Music: 冬の夜

第138回歴史倶楽部納会 平城京から、西の京を歩く 2008.12.28 奈良市




		第138回 歴史倶楽部例会

		日時 : 2008年12月28日
		集合 : 近鉄奈良線「西大寺駅」北改札前10:00
		持参 : 弁当、お茶、上下着替、防寒具、雨具
		コース: 西大寺駅 − 平城京資料館 − 平城京跡 − 薬師寺 − 大池 − 唐招提寺 − 垂仁天皇陵
			 − 西大寺 − 「西大寺駅」にて反省会
		参加者: 河内、栗本、錦織、高野、筑前、(杉本:反省会のみ)

		(*)以下の解説で青字の部分は、全てInternet内のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの
		   転載です。誰に謝意を捧げればいいのか分からないので、「The INTERNET」に感謝することにします。

平城京









	今回も又、「西の京」へ行こうと言った杉本さんが来ない。もし遅れてきたら置いていくことになるので、携帯へ電話してみ
	た。何度かの電話の後、奥さんらしき人が「あ、主人は丸亀へ帰ってますけど。」と言う。あ、あ、あ、またやぁー。
	冗談で「そうですか。みんな待ってたんですが、キツく言っといてください。」と言うと、「わかりました、言っておきます。」
	と笑われた。
	しかし奥さんはホントに電話してキツく言ったらしく、本日の散策終了頃に杉本さんから電話が入り、「今奈良へ帰ってきた
	から、反省会だけ参加するわ」。


	<平城京>(へいじょうきょう)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	朱雀門平城京は、かつての日本の首都。いわゆる「奈良の都」である。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造された
	とされ、現在の奈良県奈良市および大和郡山市近辺に位置していた。

	藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4)に審議が始まり、708年(和銅元)には元明天皇により遷都の詔(都というものは
	「百官の府であり、四海の人々が集まるところ」である。平城の地は、三方が山に囲まれ南が開け、占いにもかなっている。)
	が出された。しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、
	寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われる。740年、恭仁京への遷都によって平城
	京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで74年間都
	がおかれ政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
	以前は唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説であったが、先行する藤原京との密接な関係から現在は関連が
	疑われており、北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展系ではないかという見方も有力となっている。つまり、中国の
	辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃い城壁でなく、きわめて政治的な都市であった。


独立行政法人 奈良国立文化財研究所「平城京資料館」







	810年9月6日、平城太上天皇によって平安京を廃し平城京へ遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、
	9月12日、平城太上天皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への遷都は実現することはなかった。
	以前は学校教科書において「へいじょうきょう」と振り仮名がふられていたが、現在は多くの教科書で「へいぜいきょう」とふ
	られている。平城天皇が「へいぜい」と読むことや、「へいじょう」は漢音+呉音の表記であることなどから、漢音表記に統一
	した「へいぜい」とされた。しかし世論的には未だ「へいじょう」が一般的であり、奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も
	「へいじょう」と発音されている。
	このように、平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては「ならのみ
	やこ」と訓読みしたというのが定説である。なぜ「平城」を「なら」と読むのかは諸説あるが、一番有力とされているのは「平
	坦な都」という意味である。現代においても起伏のある土地を平坦にすることを「土地をならす」というが、「なら」には平坦
	という意味があり、山がちな飛鳥から平坦な奈良盆地の真ん中に移った都という意味が込められているとされるのがこの説であ
	る。そのため「平」の字を使ったが、中国風に雅字(良い文字の意)二字で地名を表記するために、「城市」の意を込めた「城」
	の字との2文字で「平城」とし、都の名称として採用したのではないかとされている。
	ちなみに「奈良」や「寧楽」などは「なら」という発音の万葉仮名表記である。かつては朝鮮語の「ナラ(国という意味)」と
	の関連性を指摘する学者もいたが、現在はほぼ否定されている。




	北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年(嘉永5)『平城宮大内
	裏跡坪割之図』にまとめた。さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内
	裏考』として1907年(明治40)に発表した。 棚田嘉十朗によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘
	調査が行われた。 1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。









平城宮・大極殿の柱の礎石部分。





上中央の木簡に「長屋親王」という字が見える。有名な木簡である。






	平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当た
	り、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画
	が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と
	称する。














	寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは
	藤原京から遷都に際して順次移転されたものである。東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって752年
	に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて七大寺
	(南都七大寺)と称する。



唐招提寺も平城京にあったんか。知らなかった。


































	平城京条坊図平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京(げき
	ょう)[1]が設けられている。東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大
	通りが設置された条坊制の都市計画である。各大通りの間隔は約532m、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)に
	よって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は北辺坊を除いて東西約6.3km、南北約4.7
	kmに及ぶ。市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、高級貴族が占める4町のものを筆頭として、2町・1町・1/2町・
	1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられたものであっ
	た。














	2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで作られていたのは確実であると発表した。道路の遺構に加
	え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことによる。この羅城は中国の都城のような土壁ではなく、簡単な瓦葺きの板塀では
	ないかとみられている。何面だけは高い築地塀があった。








	平城京朱雀門(復元) 平城宮(大内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初か
	ら同じ位置に存在した。その中心建物である大極殿は740年の遷都の際に取り壊され、後に旧位置の東側に再建された。朱雀
	大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続するごく
	一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。






	大内裏に相当する辺りは現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史
	跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。また朱雀大路の一部(二条?三条あたり)が1984年に史跡に
	指定されている。






	平城京はシルクロードの終着点であったことも関係し、非常に国際都市であった。それ故に京内には日本人だけではなく唐や
	新羅などから遠くはインド周辺の人々までみられたという。
	桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由の一つに、平城京の地理的条件と用水インフラへ不便さにあった。平城京は
	大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった。都には小さな川は
	流れているが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、
	川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れない為に汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。












薬師寺








	<薬師寺>(やくしじ)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	薬師寺は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。
	本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇である。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されて
	いる。薬師寺は7世紀末、飛鳥(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に創建され、平城遷都後の8世紀初めに現在地に移転したもの
	である。ただし、飛鳥の薬師寺の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。






	『日本書紀』によれば、天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願し、
	飛鳥の地に創建したのが薬師寺であるとされる。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔さつ銘」にも同趣旨の記述があ
	る。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇
	2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が
	整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この、
	飛鳥の薬師寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡
	に指定されている。




	その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期
	は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。『扶桑略記』天平2年(730年)
	3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思わ
	れる。




	どこにも広場らしき場所がなかったので、「西の京駅」前のベンチで昼食をとった。横はバス停、前はタクシー乗り場で、オッサン
	連中がベンチに座って仲良く弁当を開いている姿を、通行人はおかしげに眺めて通り過ぎてゆく。	




	大池の向こう側、現在の「結核療養センター」(だったかな?)側から見た薬師寺が一番景色がいいとどの本にもあるので、今回
	はそこへ廻ってみることにした。なるほど、若草山を借景にして佇む東塔、西塔の円形は見事だった。そういえば、ここからの写
	真はいろんな雑誌でみるし、あの入江泰吉にも作品があったような。






	人間が水を見て和むのは、かって人間も水の中に居た生物で、その時の記憶がDNAに刻まれているからだ、という説を昔呼んだこと
	がある。手塚治虫もその説に基づく漫画を描いていた。しかしそんな太古の記憶まで刻まれているとしたら、DNAはいくらあっても
	足りないような気もする。








	平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころ
	までは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残り、堂塔の平面規模、金堂と
	塔との距離などが平城薬師寺とほぼ等しいことがわかっている。
	平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は
	東塔を残すのみである。



しかるべきカメラで、しかるべき場所から移すとこのような写真が撮影できる。これは歴史倶楽部の大仏師・渡邊勢山さんの掲示板から拝借した。










	平城京の薬師寺にある東塔及び本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては
	明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着した
	わけではない。




	11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の資財帳に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載
	があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、町田甲一らはこれを非移建説の
	根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述
	どおり、平城移転後の新築と見る説が有力である。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦
	も出土しており、平城薬師寺の伽藍が全て新築で、飛鳥からの移築は全くなかったとまでは言い切れない。



東塔(上右)と西塔(上左)。

	発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変
	更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したので
	はないかとする説もある。



金堂の本尊「薬師三尊像」。上左が月光菩薩、右が日光菩薩。下が、その間に座しおわします薬師如来様である。




	金堂本尊薬師三尊像については、『日本書紀』に見える、「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)が行わ
	れた」との記述を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面か
	ら平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。




