3月末) 1位奈良県75 面
							 2位京都府55 面
							 3位兵庫県45 面
							 4位福岡県27 面
							 5位岡山県18 面
							 全国約400面
		====================================
	
	--------------------------------------------------------------------------------
	安本教授は前掲の書、「邪馬台国と高天の原伝承」(勉誠出版平成16年3月10発行。)で述べている。

	『魏志倭人伝には、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所。」と述べられているだけではない。「女王国より以北は
	その戸数・道里は略載するを得べし。」とも述べられている。戸数・道里を略載されているのは「対馬国」「一支国」
	「末廬国」「伊都国」「奴国」「不弥国」である。これらは女王国の以北にあったのである。すると女王国はこれらの
	国、例えば「伊都国」の南にあったのである。「魏志倭人伝」はまた記す。「女王国より以北にはとくに一大率をおい
	て、諸国を検察させている。(一大率は)常に伊都国に(おいて)治めている。」ここでも伊都国は女王国の北だと記
	されている。つまり、女王国は、伊都国の「南」だというのである。「魏志倭人伝」に三度にわたって記されている。
	「伊都国」と「邪馬台国」の位置関係は三度とも誤りだというのだろうか。
	「魏志倭人伝」の「南」は「東」の誤りなどとそんなに簡単にのべてよいのであろうか。邪馬台国論争は「魏志倭人伝」
	を出発点としている。「鉄の鏃」のように。考古学的に確かめられる事実も「魏志倭人伝」に書かれている記事内容も、
	殆ど一切無視して、邪馬台国を議論する考古学って、いったい、なんだろう。学問の名に値するものなのだろうか?』

	全く同感である。この頃考古学はおかしい。考古学者がおかしいというべきかもしれない。ねつ造問題にたいする学会
	の姿勢といい、見てきたような、事実を無視して我田引水的に大和王権が弥生中期には日本を統一していたとか、何か
	変な方向へ走っている。どこをどう見てもそんな結論には至らないと思うのだが、この風潮は、もしかしたら一人考古
	学者たちだけの問題ではないのかも知れない。
	今、日本中でおかしな現象が起きている。全国の警察署で示し合わせたように行われていた公金横領、雪印や三菱自動
	車に代表される多くの企業で行われていた大規模な不正の数々。女生徒を強姦・誘拐する教諭たち。友達を殺す小学生
	や、幼い我が子を残虐に殺してしまう若いバカ親たち。これらの根源はもしかしたら一つかもしれない。いま日本中が
	おかしな方向へ走っているその中に、考古学者達もいるのかもしれない。学問の世界にも、一億総バカ化現象は徐々に
	進行しているのかもしれないのだ。このままいけば、まもなく日本はエライ事になってしまう可能性がある。

	平成16年7月28日 猛暑の吹田市にて
	--------------------------------------------------------------------------------
	 邪馬台国大研究・ホームページ / わちゃごなどう?/ 本編 







	とは言っても、まぁ多くの予算を割いて掘った仕事の結果であるし、現地説明会には行ってみようと思っていた。だが、幸か不幸
	かその日は朝から雨で、うっとうしかったので行くのは止めにした。しかし午後一時からも説明するとのことだったので、雨が上
	がったら午後の説明を聞きに行ってもいいかなと思ったが、雨はとうとう一日中降り続いていた。

	今回の例会を巻向古墳群にしたのも、実はこの遺跡がまだ掘ったままあるのではないかと期待したのだが甘かった。遺跡近所のお
	じさんの話では、3月中に元通りにするという約束で地主から発掘させて貰っているので、バタバタ埋め戻さなくてはイケナイの
	だそうだ。遺跡は埋め戻しの真っ最中であった。






	今回の発掘は、上記新聞記事にあるように、いわば邪馬台国を捏造する為の調査である。何か出たら即それを邪馬台国=巻向に結
	びつけようと、手ぐすね引いて、万を辞しての調査なのだ。初めから邪馬台国はここだと決めつけて堀る発掘調査などに、一体い
	かほどの価値があるのか、学問上のいかなる意味があるのか。白石太一郎など、「邪馬台国はすでに大和で決着している」のなら、
	どうして今回の調査に期待するのか、おかしいではないか。もう決着しているのなら、何も掘って証明する必要はない。不安で不
	安で仕方がないから期待するのである。心のどこかに、「邪馬台国はもしかしたら北九州かもしれない。」と思っていることが、
	バレバレである。桜井市も、こんな調査姿勢では、青森県のキリストの墓を笑えはすまい。

	邪馬台国はすでに北九州で決着している。


	今年は桜の開花が早い。至る所で7,8分咲きだった。巻向駅のホーム北側から、発掘された「遺跡」は目の前だった。ブルドー
	ザーが入って、作業は今日は休みのようだが、もう埋め戻されているのがわかる。



	毎日新聞 web(毎日 2009年3月21日)
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	奈良・桜井の纒向遺跡:卑弥呼時代の建物群 計画的配置、王権の中枢か

	ヤマト政権発祥の地で邪馬台国の「最有力候補地」とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、女王・卑弥呼(?〜24
	8年ごろ)と同時期の3世紀前半の建物群が見つかり、桜井市教委が20日発表した。一帯は大規模に整地され、柵で複雑に区画。
	柱筋は東西方向にそろい、三つの建物が計画的に並んでいた。こうした特異な構造は同時期では例がないといい、市教委は「王権
	の中枢施設の一角の可能性がある」としている。
	纒向遺跡は東西約2キロ、南北約1・5キロで、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳をはじめ、前方後円墳が誕生した
	場所。各地の土器が持ち込まれており、邪馬台国やヤマト政権との関係が取りざたされてきた。
	今回の調査地点では、78年度に柵と建物跡を確認。区域を約400平方メートルに広げ、今年2月から再度調査、前回確認した
	5メートル四方の建物跡と、これを逆コの字状に囲む柵列を検出した。柵列は更に北、南、東の3方向に延び、総延長は40メー
	トル以上になるとみられる。
	この建物跡の東側で、東に延びる新たな建物跡(南北6メートル以上)を確認。柵の西側で見つかっていた柱穴は、今回の調査で
	建物跡であることが判明した。【林由紀子】

	◇石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話
	 3世紀前半に、建物が方位や柱筋をそろえて計画的に並ぶ例は他になく、驚きだ。邪馬台国の有力候補地から見つかったという
	ことは高く評価でき、都の一端をうかがわせる。
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巻向駅のホームの一番北側へ来ると、発掘現場がすぐ目の前である。ここからでももう埋め戻しているのがわかる。

	読売新聞 
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	弥呼の宮殿か、柵内に建物整列…奈良・纒向遺跡