金堂本尊薬師三尊像。左から月光菩薩、薬師如来、日光菩薩と並び、周囲にいくつかの仏が。



釈迦の十人弟子たち。




	20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期仮再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは焼け
	残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白
	鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。
	なお、旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、外観を変えながらも現存している。










唐招提寺


















	<唐招提寺>(とうしょうだいじ)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	唐招提寺は、奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の一つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)
	は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時
	代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。




	唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部
	親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦のうち、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と
	重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田
	部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。






	『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されて
	いる。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝(? - 815年)の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入
	(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであっ
	た。金堂は8世紀後半の宝亀年間(770 - 780年)の建築と推定され、この推定通りとすれば鑑真の没後に建立されたものであ
	る。
	伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時
	代の僧・覚盛(かくじょう、1193年 - 1249年)によって復興された。

	御影堂唐招提寺金堂は現在解体修理中であり、2009年秋に落慶予定。




	上は戒壇跡。
	戒壇 - 境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永
	元4(1851年)に焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇
	上に置かれた。唐招提寺の戒壇は創建時からあったものとする説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に初めて造られたとする説
	とがある。 










	『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)
	の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広
	い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使
	われていた。つまり、本寺の寺名の由来としては、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いであるとされてい
	る。



	鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それをもとにした淡海三船(お
	うみのみふね)の『唐大和上東征伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。



	鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏
	教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とが
	ある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時
	(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。




	天平5年(733年)、遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡(ようえい)は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべ
	き導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州(現・江蘇省)の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のこ
	とであった。鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗、5回目の航海では中
	国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回
	目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し、日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時すでに66
	歳になっていた。




	天平勝宝5年(753年)12月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)
	に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のう
	ち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。




食堂跡。






垂仁天皇陵





	<第11代垂仁天皇>(すいにんてんのうりょう)	出典: 「天皇陵めぐり」より転載

	異称:       活目入彦五十狭茅天皇(日本書紀)/伊久米伊理毘古伊佐知命(古事記)
 	           【いくめいりひこいさちのすめらみこと】
	生没年:   崇神天皇29年 〜垂仁天皇99年 139歳(日本書紀)
	在位期間   崇神天皇68+1年〜垂仁天皇99年 (日本書紀)
	父:     崇神天皇
	母:     大彦命(おおひこのむすめ)の娘御間城媛(崇神天皇皇后)
	皇后:      狭穂媛(さほひめ)、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)の娘
	         日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
	皇子皇女:  誉津別(ほむつわけ)皇子、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ
	       のみこと)、大中姫(おおなかひめ)
	宮:         纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや:奈良県櫻井市穴師付近)
	陵墓:      菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ:奈良市尼辻町)




	実在した最初の天皇とされる10代崇神天皇の時代に始まった全国統一の動きは、この天皇の御代においても継続して進められた
	と考えられる。文献から推測するに、この帝の御代にも政治の中央集権化は進められたと考えられる。また斎宮(いつきのみや)
	の齊王である皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神を祀るための新たな場所探しを命じられ、近江や、美濃を巡った
	あげく伊勢の五十鈴川の辺に祠を建てた。これが伊勢神宮(内宮)の始まりとされる。




	途中に垂仁天皇の陪冢があった。田道間守の塚が壕中にあり、それが途中のポイントから鳥居のなかに見える。田道間守(たじま
	もり)あるいは多遅摩毛理(たじまもり)。 4−5世紀頃来日か。新羅の皇子とも言う。名の通り、但馬(たじま)の国あたりを
	支配する実力者であったといわれる。日本書紀によると、ある時タジマモリは、天皇から「常世の国から橘(みかん)をもってく
	るよう」指示をうけて、苦難の末やっと常世の国(現在の韓国済州島と言われる)から帰ってくるが、タジマモリを迎えたものは
	垂仁天皇の死であった。その悲しみのあまりタジマモリは天皇陵の側で死んでしまう。
	人々は、これを悼み、天皇陵の側に橘の木を植えたという。この故事から、御所には「右近の橘(うこんのたちばな)」が植えられ
	る様になったと言われている。現在でもこの垂仁天皇陵の側に、タジマモリのみかんが植えられている。