	邪馬台国の最有力地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼の時代にあたる3世紀前半〜中頃の建物跡が、
	大規模な整地をしたうえで、柵で囲み、建物の方向をそろえるなど、計画的に整備されていたことがわかり、市教委が20日、
	発表した。この時期、こうした施設は他に見られないといい、専門家は「この地が邪馬台国とすれば、宮殿など中枢施設の一角
	だった可能性がある」と指摘している。
	1978年に出土し、神殿状とされた建物跡(約5メートル四方)や柵跡の周囲を発掘。この建物跡の東側で、三つ並んだ柱穴
	が新たに見つかり、南北6メートル以上の別の建物跡があったとみられる。柵は凸状に建物を囲み、南北23メートル以上、東
	西9メートル以上に延びることがわかった。付近は整地のため、広い範囲で盛り土をされていた。大規模な施設の西端にあたり、
	施設はさらに東に広がっているとみられる。
	また、78年に今回の調査地より約5メートル西側で見つかった柱穴も柵の外にあった建物跡と判明。少なくとも3棟が柵を挟
	み、建物の北側の面をそろえて東西一列に並んでいたらしい。
	邪馬台国は3世紀後半の中国の史書「魏志倭人伝」に記された倭の中心地。卑弥呼が239年、中国・魏に使者を送った。所在
	地について畿内説と九州説に分かれて論争が続いており、九州説の研究者らは同書の記述から、纒向遺跡は邪馬台国と無関係と
	みている。
	畿内説を唱える辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話
	「方位を意識して造られた建物や柵は中国的で、強力な支配者がいた証しの一つだ。卑弥呼が祭祀(さいし)や政治を行った、最
	も重要な施設の一部だったのではないか」	(2009年3月21日  読売新聞)
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これも駅のホームから写した写真。

	日本経済新聞 
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	「神殿」囲む柵跡も発見 耶馬台国の候補地、奈良・纒向遺跡

	邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の中心部を調査中の同市教育委員会は20日、3世紀前半の
	建物跡や柵跡を発見したと発表した。約30年前に見つかった、「神殿状建物」とされる建物跡の周囲に整然と並んでおり、同
	市教委は「特別な施設の一部だった可能性がある」としている。
	見つかった建物跡は南北に並ぶ3つの柱穴。柱は直径約15センチ、建物は南北6メートル以上と推測されている。柵跡は「神殿状
	建物跡」をコの字形に囲んでおり、合計約35メートル分を見つけた。いずれも方向軸をほぼ南北に合わせて建ててあった。

	市教委は「当時、このように複雑かつ整然と構築された建物群は珍しい」としている。同遺跡をヤマト政権発祥の地とみる奈良
	県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は「調査地点が纒向遺跡の中枢だった可能性がより高まった」と話している。
	(20日 23:15) 
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本日のオールキャスト。これに私と遅れてきた河内さんが加わる。


	「巻向」という名前は新しい。この辺りは元々は「大田」という地名である。「巻向遺跡」も昔は「大田遺跡」と言っていた。
	それが日本書紀に「巻向」という地名があるので、この辺りに違いないと、まず三輪駅と柳本駅の中間に新設されたJRの駅
	に「巻向」と名前を付けて、その後「巻向小学校、巻向郵便局と出来ていって、今ではこの辺り一帯を巻向地区と呼ぶように
	なった。そもそもここを大田と呼ぶのは「大田田根子」伝承に基づいている。崇神天皇7年に、天皇が物部連の祖伊香色雄
	(いかがしこを)に命じ、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)にいた、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として
	大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀には、大物主神が倭迹迹日百襲媛命、天皇臣下の穂積臣(ほずみのおみ)
	の先祖にあたる大水口宿禰、伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人の夢に現れて述べた神託に従い、大物主神の子である大
	田田根子に大物主神を祀らせたとある。その伝承によるものか、昔からここは「大田」なのだ。「巻向」などと改名すべきで
	は無いと思う。
	河内さんは集合時間になってもまだ奈良駅にいたので、追いついてきて貰うことにして、発掘現場へ向かった。



	MSN産経ニュース
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	卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡	2009.3.20 19:31
	
	大規模な神殿跡とみられる柱穴が出土した纏向(まきむく)遺跡(手前)。
	中央は箸墓古墳=18日午後、奈良市桜井市(本社ヘリから、飯田英男撮影) 

	邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)
	が見つかり、市教育委員会が20日発表した。過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。当時、
	方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。
	女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説
	に弾みをつけそうだ。調査は、約100メートル四方の高台のうち、西端約400平方メートルで実施。新たな建物跡は一辺
	が6メートル以上あり、昭和53年に見つかった建物跡(一辺5メートル)の東側で見つかった。その西側で以前、見つかっ
	ていた柱穴は同様の建物跡と分かった。
	3棟が高台の西端に位置することから、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性がある。
	柵は、全体の長さが約40メートル。53年発見の建物跡を凸字で囲むように南北へ伸び、東に折れ曲がっている。3棟は、
	西端の一棟がある「外郭(がいかく)」と、凸字形の柵に囲まれた2棟がある「内郭(ないかく)」に分かれた宮殿構造だっ
	た可能性もある。市教委は「建物群が特別な施設であることは間違いない」としている。
	現地説明会は22日午前10時と午後1時から。JR巻向駅のすぐ西で、駐車場はない。
		
	大規模な神殿跡とみられる柱穴が出土した纏向(まきむく)遺跡(手前)。黄色いポールが建物の柱跡、白色ポールが柵の跡
	とみられる=18日午後、奈良市桜井市(本社ヘリから、飯田英男撮影)
	
	邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡中心部から、大規模な神殿跡と思われる柱穴が出土=18日午前、奈良県桜井市
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そうかぁー、この下になぁ、と埋められた地面を見つめる錦織さん。
途中2,3人の考古学ファンらしきオジサンが来たが、「あー、もう埋めてんのかぁ」と帰って行った。
	中日新聞 
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	纒向遺跡に棟や柵整然 邪馬台国畿内説の有力地 2009年3月21日 朝刊
	
	纒向遺跡の中枢部周辺の調査地。奥の茂みは箸墓古墳=奈良県桜井市で(手前が北)
 
	邪馬台国(やまたいこく)畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、新たに建物や柵の延長部分が確認
	され、それらが整然と並ぶ3世紀前半(古墳時代前期)の集落中枢部周辺の様相が浮かび上がってきた。桜井市教育委員会が
	発表した。市教委は「柵の東側に大きな中心建物などがあった可能性が高い」とみている。
	1978年の調査で見つかった建物跡や柵跡の周辺を調べるため、この調査地を含む約380平方メートルを発掘。柵は約5
	メートル四方の建物の西側を「凸の字形」に取り巻いて南北に延びていることが分かった。
	柵は南で東方向へ直角に曲がり、柵内の建物跡の東約5メートルで一回り大きい建物跡の一部が新たに見つかったことから、
	柵で区画された集落中枢部が柵の東側に広がることが分かった。柵で囲まれる範囲の南北推定長は約26メートルという。
	78年に出土した2棟の建物跡とともに、東西の向きが一致しており、市教委は「建物や柵の方向をそろえるなど同時期の遺
	構としては珍しく規格性があり、集落の中でも特別なエリア。調査を継続して実態を解明したい」としている。
	纒向遺跡は3世紀の国内最大級の集落跡とされ、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓説もある箸墓(はしはか)古墳など
	初期の前方後円墳が点在する。

	▽1978年の調査を担当した寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長(考古学)の話 纒向遺跡はヤマト政権の最
	初の都だと考えている。その宮殿が今回調査地の東側にあった可能性が高まり、今後の調査が期待される。

	【纒向遺跡】 奈良盆地東南部に3世紀初めごろ出現し、4世紀前半に姿を消した巨大集落跡。初期は直径約1キロの範囲だ
	ったが3世紀中ごろ東西約2キロ、南北約1・5キロに拡大した。最初期の前方後円墳6基が集中。運河や祭祀(さいし)場
	の跡、関東から九州の土器が見つかっており、国内最初の「都市」との見方もある。邪馬台国論争で畿内説の根拠になってい
	る。
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	asahi.com 
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	3世紀、卑弥呼の宮殿?整然と並ぶ建物跡 奈良・纒向	2009年3月21日11時30分

		
	直線上に並ぶ建物跡の柱穴(黄棒)や柵列遺構(白棒)が見つかった纒向遺跡=奈良県桜井市、矢木隆晴撮影

	邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、3世紀前半の三つの建物
	跡が同じ方位を向き、同一線上に並んで建てられていたことがわかった。市教委が20日発表した。周囲には約40メートル
	に及ぶ柵(さく)列の遺構もあった。市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、専門家は
	「宮殿など極めて重要な場所の西端だった可能性がある」と指摘している。 
	県立橿原考古学研究所による78年の調査で、脇殿を備えた神殿状建物跡(約5メートル四方)と柵列遺構の一部(約15メ
	ートル)が出土。2月からの同市の調査で、神殿状建物の東約5メートルで新たに三つの柱穴(直径約15センチ)が見つか
	った。南北6メートル以上の建物だったらしい。周囲からは柵列の延長(約25メートル)も出土した。 
	また、過去の調査を再検証した結果、神殿状建物の西約10メートルで見つかっていた柱穴も、別の建物跡(幅2メートル以
	上、奥行き5メートル)とみられることが判明。三つの建物は柵を挟んで東西の同一線上に並んでいた。遺構はさらに東へ広
	がっているとみられ、市教委は新年度に調査区域を広げて全体像を探る方針。 
	
	兵庫県立考古博物館の石野博信館長(考古学)は「3世紀段階で建物が軸をそろえて並ぶのは極めて異例だ。建物をきれいに
	配列する中国の思想を既に受けていたのだろうか。ここが邪馬台国とすれば卑弥呼の宮殿の一角なのかもしれない」と推測す
	る。 
	纒向遺跡は南北1.5キロ、東西2キロ。248年に死去したとされる卑弥呼の墓との説があり、国内最古級で大規模な箸墓
	(はしはか)古墳(全長約280メートル)をはじめ、巨大な前方後円墳が点在。全国各地から持ち込まれた土器や、土木用
	工具が多く出土するなど「日本最初の都市」とされる。 
	現地説明会は22日午前10時と午後1時。JR桜井線巻向駅そば。駐車場はない。 
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	mainichi.jp
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	映画:邪馬台国に思いはせ 卑弥呼モチーフに 大隈監督、5月から撮影予定 /奈良

	 ◇来年の公開目指す
	来年の平城遷都1300年を記念して、邪馬台国畿内説と九州説の舞台となる県内や佐賀県で「卑弥呼」をモチーフにした映
	画の企画が進行している。樋口隆康・前橿原考古学研究所長や高島忠平佐賀女子短大学長が監修、映画監督の大隈孝一さん
	(68)=東京都=が製作する。平城遷都1300年記念事業協会や桜井市も関心を示し、5月から一部撮影が始まる予定。
	【高橋恵子、稲田敏雄】

	大隈監督によると約10年前から樋口前所長らとの間で企画が持ち上がっていたという。纒向遺跡(桜井市)や吉野ケ里遺跡
	(佐賀県)の発掘現場などを舞台に、発掘調査員や研究者、中国・韓国の留学生ら多彩な人物が登場して邪馬台国に思いをは
	せる内容。卑弥呼も登場するなど、時空を超えた壮大な映画になるという。
	撮影は、飛鳥寺や山の辺の道の大和三山が望める場所で計画しているという。5月に新緑の風景などを一部撮影し、10月ご
	ろから本格的に撮影をする。年内に仕上げて、来年公開できるようにするという。制作費は宣伝費込みで約2億円。
	記念事業協会は今月後援を決定。谷奥昭弘・桜井市長は「纒向遺跡こそ邪馬台国と信じており、映画の企画は大変喜ばしい」
	と期待を寄せる。撮影場所設定やエキストラ募集は地元の大和桜井フィルムコミッションに協力を依頼することにしており、
	大隈監督は「たくさんの人の協力を得て楽しみながら撮りたい」と話している。
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	古老曰く  投稿者:郭  投稿日:2009年 3月31日(火)02時28分41秒  

	先日はお疲れ様でした。
	巻向駅そばの発掘現場の西の神社。岩には「天照御魂神社」、石灯籠には「春日大明神」。ほかに社名を示すものはありませんで
	したので、あの古老にお話をお聞きした。御年85歳だそうです。
	「大田の宮」と言っている。いささか肩透かしを喰らった気分ではありましたが、それからいろいろとお話が続きます。小さい頃、
	初詣は大兵主神社だった。が、この大田の宮の祭礼のときは、学校に呼び出しがあり、大田の在の子は帰らされて祭礼の列に並ん
	だ。県からえらいさんが来ていた。だから、普通の神社とちょっと違うんとちゃうかな?と。

	遺跡については、もともと大きな石が四つ置かれていた。また、東側(今の線路脇)には、四寸角ほどの墓標が立っていた。(墓
	標と言うより碑でしょうね) なにぶん子供の頃だし、なんて書いてあるかはわからんかったけど。このあたり掘るかもしれんか
	ら家は建ててくれるなといわれてた。この田んぼ(遺跡の南を東高西低に神社側へ四枚ほど)はうちのんやけど、昔はここは川だ
	ったらしい。たしかに、下の田からぶくぶくと水がでてきよる。

	桜井はちっとも人口が増えん。かつての何とかと言う市長か県知事が、(池田とゆうてはりました)産業よりも、古墳や遺跡やゆ
	うとったから、とうとう遅れをとった。木材屋も他所へ出て行く始末や。この際、明日香のように、遺跡、古墳を売りにして観光
	開発するしかないんとちゃうか。


	帰宅して調べてみるとこの「大田の宮」は、他田坐天照御魂神社だった。この神社は、桜井市戒重の春日社説もあります(桜井駅
	の近くに西向き)が、この大田の宮とする説が有力のようですね。神社前の湿地もかつての川の名残でしょうか。

	発掘については、次回は、その東側の予定だとか。闇雲に掘ってるわけではなく、何かしらの伝承があり、それに基づいて掘って
	みたということなんだろうと思いました。
	古代史遺跡をメインに観光化するのは結構だけれど、大新聞と結託して、ミスリードだけはやめてほしいですね。

他田坐天照御魂神社
ただにいますあまてるみたまじんじゃ






	以下各古墳の解説は、私がこれまでにHPに書いた文章をそのまま転記した。新しい情報があれば追加したが、基本的には数年前
	に書いた内容のママである。


	<纒向遺跡・古墳群>

	三輪山の麓にある桜井市の巻向地区には、卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳を中心に多くの古墳や遺跡があり、近く
	の山辺の道には大和朝廷の実質的な創始者とも言われる、崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)等もあり、こ
	こが大和朝廷の発祥の地という人もいる。纒向遺跡には20数基の古墳が存在する。このうち現状から前方後円墳と判別できるも
	のとして、箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳がある。これらの古墳を総称して「纒向
	古墳群」という。
	近年の橿原考古学研究所や桜井市教育委員会等々の発表によれば、纒向古墳群のなかの、勝山古墳、矢塚古墳、ホケノ山古墳、マ
	バカ古墳などは出土物の調査等から、建造時期が3世紀半ばまで遡るとされ、これで卑弥呼活躍の時期と一致すると、邪馬台国近
	畿説論者たちは声高らかに叫んでいる。