	この天皇は古事記に説話が多い。鳥取の河上の宮で太刀千本を作り、石上神宮に奉納したとある。兄の沙本比古(さほびこ)にそ
	そのかされ、天皇を刺そうとして刺せず、涙をこぼした佐波遅比売(さはじひめ)の話や、佐波遅比売の子が長じても喋らない話、
	丹波の四姉妹を献上され、美人だけ手元に置いて醜女の方は丹波へ返した話など、読み物としてもなかなかおもしろい話が載って
	いる。これらの説話は、それぞれの地方にあった逸話を集めた際、この天皇のエピソードとしてまとめられたものだろうというの
	が学会では定説のようだ。




	後に皇后となる丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)の娘、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)との間に生まれた五十瓊敷入彦
	命(いにしきいりひこのみこと)は、剣1000本を神社に奉納し、神宮の宝物管理に任ぜられたが、妹の大中姫(おおなかひめ)に
	これを譲ろうとして断られ、仕方なく物部十千根(もののべのとおちね)大連がこれに代わった。
	これが石上神宮(いそのかみじんぐう)の発祥で、そののち物部氏が朝廷の神宝管理・軍備管理の任にあたることになる。石上神
	宮は長く朝廷の武器庫として存続し続け、有名な「七支刀」(しちしとう)などもここにある。




	五十瓊敷入彦命の墓とされる古墳は、現在大阪府泉南郡岬町淡輪にあり、結構大きな古墳なのだが、なぜここに墓があるのかにつ
	いては誰も説明できないようである。




	この他、野見宿邇(のみのすくね)の話もよく知れ渡っている。出雲の勇士野見宿邇は、強力で当麻(たぎま)の蹴速(けはや)
	を破り、我が国相撲の発祥・力士の始祖とされているが、殉死の代わりに埴輪を古墳に並べることを天皇に上申し、殉死を快く思
	っていなかった垂仁天皇に採用され、それ以来埴輪が古墳に並べられるようになった、とされる。



	
	<宝来山古墳>(垂仁天皇陵)
	
	墳丘長227mという大型の前方後円墳。鍵穴形で同一水面の周壕が巡る最初の大型古墳。五社神古墳(神功皇后陵)に続く古墳時
	代前期後半の大王墓とする説が有力。周壕の拡張の際島が取り残され、それが「田道間守の墓」の伝承として残っている。嘉永二
	年(1849)の記録では、盗掘された時、亀の形をした石棺(長持形石棺)があったと記録されている。



上下、濠の中に見える小さな小島が「田道間守の墓」である。





上左、鳥居の中から「田道間守の墓」が見える。左右にはミカンの木が植えられている。



西大寺





	<西大寺>(さいだいじ)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	本堂(重要文化財) 
	所在地 奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5 
	位置 北緯34度41分36.99秒
	東経135度46分46.19秒 
	山号 勝宝山 
	宗派 真言律宗 
	寺格 総本山 
	本尊 釈迦如来(重要文化財) 
	創建年 天平神護元年(765年) 
	開基 常騰、称徳天皇(勅願) 
	正式名 勝宝山 四王院 西大寺 
	札所等 真言宗十八本山15番
	大和十三佛霊場2番
	南都七大寺5番
	西国愛染十七霊場13番
	神仏霊場 巡拝の道 第23番 
	文化財 絹本著色十二天像12幅、金銅宝塔及び納置品ほか(国宝)
	本堂、絹本著色釈迦三尊像、木造釈迦如来立像ほか(重要文化財) 

	西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある、真言律宗総本山の寺院。奈良時代に称徳天皇の発願により、僧・常騰
	(じょうとう)を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一
	時衰退し、鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって復興された。山号を勝宝山と称する(ただし、奈良時
	代の寺院には山号はなく、後になって付けられたものである)。現在の本尊は釈迦如来である。境内が国の史跡に指定されている。

 