纒向石塚古墳 まきむくいしづかこふん




	<纒向石塚古墳>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	纒向石塚古墳(まきむく・いしづか・こふん)は纒向古墳群に属する古墳。纏向遺跡内では最古の古墳の可能性あり。また、前方
	後円墳成立期の古墳として注目されている。

	<概要>
	所在地:奈良県桜井市太田字石塚 北緯34度32分46.5秒東経135度50分09.9秒 
	被葬者:不明 
	築造時期:古墳時代前期初頭(3世紀中葉か) 
	墳 形:纒向型前方後円墳 
	規 模:全長96m、 
	後円部(主丘部)東西59メートル、南北45メートル、不整形円形。 
	前方部長約32m・幅約34m、三味線の撥のように開いている。 
	くびれ部幅約12.8m、周濠幅約20m、葺石・埴輪無し。 
	埋葬部: 
	墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が発見された。
	当時埋葬施設及び遺物の出土がないことから後円部の埋葬ではないか、深淵部に埋葬施設があると
	考えられる。 
	出土遺物:周濠より出土、弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器出土。 
	弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物) 
	朱塗の鶏形木製品 
	木製鋤 
	木製鍬 
	横槌 
	水槽 
	建築部材などの木製品 
	土師器(纒向I式期) 



























纒向勝山古墳
まきむくかつやまこふん




	<纒向勝山古墳>

	◆勝山古墳:築造時期は3世紀前半 卑弥呼の時代と一致 奈良[毎日新聞5月31日] (2001-05-31-00:04)

	奈良県桜井市の勝山古墳から出土した木材の伐採時期が「紀元199年プラス12年以内」であることが、年輪の分析で分かった。
	奈良文化財研究所と県立橿原考古学研究所が30日、発表した。3世紀後半とされてきた同古墳の築造年が、3世紀前半にさかの
	ぼり、邪馬台国を都とした倭国女王、卑弥呼の時代に完全に重なるという。同古墳を含む纒向古墳群を築造した勢力がヤマト政権
	の源流とされており卑弥呼時代との一致は邪馬台国大和説を支える第一級の資料といえる。橿考研が今年1〜3月の発掘調査で、
	廃棄されたとみられる約200点の木材を同古墳の周濠跡で見つけた。古墳上での葬送儀礼の施設に使われた建築部材らしい。奈
	文研が、年輪から伐採年を調べる年輪年代法で、ヒノキ材5点を調べた結果、うち外辺部が残っていた板材1点の伐採年を「199
	年プラス12年以内」と断定した。木材に再利用の跡はない

	▽古墳祭祀に用いた木材は伐採後間もなく使用、廃棄されたと考えるのが常識的
	▽紫外線による劣化が切断面にない――ことなどから、橿考研は「古墳の築造時期は、伐採年に近い3世紀前半」とした。
	また、諸説ある「古墳時代」の始まりの時期にも大きな波紋を投げ掛ける。約15年前までは、その時期を、定型化した巨大前方
	後円墳の箸墓からと考える説が有力だった。しかし、その後、箸墓の前段階の勝山、ホケノ山など前方部の短い「纒向型前方後円
	墳」から▽2世紀に築かれた楯築(岡山県)などの大型墳丘墓から――とする主張が出ている。

	「纒向型説」を取った場合、これまで最古とされていた同古墳群のホケノ山古墳(3世紀前半)より勝山古墳が古い可能性が大き
	く、古墳時代の見直しにもつながる。また、この直後に築かれたとみられる他の古墳も、築造年代がより古くなる。3世紀後半と
	考えられ、一部には卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳の築造も、中国の史書「魏志倭人伝」にされた卑弥呼の没年(248年ごろ)
	と重なる可能性がきわめて大きく、邪馬台国大和説を勢いづかせる。一方、勝山古墳の周濠からは、木材に伴って土器片も出土。
	土器の型式から年代を推定する「土器編年」では、同古墳の築造を3世紀後半とする見方が強かった。今回の分析結果は土器編年
	と実年代の関係の再検討にもつながりそうだ。測定した木材は、6月4〜8日、同県橿原市畝傍町の橿考研で展示する。
	【花岡洋二】




	<勝山古墳の報道を巡るマスコミの姿勢について> 安本美典

	勝山古墳の報道について、「読売新聞」では、一面のトップ記事で取り上げ、39面では、「所在地論争決着近づく?」として、
	いちじるしく「邪馬台国=畿内説」にかたむいたとりあげ方をしている。ほんとうに「邪馬台国=畿内説」に有利な材料だろう
	か。「邪馬台国問題」はあくまで、『魏志倭人伝』という文献から出発しているはずだ。 
	『魏志倭人伝』には、「(倭人は)兵(器)には、矛・楯・木弓を用いる。」と記されている。北九州からは、銅の矛も、鉄の矛も
	いくつも出ているのに、纏向遺跡からは、ホケノ山古墳からも、勝山古墳からも、銅の矛も、鉄の矛も、まったく出土しないの
	は、どうしたわけか。
	『魏志倭人伝』はまた、「異文雑錦二十匹を貢いだ」など、倭人は、絹製品をつくっていたことを記す。絹製品も、北九州から
	いくつも出土しているのに、「纏向遺跡」など、奈良県から、当時のものは、出土していないのはなぜだろう。
	倭人は、鉄利器を用いていた。ホケノ山古墳からは、たしかに、鉄の鉄、素環頭大刀、直刀、剣が出土しているが、福岡県から
	は、奈良県をはるかに上まわる当時の鉄利器が出土していることは、「邪馬台国畿内説」の寺沢薫氏でさえ指摘しておられると
	ころである。 
	『魏志倭人伝』には、倭人の葬制は、「棺あって槨なし」と明記している。これも、北九州の墓制と合致している。ホケノ山古
	墳では、「木槨」があった。『魏志倭人伝』の記述に合っていない。逆に、『魏志倭人伝』には、遺跡から「邪馬台国時代の木
	製品」が出土すれば、そこが、邪馬台国である、などとは、なにも記されていないのだ。それに、北九州から、「邪馬台国時代
	の木製品」がすでに出土している可能性は、きわめて大きい。たんに、年輪年代法や炭素14年代測定法によって測定発表されて
	いる事例は、近畿中心のものに偏っているというだけのことではないか。 たとえば、西暦200年前後に築造されたとみられ
	る福岡県前原市の平原王墓出土の割竹形木棺や、福岡県小郡市の津古生掛(つこしょうがけ)古墳出土の木棺などは、年代を測
	定することが可能であったならば、ホケノ山古墳や勝山古墳出土の木製品と同じような年代を与える可能性は多分にある。