	<起源と歴史>

	西大寺は、天平神護元年(765年)に称徳天皇の勅願により創建された寺院である。恵美押勝の乱平定を祈願して孝謙上皇(称徳天
	皇)が造立した金銅四天王像を安置している。この四天王像は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だ
	けが創建当時のもので、像本体は後世の補作である。
	「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、創建時は薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、
	東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。しかし、平安時代に入って衰退し、
	火災や台風で多くの堂塔が失われ、寺は興福寺の支配下に入っていた。
	西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、1201−1290)である。叡尊は建仁元年(1201年)、大和国添上郡
	(現・大和郡山市)に生まれた。11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住し
	た。その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃して
	いた西大寺の復興に尽くした。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また、貧者、病者など
	の救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡
	尊の時代に制作されたものが多い。その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時
	代の明徳2年(1391年)に出された「西大寺末寺帳」には8ヶ国、同時代のその他の史料から更に十数ヶ国の国分寺が西大寺の末寺で
	あったと推定されている(なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が
	真言宗各派に属している)。
	西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。なお、西大寺
	は1895年(明治28年)に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っている。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)の
	ほか、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺などがある。



	<伽藍と仏像>
	境内には本堂、愛染堂、四王堂、聚宝館(宝物館)などが建つ。本堂前には東塔跡の礎石が残る。

	本堂(重文)−寄棟造、本瓦葺。室町時代の焼失後に再建された堂が傷んだため、修理ではなく新築することとし、寛政10年
	(1798年)頃造営に着手、文化5年(1808年)頃完成したものである。土壁を一切用いず、装飾性の少ない伝統的な様式になる。
	江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作として、1998年重要文化財に指定されている。この堂はかつては宝暦2年(1752年)の建築
	とされていたが、正しくは前述のように19世紀初頭の建築である。 

	釈迦如来立像(重文)−西大寺の本尊。建長元年(1249年)、仏師善慶の作。いわゆる「清凉寺式釈迦如来像」の典型作で、京都・
	清凉寺にある三国伝来の釈迦像(「三国」はインド、中国、日本を指す)の模刻である。像内には多数の納入品が納められていた。
	西大寺の鎌倉復興期の仏像は、本像の作者善慶をはじめ、名前に「善」字を用いる善派と呼ばれる一派の作が多い。 

	文殊菩薩及び脇侍像5体(重文)- 正安4年(1302年)の作。像内には多数の納入品が納められていた。

	四王堂−江戸時代、延宝2年(1674年)の再建。

	十一面観音立像(重文)−平安時代後期の作。

	四天王立像(重文)−もともとは称徳天皇発願の四天王像だが、現在は足下の邪鬼にのみ奈良時代のものを残す。 

	愛染堂−京都御所の近衛公政所御殿を宝暦12年(1762年)移築したもの(移築年次は明和4年=1767年とも)。 

	愛染明王坐像(重文)- 宝治2年(1247年)、仏師善円作。小像ながら、日本の愛染明王像の代表作の1つ。当初の彩色や切金文様
	がよく残る。秘仏で、毎年10月−11月頃に開扉される。作者の善円は、西大寺本堂本尊・釈迦如来像の作者である善慶と同人と推
	定されている。像内には、小像にもかかわらず、多数の納入品が納められていた。

	興正菩薩坐像−堂内向かって左の間に安置される、西大寺中興の祖・叡尊の肖像彫刻。弘安3年(1280年)、叡尊80歳の時の肖像で、
	作者は仏師善春である。長い眉毛、団子鼻の風貌は像主の面影を伝えるものと思われる。西大寺の鎌倉再興期の仏像には像内には多
	数の納入品が納められているのが特色だが、中でもこの像には叡尊の父母の遺骨をはじめとするおびただしい資料が納入されていた。

	聚宝館−寺宝を展示する宝物館である。

	塔本四仏坐像(重文)−釈迦如来、阿弥陀如来、阿?如来、宝生如来の4体で木心乾漆造である。今は失われた五重塔の初層に安置
	されていたと思われるもので、奈良時代末期の作。4体のうち2体は東京と奈良の国立博物館に寄託されている。 




	<国宝>

	絹本著色十二天像−12幅が完存する。全体に絵具の剥落・退色が目立つが、現存遺品の少ない平安時代前期、9世紀の仏教絵画の
	大作として貴重。奈良国立博物館に6幅、東京と京都の国立博物館に3幅ずつ寄託されている。 