	「邪馬台国論争」は、『魏志倭人伝』の記述がもとになっておきている。『魏志倭人伝』の記述にあっているかどうかを考える
	のが、眼目ではないか。『魏志倭人伝』にもとづく直接の証拠を検討せずに、いちじるしい偏りのあるデータにもとづいたり、
	研究者の意図的な報告を大々的にとりあげたり、論理構成をしすぎたりすると、旧石器担造事件と同じような空中楼閣を築くこ
	とになりかねない。 
	旧石器担造事件に関係し、国士舘大学イラク古代文化研究所の大沼克彦教授は、強く警告のことばをのべている。
	「私はマスコミのあり方にも異議を唱えたい。今日のマスコミ報道には研究者の意図的な報告を十分な吟味もせずに無批判に、
	センセーショナルに取り上げる傾向がある。視聴率主義に起因するのだろうが、きわめて危険な傾向である。」
	(立花隆編『「旧石器発掘ねつ造」事件を追う』 この言葉は、邪馬台国問題にも、ほぼそのまま、あてはまる。  




	奈良文化財研究所は、年輪年代法の測定方法やデータを公開しろという声にもまったく答えないし、日本でこの手法で年代を
	測定しているのは同研究所の光谷拓実氏ただひとりである。日本中の、あらゆる古樹木の年輪を調べているのはたった一人な
	のだ。他に同業者が一人もチェツクしていない方法などは、いかに最新機器を用いていたとしてもとても科学的とは言えない。
	しかも、その年代については、幾つかの機関から間違っているのではないかという指摘もあるのである。
	だが近畿圏の考古学者・歴史学者は、この光谷氏のデータを盲目的に信じているし、近畿圏の自治体に散らばっている自分の
	教え子たちに、(自分にとって)都合の良いデータを報告書にちりばめないと、その後の協力はしらんぞと暗に匂わせている
	とも聞く。ほんとなら、これはもう学者のすることではない。薄汚れた政治家どもの所業である。



はいれそうやでぇ、という声にみんな藪の中へ入っていくが、勿論もう古墳の形状などわからない。









纒向矢塚古墳
まきむくやつかこふん




	<纒向矢塚古墳>

	纒向小学校西側に接するこの古墳は現状で円墳と思われるが、周濠部の発掘調査によれば径60m以上の胴張方形、前方後円墳
	の可能性もある。埋葬施設は墳丘中心部の調査がされておらず不明である。築造時期については,周濠部から出土した土器より
	纒向V式期が考えられ、石塚古墳よりもその築造は新しいと思われる。(桜井市史より)






	纒向矢塚古墳は、西面する全長約96m、高さ約5mの古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘の築造企画が纒向石塚・纒向勝山・
	東田大塚・ホケノ山などの古墳と同じ企画を持つ纒向型前方後円墳の一つと考えられている。昭和47年に周濠の一部が調査さ
	れ、幅17〜23m、深さ60cmの濠を持つことが確認されました。また、この時の出土土器より、纒向矢塚古墳は箸墓古墳
	より先行する可能性も高くなっている。桜井市教育委員会 (現地説明板より)











纒向東田大塚古墳
まきむくひがいだおおつかこふん






	<纒向東田大塚古墳>	邪馬台国論争に一石(平成10年3月20日、産経新聞) 

	東田大塚古墳の周囲には3世紀前半から後半の「最古」「最古級」とされる前方後円墳が点在し、「定型化した大規模前方後
	円墳」として最初に登場した箸墓古墳(3世紀末ごろ)も並ぶ。わが国独自の前方後円墳発生のなぞと邪馬台国所在地論争の
	カギを握る古墳群として改めて注目されそうだ。
	東田大塚古墳は、邪馬台国の有力候補地となっている古墳時代の大集落跡「纒向(まきむく)遺跡」内にある。北側には、墳
	丘の盛り土に混入していた土器片から3世紀の第一・四半期(201−225年)の終わりごろの築造とされた纒向石塚古墳
	や、勝山古墳、矢塚古墳があり、東側には東田大塚古墳と同じく周濠内で3世紀後半〜同末の土器片が出土したホケノ山古墳
	がある。
	さらに、これら全長90〜100mの前方後円墳とは隔絶した全長約280mの規模をもち、4世紀以降の大規模前方後円墳
	のモデルと考えられている箸墓(はしはか)古墳(3世紀末ごろ)も含み、同遺跡内の「纒向古墳群」を形成している。
	同市教委の橋本輝彦技師は「纒向古墳群が最大級の大型前方後円墳の集まった『最古の古墳群』ということが改めて裏付けら
	れた」とし、「箸墓古墳の築造まで、この地域を中心に古墳が造られ始めたのだろう。その先進性がよく分かる」と話す。
	石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「纒向の地域に3世紀初めごろから後半にかけて100m前後の古墳が出現し、その
	後、最初の大王墓とされる箸墓古墳が現れる」と前方後円墳成立の過程をたどり、「3世紀後半までに100m級の古墳を造
	ることのできる人が周辺に何人もいたということだ」と今回の発見を評価する。









ほとんど満開の桜である。そういえば昔、「花とおじさん」とか言う歌があったねぇ。







珠城山古墳群
たまきやまこふんぐん


	<珠城山古墳群>

	JR「まきむく」駅東北方約300m、「タマキヤマ」と土地で呼んでいる海抜100m、高さ15m、東西の全長約200m
	ほどに珠城山古墳群がある。道の脇に続いている。というか、道が古墳群を断ち切って造られたんだろうな。丘陵の東の最も高
	い処に、お稲荷さんの小祠がまつってある。この祠(ほこら)の下が1号墳で、ここから西に2号墳・3号墳と3基の前方後円
	墳が縦に並んでいたそうだが、2号・3号墳とも破壊されて付近の石垣に変貌してしまった。




	東の1号墳は下の道からも横穴式石室の入口が見えており、早くに盗掘されていたらしい。しかし昭和30年9月、国鉄「まき
	むく」駅設置に先だって発掘したところ、勾玉・金環等の装飾品・環頭大刀・鉄刀子等の武器・桂甲等の武具類・鞍金具等の馬
	具類・須恵器・土師器等の土器類・並に円筒埴輪の破片等多数の出土をみたという。
	珠城山古墳群は6世紀代に築造された3基の前方後円墳で構成された古墳時代後期の古墳群。国史跡に指定されている。過去に
	5度の調査が実施され、そのうち昭和30年代の第1・2次調査は1・3号墳の横穴式石室の内部で行なわれ、多くの副葬品が
	出土した。当時の調査は県によっておこなわれ、出土遺物は奈良国立博物館に収蔵されている。




	3号墳は西端に位置して東面し、全長47.5m、後円部径、前方部幅はともに25mで、後円部と前方部の南斜面に横穴式石
	室が築かれていた。後円部の石室は両袖式で、全長9.8m、玄室の中央に家形石棺と羨道部にはみ出した凝灰岩製の組合わせ
	式石棺を安置していた。羨這の中央部には羨道を区切る仕切石が置かれ、また羨門部には閉塞石が積上げられていたのがよく遺
	存していた。出土の遺物は金銅製双鳳文透彫杏葉や忍唐草文透彫鏡板、輪鐙などの優れた馬具類のほかに、挂甲小札・大刀・須
	恵器・土師器などであった。