	金銅透彫舎利容器−高さ37センチの小品ながら、各所に繊細な透彫を施した入念な作で、鎌倉時代の金属工芸を代表するものの1
	つである。 
	金銅宝塔及び納置品(壇塔)−宝塔とは、円筒形の塔身に屋根を乗せた形の塔。本作品は高さ約90センチの金銅(銅に金メッキ)
	製の塔だが、木造建築の外観を忠実に模している。内部には叡尊が所持していた舎利を納める。文永7年(1270年)の作。正式の
	国宝指定名称は次のとおり。「一、金銅宝塔、 一、金銅宝珠形舎利塔1基(下層内安置)、一、金銅筒形容器1合、一、赤地二重
	襷花文錦小袋1袋、一、水晶五輪塔赤地錦小袋共1基、一、水晶五輪塔織物縫合小裹共1基(以上上層内安置)」 

	鉄宝塔・舎利瓶−前期金銅宝塔と同形式の塔。鉄製で高さ172センチの大型塔である。内部に水瓶(すいびょう)形の銅製舎利容
	器5基を納める。弘安6年(1283年)の作 金光明最勝王経10巻、附・月輪牡丹蒔絵経箱−天平宝字6年(762年)の書写。附(つけ
	たり)指定の経箱は鎌倉時代の作。 

	大毘盧遮那成仏神変加持経7巻−天平神護2年(766年)、称徳天皇付きの女官吉備由利が発願し、西大寺四王堂に安置した一切経
	の一部。 




	<重要文化財>

	(建造物)本堂 
	(絵画)
		絹本著色釈迦三尊像(仁王会本尊) 
		絹本著色文殊菩薩像 
		絹本著色吉野曼荼羅図 
	(彫刻)
		木造釈迦如来立像(本堂安置)(附 像内納入品) 
		木造騎獅文殊菩薩及脇侍像5躯・像内納入品 
		厨子入木造愛染明王坐像 善円作(愛染堂安置)(附 像内納入品) 
		愛染堂木造興正菩薩坐像(善春作)・像内納入品 
		木造十一面観音立像(四王堂安置) 
		四天王立像(銅造3、木造1)(四王堂安置) 
		乾漆吉祥天立像 
		木心乾漆阿弥陀如来・釈迦如来・阿?如来・宝生如来坐像 
		木造行基菩薩坐像 
		木造大黒天立像・像内納入品 
	(工芸品)
		黒漆彩色華形大壇・黒漆箱形礼盤(愛染堂所在) 
		金銅舎利塔(伝叡尊於伊勢感得)  
		金銅舎利塔(伝亀山天皇勅封) 
		金銅密教法具 一具(2004年重文指定)  
		金銅装犀角刀子 
		朱漆輪花天目盆 享徳四年銘 
		大神宮御正躰 
	(書跡典籍、古文書、歴史資料)
		金剛仏子叡尊感身学正記 
		叡尊自筆書状三月十九日、同廿一日 法花寺宛(二通) 
		西大寺三宝料田畠目録 
		西大寺寺領絵図(大和国添下郡京北班田図 1巻、西大寺与秋篠寺堺相論絵図 1幅) 
		西大寺版板木 124枚



上右の写真、東塔跡、左は愛染堂。上左は、釣鐘堂。


	<年中行事>
	大茶盛−毎年1・4・10月に行われる。直径30センチ以上、重さ6〜7キロの大茶碗と長さ35センチの茶筅でお茶を立て、参拝客に
	ふるまわれる。叡尊が西大寺の鎮守八幡宮に茶を奉納し、お下がりの茶を参詣人にふるまったのが起源とされる。

	<アクセス>	近鉄大和西大寺駅下車 徒歩数分




	<参考文献>
		奈良国立博物館編『奈良西大寺展』(特別展図録)、日本経済新聞社発行、1991 
		井上靖、塚本善隆監修、梅原猛、松本実道著『古寺巡礼奈良8 西大寺』、淡交社、1979 
		『週刊朝日百科 日本の国宝』59号(西大寺ほか)、朝日新聞社、1998 
		『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社 
		『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店 
		『国史大辞典』、吉川弘文館

	これは、私の<参考文献>ではない。『ウィキペディア(Wikipedia)』に書いた人が参考にした文献である。ことほど左様に
	最近のウィキペディアには、出典を明示した、明らかに専門家が書いたと思われるような記事が多い。初期の頃の、自分でもう
	いちど調べなければその真贋が危ういような記事は最近では少なく、「業界用語」と思われるような言い回しで書かれている部
	分も結構目にするようになった。真の「百科辞典」まで、あと一歩に迫っている。
















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