	これらの遺物の中でも、3号墳から出土した馬具の鏡板(かがみいた)(轡(くつわ)の一部)と杏葉(ぎょうよう:馬を装飾
	するもの)は特筆すべきもの。両方とも鉄地金銅張(てつじこんどうば)りの台板に透彫(すかしぼ)りの文様板を重ねたもの
	で、鏡板には忍冬唐草(にんとうからくさ)文、杏葉には左右に向かい合う鳳凰(ほうおう)の文様が施されている。両方とも
	繊細な彫金を施しており、技術の精巧さがうかがえる。このようなタイプの馬具は奈良県内では斑鳩町の藤ノ木(ふじのき)古
	墳から出土した例がみられるだけで珍しいものである。
	2号墳は全長75mと最も規模が大きく西面する。前方部に小型の竪穴式石室が知られているがその遺物や後円部の埋葬施設に
	ついては明らかでない。









2号墳と3号墳の間から、景行天皇陵が見える。写真も少し傾いてはいるが、この古墳は前方部と後円部とで段差があるのがわかる。



1号墳の横穴式石室に入ってみる。勿論もう何もない。中型の石がわりと無造作に積まれている。




1号墳から降りてきたところで、「朝鮮式」記念撮影。




纒向日代宮跡
まきむくひしろみやあと


	<纒向日代宮跡>

	穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社に向かう道路の傍らに、景行天皇の纒向日代宮跡の碑が建っている。第十二代景行
	天皇の宮跡と伝えられる。相撲神社への道の傍らに、纒向日代宮跡を示す石柱が立っていて、その横に案内板と最近建てたと思
	われる小さな祠が並んでいる。
	纒向日代宮は第12代景行天皇の宮跡とされる場所であるが、何を根拠にこの場所が治定されたのかはよくわからない。景行天
	皇の墓所と伝承されている渋谷向山古墳(伝景行陵)は、この位置からも見下ろすことができる。北北西方向に視線をやると、
	竜王山の丘陵の先端に樹木で覆われた森が見える。それがこの天皇の陵とされている。
	景行天皇は垂仁天皇の第4子、21歳で皇太子になり、先帝崩御後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進めたという。
	しかし、記紀はこの天皇の業績をほとんど記していない。景行紀の立て役者は天皇の子の日本武尊(やまとたける)で、熊襲征
	伐や東国平定の物語に多くの紙数を費やしている。大和朝廷が国土を統一する過程で繰り返されたであろう多くの征服戦争の史
	実を、古代の人々は一人の英雄に仮託して伝えて来た。伝説の中で日本武尊は国民的ヒーローであるが、残念ながら実在の人物
	ではないと思う。おそらく、数人の日本武尊がいたのではないかと思う。



相撲神社の手前に立っている「纒向日代宮跡」の碑。ここからの巻向地区の眺めはすばらしい。







クリックすれば大きな図になります。




相撲神社
すもうじんじゃ




	<相撲神社>

	相撲神社は、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天覧相撲を行ったところで、穴師坐兵主の鳥居
	の近くにある。野見宿禰は、殉死を禁止した天皇に埴輪で陵墓を飾ることを献策して、土師の職に任ぜられた。

	祭神:   野見宿禰  
	所在地:  桜井市大字穴師  
	アクセス: 檜原神社から1.5km、徒歩20分
 
	日本書紀には、第11代垂仁帝の七年、野見宿禰と当麻蹴速が初めて天皇の前で相撲をとり、それが相撲節(七月七日)となり、
	それがもとで後世宮中の行事となった旨の記述がある。今で言う天覧相撲である。この出来事のあった場所がここであるとして、
	国技相撲発祥の地として伝えられているのだ。
	昭和37年10月6日大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に、2横綱(大鵬、柏戸)をはじめ5大
	関(琴ケ浜、北葉山、栃ノ海、佐田の山、栃光)をはじめ幕内全力士が参列、相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ、この境内
	の土俵に於て手数入りが奉納されたそうである。




	<カタヤケシ由緒>
	今を去る上古約2000年前、垂仁天皇7年7月乙亥(きのとのひ)7日、大兵主神社 神域内小字カタヤケシにおきまして、
	野見宿彌(禰の間違いか?のみのすくね)、当麻蹴速(たいまのけはや)による、日本最初の勅命天覧相撲が催されました。こ
	れが世界に誇る、我が国国技相撲の曙光であります。爾来、相撲が、国技として国家大本の行事とされ、悠々の今日に至ってい
	ます。日本書紀に「野見宿彌禰は、乃ち都に留りて仕へまつる」とあり、当地に屋敷を賜り、古代国家草創期における大和朝廷
	国土開拓の推進者として貢献されました。その偉大な徳を偲び、ここカタヤケシを日本民族の象徴的聖地として世に知られてい
	ます。





穴師坐兵主神社
あなしにいますひょうずじんじゃ




	<穴師坐兵主神社>

	旧県社だが、延喜式の神名帳に記載がある格式高い神社で、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社という3つ
	の社を合祀したものだという。総称して穴師坐兵主神社とか穴師神社と呼ばれているようだ。かっては上下二社にわかれ、上
	社は弓月岳に穴師坐兵主神社があり、下社が現在地にあり穴師大兵主神社であった。この弓月岳が一体どの山なのか、竜王山、
	穴師山、巻向山の説がある。一の鳥居をくぐり、少しばかり山道を行くと、目の前に、こんもりした森が見えてくる。
	この辺りは昔から「穴師」と呼ばれているが、そもそも穴師は、人麻呂に詠われ、柳田國男、折口信夫が諸説を説き、太古の
	金属精錬、山人、兵部神などさまざまな歴史が混在してきた場所でもある。式内社穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社の神々は
	ここに鎮座した。

	祭神は、中殿が「兵主神」で、境内の案内では「崇神天皇の六十年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神
	として祀られ、天孫降臨の際の三体の鏡の一体を御神体とし、御食津神と申し上げる。」とある。
	右社は「若御魂神」で、同じく境内の表示には「三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は匂玉と鈴で、芸能
	の神として崇敬を受けられています。」とあり、左社は「大兵主神」を祀り、「纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られ
	て御祀り申し上げています。御神体は剣(ほこ)で武勇の神、従って相撲の祖神となった。」となっている。『大和国神社神
	名帳』では、祭神を「穴師兵主神」としている。
	これらの神々については、その正体ははっきりとは分かっていない。「兵主神」については、御食津神・天鈿女命、素盞嗚尊、
	天富貴命・建御名方命、大己貴神の分身伊豆戈命、大倭大国魂神とする説があり、「若御魂神」については、豊宇気毘売命の
	親、和久産巣日神とする説があり、「大兵主神」とは、八千戈命、素盞嗚命、天鈿女命とする説がある。天日槍命という説も
	あり、一体何がなにやら分からない神々でもある。




	「兵主」という名をもった神社は、式内社では大和国以外に和泉・三河・近江・但馬など、約20社を数える。兵主の語は
	『史記』にもみえ、外国の神、すなわち漢名であるともいわれている。漢の高祖が「蚩尤:シユウ」を祀って勝利を祈った事
	に由来する。諸国の兵主神社の祭神は、フツヌシノ神・タケミカツチノ神・天忍日命・天津久米命・宇摩志麻遅命で、いずれ
	も武神としての性格を有している。
	特にフツヌシノ神は物部氏の祖神であり、石上神宮の霊剣「布都御魂」の神格化したものであるが、兵主神の神体が矛である
	ことに、なにやらそこらの謎を解く鍵があるような気もする。兵主神とは武器製造の鍛冶屋神という意見もある。


	兵主神ゆかりの神社(延喜式19座)

	大和 城上 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」 
	大和 城上 穴師大兵主神社 
	和泉 和泉 兵主神社 
	参河 賀茂 兵主神社 
	近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」  
	近江 伊香 兵主神社 
	丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」 
	但馬 朝来 兵主神社 
	但馬 養生 更杵村兵主神社 
	但馬 出石 大生部兵主神社 「素戔嗚尊、保食大神」 伊福部神社も称している。青銅74 
	但馬 国府 久斗寸兵主神社 青銅76 
	但馬 城崎 兵主神社 
	但馬 城崎 兵主神社二座 
	因幡 巨濃 佐弥之兵主神社 
	因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」 
	播磨 餝磨 射楯兵主神社二座 
	播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」 
	壱岐 壱岐 兵主神社




	これを見ると兵主神社は但馬に多く、播磨・丹波、近江等に散在する。「銅鐸の分布と一致している。」という指摘は傾聴に値
	する。また天日槍を祖とする但馬族とも無縁ではなさそうである。
	また大和では、かって山人の村があちこちにあった。穴師山では穴師部又は兵主部というのがそれで、平安時代までは穴師の山
	人は有名だった。

	「まきもくの あなしの山の山人と ひともみるがに 山かつらせよ」(古今和歌集)
	わぎもこが 穴師の山の山人と 人も知るべく山かづらせよ 山かづらせよ」(神楽歌)




	穴師坐大兵主神社  投稿者:郭  投稿日:2009年 3月31日(火)02時43分40秒  

	    穴師について。
	1.穴を掘る人。つまり産鉄に関わる人の意。
	2.西北の風の意。

	近江に兵主大社があります。また但馬にかけても多くあります。 天日槍との関連を指摘する説もあり。垂仁紀、天日槍の記事
	に近江の吾名(あな)邑も出てきます。近江と言えば、長浜あたりも相撲に縁が深い。なので、この穴師座大兵主神社は相撲縁
	起とセットで近江由来ではないかなと思っています。兵主神そのものは、中国の「蚩尤」に由来する説が有力です。







ホケノ山古墳




	写真は、ホケノ山。投稿者:郭  投稿日:2009年 3月31日(火)02時43分40秒 

	道路から墳頂へ登るところに木棺がひとつ追葬されていますが、墳頂にも後代の横穴式石室が追葬されています。縁もゆかりも
	ない古墳に追葬するはずもないでしょうから、ホケノ山を作った一族は比較的長く巻向にとどまっていたように思われます。 







	<ホケノ山古墳>

	最古の古墳と判明 ホケノ山古墳 (2000.3.28 奈良新聞:奈良市)
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	奈良県桜井市のホケノ山古墳後円部の中央部分を発掘がされ、墓壙(ぼこう:墓穴)の中に石を積み上げた「石囲い」と木槨
	(もっかく:棺を納める木製の小部屋)を合わせ持つ国内に例のない埋葬施設が見つかった。調査した大和(おおやまと)古墳
	群学術調査委員会(委員長、樋口隆康・同県立橿原考古学研究所長)は27日、「古墳の築造は3世紀中ごろ」と発表。
	邪馬台国にいたとされる女王・卑弥呼(ひみこ)の在世年代に重なる、国内最古の前方後円墳である可能性が高くなった。
	木棺の大きさや副葬品など、後の巨大前方後円墳につながる特徴も判明。巨大前方後円墳を全国に広めた初期ヤマト政権につ
	ながる強大な勢力が、既に奈良盆地東南部に成立していたことを初めて裏付けた。今回は県橿原考古学研究所と桜井、天理市
	教委で作る大和古墳調査委員会(おおやまと)が昨年9月から調査していた。












	ホケノ山古墳 発掘報告 最古の前方後円墳か
	築造年代は3世紀前半とC14年代測定法で測定(2000.4.7 よみうりニュース)
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	3世紀中ごろの築造で、国内最古の前方後円墳とされる、奈良県桜井市のホケノ山古墳から出土した木棺の破片を放射性炭素
	(C14)年代測定法で分析した結果、築造年代が3世紀前半にさかのぼることが分かったと発表されました。7日発表した
	大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会(委員長、樋口隆康・同県立橿原考古学研究所長)は「前期古墳の築造年代を、全
	体的に引き上げて考える必要がある」と評価しました。
	卑弥呼(ひみこ)の墓との説がありながら、3世紀後半から末期の築造とされてきた最古の大型前方後円墳・箸墓(はしはか)
	古墳の築造年代が、卑弥呼の没年とされる247年ごろに近づく可能性も強まり、邪馬台国大和説の補強材料になるとの意見
	です。出土したのはコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5メートル、幅1メートル)。加工を容易にし、腐るのを防ぐため、
	棺の表面は焼かれ、黒く炭化していた。調査委が木棺北側の炭化部分から1センチ角のサンプル5点を採取し、米国フロリダ
	州の専門機関に分析を依頼した。
	測定の結果、サンプルの年代は「西暦120年を中心に、75〜215年」「120年を中心に、80〜155年」などと判
	明。調査委は、欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し、木棺を加工した際に木材表面が削られていることなど
	を考慮して、伐採年代を2世紀末〜3世紀前半代と推定した。中国で2世紀末に作られた画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅ
	うきょう)が、副葬されていたことなどから、築造年代を3世紀前半と判断したそうです。しかし私の意見としてはこの放射
	性炭素測定法はまだ測定誤差範囲があまりにも広くてわからないですね。木の年輪年代測定法が確立されて特定年代がわかる
	ケースでは、C14年代測定法が、実際は数十から数百年ものばらつきがあることが確認されています。しかしまだどの木で、
	どんな時、どの程度の誤差があるのか明確になっていないのです。
	(参考)よみうりもの知りエース 年輪年代測定法[960912]












ホケノ山頂の目の前に箸墓がある。













2005年11月4日 「asahi.com」


	古の古墳? 学生が「発見」 奈良・堂ノ後古墳
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	奈良県桜井市箸中(はしなか)にある堂ノ後(どうのうしろ)古墳が、東隣にある日本最古の古墳とされてきたホケノ山古墳
	(3世紀半ば)より古い前方後円墳である可能性が高いことが、天理大(奈良県天理市)の学生らによるレーダー探査でわか
	った。専門家の中には「レーダー探査だけでは判断できない」という意見もあるが、近くには卑弥呼の墓という説もある箸墓
	(はしはか)古墳(3世紀半ば〜後半)もあり、発掘などで探査結果が裏付けられれば、古墳の起源論争に影響を与えること
	になりそうだ。 
	同大歴史研究会の学生十数人が今年1〜2月、遺跡のレーダー探査に詳しい同大文学部の置田雅昭教授(考古学)の指導で調
	べた。データを詳しく解析したところ、土質の違う部分が見つかったことなどから、堂ノ後の周濠(しゅうごう)の一部が埋
	められたり墳丘が崩されたりした後でホケノ山の周濠が造成されたと結論づけた。 
	ホケノ山古墳は、出土木片の炭素測定などから日本最古の古墳とされている。堂ノ後はこれまで直径35メートルの6世紀の
	円墳と考えられてきたが、今回の探査で推定された周濠の形から全長62メートル以上の前方後円墳である可能性も高まった。 
	「発見」の主役となった歴史研究会は、考古学好きの学生たちでつくるサークル。一帯の古墳群の未調査の古墳を調べようと、
	ここ数年レーダー探査を続けてきた。 
	しかし同研究会は、これまで大きな成果を得られず、今回の探査結果も4、5両日の学園祭でのパネル展示に合わせて、数週
	間前から整理を始めたところだった。そのうち、赤や黄で地中の様子が示されたレーダー探査の断面図を見ていた文学部3年
	の岩城圭吾さん(20)が「堂ノ後の墳丘が削られ、そこにホケノ山の周濠ができてる」ということに気付いた。 
	データは、堂ノ後の方がホケノ山より古いことを示していた。研究会顧問の置田教授は「信じられないような結果だが、間違
	いはない。今後も調査を続ける」と話す。 	 「asahi.com」2005年11月4日 









国津神社



箸墓古墳のすぐ側、北側に国津神社がある。何度もそばを通ったが今回初めて参拝した。













箸墓古墳



	いつも後円部からばかり見ているので、今回は前方部の端から濠を見る。ここから古墳の縁を歩けそうだったので入ってみた。




	<箸墓古墳> 倭迹迹日百襲姫尊命(やまとととひももそひめのみこと)陵 大市墓(箸大墓)

	三輪山の麓、「纒向遺跡」の南端の桜井市大字箸中に所在する前方後円墳。全長282m、後円部径157m、高さ22m、
	前方部幅125m、高さ13mを測る。後円部周辺の東南部地一帯は6世紀代の旧巻向川の氾濫によって大きく削り取られて
	いたが、茸石を伴った渡り堤、周濠、外堤状の高まりなどが確認されている。周囲にも周濠がめぐらされていたと推測される
	が、現存しているのは北側の溜池だけで、これは後世拡張されている。東側・南側は埋め立てられているが、西側は不明であ
	る。前方部の周辺では過去に5回の発掘調査が行われており、茸石や周濠状の落ち込み、盛り土による堤、古墳築造時の土取
	り跡などが確認され、出土土器の検討により前方部が布留0(ゼロ)式期(4世紀初め)の築造であるとされる。




	この古墳は、北側の溜池拡張や東側の国鉄桜井線や県道工事、または民家築造によって相当変形され、平面的にはやや均整を
	失なっているが、大きさでは全国で11番目、奈良県下では3番目の規模を持つ。前方部が撥(ばち)形に開く墳形を持ち、一
	般の円筒埴輪が見られず、吉備地方に源を発する特殊器台形埴輪・特殊壺形土器を持つなど、古式古墳の特徴を持っている。
	しかしながら、これまでに墳丘から採集した円筒埴輪片などわずかな遺物が公表されているのみで、実態はあまり明らかにな
	っていない。




	桜井市教育委員会では隣接する土地を部分的に調査している。また、周囲には陪塚があたかも主墳を護衛するように並んでい
	たと推測されているが、いま残存し面影をとどめているものは数基である。今年3月に最古の前方後円墳と注目を集めたホケ
	ノ山古墳はここから東約200mに位置している。箸墓は定期的に整備作業が行われているらしく、外縁部はキレイに枝打ち
	してある。




	この古墳墓は「令義解」に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」と書かれていて、当時、既に大規模な古墳だったことが窺え
	る。記紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(大神神社の祭神)の妻とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひ
	ももそひめのみこと)の墓とされており、現在は宮内庁が陵墓参考地として管理している。日本書紀には「昼は人が造り、夜
	は神が造った」との記述も残る。崇神天皇十年の条に、倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓(はしのみ
	はか)とよんだ。ところがこの墓は昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が大坂山から箸
	墓まで相並んで手送り式にして石を運んだという。この大坂山とは現在二上山麓の香芝市逢坂(旧下田村)と考えられている。
	この記述は、果たして記録としてどの程度の信頼性があるかは疑問だが,古墳築造の様子が記述されているまれなケースとし
	ても注目される。またこの古墳は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓であると言う、いわゆる邪馬台国近畿説でも有名である。


整備作業のためか、古墳には内部への道が続いている。

	畿内大和説で、卑弥呼の墓が具体的に提示されているのはここ箸墓古墳だけである。しかし従来、その年代の違いから考古学
	的には否定する見方が強かった。箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。卑弥呼が死んだのは3世
	紀前半( 248年)であるから」、50年から100年のズレがあったわけである。ところが近年、平成7年2月に奈良県立橿
	原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表し、また平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向石塚古墳」
	の築造を3世紀初頭と発表したことで、がぜん、邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠として、新聞紙上を賑わせたのである。
	畿内説は、3世紀には日本は九州から畿内の広い範囲で既に統一され、初期大和政権の首都纒向遺跡の支配は西日本各地に及
	んでいた、と主張した。橿原考古学研究所附属博物館の元館長河上邦彦氏は、「前方後円墳は3世紀の大和古墳群(箸中古墳
	群、柳本古墳群を含む)で発生する。「径百余歩=約145m」もある「卑弥呼の墓」は、発生期の前方後円墳に相違ないか
	ら、邪馬台国はやはりここにあったのだろう。」という。




	魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の記事が、「大作冢、徑百餘歩、[犬旬]葬者奴婢百餘人。」(大いに冢を作る、径は百余歩、
	旬葬する者は奴婢百余人。)と書かれている。「歩」を約1.4mとすれば、百歩は約140mになる。つまり卑弥呼の墓は、
	直径約140mの塚という事になる。箸墓は、後円部の直径が156m、高さ30m、前方部が長さ126m、前方部の前端で
	幅132m、高さ16mである。箸墓の主体部である後円部の直径156mは110歩となり、つまり、卑弥呼の墓の塚の直
	径百余歩と一致するわけである。
	ところが、この古墳は前方後円墳である。卑弥呼の墓は明らかに円墳だろうと考えられるので、前方後円墳では具合が悪い、
	前出の河上氏は、「箸墓はもともと円墳かも知れない。後円部と前方部は、微妙に築造の様式が違うので、前方部は後から継
	ぎ足した可能性もある。」などと、幾つかの講演会で述べていた。




	そしてもう一つ、出土した土器のなかに、「布留0式」と言われる様式の土器が含まれている。布留0式期が西暦で何年頃に
	あたるのかは当面確定しようもないが、おおかたの意見では3世紀後半から4世紀にかけて使われたという意見が強い。これ
	を無理矢理3世紀前半にも使われていたという人もいるが、これこそ我田引水である。つまり、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとす
	ると、3世紀前半に死んだ卑弥呼と供に、4世紀の土器が埋葬されているという事になるのである。
	墓は現在、宮内庁による「陵墓参考地」としての指定を受けており、詳細な発掘調査は不可能であるが、いつの日か詳細な調
	査が実施された時には、これらの疑問も明らかになるのではないかと思う。更なる疑問がわき起こる可能性もあるが。





「桜井市立埋蔵文化財センター」を見学した後、三輪神社大鳥居の前で。2人はvirtual参加やね。













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